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だんまりさんとケッペキ君 ☆書籍化準備中☆  作者: 綿谷ユーリ


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10 お天気雨

 午後の授業は残すところ体育のみ。


 朝比奈先輩との優雅なティータイムを終えた私は、着替えを済ませて意気揚々と体育館へ向かっていた。


 今朝はあんなに最悪な気分だったのに、今は心の靄が晴れたようなスッキリとした気持ちだ。

 


 ――私はすごく自分勝手だったと思う。


 きっと千明くんの“レベル10”を見たときから、彼は多少なりとも私に好意を持っていると思い込んでいたのだ。

 だから今朝は良いように使われてると知ってつい激昂してしまって……本当に思い上がりも甚だしい。


 自分のレベル10『クラス全員の前で歌う』を考えてみたら、彼にとってのレベル10だって、いかに実現不可能なものか想像がつく。

 他人が触ったチョークを『う○こ』呼ばわりするくらいなんだから、エッチな行為なんてもう…………肥溜めに頭から突っ込んでバタフライするようなものなのでは?


「うぅ……」

 つい想像してしまい、私は吐き気を催す。


 それでも千明くんがレベル表にそう書いた気持ちを、私は少しだけ理解できた。みんなが当たり前のように出来ることが出来ない、それがどれほどの苦しみか、私は身をもって知っている。


 たぶん彼は――本当に、純粋に、みんながしているように、人と触れあえるようになりたいだけなのだ。


「……よし」


 体育館へと続く渡り廊下で、私は一人静かに決意する。


 一緒に病気を克服しようと提案してくれたのも、治療の仕方を手引きしてくれたのも、尻込みする私の背中を押してくれたのも、全部千明くんだ。

 彼がいなかったら、私はいつまでもクラスで空気同然の存在のままで、そこから脱却しようとも考えなかっただろう。


 でも、私は彼に何をした?


「……あとで千明くんにちゃんと謝ろう」

 そして、彼の治療にもっと積極的に協力しよう。

 

 今度は私が千明くんの背中を押すんだ。

 ……そう思った矢先のことだった。


 ――ぐいぃっ。

「!」

 突然背後からジャージの襟を引っ張られ、私はオエッとなりながら立ち止まる。

「……やっとみつけた」

 振り向くと、体育ジャージ姿の千明くんがはぁはぁ……と息を切らして立っていた。

 

 走って追いかけてきたのだろうか。汗ばんで乱れた栗色の髪や、Tシャツの襟から覗く鎖骨が何とも艶っぽくて、思わず私はサッと目をそらした。


(どうしよう……!)


 一度『好きだ』と気づいてしまうと、彼の全てが眩しくて直視できない。


「?」

 でも、何かおかしい。何か物足りない。


 私が黙って考え込んでいるのを見て、まだ怒っていると勘違いしたのだろう。千明くんは、らしくなく思い詰めた表情で拳を握りしめている。

 こぶし……?


「あ」


 彼がいつも身に付けている手袋がない。

 通りで何か違和感があると思った。


(あれ? でもさっき私のジャージ掴んでたよね……?)

 

「茉莉花、どこ行ってたんだよ!学校中探し回ったんだぞ? ……じゃなくて」

「?」

 彼は責めるような口調で話し出したが、すぐにわしゃわしゃと髪をいじって口ごもる。私は首を傾げながら、焦って言葉を探す彼を見守った。

 千明くんはまるで別人のようにしゅんとして、さっき私のジャージに触れた右手を落ち着きなく握ったり開いたりしている。


 そして意を決したように深く息を吸い込むと、その手をこちらにのばし――。

「!」

 私の袖をちょこんと摘まんだ。


(び、びっくりした……)


 手を握られるかと思った私は、激しい音をたてて暴れまわる心臓に手をやり、ほっと胸を撫で下ろす。


 ……でも、いじらしく袖を握られたこの状況も……これはこれでドキドキしてしまう。


「俺、今はこれが精一杯なんだ……。いつだって自分が情けなくて、茉莉花を探してるときもマジで不安で……」

 千明くんは見えない何かと戦っているようにじっとりと汗をかきながらも、私の袖を離そうしない。


()()()()見放されたと思ったら、俺……」


 そして、切れ長の美しい瞳で真っ直ぐに私を見下ろし、絞り出すように言った。



「……頼むから側にいてくれよ」



 彼の瞳が、まるで幼い子供のように不安げに揺れる。


 その眼差しがひどく儚くて、私は息を飲んだ。なぜだろう、胸が締め付けられるようにキリキリと痛い。


「な……んで……?」


 何で……そんな今にも泣きそうな顔をしているの?


