13 音色
「けいちゃんって、男だったのか」
数秒して、千明くんが沈黙を破った。
「茉莉花の友達って聞いてたから、てっきり大人しそうな女子かと思ってたよ」
その瞬間、ヒクヒクと蛍ちゃんの眉が痙攣し、「ま……?」と呟いたような気がした。
けれど、とにかく沈黙が終わってホッとした私はあまり気にかけずに千明くんに言った。
「それは違うよ千明くん。私みたいな口下手ほど、たくさん話してくれる人とじゃないと会話が成り立たないもん」
「ふーん、なるほどな」
「でも、マシンガントークしてくる人は最高に苦手」
「どっちだよ……」
私と千明くんが入り口でいつもみたいに喋っていると、
「二人とも。とりあえず座ったら?」
蛍ちゃんは何故か少し不機嫌そうに低い声でそう言って、私達をカウンターに促した。
「何か飲む?」
「私、ホットカフェオレ!」
「ミルク多め、だよね?」
私が頷くと、蛍ちゃんはニコッといつも通り優しく微笑んだ。
(機嫌悪いのかと思ったけど、やっぱり気のせいかな?)
「蛍ちゃん! 今日の日替わりデザート何?」
「アップルパイだよ。シナモンたっぷりのやつ。温め直そうか?」
「うん!」
私はルンルン気分で元気良く返事した。
「桐ヶ谷くんだっけ。君はどうする?」
蛍ちゃんはニコニコ顔のまま千明くんの方を見て尋ねる。
「同い年だろ? 千明でいいよ。俺も蛍太って呼んでいいか?」
「構わないよ。じゃあ改めて、千明は何か飲む?」
千明くんは気まずそうに「あー……」と呟いてから、そっぽを向いて答える。
「俺は大丈夫。お腹いっぱいだし」
「えー、もったいない。蛍ちゃんの珈琲とデザートは最高に美味しいのに……あ」
言ってしまってから後悔した。
あの千明くんが、他人の手で作られた物を食べられるわけないじゃないか。
「そう? じゃあ、まーちゃんのだけ準備するね」
「……?」
なんか『まーちゃん』の言い方がやけに強調されてたような……。
やっぱり今日の蛍ちゃんはどこか変だ。
私がひっかかりを感じているのと同じく、千明くんも何か違和感を覚えたようだ。
私と蛍ちゃんを交互に見比べ、ふむふむと考え込むように顎に手を当てている。
「……あ、もしかして元カレ?」
「はぁ!?」
千明くんの突拍子もない発言に、私は危うく椅子から落ちそうになる。
「全然違うよ! いきなり何言ってるの!? ……ていうか、何で敢えて元?」
私はずっこけかけて乱れた髪を整えながら、早口で尋ねる。
「いやなんとなく。あだ名で呼び合う仲ってことは、そうなのかなと」
千明くんは真顔で「それに」と続ける。
「今カレは俺だからさ」
――ガシャン!!
カウンターの奥で何かが割れる音がした。
「あ……ごめんね。ちょっと手が滑っちゃって……」
蛍ちゃんがこちらに背を向けたままそう言って、床に散乱したコーヒーカップの破片を拾い始めた。
そそっかしい私ならまだしも……。カップを落とすなんて、蛍ちゃんらしくない。
音に驚いて、私は一瞬千明くんの発言をスルーしてしまったけれど……ハッと我に返る。
「千明くん勘繰りすぎ! 蛍ちゃんとは小学校の頃からあだ名で呼んでるから、今もそのままなだけだよ。それに『今カレ』って言っても私達はただ……」
付き合ってるふりしてるだけ、と言いかけてためらう。
これを言うと……千明くんの潔癖症について説明せざるを得なくなる。
(私と千明くんだけの秘密にしておいた方がいいのかな……?)
