1 治せない風邪
今日も私は“のどの風邪”をひいている。
ゴールデンウィークまでは良かった。花粉症の季節だから、常にマスクをしていても不自然じゃない。
それから夏休みまでは、夏風邪と扁桃炎を繰り返し。二学期が始まる頃には、秋の花粉症という良い季節になる。
とはいえ、入学して半年も経てば、誤魔化しがつかなくなる。
「……本田さんって、全然しゃべらないよね」
「俺、声聞いたことないかも」
(聞こえてるよー! 声は出なくても耳は聞こえてるからねー!)
私は心の中で、声を大にして言う。
……いつしか、私にはだんまりさんというあだ名がついていた。
「蛍ちゃん、ひどいと思わない? ……って、そこ笑うとこ!?」
カウンター越しに蛍ちゃんがクスクスと笑う。
「っふふ……。ごめん、良くできたあだ名だなと思って。……ふふっ」
蛍ちゃんは、本田茉莉花……だんまりか……だんまりさん……とぶつぶつ呟いて、何だか嬉しそうだ。
私はぷんすかとカフェオレを飲み干した。
帰り道、最寄り駅から家に向かう途中にある小さなカフェで、幼なじみの細谷蛍太の淹れた珈琲と美味しいスイーツを食べるのが、私の日課だ。
「ほんとに笑い事じゃないよー。高校入ってから、まだ一人も友達出来てないんだよ?」
私はふて腐れながら、クレームブリュレをパリパリと割る。
「やっぱり、蛍ちゃんと同じ高校にすれば良かったぁ」
「まーちゃん。友達が行くから、っていう理由で進学先を選ぶと、大抵ろくなことにならないよ」
「……ぐぅ」
そもそも、と蛍ちゃんは呆れたようにさらりと前髪をかき上げる。
「『のどを痛めてる』って言い訳は無理があるよ。ちゃんと話せば、みんなわかってくれるんじゃないかな」
「……話せたら苦労しないもん……」
カランカラン。
「いらっしゃいませ」
蛍ちゃんが入り口に向かって笑顔を向ける。3~4人のおばちゃんグループが来店したようだ。
楽しそうにワイワイしながら、私の真後ろのソファー席に腰掛けた。
――その瞬間、私の身体は氷水に入れられたかのように強ばる。
蛍ちゃんが慣れた動きでお冷を運び、注文を取ってカウンターに戻ってくる。
食べかけのブリュレにスプーンを突き刺したまま、プルプルと震える私をちらりと見て、そっと耳元で囁いた。
「……まーちゃん。上でゆっくり食べてきな、ね?」
そう言うと、温かいカフェオレのおかわりを注いで、ブリュレと一緒にトレイにのせてくれた。
私は無言で頷いて、トレイを受け取り2階にある蛍ちゃんの部屋へと向かう。
ちらっと振り向くと、濡れたような黒髪の下、ふわりとほの暖かい眼差しの蛍ちゃんが静かに珈琲を淹れていた。
同い年とは思えないその姿に、私は情けない気持ちでいっぱいになった。
――私は、人前で話すことが出来ない。
正確には、『家族や親友を除く全ての人』と『一対一以外』の状況になると、何故か身体が強ばって声が出なくなってしまう。
性格として片付けるには余りにも度が過ぎているので、そういう心の病なのだと思う。
もちろん、大勢の人がいる学校なんて論外だ。
授業中に当てられても、まともに声が出せないので、仕方なく年中のどを痛めてる演技をしていたのだ。
「はあぁ……」
私は珈琲の香りが染み付いたカプチーノ色の蛍ちゃんのベッドに、ぼふんっと頭から突っ伏した。
(蛍ちゃんとは普通に話せるのになぁ……)
それも二人きりのときだけで、周りに人がいると途端に駄目になってしまうけど。
(なんとかしないと……。期末にはソロコンもあるのに……)
うちの高校では、音楽のテストとして“ソロコンサート”というものがある。
いくつかの課題曲の中から一曲を選び、クラス全員の前で歌うのだ。
クラスメイト同士での投票結果と教師の採点で2学期の成績が決まる。
2学期の音楽の授業は、ほとんどがソロコンの練習に当てられており、選んだ課題曲ごとのグループで練習会をするのだ。
明日から、その練習が始まると思うと……。
「人前で歌うとか……死んでもムリ」
このままいつまでも、蛍ちゃんのふっかふかの布団にくるまれていたい……と心底思ってしまうのだ。
「まーちゃん、起きて」
「……ひゃ!?」
蛍ちゃんの声に、ビクッと飛び起きる。どうやら寝てしまったみたいだ。
「ん~よく寝た~。……あれ?」
気がつくと、私のお尻のあたりに蛍ちゃんの仕事用エプロンがそっと掛けてあった。
蛍ちゃんが「あっ」と呟いた。
そして、ほんの少し頬を赤らめ、ポリポリと鼻先を掻きながら言う。
「その……。まーちゃん、寝相悪いから、丸見えになってて」
「まるみえ? …………っ!!」
咄嗟にスカートの裾を押さえる。手遅れだけど。
「…………見た?」
私が恐る恐る尋ねると、蛍ちゃんはぱちくりと瞬きしてしばし逡巡し、にこっと笑い、
「ひよこ柄かわいいね…………ぎゃ!」
私が投げた枕が、彼の顔面にクリーンヒットした。