12 地固まる
久々に引いた本物の風邪は、思いの外しぶとかった。
普段ずっとマスクをして病原菌に晒されていなかったので、免疫力が低下していたのかもしれない。
結局、週明けの月曜日もまだ微熱が残っており、登校できたのは火曜日のことだった。
また校門で待ち伏せされていたらどうしよう……と思ったら彼はいなかった。
拍子抜けして教室で待っていたが、千明くんは朝のホームルームが始まるギリギリに現れたので声をかけられなかった。
授業間の休み時間は、もちろん周りに人が大勢いるので私が話しかけられず。昼休みも呼び止める間もなく教室から出ていってしまい……。
もやもやしたまま時間だけが過ぎて、午後の音楽の授業になってしまった。
(もしかして……避けられてる?)
私は音楽準備室に向かいつつ、今さらながら先週の自分の行いを強く後悔した。
空気扱いされるのには慣れてるけど……避けられるのは、結構堪える。
「まずは謝って……それからちゃんと話し合わないと」
私は自分にいいに聞かせるようにぶつぶつ呟いて、そっと音楽準備室のドアを開けた。
シュッ、シュッ。
「あ、茉莉花……遅かったな」
久しぶりに聞く彼の声と、アルコールスプレーの音。
千明くんは顔をあげずにそう言いながら、せっせと机周りを除菌している。たった3週間で、この部屋も随分こざっぱりしたものだ。
「あ、あの……千明くん!」
私はマスクを取り、意を決して話しかける。
数日離れていただけなのに緊張して、まるで初めて話したときみたいに吃ってしまう。
「これ返すよ。ごめんね、結局月曜の体育に間に合わなくって……」
私はクリーニング屋さんの透明な袋に包まれたジャージと紺色の折り畳み傘の入った紙袋を差し出した。
「あ、あのね! ジャージはクリーニングに出したし、傘も三日三晩かけて天日干しした上に除菌シートで拭き上げたから、相当清潔だよ?」
私は何故かオドオドしながら早口で説明する。
千明くんは掃除をする手を止めて紙袋を見ると、困ったように顔をしかめて言った。
「捨てて良いって言ったのに……。わざわざ持ってきてもらって悪いけど、受け取れないよ」
「でも……ジャージないと授業で困るでしょ?」
「いや、替えならたくさん持ってるし」
「え!?」
(……学校指定ジャージの予備をたくさん持ってる人なんているの!?)
意外に高価なのに。
「授業でバスケとかあると、どうしたって誰かと肩がぶつかったりするだろ? そしたらもうそれ着れないからさ。消耗品なんだ」
「へぇ……」
「消ゴムだってほら、これが『貸して』って言われたとき用のストック」
千明くんはペンケースの中から小さいジッパー付きポリ袋を取り出す。中には真っ白な小ぶりの消しゴムがコロコロとたくさん入っていた。
「人に物を貸すって大変だよな。いくら予備があっても足りない」
「それは千明くんだけだと思うよ……」
断ればいいんじゃ……?
と口に出しかけたけど、やめておいた。断る発想が無いのかなあと想像したら、何だかちょっとかわいかったので。
「だからそれ、悪いけど捨てといてよ」
「うん……そっか。もったいないことしたなぁ」
(それなら、洗わなければ良かったよ……)
せっかくいい匂いだったのに。
「いやいやいや!」
「……? 何一人でブツブツ言ってんの?」
「へ!? 別に! 全然何でもないよ!」
私は慌てて首をぶんぶん振って正気を取り戻す。千明くんは不可解そうに眉をひそめたが、「そう?」と言うとまた机を拭き始めた。
こんな風に千明くんと話すのは、すごく久しぶりな気がする。
「私も手伝うよ」
「おう」
私は妙にうきうきとして、彼の隣で椅子を拭き始めた。けれど、千明くんは何故かいつもより元気がないというか……物静かだ。
私達はしばらく無言で掃除をする。
いつもなら口数の多い彼の方がリードして話題を振ってくれるのに……。
(どうしよう、何か話題ないかな……)
人前で喋れないくせに沈黙が苦手な私が、じわじわと焦り始めていると、
「あのさ……」
突然、ぼそっと彼が呟いた。
千明くんは、ためらいがちに顔を背けながら続ける。
「この前のことなんだけど……。俺、急に変なこと口走ってごめんな」
「へんなこと? ……ぁ!」
私は渡り廊下での彼の言葉を思い出し、ボンッと爆発したように真っ赤になる。マスクをしてなかったので、慌てて両手で顔を隠した。
「ぅ……ううん、私こそ酷い態度とって本当にごめんなさい」
「いや! 茉莉花が謝ることじゃないから。実際わざとあいつらに見えるところで茉莉花を見せびらかしてたのは事実だし……」
(私、見せびらかされてたんだ……)
好きになってしまった今となっては、もう全然悪い気がしない。
両手で覆われた下の私の顔がニヤニヤと腑抜けているとは露知らず、千明くんは深刻そうな声で続ける。
