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にじいろの煙  作者: 芝みつばち
8/19

冬の入り口

12月に入り、2ヶ月間全力で駆け抜けてきた今期の実習も残すところ2週間となった。

附属病院で行われている急性期実習で受け持っている暴言のひどい患者さん…島倉藤吉さんはこの週末、どのように過ごしたのだろうかと気になるところだったが、これからあと2週間また暴言を吐かれたり、来るなと言われたりすることを考えると憂鬱になるのもまた事実だ。

月曜日の朝、真春は自然に目が覚めた。

携帯で時間を確認すると5:50。

身体が早起きに慣れて目覚ましが鳴る前に起きてしまったようだ。

あと10分寝れるのに勿体ないな…と思ったが、寝坊が恐ろしいので真春は起きることにした。

2ヶ月分の疲労が溜まった身体を起こすと、顔面になんとなく違和感を感じたので鼻に手をやると、結構な量の血が垂れており、パジャマにも付着していた。

「えっ?!」

あまりの衝撃に声が漏れる。

枕やシーツにはついていないので、起き上がった拍子に出たのだろうか。

とりあえず顔を洗って鼻も綺麗にして、真春は実習に向かった。

特に気にはしていなかったが、翌日も朝起きると鼻血が出ていたのでさすがにおかしいと思い始めた。

今度は枕にもポタポタと垂れている。

鼻を洗って右の鼻の穴にティッシュを詰めてリビングのドアを開けると、パンの焼ける匂いがふわっと漂ってきて、左の鼻だけでその匂いを感知した。

「おはよー。あら真春、また鼻血?」

朝食の準備をしてくれている母親がダイニングテーブルにコーヒーを置きながら心配そうに言った。

「うん、でもすぐ止まるから大丈夫だと思う」

「そう…」

朝食を平らげた頃には鼻血はすっかり止まっていたのでティッシュをゴミ箱に捨て、部屋で準備を始めた。

するとまた鼻血が右の鼻を伝ってポタポタと垂れてきた。

さすがに怖くなる。

でもとにかく、実習には行かねば。

真春は鼻にティッシュを詰め直して、マスクをして家を出た。

実習に向かう電車の中、続けて起こる鼻血についてインターネットで調べまくる。

何か変な病気ではないだろうか。

こんな若くして死ぬだなんて嫌だ…。

過度な妄想を繰り返しているうちに病院の最寄駅に着いた。

病院のロッカーで着替え、病棟に行く前にティッシュを外す。

よし、止まっているようだ。

「真春、早く行こ」

「あ、うん」

グループの子に話しかけられてビクッとなる。

こんな血のついたティッシュを見られたら引かれてしまう。

真春は血の付いたティッシュを綺麗なティッシュで包んで隅のゴミ箱に捨てた。

「おはようございます」

病棟に着いて荷物を置いてから、順番に手を洗う。

間もなく申し送りの時間だ。

申し送りを聞いて患者さんの情報を得てから、患者さんに挨拶に行ったり先生や実習担当の看護師さんに行動計画の発表をしたりする。

はずだった。

申し送り中、看護師さんの話を聞いているとなんだか頭がぼーっとしてきて、脳に体中のありとあらゆる血液が集まってくるような、頭が圧迫されるような気がした。

次の瞬間、真春はまた鼻血を出した。

「せんせ…鼻血……」

「あら!ちょっと座って休んでなさい」

真春はカンファレンスルームに連れて行かれ、椅子に座らされた。

右の鼻の穴にティッシュを詰めて、鼻を押さえる。

喉に血の味が滲んでくる気がする。

「どう?止まった?」

申し送りが終わった頃、先生がやってきた。

真春は昨日も鼻血が出たこと、今朝も2回鼻血が出たことを先生に話した。