 考えるより先に手が動いていた。

「千明くん……?」

「っ!」

 壊れそうなほど歯を食い縛る彼の頬に手を伸ばすと、千明くんはひどく怯えた顔で後ずさりした。

「あ! ごめんね、つい……」

 私は慌てて手を引っ込める。

 素手で顔に触ったりしたら彼がどれほど恐怖を感じるか、ちゃんと考えてなかった。軽率だった。

 私が俯いて反省していると、千明くんは「あ、いやっ……」と取り繕うように慌てふためいてから口ごもり、そっと肩を落として、


「……ごめん」

 と小さく呟いた。

 

 移ろいやすい秋の空から、ポツリ、と一つ雨粒がこぼれる。

 かと思ったら、あっという間にザーザーと降り始めた。たった数十秒で、渡り廊下に飛沫が跳ねてくるほどの雨足になる。

 私と千明くんは貼り付けられたようにその場で固まっていた。


 雨音以外に何も聞こえなくて……まるで私達の周りだけ時間が止まったみたいだ。



「……!」

 しばらくして、彼はいきなり恥ずかしくなってきたのか、突然カァーッと顔を真っ赤にする。

「あれ俺なに言って……? やっぱ忘れてくれ!」

 そう言い捨てると、一目散に走り去る。

「え!? ちょっと待って……!」

 彼の背中はどんどん遠ざかっていく。私は一人取り残されて立ち尽くした。


 ――『頼むから側にいてくれよ』


 私はさっきの彼の言葉をじわじわと噛み締め、今さら赤面する。


(なっ……なんなのあれ! どういうこと!)


 恥ずかしすぎて、全身にビリビリと電流が走ったみたいに身悶えする。周りに誰もいなくてよかった、私いま完全に不審者だ。


(でも、さっきの千明くん……何かすごく辛そうだった)


 私は落ち着かない気持ちでマスクを深々とつけ直し、小走りで体育館へ向かった。




 体育が終わり放課後になっても、お天気雨はやむ気配がない。

 むしろ雨足が強まってきていた。


 下駄箱前で大勢の生徒達が「傘持ってきてねー」「置き傘ある奴いる?」などと喋りながら、下校できずに滞っている。私も例に漏れず、傘を持ってきていなかった。

 かといって、当然だけど、ここで立ち止まっていても傘を貸してくれるアテなんているわけない。


「はあぁ。しょうがない」

 私はたむろする生徒達の間をすり抜け、せめてもの抵抗でハンカチを頭にのせてから雨の中に飛び込んだ。


(うわー。下着までびっしょりだよ……)


 抵抗も虚しく、走り始めてすぐに頭から爪先までずぶ濡れになった。というか、ここまで濡れたらもう、走る意味ないんじゃない? 息も切れてきたし……。

 私は走るのをやめ、歩いて駅に向かうことにした。

 ――そのとき。


「……茉莉花っ!」

「え?」

 急に呼び止められて、私はビクッと振り向く。

 そこには、紺色の傘を広げた千明くんが息を切らして立っていた。何故か怒ったように眉間に皺を寄せて険しい顔をしている。

 

「馬鹿! なんで俺に声かけな……!」

 と怒鳴り始めた途端、彼は「あ」と呟きサッと私から目をそらした。ほんの少し頬が赤くなったように見える。

「?」

 私が首を傾げると、千明くんは「んんっ」と咳払いし、鞄から折り畳み傘と体育ジャージの上着を取り出した。


「早く使って」

 千明くんは明後日の方を向いたまま、グッとそれらを私の胸の前につきだす。

「あ、ありがとう……。でも何でジャージ?」

 戸惑いながらも受け取ってそう尋ねると、千明くんは呆れたようにこちらに向き直って、私の胸元を「それ」と指差した。


「……うわぁっ!」


 ずぶ濡れになったワイシャツが肌にぴったりと張りついて……おへそも、ブラジャーのひよこ柄までも、完全に透けていた。

 私は慌てて貸してくれたジャージを羽織り、折り畳み傘を広げた。千明くんはホッしたように少し表情が和らぐ。


「それ使ったら捨てていいから。じゃあ」

 そう言い残し、大雨の中を歩いていった。


 私は彼が貸してくれたぶかぶかの体育ジャージの胸元をそっと撫でた。学校指定のもので、胸に金色の糸で“桐ヶ谷”と刺繍がある。


「……いや、これ捨てたらまずいでしょ!」


 私の声は雨音にかき消されて、全く届かなかったようだった。


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