イエロー
香枝を見送り家に帰ると、真春は部屋に戻るなりベッドに身体ごと倒れ込んだ。
布団に顔を埋めて息を吸い込むと、脳が香枝の匂いと温もりを思い出そうとした。
1人になると走馬灯のように色々な場面が脳裏に現れ始めて、何故かひとつひとつが少しずつ美化されていく。
無心で昨日からの出来事を脳内でリピートさせていると、ベッドに埋もれていた携帯のバイブが鳴った。
手探りで探し確認するとゆっくりとしたイエローの点滅。
香枝からのメールだ。
真春は一瞬にしてそう思った。
香枝と毎日のようにメールをし始め少し経った頃…香枝のことを徐々に意識し始めた頃、彼女から来るメールを黄色いランプに設定した。
香枝からのメールだとすぐ分かるように。
黄色のランプが光るたび嬉しくなり、胸がキュッと締め付けられる。
メールを受信している時、香枝からだといいなと毎回思っていた。
やっぱり自分は、香枝が大好きだ。
でも、そんなことを思う自分に疑問を抱く。
これって同性愛だよね?
許されないことだよね?
友達としての"好き"ではないことに真春は気付いてしまった。
香枝の事を考えては妄想を繰り返してしまう。
香枝と一緒に寝ること、香枝に頬や唇にキスされること、香枝がバイトで抱きついてくること…。
恋人同士がするようなことを妄想していた。
でも、香枝はそんなこと望んでないよね?
自分のことは仲のいい先輩だと思っているに違いない。
『真春さん!今日はありがとうございました。真春さんのお家、また行きたいです!』
沈んだような初恋のような例えようのない複雑な気持ちで開いたメールは、お礼のメールだった。
バイトの時言えばいいのにと思いつつ、なんだかんだメールが来ることを密かに期待していた自分が情けなくなる。
『また来てね!いつでも大歓迎だよ』
真春は布団にうつ伏せになったまま返事を返して携帯を閉じ、ベッドに放り投げた。
再び布団に顔を埋める。
自分はどうしたいのだろう。
よくわからない。
今日これからどんな顔で香枝と会えばいいのだろうか。
誰か教えて。
そのまま眠ってしまっていた。
部屋が薄暗くなっていたので、まずいと思い時間を確認すると16時半だった。
シャワーを浴びてバイトに行く支度をし、少し早めに家を出た。
紺色と紫色が混じった夕空の下、自転車をゆっくりと漕ぐ。
18時15分前にお店に着いた時には、空は更に暗くなっていた。
「おはようございまーす」
真春はノロノロと事務所に入っていった。
「あ、真春さーんっ!おはようございます」
香枝はもう来ていた。
さっきと同じ顔、いつもと変わらない態度。
「おはよ」
やんわりと笑うその顔を見て、キスしたくなる衝動を抑える。
更衣室で着替えている時、足が震えている事に気付いた。
ドキドキして仕方ない。
どんな顔をすればいいだろうか。
さっきの反応、おかしくなかったかな。
着替え終わり、扉を開けると香枝がパソコンの前でシフトインしていた。
「あれ?もうそんな時間?」
「そうですよー。真春さん着替えるの遅すぎですよっ」
パソコンの時計を見ると、もう18時2分前だ。
緊張して動作が緩慢になってしまっているようだ。
「真春さんの分もやっておきますね」
香枝はそう言うと再びパソコンを操作し、今度は真春の名前でシフトインした。
「あ、ありがと」
「じゃ、行きましょっか!」
香枝はなんとも思ってないの?
