其の二
稽古場に通され、茶を出された金之助は、
「武者修行に行って、随分と変わりましたねぇ」
林太郎にそう言われ、自分が白粉を落としていないことに気付いた。
全身から、血の気が引いていく。
これでは、
「遊郭帰りに立ち寄りました」
と言っているも同じではないか・・・。
それほどまでに、千住大橋から皆川道場に向かう金之助には余裕が無かったということだ。
なんとか話題を変えようと、
「今日は、稽古は休みで?」
金之助が、しんとしていた道場の様子を思い出して問うと、
「みんな、出て行ってしまいましたよ」
と林太郎が返してきた。
金之助は目を丸くし、
「出て行った、とは・・・?」
問うや、
「実は・・・」
と、林太郎はわけを話した。
それによれば・・・。
なんと林太郎、三年前から道場主の座を、一人娘の皆川霞へ受け渡し、引退してしまったという。
だが、これがいけなかった。
霞は当時十七歳。
それまでいた門弟は、
「どうして、俺が小娘に頭を下げてまで剣を教わらなければならんのだ」
と憤慨し、遂には道場を去ってしまったのだという。
だが霞はこれを、
「自分の力不足」
と受け取ったらしく、その時すでに、寺島村の巌眼寺という寺へ身を寄せ、子供たちへ読み書きを教えていた林太郎を訪ね、
「諸国修行の旅に出て、鍛え直して参ります」
そう言って、江戸を出てしまったのだ。
本来、師範となったからには、たとえ一人になったとしても、自分の城・・・すなわち剣術道場を守るのが責務である。
しかし、娘を気の毒に思った林太郎は、
「思うままにしてみなさい」
ついついそう言ってしまい、娘の一人旅を許してしまった。
無論、誰もいなくなった道場を放っておくわけにもいかず、娘の霞が戻って来るまでの間、林太郎は道場に身を寄せ、今度は近所の百姓たちへ読み書きを教えながら生活していたのだ。
(なんという、くだらないことで道場を・・・)
金之助は、かつての門弟たちへ怒りを向けた。
霞の人柄と剣の腕を、金之助は評価している。
林太郎の物腰の柔らかさと、辰三の剣に向けたストイックさとを、霞は持ち合わせている。
剣術だって、
「道場の五指」
と呼ばれた金之助が立ち合って、三本のうち一本を取れるかどうか・・・というところなのだ。
(それを、女だから・・・と見下すとは・・・)
男だの女だのと、そういった柵に囚われ、皆川霞という人間の実力を見ようとしなかった門弟たちを、金之助は侮蔑したのだ。
かつて、道場に通っていた頃の情熱が、ふっと金之助の胸の中に蘇ったのはこの時だ。
「先生!」
姿勢を正した金之助は、真っ直ぐに林太郎を見つめ、
「霞殿が戻って来るまでの間、この金之助が、及ばずながら道場をお守りいたしましょう!」
もはやその顔に白粉をつけていることなどすっかり忘れ、力強く言い放ったものである。
と・・・。
ぐぅ。
金之助の腹が鳴った。
すると、
「ふっ」
笑った林太郎が懐から財布を取り出し、これをそのまま金之助の目の前へ置いた。
「せっ、先生・・・これは・・・」
頭を上げた金之助が戸惑うのへ、
「腹が減ってはなんとやら。まずはそれで腹を満たしてから、もう一度ここへ来なさい」
優しく言った。
金之助はこれを押し抱き、涙と汗とですっかり濡れつくした顔を下げ、
「ありがたく・・・ありがたく・・・」
と繰り返した。
そして・・・。
白粉をすっかり落とした金之助は、橋場にある一軒の菜飯屋に足を運んだ。
江戸にいた頃は、道場の帰りにこの菜飯屋に足を運び、豆腐田楽を楽しみとしていたのである。
その時はすっかり顔なじみとなった、初老の店主や、まだ十六ほどだった小女も、今では金之助を見ても、それと全く気付かなかった。
これは、京での日々によって肉が付き、女と戯れることで男としての自信をつけた金之助の顔つきが、三年前の、あどけなさのあるものとは全く変わってしまったからである。
(店を出るときにでも、名乗ってやろうかな・・・)
そんなことを楽しみにしつつ、菜飯をかっこもうとした金之助の手が、ふと止まった。
「ふむ。では、今夜ということだな」
背後の、衝立の向こうから聞こえるその声に、反応を示したのだ。
その声に、金之助は心当たりがあった。
(この声は・・・吉中さんのものでは・・・?)
吉中さん・・・もとい吉中宗次郎は、やはり神通流を学んだ剣客であり、金之助の兄弟子だ。
(だが、吉中さんが江戸にいるわけがない・・・)
このことだった。