19 空気卒業の予感
気がつけば、昼休みのチャイム。
あの後の授業の内容は、何一つ頭に入ってこなかった。
大好きなお母さんのおにぎりも喉を通らず、お弁当箱に詰められたまま……。
私はマスクを深々とつけ、取り憑かれたように図書室に向かう。
今日はもう誰とも話したくない気分だ。
中庭を見下ろせる窓際の定位置に腰かけ、一人静かに問題集を広げる。私以外滅多に使う人がいない、奥の方の席。
(なんか懐かしいなぁ……)
そういえば、千明くんと関わるようになってから全然来てなかった。
いつも彼と階段の踊り場に腰かけて、今後の治療方針について語り合っていたからなぁ。
もうすぐ中間テストだし、ちゃんと勉強もしないと。
千明くんにも、しばらくお昼休みに会うのはやめてもらえるよう後でメッセージを送っておこうかな……。
「――茉莉花」
「ひゃんっ!?」
いきなり耳元で囁かれ、私は変な声を上げて跳び上がる。
「悪い……びっくりさせて」
振り向くと、千明くんがすぐ側に腰を屈めて立っていた。
……危うく心臓が破裂するところだった。
暴れる心臓に手を当てて深呼吸する私をよそに、彼は当然のように隣に腰かける。
図書委員以外に誰もいないけど、私は一応ひそひそ声で彼に話しかける。
「……どうしたの? 図書室に来るなんて珍しいね」
千明くんは私の声が聞きづらかったのか、「ん?」と眉を上げて顔を近づけてきた。
栗色の髪から覗く耳が色っぽくて……私は余計にドキドキしながら彼の耳元でもう一度言い直す。
「……何しに来たの?」
今度はちゃんと聞こえたようで、彼はうんうんと頷いてから囁き声で答える。
「そろそろさ、茉莉花にレベル2と3のごほうびをしてもらおうと思って」
「?」
私が首を捻っていると、彼は鞄から教科書やノートを取り出しドサッと机の上にのせた。
「勉強を教えて欲しいんだ」
「え……?」
唐突すぎて、私はパチパチと瞬きする。
(……そういえば、千明くんって成績どのくらいなんだろう?)
うちの高校は県内屈指の進学校だけど、公立だからか個人の成績や順位を壁に貼り出したりしない。
だから正直、普段の授業の受け答えとか、テスト結果が返ってきたときのリアクションで察するしかないのだ。
あくまでそういう曖昧な根拠しかないけど、
「千明くんだって、成績悪くないんじゃない?」
私はひそひそ声で尋ねる。
彼は「まあ……」と呟き、手袋のまま頬をポリポリと掻く。
「理系科目は得意なんだけど、実は国語系がいつも赤点ギリギリなんだよ。特に古文がヤバい」
「へぇー意外」
「大体、昔の奴らはいちいち表現がまどろっこしいんだよ。すぐに出家したがるし。あいつらの考えてることなんてわかるわけない!」
「…………」
うーん。
これは教えるにしてもなかなか手強そうだ。
「わかった。それでごほうびになるなら、もちろん協力するよ」
「やった! ありがとう!」
千明くんが目を輝かせて無邪気に笑うので、どん底に沈んでた私の気持ちまで少し明るくなってきた。
(すごいなぁ……)
私はふと、出会ったばかりの頃に千明くんが言っていた言葉を思い出す。
『自分だけでやるのは無理がある』――彼はキッパリ言い切っていた。
本当にその通りだ。
私一人だったら、絶対にさっきの失態を丸一日、いや丸三日は引きずってただろう。
彼はまだそのことに触れてこない。
けれど、こうして普段と変わらずお喋りして、笑って、隣に居てくれる。
それだけで、私がどれほど励まされるか……いつか彼に伝えられたらいいな。
「茉莉花は頭良さそうだよな」
私がじわりと温まる胸に手を当てていると、彼が頬杖をついて囁いた。
「テスト前に焦ってる雰囲気無いし。そういや一学期の期末は何位だった? 俺は古文が足引っ張って15位……」
ちょっと照れ臭そうに鼻を掻く彼に、私はきょとんと瞬きして言う。
「期末? たぶん1位だよ」
「……は?」
「順位はあんまり見てなかったけど、全部満点だったから」
「え……まん……えぇ!?」
千明くんが大声を出したので、入り口の方から図書委員が「んんっ!」と注意喚起の咳払いをする音がした。
私達はビクッと身を縮め、より一層顔を近づけて小声で囁き合う。
「ちょっ……と待ってくれ。もしかして茉莉花って超天才なのか?」
「まさか。普通にコツコツ勉強してるだけ」