こんなに浮かれて緊張して我を忘れそうになっているのは自分だけだ。
真春は両頬をペチペチと叩いて自分に気合いを入れた。
とりあえず、一旦忘れよう。
キッチンからホールに出ようと思ったその時、洗い場が荒れ放題になっているのが見えて、アイドルタイムの忙しさを物語っているようだった。
これはきっとディナーも戦争になるに違いない。
そう構えていたが、予想に反してお客さんは全然来なかった。
続々と早上がりさせられる中、戸田さんに「白石さんと永山さん、どっちか22時上がりでもいい?」と声を掛けられた。
そりゃそうなりますよね。
稼ぎたい気持ちはあったが、明日からまた実習なので真春は「あたし22時に上がります」と立候補した。
「悪いねー」
「いえ、全然。明日も実習なので、むしろ助かります」
「また実習かー。看護師さんになるのも大変だねぇ。頑張ってね」
「はい。ありがとうございます」
なるべく締め作業が楽になるように、使わないところから片付けをしながら戸田さんと話していると、香枝が口を開いた。
「真春さんと一緒にラストだと思ってたのにー。寂しいですよ」
香枝はいつもの穏やかな口調で言った。
「暇だから仕方ないよね」
あたしも寂しい、という言葉を飲み込んで真春は苦笑いした。
「次のバイトはいつですか?」
「んー…また週末かな?」
「そっか…」
分かりやすく落胆する香枝を見て、胸がトクンと疼いた。
香枝に触れて、抱きしめたい。
いや、ダメだダメだ、冷静になれ自分。
香枝はきっといつもと同じテンションで言っているに決まってる。
何か言おうと迷っていた時、お会計を告げる呼び出し音が鳴った。
「あ、行ってくるね。…戸田さん、このお会計済ませたら上がります」
「りょうかーい」
真春は逃げるようにその場から立ち去った。
香枝を目の前にすると、頭の中が真っ白になってしまう。
実習でまた少し期間が空けば、この気持ちはおさまるのだろうか…。
次の日の朝、また香枝から"今日も頑張って下さいメール"が来た。
脱ズボラをしたのか、それともあの夜言った言葉を守ろうとしているのだろうか。
今回の実習は大学の附属病院で急性期の実習だ。
運悪く、真春を小馬鹿にする大橋とまた同じグループになってしまった。
実習の後に図書館で本を借りて帰ろうとした時、早速絡まれた。
「白石、ほんとついてないよなー。あのリストの中じゃ一番ヤバい患者つけられちゃって」
「一番ヤバいってどういうこと?」
「超難しそうじゃん。既往歴多すぎだし、疾患も難しそうだし。先生が大丈夫かなーって言ってんの聞こえちゃったんだよね。確かに、すぐご臨終とかありえそうだもんな!」
なんて不謹慎なことを言うやつなんだ、と真春は呆れた。
看護師になろうとする人間が、これでいいのか?
いいのは頭だけだ。
思いやりも優しさのかけらもないクズ男め。
「白石が受け持ちとか大丈夫かよ。心配だわー」
「うるさいな。ほっといて」
真春は心の中で大橋を十分に罵った後「まじ最低なんだけど」と言ってその場から立ち去った。
帰りの電車で、真春は香枝にメールの返事を返した。
朝はなんて送ればいいかと考えているうちに返しそびれてしまったのだ。
『実習終わった!あたしお疲れ!笑』
『お疲れさまです♪お酒飲みたいよー』
『この間飲んだばっかりだけどね!でもあたしも飲みに行きたい!』
『また真春さん家で飲みたーい!』
『いいよ、来る?』
『いいんですか?やったー!』
そんなやり取りをして、また土曜日に真春の家で宅飲みをすることになった。
メンバーはこの間と同じ。
『未央にもメールしときますねっ!』
香枝とメールできただけで、また遊べると考えただけで、真春は幸せな気分になった。
口角が上がるのを抑えきれなくて、少し上がってしまったのを隠すように左手の甲をさりげなく口元に当てた。
翌日から真春は土曜日のために頑張った。
毎日目まぐるしく変化していく患者さんを受け持つ真春は、グループの誰よりもつまづいていた。
大橋にバカにされたこともあり、真春のイライラは倍増していた。
急性期ということもあり手術前後の患者さんを受け持つ学生が多いが、真春の患者さんは術後に合併症を引き起こす可能性が高いと言われていた。
そして、頑固な性格であり元々手術には反対していて、家族に説得されて渋々受けることにしたのだと、火曜日の夕方、実習担当の先生に言われた。
「白石さん、本当についてないわね。あ、そんなこと言っちゃダメね」
「…はは」
「明日、病棟に戻ってくる予定だから。頑張って」
「はい」
真春はその患者さんと術前から関わっていたが、それはもう絡みづらいおじいさんだった。
そんな会話をした翌日、無事に手術を終えた患者さんが集中治療室から戻ってきた。
患者さんは状態が不安定でまだリハビリも進んでいなかったが、口だけは達者でベッド上で暴言を吐いて周囲の人々を困らせていた。
翌日には点滴を引っこ抜いたり勝手にトイレまで歩いたりともはやお手上げ状態だった。