「今日は早退して、受診してきたら?」

実習を休むのは気が引けたし、患者さんに申し訳ないし、なにより鼻血ごときで早退だなんて。

ダサすぎる。

しかしこのまま続けてケア中に鼻血が出るのも迷惑がかかるので、早退して受診することにした。

「すみません」

また鼻血が出るかもしれないという恐怖から、真春はポケットにティッシュを多めに入れてロッカーへと急いだ。

乾いたティッシュを外し、止血したことを確認してから着替えを済ませて病院の入り口へ向かった。

実習している病院にかかるなんて、恥ずかしすぎる。

そう思いながら真春は初診受付を済ませて、案内された通り、2階の耳鼻科へと向かった。

周りの患者は老人だらけで若者は真春1人だった。

結構な人数が待っているので、大分待たされそうだ。

呼び出し番号が表示される画面がよく見える窓際の長椅子に腰掛け、真春は香枝にメールを送った。

堂々と携帯を出すわけにもいかなかったので、リュックの中で操作する。

『鼻血出たんだけど!これから受診する』

『え?大丈夫なんですか?何に興奮したんですか?笑』

やはりそんなレベルなのだ。

他人にとってはそんなに大事ではないのかもしれない。

『昨日も出たし、今日も3回出たから先生が病院行きなって。実習早退した!』

『そんなにやばいんですか?心配だぁ。なんでもないといいですね』

本当だ、なんでもないといい。

診察室に呼ばれたのはかなり経ってからだった。

初診かつ予約外なので、おそらく後回しにされているのだろう。

先程までいた患者さんたちはほとんどいなくなっており、真春を含めてあと3人しかいない。

ぼーっとしていると、また顔面に違和感を感じた。

ポタポタと血が垂れてきたので、左手で鼻を抑えながら右手でポケットの中を漁り、ティッシュを取り出す。

「白石さーん?」

看護師さんが診察室から出てきて、直接呼んでいる。

「えっ?!あっ」

「あら、大丈夫?」

「あ、は、はい。大丈夫です」

また鼻血が垂れてきてあたふたしていたので、画面に番号が表示されていることに気付かず、看護師さんが出てきてくれたのだ。

小太りの看護師さんに荷物を持ってもらい、診察室に通される。

中に入り、丸い椅子に座らされた。

「どうされました?」

「昨日、今日と鼻血が止まらなくて…あの、さっきまで止まってたんですけど、今また出てきました」

「ちょっと失礼します」

そう言って先生は鼻の中に黒いものを、容赦なく突っ込んできた。

「うっ…」

「あー、ここですねー。鼻血がよく出やすい部分が切れちゃってますね」

先生曰く、疲労などで粘膜が弱ると少しの刺激で傷付いて鼻血が出たりするとのこと。

「学生さん?」

「あ…はい。今ここの病院で実習中で…」

「なーんだ!看護学生さんだったの?」

小太りの看護師さんの顔がパッと華やぎ急に親しげになった。

「実習大変よねー。さすがに鼻血は出したことなかったけど…。ゆっくり休むなんてのは無理な話よねぇ?」

「休める時は休んでね。君はちょっと痩せ型だから、もう少し栄養摂って体力つけなさいね。まぁまた何かあったら来て下さい。実習、頑張って」

こんなことで大学病院来んなよ、町医者にでも行けと言わんばかりのツンケンした態度をとられるかもしれないと思っていたが、優しい先生達でよかった。

何はともあれ変な病気ではなかったことだし結果オーライだ。

お会計をするのにも人が多くて時間がかかってしまい、病院を出たのは14時半。

今頃みんなカンファレンスしてるだろうな。

島倉さんは今日、どんな治療をしたのだろうか。

そんなことを考えていたらなんだか疲れがどっと押し寄せてきた。

