11 本物の風邪
明くる土曜日。
私は仮病ではなく、本当に風邪を引いて寝込んでしまった。
どしゃ降りの中を走ったりしたから……と後悔しても遅い。
「……う~。しんどい」
お母さんは仕事、杏平も部活で出掛けており、私は家で一人寂しく布団にくるまる。
(せっかくの週末が台無しだよ……こんなにいい天気なのに)
私はズズッと鼻をすすってため息をつく。熱で節々が痛くて、眠りたくても寝付けないのだ。
ただ横になっていることしか出来ないというのは、何だかすごく孤独だ。弱っているせいかもしれないけど。
私は部屋の隅に畳んでおいた千明くんのジャージに目をやる。
早く洗って返さないと……と思ってはいるが、身体が怠くてまだ出来そうにない。
「千明くん……」
私はふと、昨日の渡り廊下での彼の姿を思い出す。
いつも私を嵐のように振り回す、破天荒で格好つけたがりの彼とはまるで別人だった。
捨てられた仔犬みたいに私の袖を掴んで離さない彼の姿が、見ていられないほど狂おしくて……胸が張り裂けそうだった。
すぐにでもぎゅっと抱きしめて「大丈夫だよ」と言ってあげかったけれど、それも彼の病気のことを思うと許されない。
きっとこれまでもそうだったんだろう。
どんなに辛いことがあっても、千明くんは誰にも抱きしめてもらえないんだ――。
「そんなのって……苦しいよ」
私は熱で火照った身体をのそのそと動かし、彼のジャージを引き寄せると、力一杯ぎゅうっと抱きしめた。
どんなに時間がかかっても、絶対に私が千明くんの病気を治すんだ。
「すぅぅっ……ふぅ……」
あれ? なんかちょっと……いい匂いかも。
どうしよう、ドキドキしてきた。
「いやいや! 何やってんの私、変態だよ!」
誰もいない部屋で、私は一人慌ててジャージをバッと遠ざける。
――ピンポーン。
その時、ちょうどインターホンが鳴った。
「えー……面倒くさいなぁ」
起き上がるの辛いし、髪もボサボサだし、パジャマだし……。
私は居留守を決め込もうとしたのだが、
――ピンポーン。
再びインターホンが鳴る。
「もぅ、しょうがないなぁ……」
私は重い身体に鞭打って立ち上がる。
酷い顔を隠すためにも、マスクを目の下ギリギリまで引き上げてから玄関へと向かった。
ガチャ、とドアを開けると同時に――。
「わぁっ!」
「え!?」
足元がおぼつかない私は、サンダルがすっぽ抜けてバランスを崩す。
――トンッ。
なにか温かくて少し弾力のあるものにぶつかり、私は転倒を免れた。
「だ、大丈夫? まーちゃん」
「あれ……? 蛍ちゃん?」
目をぱちくりしながら声のした方を見上げると、驚いた様子の蛍ちゃんが立っていた。
そして私は、蛍ちゃんの大きい胸の中に抱かれていた。
「うわ! ごめんね、ちょっとつまづいちゃって……あはは……」
私は慌てて彼から離れようとするが、蛍ちゃんは「待って」と私を引き留めた。
「?」
「ちょっとじっとしてて」
「えっ?」
遥か頭上にある蛍ちゃんの顔がみるみる近づいてきて……私のおでこに、コツンと彼のおでこをぶつけた。
「本当だ。熱が高いね。早く中で休もう」
「なっ……ちょっと……!」
断る間もなく、蛍ちゃんは力強く私の手を握り、ぐいぐいと家の中へ引き入れた。忘れずにガチャリとドアの鍵も閉めてくれる。
「蛍ちゃん! ちょ、ちょっと待って!」
「ん? あ、ごめんね! 歩くの辛かったよね。抱っこしようか?」
ほら、と蛍ちゃんは両手を広げて私を待っている。顔は真剣そのものだ。
私は頭が追い付かず唖然とする。
「いや……そうじゃなくて、何で蛍ちゃんがうちにいるの?」
蛍ちゃんは「あぁ、それなら……」と思い出したように人差し指をくるくると回して言う。
「今朝、杏平くんが部活に行く途中にうちの店に来て、『今日ねーちゃん熱で寝込んでて家に一人だから。頑張れよ!』って言うもんだから」
「え? 何を頑張るの?」
「看病とか、色々ね」
そう言って、蛍ちゃんは毒気のない顔でふわっと笑う。私は良くわからず首を傾げた。
「ほら、早く横になって。お腹は空いてる?」
蛍ちゃんは流れるように私の部屋に入り、手際よく布団を整えるとそう言った。
蛍ちゃんは確かにマイペースなところがあるけど……こんなに有無を言わさない感じは珍しい。
自分の部屋なのに何故か主導権を失った私は、言われるがままモゾモゾと布団に入る。
「お母さんがおにぎり作ってくれたんだけど、やっぱ食欲なくって……」
「そっか。じゃあ、何か食べやすいもの作ろうか? ミルクプリンはどう?」
「食べる!」
私が急に目を輝かせると、蛍ちゃんはニコニコと微笑んだ。
「かしこまりました。トッピングはみかんの缶詰めでいい? ていうか、それしか持ってきてないんだけど」
「うん、大好き!!」
私が満面の笑みでそう言うと、蛍ちゃんが一瞬固まった。
パチパチと瞬きして私を見つめると、ほのかに頬を染めたように見えた。……気のせいかな?
