21 人肌の温もり
「いっしょにおりるのー!」
私が降りる駅よりも先に、子供たちの目的の駅が近づいてきてしまった。
「おねーちゃんとやくそくしたのー!」
“まもなく……”と、次の駅名を知らせる車内アナウンスを掻き消すほどの断固とした宣言に、幼稚園の先生たちもオロオロと困り果てる。
「千花ちゃん、おねえさん困ってるから、先生と一緒に降りよう?」
「だーめー!」
小さな勇者は爪が食い込むほどしっかり私の手を握り、決して離さない。今にも溢れそうなほど目に涙をいっぱい溜めて、徹底抗戦の姿勢を貫いている。
こんなに小さいのに、なんて強いんだろう。
震える小さな手を握り返すと、少女の熱が手を伝わって流れ込んでくるような気がした。冷えきっていた心が徐々に暖まってうずき始める。
私は意を決して腰を屈め、少女と同じ目線になる。本当ならこんな大勢の前で喋るなんて絶対無理なのに、頭より先に体が動いていた。
「ありがとう。でもね、おねーちゃん泣いたら目が見えるようになったの」
「へ? ほんと?」
「うん、千花ちゃんのお顔もよく見えるよ」
少女はぱちぱちと潤んだ目で瞬きし、じっと私の目を見つめる。
「ほんとだ。おねーちゃんの目、あなぼこじゃなくなったね!」
「でしょ」
私が微笑むと、彼女は安心したように、にぱあっと笑って私の手を離す。
それからすぐに駅に着いて「バイバーイ!」と元気いっぱい手を振りながら、他の子供たちと一緒に降りていった。
プシュー。
ドアが閉まり、私は急に静かになった車内で一人電車に揺られる。
――ずっと、暗闇の中を石をぶつけられながらさ迷っている気分だった。
歩き続ければ光が見えると信じていた気持ちも最早無くなり、ただ痛みに耐えられるよう心を麻痺させて座り込んでいた。
けれど女の子に手を握られたとき、真っ暗な世界に突然ぽっと一輪のたんぽぽが咲いたみたいな気がしたのだ。
想いのこもった人肌の温もりが、こんなにも大きな力を持っているなんて――。
私は小さな手のひらから貰った勇気を取りこぼさないように、左手をぎゅっと握りしめる。
(……このまま泣いてるだけじゃダメだよね)
でもどうしたらいいんだろう。
私の心はまだ麻痺状態で、考えごとをしようにも全然頭が働かない。
まずは誰かに相談しよう。
私が困っているとき、いつも助けてくれる人――。
考えるまでもなく、答えは一つだった。
カランカラン。
「いらっしゃいませ」
聞き慣れた低めのゆったりした声を聞いた途端、湯船に使ったみたいに心の痺れが溶けてなくなっていく気がした。
思わずじわっと目頭が熱くなる。
「まーちゃん? こんな時間に珍し……」
顔を上げて私と目が合った瞬間、蛍ちゃんはカップを磨く手を止めた。
そのまま、ことん、とカウンターにカップを置く。
そして無言ですたすたと私に近寄ってきたかと思うと、私を通り越して外に出て『OPEN』の札を『CLOSED』にひっくり返した。
「……?」
なんでまだ昼過ぎなのに、閉店しちゃうんだろう?
戸惑う私をよそに、蛍ちゃんは流れるようにエプロンを外して畳み、カウンターの上に置く。そのまま黙って私の手を引き、二人して奥のソファー席に並んで座った。
「まーちゃん、何があったの」
唐突に尋ねる彼に驚き、私は言葉を失う。
まだ一言も言ってないのに、なんて察しがいいんだろう……。長い付き合いとはいえ、さすが蛍ちゃんだ。
「あ……えっとね」
私は真剣な面持ちの彼にじっと見つめられたまま、間抜けな魚みたいに口をパクパクする。
いざ話そうと思うと、何からどう説明したらいいのかわからない。次第に頭がこんがらがってきて、悲しいわけでもないのに視界が潤んできた。
蛍ちゃんは険しい表情で唇を引き結び、静かに瞬きしてじっと私の言葉を待っている。
急かすでも、促すでもない。私の心の準備が整うまで、ただそっと寄り添ってくれている。それが私にはすごく心強かった。
「実は……」
私は頭の中を整理するように、ゆっくりと彼に事の成り行きを説明し始めた――。
「――というわけなの」
私が全て話し終えるまで蛍ちゃんは一言も発さなかった。
「私……これからどうしたらいいのかな」
最後にそう呟くと、しばしの沈黙の後、彼はふうぅぅと肺が空っぽになるんじゃないかと思うほど長い息を吐いた。
私は「?」と首を傾げる。
「ねぇ、まーちゃん」
そして、ようやく一言呟いたかと思うと、
「!」
気付いたときには、私は彼の腕の中に抱かれていた。
「むぐ、むぅ!」
細腕なのにびっくりするほどの力だ。
試しにじたばたしてみたら、余計にぎゅうっと抱き締められたので、私はなすすべもなく彼の胸に顔を埋める。
「ごめんね、嫌だったら言って」
絞り出すように言った彼の声が、怯えたように震えていて驚いた。
どくどくどくどく……。