ここにきて実習の疲れが目に見え始めたのかな。

周りのみんなは歯をくいしばってやっているのに、自分だけこんなにひ弱で情けない。

駅に向かって歩きながら、一応心配してくれてる香枝にメールを送る。

『いま病院から帰るとこ。すごい待たされた!なんかあたし疲れがたまってるみたい』

香枝からはすぐに返事が来た。

『なんともなかったんですか?よかったぁ。疲労は実習のせいですよね…。あとちょっとだし、頑張って下さいね』

『ありがとー!頑張るよ!てかご飯ちゃんと食べてないのがいけなかったのかも』

そういえばここ最近、真春のお昼ご飯はおにぎりとゼリーのみ。

それから、ブラックコーヒー。

『きっとそれもありますよ!何食べてるんですか?』

『お昼はおにぎりとゼリーだよ。朝は食パンとか』

『え!栄養のバランス悪すぎですよ!しっかり栄養摂って体力つけないとダメですよ!お肉食べないと!』

『先生と同じこと言ってる(笑)お肉ねー…今はそんな気分じゃない』

『だめ!ちゃんと栄養あるもの食べて下さい!じゃあ何なら食べられます?』

電車に乗り込んだ時、時間帯的にも空いている頃だったので乗客はまばらだった。

誰もいない席の一番端に座り、少し考えたあと、真春は『アイス!』と返事を返した。

『アイスかー…。あたしの学校の近くにおいしいジェラート屋さんありますよ!』

『そうなの?行きたい!』

ということで金曜日、2人で香枝の大学の近くにあるジェラート屋さんに行くことになった。

香枝と一緒に遊ぶんだ…。

しかも2人で。

一緒に飲むことはあっても、2人でどこかへ出掛けるのは初めてのことだった。

考えただけでまた鼻血が出そうだ。

今週は、鼻血を出しても実習は頑張ろうと真春は心に誓った。


幸いあれ以来鼻血はピタッと止まり、問題なく実習に専念することができた。

病院に行って原因が分かると、安心から病状が良くなる人がいると聞いたことがあるが、自分もそうなのではないかと真春は思った。

水曜日、朝の挨拶をしようと島倉さんの病室に入ると、突然「お前、昨日なんで来なかった!」と怒鳴られた。

点滴は1本になり、酸素の管も取れて一昨日よりもすっきりした島倉さんはこちらをキッと見た。

「あ、す、すみません…ちょっと体調を崩してしまいまして。でももう大丈夫です!今日からまたよろしくお願いしますね」

「お前が来ないからリハビリ出来なかっただろうが」

「え…」

「今日は体拭きとリハビリしっかりやってくれよ。早く帰りたいんだよ、こっちは」

くるりと背を向ける島倉さんを見て、真春は「はい」と笑顔で答えた。

島倉さんは徐々に真春に心を開き始めていたようで、昨日の朝、実習担当の看護師さんが真春は体調不良で早退したとを伝えると「あいつが来ないなら俺も今日は休みだ」と言ってリハビリを拒んでいたらしい。

「白石さんのこと、気に入ってるみたいだよ。土日も白石さんのこと話してたの。なんでも丁寧にやってくれるし、うるさいジジイの話もずっと聞いてくれるって。あなたにはキツく当たってるかもしれないけど、照れ隠しなのよ」

カンファレンスの後、看護師さんが真春の肩をポンと叩きながら笑った。

そんなこと思ってくれていたなんて…。

嬉しくて小躍りしたくなる気分だ。

「でも」

看護師さんの声色が変わる。

「病態はもうちょっと調べてこないとね」

「ハイ…」

やはりそうなるのだ。

小躍りしかけて損した。

楽しそうにコミュニケーションを取りながらも患者さんの病気のことを考えながら、次は何するとか、こうなってしまったらどうしたらいいとか、看護師さんは全部分かってるんだもんなぁ。

