其の三
女は、どうも記憶喪失にあるようだった。
そこでシュタロスは、なんとかきっかけを与えてやろうと、パラダガルドや西の域、シャオレ国のことを教えてやったのだが、
「さぁ・・・」
女はそう言って首を傾げるのみだった。
記憶を失っているというのに、女の態度は落ち着き払っている。
(演技なのか?)
一瞬、シュタロスがそんな考えを持ったほどである。
「シュタロスさん。どうしますか・・・?」
エリシアが、囁くように尋ねてきた。
「むぅ・・・」
シュタロスは、腕を組んで考え込む。
状況が状況なだけに、シュタロスたちには記憶喪失の者を世話してやる余裕などない。
だが、先ほど女が見せた、化け物を斃した時の身のこなしや腕っぷしを思うと、
(記憶はないが、戦い方は体が覚えているらしい。これは、傍に置いた方が、むしろわしらは安全なのでは・・・?)
とも思うのだ。
目指すスーフォの街へは、最低でもあと四日はかかると、シュタロスは看ている。
それまでの間、かの化け物の襲撃が全く無いとは言い切れない。
それを考えると、この記憶喪失の女の存在は、頼りがいのあるものだった。
シュタロスは思い切って、そのことをエリシアへ告げてみた。
初めこそ、困惑の色を見せたエリシアも、
(確かに・・・)
と頷き、ちらりと横目で女を見る。
一見すると華奢な体つきで、吹けば飛びそうな印象だが、事実、この女は猪面の化け物をいとも簡単にやっつけたではないか・・・。
ここにきて、エリシアとシュタロスの心は決まった。
「どうだ。知らぬ土地を単身で歩くのには不安があろう。それに、今は先のような化け物が闊歩していることだし・・・。ここは、わしらとともにいかないか?もしかしたら、何か記憶の糸口になるようなことがあるかもしれない」
記憶の糸口。その言葉が口から出た時、少なからずシュタロスは罪悪感を覚えた。
確かに、自分たちと同行して世間を見せてやれば、女は何かを思い出すかもしれない。
だがシュタロスにその考えが全く無かったと言えば嘘になるが、
(なんとか、この女は引き離したくない)
その思いの方が強かった。
記憶の糸口とは、言わば女への「餌」でもあったのだ。
(この女の不幸に付け込み、わしはなんということを・・・)
後悔したが、今は生きることに手段を選んでいる暇などなかった。
果たして・・・。
「分かりました」
女は、あっさりと承諾した。
この素直さが、尚更にシュタロスの心を痛めたが、ひとまず安心であった。
ほっと胸をなでおろした時、一つ思い出したシュタロスは、
「そうだ。お前さんの、仮の名前を決めておこう。そうでなくては、あとあと不便だ」
提案すると、
「それだったら、あなたたちが決めてくれませんか?」
投げやりではない。全幅の信頼を寄せているがための、女の一言だった。
シュタロスとエリシアは、困ったように顔を見合わせた。
女の純粋な一言一言が、彼らの心を苦しめるのである。
しかし一方で、
(だったら、名前だけでも立派なものにしてやろう)
この思いが、シュタロスの中に芽生えた。
考えに考え抜いた末、彼は一つの名前を選んだ。
「テアナ。そうだ。テアナがいい」
「て、あな?」
「そう、テアナだ。かつて、西の域で名を馳せたエルフの名前だ。剣術に優れ、戦場では一騎当千の力を発揮したという。うむ。お前さんにぴったりの名前だ」
シュタロスが何度も頷く。
女は、
「てあな・・・」
と何度も呟き、やがて納得したらしく、
「今日から私は、てあな」
にっこりと微笑んだ。