「でも、最初からそのために声かけたわけじゃない。それだけは信じて」
彼の真剣な眼差しに、私はドキッとして思わず唾を飲み込んだ。
「……俺、本気で茉莉花とならこの病気も何とかなるかもしれないと思ってる。うまく説明出来ないけど、茉莉花は何か他の人とは違うんだ」
「え! 違うって……何が?」
私がそわそわと尋ねると、彼は「うーん」と頭を悩ましてから真面目な顔で言う。
「他の人に触るのは死んでも嫌だけど、茉莉花に触るのは死ぬよりはマシ……みたいな」
「そっか……それは光栄だよ、うん」
……期待して損した。
私は勝手にがっかりして肩を落とす。
でも思い返してみれば、自分も千明くんと初めて話したとき、何故か他の人より話しやすかった。理由はわからないけど。
私がぼーっと思い出していると、千明くんは再び真剣な顔で話し始める。
「だから茉莉花さえ良かったら、これからも俺の治療に協力してくれないか? 迷惑はかけたくないし……無理ならはっきり言ってくれ」
「千明くん……」
また捨てられた仔犬みたいに自信の無い声で言うので、私は思わず手を下ろして彼を真っ直ぐに見つめる。
そして、なるべく自信満々に見えるよう精一杯背伸びし、ポンッと胸に手を当てて笑顔で答えた。
「……もちろんだよ! 私は千明くんが病気を克服するまで絶対に諦めないから。むしろ覚悟しててね!」
千明くんは驚いたように目を開き、青みがかった綺麗な瞳できょとんと私を見た。
そして、フッと肩の力が抜けたように微笑み――
「ありがとう茉莉花」
その笑顔がとても柔らかくて、私の心は一瞬で鷲掴みされてしまった。
(ぐっ……。千明くんの『ありがとう』はもはや殺人兵器だよ……)
真正面から食らうと致命的だ。
以後気を付けよう……。
「ていうか私達、全然歌の練習してないけど大丈夫かな……?」
胸がきゅうっとして悶絶しそうになり、私は慌てて掃除を再開し話題を変えた。
「別に直前にやれば平気だろ。第一この練習会だって、明らかに田山先生が楽するための口実だし」
「あー。確かにそうかもね」
田山先生、1学期の校歌練習中もしょっちゅう居眠りしてたもんなぁ……と私は思い出して苦笑いする。ピアノを弾きながらうつらうつらしているので、重たそうな胸が鍵盤にぶつかった瞬間に『ダダーンッ!』とすごい音がするのだ。
弾きながら寝るって、なかなか高度な技だと思う。
「あ、そう言えばさ」
私はピアノで思い出し、ふと彼に言う。
「レベル1のごほうび、今日お願いしてもいいかな? 私の友達……蛍ちゃんって言うんだけど、相談したら『直ぐにでも連れてきていい』って言ってくれたから」
千明くんは思い出すように「あー」と宙を見つめて呟く。
「いいよ。今日予定無いし」
「やった! 楽しみだなあ♪」
私は隠れて小さくガッツポーズする。これもデートの亜種ってことでいいよね。
そうして私達は、今日も時間いっぱいまで音楽準備室の掃除に精を出した。
放課後。
季節は駆け足で進み、秋らしい爽やかな風が少し肌寒い。街路樹の木々が、風に揺られて軽やかにさざめきあっている。
私と千明くんは並んで下校し、蛍ちゃんの切り盛りするカフェへと向かっていた。
「ちなみに、何の曲がいいの?」
「あ」
「……まさか、考えてなかった?」
私はえへへ……と笑って誤魔化す。彼は呆れたように小さくため息をついた。私は焦って考える。
「えっと……ジャズでお願いします!」
「範囲広っ! ていうか俺一応クラシック専門なんだけど」
「そこをなんとか」
「………しゃあない、やってみるか」
私が顔の前で手を合わせてお願いポーズをすると、千明くんは腰に手を当てながら了承してくれた。
私はにっこりして言う。
「千明くんて、意外に頼まれたら断れないタイプだよね」
「は? 意外にってどういうことだよ」
「ううん、優しいなぁって思っただけ」
「何だそれ?」
千明くんは不思議そうに首を傾げて歩く。
見た目はいかにも他を寄せ付けない『俺様、王子様!』タイプなのに…。話してみないとわからないことって本当に多い。
そうこうしているうちに、カフェの前についた。
――カランカラン。
「いらっしゃいませ……っ?」
私達が入店すると、いつものふんわりとした笑顔でカップを磨いていた蛍ちゃんの手がピタリと止まった。
私は蛍ちゃんに小さく手を振りながら笑顔で言う。
「蛍ちゃんこの前はありがとう。おかげで元気になったよ! それで、この人が桐ヶ谷千明くんだよ」
「…………」
「あ、えっと、千明くん。彼が幼なじみの細谷蛍太、蛍ちゃんです」
「…………」
「…………」
(……何で二人とも黙ってるの!? ねえ!)
私は黙って立ち尽くす二人の顔を順番に見て、オロオロすることしか出来なかった。