自分もいつかそうなれるのだろうか。

いや、ならなければいけないのだ。


金曜日。

実習の中間面接があり、先生に「前よりも病態を理解できている」とお褒めの言葉をもらい、真春はホッとした。

看護師さんに言われてから必死に勉強したのだ。

「やればできるじゃない」

「あはは…頑張りました」

「島倉さんともいい関係だし、良かった。性格も病態も難しいダブルパンチだけど、よくやってると思うよ」

「口は悪いですけど、いい人です」

真春は思ったままを口にした。

「それは白石さんだからかもしれないね」

「え…?」

「白石さんは、どう言ったらいいか分からないんだけど…人を惹きつける魅力みたいなのがあると思うの」

「え、そ、そうですか?」

真春はそう言いながらも、自分を慕ってくれている香枝やバイトの高校生達のことを思い浮かべた。

「ありのままの素直な自分で関わることが出来てると思うの。とても良いことだと思う」

「みんなそうじゃないんですか?」

「無理矢理笑ったりしてる人だっているわよ。患者さんにはすぐ分かるのよ。…さ、あと1週間で終わりね。頑張りましょう」

「はい」

先生からそういう風に見られていたとは思ってもみなかった。

しかし、嬉しいことだ。

今日は良い気分で香枝に会えそうだ。

会ったらこの話をしようかな。

でも、こんな自分が褒めちぎられている話なんか聞いて、香枝は楽しいのだろうか。

帰り道、真春はそんなことを考えながら自宅の最寄り駅から自転車を漕いだ。

少しそわそわしているせいか、自然と自転車を漕ぐスピードが速くなっていた。

家に着いて30分程経った頃、香枝が車で迎えに来てくれた。

『着きました』

と着信があり、電話越しに聞いた香枝の声に胸がキュンとなった。

玄関のドアを開けると、ハンドルを握った香枝が運転席から手を振っていた。

なんだか新鮮だ。

「お疲れさまでーす!」

「お迎えありがとね。じゃ、行きましょー」

「しゅっぱーつ!」

香枝はグンとアクセルを踏んだ。

外は既に暗くなっていて、対向車線には車のライトがたくさん連なっている。

丁度帰宅ラッシュの時間だった。

一方、こちらの車線は全然混んでいない。

何もない山道に向かって行くのだから当然といえば当然だった。

香枝には失礼だけど、彼女の大学は緑に囲まれていて、周りには全くといっていいほど何もない。

車で20分程走ると「あ、そこのでっかい建物があたしの大学です」と香枝が窓の外を横目で見やった。

左側を見ると、かなり大きくて立派な建物が建っている。

どこまで続いているのか分からないくらいだ。

「すごい大っきいね!移動大変そう」

「そんなことないですよ、使う教室限られてるんで」

「他の学部もあるの?」

「いっぱいありますよ。看護学部も来年からできるらしいです」

「へー、そうなんだ。もう少し早くできてたら同じ大学通ってたかもね」

真春がなんとなく言うと、香枝は「そうだったらよかったのに」と小声で言った。

「本当にそう思ってるー?」

「思ってますよー!あ、あそこですよ!ジェラート屋さん」

微妙な会話をしていると、空気を読んだかのように目的地が現れた。

香枝が指差した先にあったのは、かわいいイルミネーションで彩られた小さな小屋。

真春と香枝は駐車場に車を停めて降りた。

暖かい車内とは打って変わって外はひんやりと寒い。

頬が痛むほどの冷たい風に晒される。

真春はマフラーで口元を覆い「寒過ぎ!!!」と声を震わせた。

「今夜は今季一番の冷え込みらしいですよ」

駐車場からお店までは少し距離があり、途中の中庭には、大きなクリスマスツリーが立っていた。

こちらもかわいいイルミネーションで飾られている。

「わー!クリスマスツリーだ!きれー!」

香枝がツリーを見上げて言った。

「綺麗だねー!目がチカチカする」

「もうクリスマスの時期かー。1人クリスマスか…ま、いいけど」

香枝はあれ以来彼氏ができていない。

その言葉を聞いて真春は複雑な気持ちになった。

泰貴はきっと南と過ごすだろうし、優菜は清水さんと過ごすのかもしれない。

付き合っているのが事実だったら、の話だけど。

「真春さんは彼氏とデートするんですか?」

「え?うーん…約束はしてないけど、多分遊ぶと思う」

真春はあえてデートというワードを濁した。

