14 再始動
筆舌に尽くしがたい、というのはこういうことを言うのだろう。
これで彼が手袋無しで弾けるようになったら、一体どれほどの音色になるのか……。
私は純粋に、それを間近で聴いてみたいと強く思った。
「……なあ茉莉花、こんなんで本当にごほうびになるかな?」
私と蛍ちゃんを拍手するからくり人形に変えた張本人は、そうとは知らず不安そうに私の顔を見て言った。
私はやっと我に帰り、考えがまとまらないまま千明くんに捲し立てる。
「何言ってるの! すっ……ごく良かったよ! 本当に感動した! 鳥肌立ったもん」
「そう? なら良かったよ」
千明くんはほっとしたように、ニッと歯を見せて笑う。
「うん……。これなら、他のお客さんがいる時に弾いてもらっても平気そうだね」
蛍ちゃんも、素直に彼の実力に驚いたようだった。
すると千明くんは、みるみる鼻高々になって言う。
「当たり前だ。こう見えても俺、何度もコンクールで優勝したことあるんだぞ! ……まあ、今は出場すら出来ないけどな」
「え! 何でよ。もったいない!」
私が両手の拳を握って彼に迫ると、千明くんは小さくため息をついて続ける。
「何でって……。前の奏者が弾いた後、せっせと鍵盤を除菌するわけにはいかないだろ?」
「……確かに」
「そもそも手袋したまま弾いて勝とうなんて、コンクールはそんな生易しいもんじゃないんだ。他の人達に失礼すぎる」
そっか、と私はしゅんとする。
こんなに才能に満ち溢れているのに、病気のせいで発揮できないなんて……。
(これは何としてでも、治療を成功させないと!)
私は密かに決意を新たにした。
「ちなみに二人は今、どれくらい治療が進んでるの?」
蛍ちゃんがふと私達に尋ねる。
私と千明くんは「う」と言葉に詰まった。
漆黒の瞳できょとんと私達の様子をうかがう蛍ちゃんに、私は正直に話す。
「実は色々あって……。レベル1以降は全然進められてないの」
「レベル?」
「あ、そうそう。こういうやつなんだけど」
私は手帳に挟んでいた自分のレベル表を蛍ちゃんに手渡した。蛍ちゃんは真剣な顔でじっくりと読み込んでいる。
「まーちゃんのレベル1は……『朝の出席確認でちゃんと返事する』か。花丸がついてるってことは達成済みなんだね」
「あー、うん。えへへ……」
浮かれて自分で描いた花丸を見られてしまった。ちょっと恥ずかしい。
「すごいよ、まーちゃん! 小・中の卒業式でも散々練習させられた挙げ句、本番で返事出来なかったのに!」
「あー……」
そういえばそんなこともあった。
卒業証書授与で一人ずつ名前を呼ばれ、大きな返事をして全校生徒の前に出るなんて……私にとっては公開処刑そのものだ。
練習で何度も『本田さんもっと大きな声で!』とやり直させられて大恥をかいた上に、わざと声を出さないのだと勘違いされて居残り練習までさせられた。
そもそも何で小・中学校の卒業式練習ってあんなにガチンコなの?
そんな時間あるなら勉強させてよ! ……と常々思っていた。
私はトラウマレベルの苦い思い出を振り払うようにぶんぶんと首を振り、気を取り直して蛍ちゃんに言う。
「すごいでしょ! 自分でもびっくりしたもん」
「うん。本当におめでとう」
蛍ちゃんがまるで自分のことのように大袈裟に喜んでくれるので、私もほくほくと幸せな気分になった。
「実際やってみて思ったの。『自分が思ってるより周りは私に関心がない』って。それからは、まあ小さめの声だけど、毎日返事出来るようになったんだ」
「そっか。でもおれは、まーちゃんのことにいつも興味津々だよ」
蛍ちゃんがとてもしっとりとした声で言ったので、私は不覚にもドキッとしてしまった。
「もー。またそういうこと言うー」
私は慌てて苦笑いをして照れ隠しする。
(冗談を言わなそうな顔して、いつもそうやってからかってくるんだから……)
全く……困った親友だ。
「…………。それで、君の方はどうなの?」
蛍ちゃんは笑って誤魔化す私を見て何故か小さなため息をついてから、千明くんに尋ねた。
千明くんはやれやれといった雰囲気で肩をすくめて言う。
「俺も同じだよ。レベル1までで休止状態」
「ふーん。あ、そうだ。千明のレベル表も見ていいかな?」
「「絶対ダメ!!」」
私と千明くんが見事にハモった。
蛍ちゃんはカップを磨く手を止めて、驚いたようにパチパチと瞬きする。
「その……あんまり人に見せるもんじゃないもんなー」
「そ、そうだよねー。運が逃げるもんねー」
「なー。……いやいや、それはおみくじだろ」
明らかに挙動不審な私達を見て、蛍ちゃんは酷く不可解そうに眉をひそめている。私達はたらりと冷や汗を流す。
「……まぁ無理にとは言わないけど」
蛍ちゃんが追及しないでくれて本当に良かった……!
