17 一歩ずつ前へ
「千明くん……くすぐったいんだけど」
放課後。
結局その後もレベルアップ出来ず、私達はとぼとぼと駅までの道のりを並んで歩く。
千明くんはあれから散々トライし、なんとか私の手を指先でつんつんするところまでは出来るようになったが……これがどうにもくすぐったくて敵わない。第一、ものすごく不審者だ。
ただでも目立つ容姿なのに、決死の形相で女の子の手をつついているのだから……。
私は、道行く人に奇異の目で見られているのに気がつき、落ち着かない気分で早足に歩く。
「あともう少しでいけそうなんだけど……。だいぶ慣れてきたところなんだよ」
「…………」
……これで?
と言いたい気持ちをグッと呑みこむ。
いつも堂々としている彼が私の手ごときに悪戦苦闘しいるのを見ていたら……何だか少しからかってみたくなってきた。
私は手を虫のようにわしわしとうごめかす。
「ほーら、清潔なゴキブリさんですよー」
「めちゃくちゃ根に持つな……」
げっ、と一歩退く彼がちょっとかわいくて、私は思わずニヤニヤする。
そうこうしているうちに、駅前広場まで来てしまった。
千明くんは私と反対方向の電車に乗るので、今日はもうお開きかな……と思ったその時。
――ぽふっ。
「ん?」
私は何かを蹴飛ばしてしまい、慌てて足元に視線を落とす。
落ちていたのは、ふわふわとしたひよこのパスケースだった。
「どした?」
「パスケースが落ちてたの。中身も入ってる……届けてあげないと」
私は拾い上げて中身を見る。
入っていたのは通学定期で、持ち主の名前は『ホリカワ アカネ』と書いてあった。
「ホリカワ……って、うちのクラスの堀川茜じゃないか?」
千明くんに言われて、私もハッと気が付いた。
出席番号が一個前で、よく遅刻してるということくらいしか知らないけど……今の時間帯にこの駅を使っているホリカワさんならば、十中八九、彼女だろう。
私はぐるりと辺りを見渡すが、それらしい姿はない。
でも、定期がないから電車に乗れずに立ち往生してるはずだ。
「あ、おい!」
千明くんが止める前に、私は改札に向かって駆け出していた。
(もしかしたら、もう切符買って乗っちゃったかな……)
階段を駆け上がりながらその可能性に気づき心配になったものの…………すぐにその心配は無くなった。
「嘘でしょ、本当にどこにもない! どうしよう……6ヶ月分継続したばっかなのに!」
改札の前で、一際目立っているポニーテールの女子高生が一人。
堀川さんは、鞄を逆さにして中身を全てぶちまけ、必死でパスケースを捜索していた。
教科書やら筆記用具やら飴玉やら……雑多なものが地面にぐちゃあっと広がっている。
「……堀川さん!」
私は何も考えずに言っていた。
「これ、あの、パスケース、向こうに落ちてたよ?」
私は走ったせいで息を切らしながら言う。
彼女は「あ……!」とみるみる目を輝かせた。
「探してたの! うわぁ、良かったー。ありがとう本田さん!」
「ぁ……ぅ……ううん」
私は、今さらいつもの声が出にくくなる症状が現れてきて、うつむき加減に首を振った。
「いやぁ本当に助かったよー。ママに殺されるところだった! 今度ちゃんとお礼させてね」
堀川さんは私が硬直しているとは知らず、ぐわっと両手で私の手を鷲掴み、ぶんぶん振り回す。
(うんうん、これが握手だよね。ここまでしろとは言わないけど……)
私は声が出なくなったのを頷きで誤魔化しつつ、千明くんの『指つんつん』を思い出して苦笑いした。
(あれ、ていうか私……今話しかけられたよね?)
……改札前のパラパラと人が行き交う中で、話したことのないクラスメイトに!