香枝の前ではそういう言葉を使いたくなかった。

なんでいつも、恭介のことを聞かれる度モヤモヤした気持ちになるんだろう…。

真春はそんな自分が嫌だった。

「寒いし、中入ろっか」

「ですね」

お店のドアを開けると、心地よい暖かさに包まれた。

他のお客さんはおらず店内には2人だけ。

静かにジャズが流れる落ち着いた空間だった。

「チョコがいい!あといちご!」

ショーケースを眺めながらジェラートを選ぶ香枝は目を輝かせている。

「あたしはりんごにしよっかなー!あ、バニラもいいなぁ」

選んだジェラートをカップに乗せてもらい、店内の角の席に着く。

屋外の席ではイルミネーションを眺めながら食べることもできるようだが、今季一番の寒さの中でジェラートを食べる勇気はなかったので断念した。

「おいしいね!寒い日にアイス食べるのもありだね」

「ですね!ん!このいちごおいしい!真春さんも食べてみる?はい、あーん!」

香枝が真春にいちご味のジェラートが乗ったプラスチックのスプーンを差し出す。

「へっ?!い、いいの?ありがと…」

おどおどしながらそのジェラートを食べる。

「おいしいね!あたしもいちごにすればよかったなー。じゃ、お礼にどうぞ」

真春はりんご味のジェラートをスプーンで掬って香枝の口元に運んだ。

それを遠慮なく食べる香枝。

見ているこっちが恥ずかしくなる。

「なんか照れるー!りんごもおいしいですね!」

エヘヘと香枝は笑った。

これじゃまるで恋人…。

いやいやいや。

女の子同士でもこんなの普通にやっている。

友達とも何度もこんなことしてきたではないか。

でも、照れるって…。

ふざけて言ったのかな。

なんだか色々考えてしまう自分が急に馬鹿らしく思えてきて、真春は「この後どうする?」と話題を変えた。

「んー、どうしましょっか」

沈黙。

ジェラートだけ食べて帰るのもどうかと思った。

きっと香枝も同じ気持ちだと思う。

というか同じ気持ちでいてほしい。

「ご飯、食べ行く?」

「いいですね!行きましょ、行きましょー!」

空になったカップをゴミ箱に捨ててお店を後にする。

外に出た時、あまりの寒さに2人で再び震えた。

「寒っ!」

「風も強くなってるみたいだし、寒さ倍増ですね」

中庭のツリーの横を通り過ぎた時、強風が吹いて周りの木々がザワザワと音を立てた。

その瞬間、香枝が「わっ!」と言ったかと思うと、真春の腕にぎゅっとしがみついた。

不意を突かれて心拍数が跳ね上がる。

「あ、ごめんなさい!!」

「う…ううん。全然。びっくりしたね」

香枝は「すみません…」と言ってそそくさと真春の腕から離れた。

この間までバイトではやたら近付いてきたり抱きついたりしてきていたのに、そういえば最近ぱったりとなくなったことに、今この瞬間、真春は気付いた。

バイトにあまり入っていなかったので気にしていなかったが、思い返すとそんな気がしてきた。

もしかして嫌われている…?

もしくは距離を置かれているか。

さっきの胸の高鳴りが一気に不安の胸騒ぎへと変わっていった。

そう思ってしまったら、そうとしか思えなくなってきてしまった。

会話も沈黙だらけだし、前以上に上手く話せていない気がする。

車に戻り、エンジンをかけて運転する香枝。

とりあえず来た道を戻る。

「真春さん?」

「えっ?」

「聞いてました?」

「ごめん…考え事してた。なんか言った?」

「どこ行きますー?って。どこがいいですか?」

「んー…どこ行こうか」

沈黙。

嫌われたくないという思いが必要以上に膨れ上がって、言葉が全く浮かんでこない。

「あ!」

そんな真春をよそに、香枝が思い立ったように声を上げた。

「お店行きましょ!」

香枝が提案したのは、2人がバイトしているファミレスだった。


ーーーピンポーン

お店のドアを開ける、入店を知らせるベルが鳴った。

「いらっしゃいま…あー!」

出てきたのは優菜だった。

「まはるん!香枝ちゃん!」

優菜に会うのは久しぶりだった。

週末しかシフトに入っていない真春は、なかなか彼女と会う機会がなかったのだ。

優菜は最近はほとんど平日ばかり働いている。

学校が忙しいとかなんとか言っていたのに、もう忙しい時期は過ぎたのだろうか。

週末は清水さんとデートか?