「全教科満点とる奴は普通じゃない!!」
「そんなことないよ。だってテスト範囲から問題出るってわかってるんだよ? 普段から復習しとけば満点とれて当たり前だもん。きっと同点1位が何人もいるんじゃないかな」
私が真顔で首を傾げるのを、千明くんは何故かぽかーんと口を開けてしばらく見ていた。
「茉莉花って……馬鹿だよな」
「!?」
「馬鹿と天才は紙一重って本当だ」
「な、何よそれ!」
私が思わず大きめの声で反論すると、また図書委員がわざとらしく「ん、ん、んっ!」と咳払いした。
途端に萎縮する私を見て、彼はクスクスと笑いを噛み殺している。私はぷうっと頬を膨らませた。
「ククッ……まあ良いや。とりあえず源氏物語の冒頭から訳し方教えてくれる?」
「何も良くないし! もぅ……」
「あ、そうそう――」
彼は何か思い出したように呟くと、深い海のような瞳で私を真っ直ぐに見てニッと笑う。
「音読、俺にはちゃんと聞こえてたよ」
「……!」
ずるい……。
こんなに一生懸命我慢してるのに、人の気も知らないで。
「……ありがと」
喉が熱に侵されたように、私は途端に上手く喋れなくなる。
そんな真っ直ぐな笑顔で言われたら――ひたすら彼の頬に、髪に、唇に、触れてみたくてしょうがなくなるじゃないか。
今更ながら、朝比奈先輩が言っていたことが身に染みる。
ハグも、キスも、その先も無理だと諦める時が来たら……私はこの衝動をどこにぶつけたらいいのだろう。
今はまだ抑えられるけど、そのうち膨れ上がって手に負えなくなるかもしれない。
その時、私は変わらず彼の隣に居られるだろうか――。
「何ボーッとしてんの?」
「……ううん何でもない。勉強始めよっか」
「おう」
今はまだ答えを出したくない。
……というのは自分勝手なのかな。
月曜の午後の授業は体育。
私達は早めに勉強を切り上げ、更衣室の前で「またね」「またな」と別れた。
彼はレベル2と3のごほうびを使って、私に“中間テストまでの2週間みっちり勉強を教える”という約束を取り付けた。
私もレベル3のごほうび演奏を明日の放課後にしてもらうことにした。
千明くんはああ言ってくれたけど、私としてはまだレベル2は未達成なので一曲だけの予定である。
なんだか昼休みが始まる前とはうって変わって、うきうきと晴れやかな気分だ。
ぐぅー……とお腹の虫も鳴き始め、おにぎりを食べなかったことを後悔する。
ガチャガチャ、キィ――。
「?」
更衣室のロッカーを開けると、中に見慣れない小さな紙片がパラパラとたくさん散らばっていた。
(何これ……イタズラかな?)
たぶん、ロッカーの細長い通気孔からねじ込んだのだろう。
私は紙片の1つを拾い、折り畳まれた中を見てみる。
「――!」
もう1つ、さらにもう1つと確認し、みるみるサァーッと青ざめた。
“『千明様に近づくな』『死ね!』『だんまりは一生黙ってろ』『ブス』……”
そんな暴言が様々な筆跡で書きなぐられ、少なくとも4人以上のまとまった悪意がロッカーいっぱいに詰め込まれていた。
……呼吸が速まり、無意識に手が震え出す。
「茉~莉~花ちゃんっ」
「わあっ!」
突然背後から抱きつかれて、私は思わずビクッと跳び上がる。
振り向くと、この前パスケースを届けた堀川茜ちゃんがニコニコ顔で私を見ていた。
「じゃーん!!」
彼女は手の中に隠し持っていた小さい何かを私の鼻先に差し出す。
「10月から新発売! ピヨ彦さんのハロウィンキーホルダー!」
近すぎて寄り目になりながら見てみれば、私の愛してやまないゆるキャラのピヨ彦さんがジャックオランタンを装備して揺れていた。
「か、かわいい……!」
「でしょ! この間のお礼だよ♪」
「わぁ、ありがとう。すごく嬉しいよ」
私が頬を染めて受け取ると、茜ちゃんは一層眩しくニコニコと笑った。
「喜んでもらえて良かったぁ。それより早く着替えないと体育遅れるよ。どしたの?」
「!」
彼女がロッカーを覗き込みそうになったので、私は咄嗟にバッと手を広げる。
「な、何でもないの……先行ってて」
「そう? わかった、また後でね!」
私がもごもごと言うと、彼女は案外あっさりと立ち去ってくれた。私は胸を撫で下ろす。
(どうしよう……)
いよいよ単なるクラスの空気でいることが許されなくなりそうだ。
とにかく、これ以上エスカレートしないと良いんだけど――。