金曜日にはなんとか身体を拭かせてもらったり、先生の許可が下りて一緒に歩く練習をしてくれるようになったが、暴言は相変わらずだった。
おまけに状態が安定しない日々が続いており、勉強した術後の経過とは程遠かったので、毎日のカンファレンスでもみんなとは少し違った意見も多く、また大橋に「何言ってんだコイツ」と言わんばかりに鼻で笑われ、その度にイライラして散々な1週間だった。
先生の「白石さんの患者さんはちょっと難しいからね…」というフォローは優しさだったのだろうが、爆発しそうな真春には響かなかった。
そして土曜日。
「今日、未央来れないみたいです」
真春が休憩中にカレーを食べていると、1時間ずれて休憩に入ってきた香枝が携帯をいじりながら言った。
「えっ?そうなの?!」
「残念ですね」
香枝と2人きりで宅飲みをすることになってしまい、複雑な気分。
嬉しい反面、かなり緊張。
「うん…。どうする?来る?」
先週のオセロのくだりが脳裏に浮かび、とてつもなく気まずくなった空気を思い出した。
香枝はそんなこと思っていないかもしれないが、香枝のことを考えれば考えるほど、ネガティブな気持ちになってほしくなくてまた空回りしてしまいそうな気がする。
来てほしい。
けど、来てほしくない。
「うーん」
香枝は少し考えて「2人でもよくないですか?」と言った。
「お酒飲みたいし!真春さんも実習のストレス吹っ飛ばしましょ」
カラッとした笑顔を見せる香枝を見たら、割り切る他ないという気持ちになった。
構えているからおかしくなるのだ。
もっと楽に考えよう。
「だね」
真春は残りのカレーをゆっくりと口に運んだ。
急に違う味になった気がした。
今日のラストは泰貴だ。
あの最低な告白以来、香枝と泰貴は全くと言っていいほど話していなかったが、最近になって業務的なことを話すようになったのを何度か目にしていた。
戸田さんと泰貴に挨拶して22時に上がると、事務所では南と、もう1人の金髪の女子高生、汐里が何かの話で盛り上がっていた。
「お疲れー」
「あー、疲れたー」
真春と香枝は事務所に入るなり同時に言った。
「あっ、お疲れ様です!」
「なんかめっちゃ盛り上がってるね。キッチンまで聞こえてたよ」
真春が帽子とサロンを外しながら言うと「やっぱ、この店だったら真春さんだよね?」と汐里が意味深なことを口にした。
「なんの話?」
「恋人にするなら誰がいいかって話ですよ」
真春は耳を疑った。
それと同時に胸がドキドキし始めた。
驚いた目で汐里を見ると「なんすかその顔」と笑われた。
「ガチなわけないじゃないっすかー!いや、あのね、女子校だと女同士の恋愛って普通にあるって話をしてたんですよ。うち、女子校じゃないですか」
「あー…そうだっけ」
「この店もバイト女ばっかじゃないですか?そんで、この店だったら一番女にモテそうなのって、真春さんだよねって話をしてたんですよ」
南が言った。
「はは。なにそれ」
他人事ではない話をされて、動揺してしまう。
挙動不審に見えていないだろうか。
「香枝さんもそう思いません?」
そんなこと聞かないで!と言いそうになる。
真春はギョッとした顔を誰にも見られていないことを祈った。
否定されたらショックだし、肯定されたらそれはそれで、どうしたらいいのか分からない。
きっと、自分の気持ちが無駄に浮ついて叶わぬ淡い期待を抱くだけだ。
そして全て、妄想として完結していくのだ。
香枝の顔を見ることができなくて、真春は無駄にサロンを丁寧に畳んだ。
「たしかに!一番モテそう。サバサバ系でカッコイイなって思う時あるもん。でも可愛いところもありますよね?真春さん」
「へっ?!」
素っ頓狂な声が喉から出る。
変な冗談だろう。
本当のところはどうなのだろう。
話をただ合わせているだけなのか、なんなのか。
秘密主義の香枝の本心は、こんな薄っぺらい会話じゃ1ミリも分からない。
真春は「そういうのやめてよー。はは」と笑って誤魔化した。
「ラブレターとかもらったことあるんじゃないすかー?」
「え?あ…ないない」
「またまた〜」
実は中学の卒業式の日、帰り際に後輩の女の子からラブレターをもらったことがあった。
おまけにブレザーのボタンも要求され、あげたのだ。
陸上部だった真春は、毎日その女の子が友達と陸上部の練習を見学しているのを知っていた。
ある時、陸上部の後輩からその女の子が真春に好意を抱いていることを聞かされたが、普通に先輩として好きなのだと思っていたため特別気にはしていなかった。
しかし卒業式にもらった手紙には『レズ上等です』と書かれていて、この世にはそういうことが身近に存在するのだと初めて気付かされたのだった。
そんなことを思い出しながら女子高生2人の話に困ったように笑っていると、いつの間にか更衣室で着替えていた香枝が「真春さんどうぞ」と出てきた。
「ありがと」