しかし、清水さんは他店舗の店長だしそんな時間はないだろうから、他の何かがあるのだろうか。

ここまで数秒で考えた後、真春は「久しぶり」と陽気なフリをして優菜に声を掛けた。

「ホントだよまはるん!全然会ってなくて寂しかった!てか、2人で遊ぶなんてずるいよぉー」

「あはは。今度は優菜もね。…今日暇そうだね」

真春は店内を見渡して言った。

お客さんは3組しかいない。

「金曜のわりにはね。こちらのお席にどうぞ!」

優菜に案内され、角にある窓側の席に着く。

メニューを受け取って黙って眺めていると「あたし今日はスパゲティ食べよっかな!あっ!新しいメニューが出てるー!こっちもいいなあー」と香枝が1人で喋っているのが聞こえてきて、真春はふふっと笑ってしまった。

「なんですか?」

「1人でずっと喋ってるから面白くて」

「すみません…」

「なんで謝るの?どうぞ、続けて」

真春が笑いながら言うと、香枝は「バカにしてる!」と怒ってふんと鼻を鳴らした。

「してないよー。すぐそう言う」

「だってバカにしてるように聞こえるんだもん!」

「してないって。香枝のいいところだよ」

「なんですか、それ」

香枝は何を考えているのか分からない表情をして、再びメニューに視線を落とした。

「真春さん決めました?やっぱカレーですか?」

「んー、せっかくだし違うのにしたいな。ドリアにしよっかな。あ、でもやっぱりうどん…待って、カニクリームコロッケ美味しそう」

迷っていると、注文のベルを押していないのに優菜が来た。

「決まったー?」

「あたしこれっ!」

香枝は明太子のパスタを指差した。

「え!いつの間に!ごめん、まだ決めてない!」

10秒悩んで、お肉の気分ではないとこの間言っていたくせに、結局ハンバーグにした。

優柔不断な時には店員に来てもらうのが一番効果的だ。

「ドリンクバー無料にしとくから、飲んでいいよー!って戸田さんが言ってくれたから、どうぞ!」

注文を終え優菜が去った後香枝と2人でドリンクバーへ向かい、各々飲み物を注いで再び席に着く。

香枝はメロンソーダ。

真春はウーロン茶。

清水さんがいた頃、メロンソーダを飲みながら休憩室で話していたことを思い出した。

あの頃、やっぱり香枝は清水さんが好きだったんだよね。

それは間違いないことなのだろうけど、結局誰も何も知らなくて、本当のことは香枝しか知らない。

そんなことより、何故ここに来ようと思ったのだろうか。

優菜が働いていると分かっていたはずなのに。

もう普通に接せられないと言っていたのに。

顔だって出来れば見たくないはずだ。

「やっぱメロンソーダですなー。ねー」

突然メロンソーダに話し掛ける香枝。

バカっぽい。

「香枝、メロンソーダ好きだよね」

真春は気持ちを切り替えて、今は香枝との時間を楽しもうとした。