私達はほっと胸を撫で下ろす。
蛍ちゃんは「でも……」と言って千明くんの方に向き直ると、
「万が一まーちゃんに何か変なことしたら、警察沙汰じゃ済まないからね?」
貼り付けたような不自然な笑顔でそう言った。
(……警察沙汰以上って何!まさか呪われるとか!?)
あまりに声が座っていたので、言われた千明くんではなく私がぶるっと悪寒に震えた。
何故か今日は、今まで見たことのない蛍ちゃんの顔をたくさん見る……。
一方の千明くんはというと、全くけろっとした顔をしていた。
「変なこと? ……あぁ!なるほど! まさかお前、茉莉花のこと……」
「それ以上言うと、今すぐこの三角コーナーの生ゴミを君の顔面に投げつけるけどいいかな?」
「すいませんでした」
「……?……」
私は二人のやりとりが良く理解できず、首を傾げてカフェオレを啜った。
夕暮れ時の並木道。
店を空けられない蛍ちゃんの代わりに家まで送ってくれるというので、私は千明くんと自宅に向かって歩いていた。
「今日は何かごめんね。蛍ちゃん珍しく機嫌悪かったみたいで」
「別に。ていうか茉莉花、結構残酷なことするよな」
「え? 何が?」
「いや、アイツも大変だなーと思って……」
千明くんの言っていることは良くわからなかったけれど……。
夕陽で朱色に染まった彼の横顔がとても綺麗で、私は聞き流してしまった。
千明くんが「それはともかく」と続ける。
「和解も出来たことだし、これからは本腰入れてレベルを上げていこう!」
「そうだね! まずは明日レベル2に挑戦してみようかな。……といっても、授業で当てられるかわかんないけど」
私が授業で当てられてもいいと思う日が来るなんて……自分でもびっくりだ。
「じゃあ、ひとまず茉莉花のレベル2は当てられた時に頑張るってことにして、レベル3も並行して進めていこう」
「えぇ!」
「いつ当てられるかわからないものを悠長に待ってられないだろ?」
私はうーん……と腕組みするが、確かに彼の言う通りだ。
「……わかったよ。そしたら千明くんもレベル2と3両方チャレンジね! 不公平反対!」
「ぐっ……。しゃーないな」
私達は歩きながらお互いのレベル表を並べて見て、相手のレベル2と3を確認し合う。
私のレベル3は『自分から人に話しかける』で、千明くんのレベル2は『素手で人と握手する』、レベル3は『人の持ち物を家に持ち帰る』と書いてあった。
(うわぁ……私何でこんなこと書いちゃったんだろ……)
たぶん今、彼も同じ気持ちなのだろう。折角の王子様フェイスが渋柿を食べたみたいに歪んでいる。
しばらくして、
「茉莉花、ちょっと予行練習してもいい?」
急に千明くんが立ち止まった。
私がきょとんとして向き直ると、千明くんはサッと右手をこちらに伸ばして言う。
「まずは手袋のままで握手させて」
「!?」
突然の申し出に、私はドキーッとして思わず一歩退く。
……どうしよう、手汗かいてきた。
「ままま……待って、心の準備が……!」
「は? 何で茉莉花に心の準備が必要なんだよ?」
千明くんは不思議そうに眉間に皺を寄せたが、「……しゃーないな」と諦めて手を引っ込めてくれた。
「じゃあ茉莉花んちの前に着くまでに、心の準備、よろしく」
「……はい?」
そんな数分で準備出来るほど、単純な心境じゃないんだけど!
……と言うわけにもいかず、私は極力ゆっくりと見慣れた家路を歩くことにした。