胸板越しに激しい鼓動が伝わってくる。自分より遥かに平静さを失った彼の心音を聞いてたら、不思議と気持ちが落ち着いてきた。
「嫌じゃないよ。びっくりしたけど……」
私はそっと蛍ちゃんの背中に手を回して呟く。とにかく彼の暴れてる心臓をどうにかしないとという謎の危機感に駆られて、彼の背中を闇雲にさすった。
すると蛍ちゃんは安心したようにふっと腕の力を緩め、今度は猫を愛でるように私の頭に頬擦りをし始めた。
「け、蛍ちゃん!?」
さすがに驚いて上ずった声を出したが、彼は一向にやめようとせず言う。
「嫌?」
「い、嫌とかじゃないけど、何か恥ずかしい……」
「大丈夫。おれたちしかいないでしょ」
彼は優しく微笑んでから私の頭をよしよしと撫でる。本当に愛猫にでもなったみたいだ。
「さっきさ、まーちゃんがひどい顔して店に来たから本当に驚いたんだ。おれが知らない間に、まーちゃんが壊されちゃったみたいですごく怖かった」
急に切羽詰まったような声で、蛍ちゃんが話し始めた。
「でも大丈夫だった。まーちゃんは、もうちゃんと前を向いてる。だから心配いらないってわかってるんだけど……」
蛍ちゃんはきゅうっと再び腕の力を強くする。
「もう少しこうしててもいい?」
こんなに甘えた声の蛍ちゃんは初めてだ。
いつもなら私が甘えて泣きつく方なのに、今日に限っては真逆だ。いや、最初に泣きついたのは私だったはずなんだけど、何故か今は蛍ちゃんが私にすがりつくみたいな格好になっている。
「……別にいいよ」
よくわからないけど、普段から助けてもらってばかりだし抱き枕になるくらい御安いご用だ。
閉店したカフェに若い男女が二人きり、ソファーでじっと抱き締め合う。
よく考えたらちょっとやらしい感じがするけど……まあ蛍ちゃんだから大丈夫だろう。
それに彼の腕の中はとてもあったかくて、目を閉じたら眠ってしまうような居心地の良さがあり、私ももう少しこのままでいたいと密かに思っていたのだ。
しばらくして。
「そうだ」
蛍ちゃんはいきなり何か思い付いたようにガバッと私を引き離し、宙に向かって言った。
「おれ、転校しようかな」
「は!?」
あまりに唐突すぎて、何のことだかさっぱりわからない。
「え、え、ちょっと待って。転校ってうちの高校に?」
「うん。だって、まーちゃんがこんなに苦しんでたのに全然気付いてあげられなかったなんて、自分が許せない」
「でも、カフェはどうするの? お店続けるために通信制にしたんでしょ?」
「それは……。そうだよね」
彼は「はあぁ」と深いため息をつきながら立ち上がり、私に背を向けてカウンターの方へと歩きだす。
「ずっとまーちゃんが側にいてくれたらいいのに……」
「へ? 何か言った?」
「ううん。ホットカフェオレでいい?」
彼が何を言ってたのかよく聞こえなかったけど、私は取りあえず元気よく「うん!」と頷いた。蛍ちゃんは困ったように笑いながらエプロンをつけ直す。
こぽこぽこぽ……とお湯が沸騰し、珈琲の香ばしい香りがふわぁっと立ち込めてくる。久しぶりに嗅ぐワクワクするにおい。
「お待たせしました」
「わあっ」
運ばれてきたトレイの上には、頼んでなくてもちゃんと美味しそうなカボチャのタルトが一切れ、真っ白い生クリームを添えられてカフェオレの隣に置かれている。
さすが蛍ちゃん。私が元気になる方法をよくわかってる!
「いただきまーす」
山吹色のタルトにさくりとフォークを差し込み頬張ると、ほっこり優しいかぼちゃの甘みが口いっぱいに広がった。
湯気が立つカフェオレで胃袋を温めてから、クリームをのせてまた一口。さらにまろやかな舌触りになって、私は思わずうっとり夢心地になる。
「やっぱりまーちゃんは、ここでケーキを食べてる時の顔が一番かわいい」
「えー。なんか食いしん坊みたいでやだな」
私達はすっかりいつもの調子に戻って、二人してふふっと笑い合った。
「それで、そのいじめのことだけど」
蛍ちゃんは少し声を低くして真面目な顔で話し始める。
「歯痒いけど、やっぱり部外者のおれが出ていくのは余計ややこしいことになると思う。一番いいのは、校内の頼れる誰かに味方になってもらうことかな」
「頼れる人かぁ。でも、そもそも私、学校でまともに喋れるのなんて千明くんぐらいだし……」
千明くんの名前を出すと、何故か蛍ちゃんは不愉快そうに眉を潜めて「あいつか……」とぼそっと呟いた。私は首を捻りながら続ける。
「でも千明くんはダメだよ。こんなこと話したら、絶対『俺のせいで……』ってめちゃくちゃ凹んで面倒なことになるから!」
「うん、彼はやめておこう。他に誰かいない? 話しやすい先生とか先輩とか。なるべく発言力のある人がいいんだけど」
「先生、先輩、発言力…………あ」
いた。
校内随一の発言力と人望を持ち、私が唯一恋バナに花を咲かせたことがある、頼れる素敵な先輩が――。