しばらくして。
「お待たせいたしました。お嬢様」
蛍ちゃんがお盆を持って部屋に入ってきた。
真っ白くぷるんと揺れるミルクプリンの周りに、鮮やかなオレンジ色のみかんが花びらのように飾られている。
「わぁ、すごい! いただきまーす」
一口頬張ると、ミルクの優しい甘さがじゅわぁっと口一杯に広がって、胃も心も癒されていく。みかんの甘酸っぱさが爽やかで、なけなしの食欲を後押ししてくれる。
私は落っこちそうなほっぺたを片手で支えながら、ほくほくと幸せな気持ちで食べ続ける。
「他には何かして欲しいことない? 遠慮せずに何でも言ってね」
蛍ちゃんはカフェエプロンを外しながら、仏様のような眼差しで尋ねた。
(蛍ちゃん……看病スキル高過ぎだよ……!)
弱りきっていた私には、彼が本当に後光が指して目映く見えた。
私は部屋を見回して、ふとやらなければいけないことを思い出した。
「えっと、じゃあクリーニングに出して欲しいものがあるんだけど、お願いしてもいい?」
「もちろん! まーちゃんの制服?」
「あ、ううん。ジャージなんだけど」
蛍ちゃんはきょとんとして首を傾げた。
「ジャージならわざわざクリーニングに出さなくても、家で洗えると思うよ?」
私はプリンを飲み込みながら「うーんと……」と言葉を選ぶ。
「実は借りた物なんだ。とにかく出来るだけ綺麗にして返したいなーと思って……」
「なるほど! お友達のなんだね。まーちゃんのそういうとこ、おれ素敵だと思うよ」
「あぁ……うん」
それは完全にかいかぶりだけど……まあ、そういうことでいいか。
「じゃあ今から行ってくるね。そうじゃないと週明けまでに引き取れないから」
「ありがとう蛍ちゃん! 本当に助かるよ。月曜も体育あるからどうしようって思っててさ」
私はホッと胸を撫で下ろした。蛍ちゃんはニコッと笑うと、外出用の眼鏡をかけて早速出かける支度を始めている。
「そのジャージってこれ?」
「あ、そうそう!」
蛍ちゃんは、先ほど私が床にポイした千明くんのジャージを拾い上げる。
そしてピタリと固まった。
こちらに背中を向けていて顔は見えないが、急に深刻そうな声で尋ねる。
「これ LLだけど……男の子の?」
「うん、そうだよ。ほら、この前話した、一緒に病気を克服しようとしてる人」
「へー……」
蛍ちゃんの声に少し棘があったような気がしたけど……?
私は食べたら少しうとうとしてきて、まあいいか、と深く考えずに続ける。
「そう言えば、その彼にピアノを弾いてもらう約束してるんだけど、今度蛍ちゃんのお店に連れて行ってもいいかな?」
「かれ……?」
「うん。あ、千明くんって言うんだけどね」
私がそう言うと、蛍ちゃんが「ちあ……っ!」と息を飲むように呟いた。
そして、ゆっくりと振り向きながら、
「おれはいつでもいいから……直ぐにでも連れてきて……ね?」
何故か眉間に皺をよせて、威嚇するような低い声でそう言った。
私はなんとなく違和感を感じたけれど、眠気の方が勝ってしまい。
蛍ちゃんがジャージを持って出掛けるのを見届ける前に、いつの間にか寝落ちしていた。