堀川さんと固い握手を交わしながら、私は歓喜に震えた。
そのせいか、普段より気が大きくなっていたんだろう。
「あの……!」
私は愛の告白でもするみたいに、勇気を振り絞って声を出す。
「そのひよこ……ゆるきゃらのピヨ彦さんだよね? 私も好き……ですっ」
「え! 知ってるの!」
堀川さんはさらにキラキラと目を輝かせる。
「超マイナーなのに! なんか嬉しいなぁ。じゃあお礼に今度ピヨ彦さんグッズ持ってくるね!」
「ほ、ほんとに? 嬉しい……ありがとう堀川さん」
堀川さんがすごくウキウキと楽しそうに話すので、私も肩の力が抜けてきた。
私が思わず微笑むと、彼女は弾けそうな瑞々しい笑顔で言う。
「茜でいいよ! 茉莉花ちゃん。また明日ね!」
茜ちゃんは改札にタッチし、小走りにホームへ向かっていく。私はひょこひょこと揺れる彼女のポニーテールに小さく手を振った。
ふと胸に手を当てると、いつしか鼓動が早鐘のように打っていたことに気がつく。でも、不思議と身体の芯が温かくていい気分だ。
「出来たじゃん」
振り向くと、すぐ後ろに千明くんが立っていた。
「よく頑張ったな、茉莉花」
包まれるような優しい笑顔で言うので、私は一気に緊張が解け、身も心も溶けてしまいそうになる。
「ありがとう。千明くんの言う通りだったよ。何も考えない方がいいみたい」
千明くんは「だろ?」と言って、イタズラっぽくニッと笑う。
そして、
「俺もいい加減、覚悟を決めないとな……」
そう言って、意を決したようにスッと右手を差し出した。もちろん素手だ。
「いいの……? 本当に触るよ?」
「ああ、お願いします」
この光景……何も知らない人が見たら、どう見ても『交際の申し込み』だろう。
――でも、その時は自分達のことに必死で、周りの視線を気にする余裕なんて無かった。
千明くんは恐怖に耐えるように歯を食い縛り、眉間に皺を寄せる。その表情がとても真剣で思わず私も鼓動が早くなる。
ちょっとずつ、ちょっとずつ……手を近づけていき――。
「失礼します!」
思い切って彼の手を握った。
瞬間、千明くんはビクッと身震いする。
けれど静かに一回深呼吸すると、
「!」
ぎゅっ、と私の手を握り返した。
「俺達、一歩前進だな」
「うん、お互いおめでとうだね」
私と千明くんは、手を繋いだまま互いに見つめ合って、やりきった顔になる。
夢か幻か、私達の周りだけ、桜が開花したみたいにほわほわした陽気に包まれていた。
千明くんはそっと私の手を離し、繋いでいた自分の手の平をまじまじと見る。
「不思議だな……。ついさっきまで、絶対に無理だって思ってたのに。茉莉花を見てたら何故か急に出来る気がしてさ……」
「私もレベル1の時、全く同じことを思ったよ」
私達は見つめ合ってふふっと微笑む。
「一人でやってたときは、全然こんな風に上手くいかなかったのに……。やっぱり、俺には茉莉花が必要みたいだ」
「そっ……! それはお互い様でしょ……」
また真顔でそんなこと言うんだから……本当に厄介だ。
私が火照った頬を見せまいと、慌てて彼から顔をそらした、そのとき。
「?」
突然、何かの気配を感じて私はバッと後ろを振り向く。
「どうした?」
「あ……ううん。気のせいみたい」
千明くんは不思議そうに一瞬眉をひそめたが、あまり気にせず「そうか」と言った。
(また握手してるところ……誰かに見られたのかな……?)
まあ、校内では私達の噂は既に知れわたっているので、大した問題じゃないだろう。
それより、私が気になるのは彼の肌だ。
「千明くん、これ」
私は鞄の中から新品のハンドクリームを取り出す。
「千明くんのレベル3で持ち帰ってもらう私の私物……迷ったんだけど、これにしたよ」
初めて彼が手袋を取ったとき、彼の洗いすぎて荒れ果てた手の皮膚があまりに痛々しくて、今でもハッキリと目に焼き付いている。
さっき手を握った時も、ガサガサとジュクジュクの混ざった手触りがして……胸がチクチクと痛かった。
私は未開封のハンドクリームを彼に差し出して言う。
「これ、手を洗った後に使うとすごく潤うよ! 家に持ち込むだけで辛いんだから、すぐには難しいだろうけど……良かったら試してみてね」
千明くんは少し驚いた顔をしてから、ほろりと柔らかく笑った。
「ああ、気遣わせてごめんな。いつかそれを開封出来る日が来たら、使ってみるよ」
「うん」
千明くんは素手でクリームを受け取ってくれる。私は嬉しくなって大きく頷いた。
「とはいえ、まずはこれを家に入れられるか……だけどな」
「そんなに大変なこと?」
私が目をぱちくりしながら尋ねると、彼は間髪入れずに答えた。
「当たり前だ! 俺にとって家は完璧に掃除の行き届いた唯一無二の聖域なんだよ。人が触ったものを持ち込むなんて論外だ」
「だからって道端に捨てないでよ? 結構良いやつなんだからね」
千明くんは「ぐっ」と呟いてから口をつぐみ……例によってジッパー付ポリ袋に隔離してから、それを鞄の中にしまった。