「はい。美味しくないですか?あ、真春さんは甘いのあまり好きじゃないんでしたっけ」

「ううん。メロンソーダは好きだよ。メロンクリームソーダとかも好き」

「甘いのに?やっぱ真春さんの甘いものの好き嫌い難しい!」

「あれはいいの」

しばらく他愛のない会話をしていると、優菜が料理を運んできた。

「お待たせしました!明太子のパスタとデミグラスハンバーグだよー」

「おぉー!おいしそう!」

普段のまかないではしっかり盛り付けないので、お客さんとして出された料理はとても美味しそうに見える。

「ちゃんと食べてくださいね、真春さん。…はい、フォークとナイフ」

香枝からフォークとナイフを受け取り「はい」と噛みしめるように返事する。

「鼻血はもう平気なんですか?」

「うん、止まったよ!見る?」

真春がふざけて顔を上に向けると、香枝はケタケタと笑った。

「てかさ」

「…ふん?」

口をもごもごさせながら香枝が答える。

「優菜とちょっとずつ前みたいに戻ってきたみたいだね」

「あー…まあ」

パスタをいっぱい含んだ口は曖昧な返事をした。

言われたくなさそうな雰囲気だ。

真春はハンバーグを一口食べて香枝をチラッと見た。

「…なんですか?」

「なんかあった?」

香枝は黙ってパスタをスプーンの上で器用に巻いた。

そして、口に入れてゆっくりとそれを咀嚼した。

「言いたくないならいいんだけどさ」

言わなければよかった、と後悔する。

それから香枝はあまり喋らなくなってしまった。

カチャカチャと食器の鳴る音が必要以上に大きく聞こえる。

真春は息が詰まりそうになるのを堪えながらハンバーグを飲み込んだ。

お皿が空になった頃、香枝が口を開いた。

「実習、そんなに忙しいんですか?」

「うん。朝早いし、帰って来てからもずっと記録と次の日の予習だし。毎日必死だよ」

真春は力なく笑った後ウーロン茶を飲み干し、今受け持っている患者さんの話をした。

頑固な性格だということ、毎日怒鳴られること、点滴を引っこ抜かれたこと、少し心を開いてくれているらしいこと…。

この週末が終われば実習もあと1週間だ。

島倉さんの話をしていたら、実習が終わってしまうのが少し寂しいような気がした。

「解放されたいけど、でもちょっと寂しいよね」

真春は空のお皿を通路側に寄せた。

「3週間も関わってたらちょっと情が入っちゃいますもんね」

香枝も真春と同じく通路側にお皿を寄せた時、タイミング良く優菜が通りかかり「下げるね」と2つのお皿を持った。

「あ、香枝ちゃん」

「ん?」

「クリスマス、どこ行くか考えといてね!優菜も色々と候補考えとくから!」

いつもと変わらないハイテンションで言うと、優菜は笑顔で去って行った。

クリスマス?

1人クリスマスじゃなかったの?