話し途中でぴたっと固まっている私を見て悟ったのか、千明くんが言う。
「蛍太には全部話しといた方がいいんじゃないか? これから茉莉花がレベルアップする毎にピアノ借りにくるわけだし」
「そっか、確かにそうだよね。千明くんが良いなら、蛍ちゃんにも話を聞いてもらおう……」
私と千明くんの意見が一致してウンウンと頷き合っていると、ちょうど蛍ちゃんも後始末を終えたようだった。何事も無かったように「お待たせ」と言って、熱々のホットカフェオレとアップルパイを出してくれる。
私は立ち上る湯気の香ばしい香りを胸いっぱいに吸い込んでから、これまでの経緯を蛍ちゃんに説明し始めた――。
「なるほど! そういうことだったんだね」
私が全て話し終えると、蛍ちゃんは雲が晴れたようにスッキリした顔になった。
「ピアノはいつでも使ってもらって大丈夫だよ。あぁでも、他のお客さんがいるときはどうしようかな……まぁ千明次第かな」
「……ん?」
千明くんが首をひねると、蛍ちゃんは晴れやかな笑顔でさらりと言う。
「お客さんに聴かせられるレベルなのかってこと」
「!?」
突然喧嘩を売られた千明くんは「なっ! コイツ、なん……!?」と蛍ちゃんを指差しながら私を見て口をパクパクする。
私だって、こんな好戦的な蛍ちゃんは見たことが無い。千明くんに何も言えず、無言で首を傾げた。
(今日の蛍ちゃん、何でこんなに喧嘩腰なの……?)
千明くんが腹を立てるのも無理はない。
「お前……初対面なのに失礼な奴だな。今から弾いてやるから、良く聴いとけよ!」
千明くんはフンッと鼻息も荒くワイシャツの袖を捲り、ズンズンとピアノの方へ向かう。
「……と、その前に」
千明くんはくるりと翻って、鞄から除菌ウェットティッシュを取り出すと、当然のように鍵盤と椅子を拭い始めた。
「……ねえ、まーちゃん」
すると、今度は蛍ちゃんの方が渋ーい顔をし、彼を指差しながら私に耳元で言う。
「おれ一応毎日綺麗にしてるのに……そんなに汚く見えるかな?ちょっと不愉快なんだけど」
「あー……ごめんね。彼はそういう人だから……あはは」
見慣れすぎていて何とも思わなかったけど、確かに初めての人からしたら失礼に見えるだろう。私はとりあえず笑って誤魔化した。
千明くんは慣れた手つきで素早く隅々まで拭き上げると、
「ジャズねぇ……。まあ、オフビートにしてスウィング入れればそれっぽくなるだろ。後は適当にリハモして……」
手袋を指先に滑り止めのついた物にはめ変えながら、ぶつぶつと謎の呪文を唱え始めた。
そしてピアノ椅子に腰掛け、コキコキと首を回したり両指を絡ませて伸ばしたりと、準備体操し始めた。
(結局、どんな曲を弾いてくれるんだろう……!)
頼んでおきながら無責任だけど、私はウキウキして彼の横顔を見守った。
すうっ、と一息吸って千明くんが弾き始める――。
「♪」
澄みきった湖面に一滴の雫が落ちたように、たった一音で心の隅まで震えが走った。
千明くんはゆっくりと、静かで厳かな雰囲気の曲を弾き始める。
(……あれ?これ“Amazing Grace”だ……)
言葉にならないくらい素敵だけど……これはジャズではないような?
私が聞き惚れながらも疑問を抱いているうちに、一番が終わった。
すると。
「!」
二番でいきなり曲調が変わった。
テンポが速くなり、メロディーの音が所々でさっきとは違う和音にアレンジされている。ド素人過ぎて上手く言えないけど……つい手拍子を打ちたくなるようなノリの良さ。
これはもう、完全にジャズだ。
三番ではさらにテンポアップし、幼い子供がスキップしているみたいに無邪気なメロディーになった。私は思わずリズムに合わせて身体を揺らす。
そして最後の四番。
再び少しずつテンポが落ち着いていく。けれど一番の厳かな雰囲気とも少し違う。
まるで遊び疲れた子供を寝かしつけるような優しく穏やかなメロディーで……千明くんは静かに弾き終わった。
「…………」
「…………」
あまりの感動に、私と蛍ちゃんは瞬きもせず彼の横顔を見つめる。
ふうっ、とやりきった顔で千明くんがこちらを振り向く。そして固まっている私達を見て「え……?」とひきつった顔になった。
「あれ……?微妙だった?手袋無かったらもっと弾きやすいんだけどさ……」
私と蛍ちゃんは口をぽけーっと開けたまま目を見合わせて頷き、とりあえずパチパチパチパチ……と拍手した。
「お前ら、何か他にリアクション無いのかよ!」
千明くんが怒ったように言う。
千明くんごめん。
私達、感動しすぎて言葉が見つからなかっただけなんだ――。