其の五
果たして、時は来た。
今宵は満月である。
太物問屋《さやしな屋》の裏門に、二つの人影がどこからともなく現れた。
一人は吉中宗次郎。もう一人は、闇に隠れて顔は分からぬが、吉中の肩に届くか届かないかほどの背丈をしている。
黒装束に、同じく黒の頭巾を被った二人が、周囲の気配を伺い、
(大丈夫・・・)
と思ったらしく、さらしな屋の門をそっと叩いた。
間もなく、音も立てずに門が開けられる。
これを開けたのは、菜飯屋で吉中と話をしていた男であった。やはり、奉公人を装ってさらしな屋へ潜り込み、仲間の侵入を手助けする役割を担っていたらしい。
その男が、吉中たちを中へ誘おうとした瞬間・・・。
「待て」
さらしな屋右手の道から、声がかかった。
雲に隠れていた満月が、姿を現す。
その光に照らされたのは、小杉金之助であった。
やはり着流し姿の金之助は、すでに大刀を抜き払っており、
「神妙にしろ」
吉中たちへ声をかけた。
瞬転。
「お頭!逃げろ!」
吉中の大声をきっかけとし、黒装束が闇夜に消えた。
金之助は、これを追うつもりはなかった。
残った吉中と、さらしな屋の奉公男は、それぞれ脇差と匕首を引き抜き、金之助に立ち向かうつもりであった。
それをじっと見つめていた金之助が、
「久しぶりですね、吉中さん」
声をかけると、頭巾から見える吉中の瞳が、大きく見開かれた。
続けて金之助は、
「小杉金之助、諸国修行の旅から戻ってきました」
名乗ると、吉中の瞳は更に大きくなり、遂には頭巾を外してしまった。
「せっ、先生・・・?」
仲間の男が、不安げに吉中へ声をかける。
「三平」
吉中が、男へ呼びかけた。
三平と呼ばれた男は、それだけで何かを飲み込んだらしく、匕首を仕舞うと、道端に胡坐をかき、座り込んでしまった。
「なるほど。菜飯屋でその顔を見た時、どこかで見た気がしたと思ったが・・・小杉。お前だったか」
「・・・」
金之助は答えぬ。ただ、闘気をもって大刀を正眼に構えるのみだ。
吉中が、寂しげに笑った。
「お前、修行先でだいぶ遊んだらしいな」
言うと、吉中も大刀を引き抜いて構えた。
二人の剣客が、静かに見つめ合った。
不思議と、金之助の心に不安は現れなかった。
道場に通っていた頃は、どうやっても敵わなず、
「どうした、小杉!」
叱りつけ、木太刀を打ってくる吉中が怖かった金之助なのである。
それがどうだ。十年ぶりに吉中と対峙した今、
(負ける気がしない)
その気持ちが、金之助の心内に溢れ出てくるのだ。
ふと、寂しさが金之助の胸をよぎった。
それを察知したものか・・・。
先に地を蹴ったのは、吉中であった。
「やあっ!」
大刀を振り上げた吉中が、それを金之助へ叩きつけた。
(決まった・・・!)
三平が勝利を確信した。
しかし、そうではなかった。
身をひねった金之助は、そのまま横なぎに、吉中の大刀の刀身を斬り落としてしまったのだ。
鍔より先を無くした大刀を、吉中は呆然と見るより他にない。
早くも大刀を鞘へ収めた金之助は、
「吉川さん。お上の裁きを・・・」
言いかけ、瞠目した。
吉中は刀身を失った大刀を捨て、引き抜いた脇差で腹を斬り、続いて喉を割って果てたのである。
激痛を伴ったはずなのに、吉中の死に顔は穏やかなもので、柔らかな笑みをたたえていた。
「あぁ・・・」
嘆息をもらし、膝から崩れ落ちる金之助へ、
「だ、旦那は一体・・・」
それまで座り込んで斬り合いを見ていた三平が、声をかけてきた。
金之助は彼を一瞥すると、吉中の骸を見つつ、
「皆川道場の、小杉金之助。最後まで、この人に勝てなかった剣術使いさ」
と答えた。
金之助は立ち上がり、吉中の骸を抱え上げると、闇の中へ消えようとする。
「旦那・・・いったい、どこへ・・・」
三平が再び問いかけるのへ、
「どこへともなく消えるがいい。だが、この人のことは忘れてほしい」
それだけ言って、悠然と歩き去ってしまった。
残された三平は、暫し考えに耽っていたようだが、
「こうなれば、仕方がねぇ」
呟くと、匕首を捨て、金之助が消えたのとは反対の方向へ、歩を進めたのである。
それから四半刻|(約三十分)ほどして、現場に戻って来た人影があった。
吉中と共にさらしな屋へ侵入しようとした、黒装束である。
こやつは、その場にあった血だまりをじっと見つめていた。
そして、地に転がっていた匕首や、折れた刀身を拾い上げると、そそくさと闇の中へ消えていったのである。