いや、そんなことより…。

真春は香枝を見た。

香枝は目を合わせようとしてくれなかった。

変な空気が流れる。

秘密主義の香枝が、自分には少しだけでも心を開いてくれていると思っていた。

しかしそれは、ただの思い込みだったみたいだ。

そうであって欲しいという願望が強すぎて、都合のいいように自分の中で解釈していたに過ぎなかったのだ。

いつ、優菜のことを許したのだろうか。

優菜のことに関しては一切口を割らない香枝は、やはり優菜のことを特別な存在だと思っているに違いない。

優菜は香枝のことが大好きだ。

だけど、自分が思う好きとはきっと違うと思う。

だからこんなに顔色を伺うこともないし、嫌われたくないと思いながら一緒にいることなんてないから自然に楽しく過ごせるのだろう。

あんなに香枝のことが好きな優菜は、いつも香枝と何を話しているのだろうか。

口下手な真春にとって、饒舌な優菜は悔しいけど羨ましいと思ってしまう。

きっと香枝も話しやすいだろう。

ネガティブに取り巻かれ始めてから、真春は上手く話せなくなってしまった。

そもそも、普通に接せられないと言っていたのにクリスマスに遊びに行くだなんて、よく出来るもんだ。

香枝の考えていることが全く分からない。

怒りさえ湧いてくる。

「そろそろ帰ります?」

沈黙と途切れ途切れの会話を繰り返し21時を迎えた頃、香枝が言った。

「だね」

お会計を済ませて優菜の大きな声で見送られながら外に出ると、また冷たい夜風が頬を撫でた。

「お家まで送りますね」

「ありがと」

階段を降りて駐車場に停めてある車に向かうまで、真春と香枝は一言も話さなかった。

助手席に乗ってシートベルトを締めている間、香枝が真春の自宅にカーナビをセットした。

静かに動き出した車に揺られながら、対向車線の車のヘッドライトを目で追う。

カーナビの声だけが車内に虚しく響いた。

香枝は今、何を考えているのだろう。

自宅に着くと、香枝は「今日はありがとうございました」と優しく笑った。

「いいえ、こちらこそ。送り迎えありがとね」

真春はシートベルトを外して、ドアに手をかけた。

そして少し考えて、手を戻した。

「あのさ、香枝」

「はい?」

「言いたくないならいいよって自分から言ったくせになんなの、って思うかもしれないんだけど」

「…え?」

香枝の表情が強張った。

「優菜のこと許したの?」

「…」

「前に、もう普通に接せられないって言ってたのに…?」

『傷付けられたのに』と言いかけて、言葉を飲み込む。

「クリスマスも一緒に遊ぶみたいだし」

真春が言うと、香枝は少し考えてから口を開いた。

「んー…。なんていうか…もう怒ってても仕方ないかなって思って。でも結局、優菜には本当のこと言われてないですけどね」

「え?じゃあどうやって…」

「優菜が普通に話し掛けてきたんです。何事もなかったかのように、前と全く変わらない感じで」

「だから、もういいやって思ったんです」と香枝は続けた。

人の気持ちを弄ぶのも大概にしろと言いたいところだが、それが優菜なのだ。

何か言っても響くタイプではないだろう。

「クリスマスは、お互い彼氏いないし寂しいから一緒に過ごそうってなったんですよ。優菜に誘われてなかったらどうせ1人だし」

香枝の性格からして、誘われて断れなかったのだろうが、『香枝ちゃんの好きな人は清水さんだから』と言っていた毒女と過ごすクリスマスなど香枝にとって1ミリも得はないだろう。

「香枝は嫌じゃないの?」

「あはは、なんですかそれ。…嫌じゃないですよ」

「ならいいけど」

少し嫉妬と怒りの混じった声になってしまった。

気付かれていないだろうか。

「一緒に過ごしてくれる人がいたら、断ったかもしれないですけど」

香枝が独り言のように呟いた。

「今から合コンでも行く?」

「真春さんは彼氏いるからダメですよ」

真春の冗談に、香枝は優しく笑った。

「うそうそ。…じゃ、そろそろ行こうかな」

再びドアに手を掛けて、今度は迷わず外に出た。

運転席の方まで回り、窓を開けた香枝に「おやすみ」と言って手を振る。

「おやすみなさい」と手を振り返した香枝は、ゆっくりと車を走らせ、夜に溶け込んでいった。

部屋に戻った真春はコートも脱がずにベッドに倒れ込んだ。

そして仰向けになって考えた。

"一緒に過ごしてくれる人がいたら"

その言葉がぐるぐると頭の中を駆け巡る。

許されるなら、自分だってそうしたい。

でも自分には恭介という大切な彼氏がいる。

そんな大切な人がいるのにこんなに浮ついた気持ちを持っていていいのだろうか。

香枝が優菜と楽しそうにクリスマスを過ごす情景を思い浮かべると、なんとも言えない嫌な気持ちになった。

そして、あれだけ傷付けられても優菜と一緒にいられる香枝の神経に腹が立つ。

もしもこれが香枝ではなかったら真春はこんな気持ちにはならなかった。

香枝だから、こんなにたくさん考えてしまうのだ。

守ってあげたいと思ってしまう。

これまでたくさん傷付いてきたのを知っているし、なによりも、好きだから。

でも思うだけで、何もできずに終わってしまうのだ。

結局は、はたから見たらただのバイトの先輩だし、香枝にもなんとも思われていないのだから。

むしろ嫌われているかもしれないし。

週末、バイトで香枝に会うのが憂鬱になってきた。

いつになったらこの気持ちから解放されるのだろうか。

答えの見えない問題がぐるぐると駆け巡っているうちに、真春はそのまま夢の中へと誘われていった。

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