其の一
時は、徳川幕府の威光が眩しい江戸の時代。
麗らかな春の昼下がり。千住大橋を行っては帰り・・・を繰り返す男の姿があった。
着流し姿に、ほんのりと白粉をつけたその男は、一見すると役者風なのだが、歴とした剣客である。
それが証拠に、男の腰元には、大小二本の刀が差してある。
男の名前を、小杉金之助といった。歳は三十である。
ふと足を止めた金之助が、懐から財布を取り出すや、中身を見て溜息を吐いた。
「何度見たところで、金が入っているわけじゃないよなぁ」
これでもう、四度めの絶望である。
財布の中には、何も入っていない。
それというのも金之助、昨晩にとある大名の下屋敷で極秘に開かれた賭場に参加して大いに負け、それだけならまだ金があったのだが、負けた憂さを晴らすために岡場所・・・つまりは幕府非公認の遊郭へ出向き、そこで有り金すべてを使い果たしてしまったのだ。
(致し方なし。ここは一つ、道場へ出向いて先生に金を無心しよう)
決意した金之助は、千住大橋を浅草の方面へ引き返していった。
果たして・・・。
彼の目指す場所は、浅草は中村町の、田園地帯の中にあった。
そこには一軒の、寂れた剣術道場がある。
道場と言っても、これは百姓家を改装したものだ。
稽古場と居間とは襖一枚を隔てたのみで、あとは玄関と台所を兼ねた土間と、中庭に設置された井戸。これが道場の全てである。
して、この道場で教えているのは、《神通流》という流派の剣術である。
流祖は、皆川辰三。
なんでも、辰三と剣を交えた者が、
「いやはや、皆川殿の動きは人の者と思えぬ」
「あれは恐らく、京の山で天狗に弟子入りし、神通力を授かったに違いない」
などと言うものだから、神通流などという大仰な名前が出来たそうな・・・。
しかし辰三自身は、己の剣術にいちいち勿体つけた名前を付けるのを嫌っていたらしく、神通流という名前も承知しなかったので、その技は、
「知る人ぞ知る」
ものとなったらしい。
それから時は流れ、今では辰三の息子・林太郎が道場の主になっている。
このことから、神通流の歴史がまだ浅いものだということが分かる。
小杉金之助は、この神通流・皆川道場に通う門弟の一人だったのだ。
もとより金之助は、道場でも五本の指に入るほどの実力を持っていた。
当時は酒や女、ましてや博打の味も知らず、ただひたすらに木太刀を打ち合うことに楽しさを見出していた男なのである。
それがある時、
(もっと広い世界を見てみたい)
と思うようになった。
そして遂に、
(大先生は、京の山で天狗に稽古をつけてもらったという・・・俺も是非、そこへ行ってみたい・・・)
大先生とは、皆川辰三のことだ。
無論、金之助は辰三が天狗に稽古をつけてもらったことを信じているわけではなかった。しかし、
(京の山に行ったことは事実。そこへ赴き、大先生と同じ景色を見れば、俺の剣術もさらに一歩、上へ行けるかもしれない・・・)
この考えがあったのだ。
金之助はこのことを林太郎へ話し、林太郎もこれを快く了承した。門人の考えについては、
「自分でよいと思ったことは、とことんやってみるべし」
のスタンスをとっていたからである。
だが、これがいけなかった。
実際に京へ赴いたのはよかったのだが、そこでのゆったりとした雰囲気にほだされ、金之助はすっかり女と博打に溺れるようになった。
今でこそ顔につけている白粉も、京での遊びの日々の賜物なのである。昔は、精悍な顔つきの青年だったのだ。
それでも、剣の腕は衰えるどころか、少しずつでも上達したのは、まだ彼の中に剣術への情念が残っており、更にはそれだけの才があってこそだった。
(これではいけない)
と思いつつ、金之助はとうとうこれまでの日々を、京での遊びに費やしてしまった。
そんな彼が、遂に京を出て江戸へ戻る決心をしたのは、一人の剣客と出会ったからだ。
剣客の名を、秋山小太郎といった。
秋山とは、たまたま立ち寄った居酒屋の入れ込みで隣に座ったことで出会い、ぴたりと息が合った。
そうして語り合ううち、金之助は秋山がまだ十六で親元を離れ、諸国修行の旅に出て、四年が過ぎた今、江戸に帰ろうとしていることを知った。
金之助は、これほど己を恥じたことはなかった。
(俺よりも若いこの剣士が、京の遊楽に溺れることなく、きちんと自分を律している・・・)
このことである。
そして遂に、金之助は秋山と共に江戸へ帰る決心をしたのだ。
さて・・・。
「皆川道場」
と看板のかかった、小さな造りの門を潜った時、
(はて・・・?)
金之助は首を傾げた。
聞こえるであろう、門弟たちの気合声や木太刀を打ち合う音が、全く聞こえないのである。
なんだか嫌な予感がしつつ、中へと進み、雨戸の開け放たれた道場内を見たが、中には誰もいなかった。
(これは、いよいよおかしい)
思った金之助が、一歩踏み出した時、
「やあ」
背後から、金之助が聞き覚えのある声がした。
振り向いてみると、そこには藍色の小袖と黒の袴を着た、長身痩躯の優男が一人。
この優男こそ、皆川林太郎であった。
どっさりと野菜の積まれた籠を背負った林太郎は、
「いやぁ、申し訳ない。近所の方に呼ばれ、ちょっと話が弾んでしまったもので。道場に御用ですか?」
と、最初は金之助に気付かなかったらしいが、その顔をまじまじと見て、
「もしや、金之助?」
言い当てた時、金之助は逃げることを諦めた。