更衣室でマウンテンパーカーとスウェットに着替えた後、ロッカーからリュックを出して帰り支度をした。
「てかまだ帰んないの?」
「なんかお尻に根っこ生えちゃったみたいっす」
2人はゲラゲラ笑っている。
これはラストまで居そうだ。
おそらく、南が泰貴のことを待っているのだろう。
汐里もそれに付き合っているに違いない。
「じゃあ、うちら帰るから。早く帰んなよ。お疲れ」
「おつかれーっす!」
元気な2人に別れを告げ、裏口から外に出る。
「うわっ!さぶっ!」
「寒いですねー。もう12月になりますもんね」
「おでん買ってかない?」
「いいですねー!賛成!」
おでんが冷めてしまうといけないので、真春の自宅近くのコンビニで買い物を済ませることにした。
自宅に向かうまでの間、真春は香枝と何を話そうかずっと考えていた。
先程の寒さも感じなくなっている。
「おじゃましまーす」
前回同様、四角いテーブルにコンビニで買った物を並べ、缶ビールで乾杯する。
今回もウィスキーをボトルで買った。
一緒に買ってきたコーラで割る予定だ。
真春はどうしていいか分からず、アルコール中毒になったかのようにビールの缶から口を離さなかった。
何話そう…。
そう思いながら、10分も経たないうちに缶ビールを空っぽにしてしまった。
「真春さん飲むの早すぎー!そんなにお酒欲してたんですか?」
香枝はおでんの大根を箸で切りながら笑った。
「そうみたい。実習で疲れてるしね!」
どうしたらいいのか分からなさすぎて、真春は今までにないハイペースでお酒を体に流し込んでいった。
一気に2缶分のビールを飲み干した真春は、窓を開けてタバコに火をつけた。
息よりも淀んだ色をした煙がゆっくりと夜空に吸い込まれていく。
「そういえばさ」
真春は深呼吸するようにもう一度煙を吸って、吐いた。
今日は、お酒の力でオープンになって秘密主義をお休みしてくれるだろうか。
「なんですか?」
今度はちくわぶを食べながら香枝がこちらを向いた。
「ヤスとはもう大丈夫なの?」
真春は煙を吐き出すと、タバコを持った左手だけ窓の外に出して香枝の目を見ながら言った。
香枝は一瞬考えた後「もう、どうでもいいです」と笑い、ビールを一口飲んだ。
「喋らないのも大人気ないかなって思って、バイトで会ったら『お疲れ』とかは言いますけどね。それと、なんか南と付き合ってるみたいだし…あたしにあんなこと言っといてすぐ付き合うってどういう神経してるんですかね」
「ね、ホント最低だと思うよ」
「昔からそうなんですか?」
「うーん…女絡みの噂は絶えなかったくらいにしか知らない。そんなに仲良かったわけじゃないから。いつも女子に囲まれてたような気がする。女子はみんな俺のもの的なね」
「へぇー。女タラシって感じですか?」
「あはは、そうとも言うかも。でも、女子もみんなヤスのこと好きそうだったよ」
吸い殻を灰皿代わりにしている蓋つきの缶コーヒーの空き缶に入れて窓を閉める。
「でも良かった。立ち直れたみたいで」
「あんな最低な男のことなんか、いつまでも気にしてられませんよ!」
香枝は缶に残っていたビールを一気に飲み干すと「おかわりっ!」と言って袋から3本目の缶ビールを取り出した。
プシュッと炭酸の弾ける音がする。
あまりお酒を飲まないと言っていた香枝がこんなに酒豪だとは思わなかった。
なんだか意外だ。
真春はコンニャクを食べながらちびちびとビールを飲んでは香枝をチラチラと見た。
なんか落ち着かないなぁ。
ビールの缶が全て空になり、一旦リビングにゴミを捨てに行くことにした。
「片付けがてら、グラスと氷持ってくるね」
「ありがとうございます」
暗い階段を降りてリビングへ向かう。
両親は眠ったようだ。
準備しながら今までの会話を思い出す。
変なこと言わなかっただろうか。
自分の発言に自信がない。
部屋に戻ると、真春はグラスに氷を入れてウィスキーとコーラをいい感じの割合で注いだ。
片方のグラスを香枝に渡す。
「あたしの方濃くないですか?」
「そんなことないよ」
何時間も経っているのにまだ胸がざわつくし焦りもあるものの、アルコールのせいか先ほどよりは大分マシになってきていた。
が、そわそわしてしまうのを察されないように、真春は再び窓を開けてタバコを吸い始めた。
「真春さんは、中学の頃はどんな感じだったんですか?」
「え?あたし?今とそんなに変わらないよ」
「あはは。変わらなさそうですね。てか、さっき汐里たちとラブレターの話してた時、嘘ついたでしょ」
真春は目を見開いて香枝を見た。
「なんで?」
「なんかどもってたから。真春さん、本当にいつも真っ直ぐで嘘がない人だから、変だなーって思ったんです」
更衣室で着替えていたはずなのによく聞いていたな、と真春はある意味感心した。
「バレたー?」
真春はふざけて笑うと、卒業式にラブレターをもらったことを話した。
少し酔っ払っていた真春はタバコを吸い終えると、机の引き出しから当時もらったラブレターを取り出して「これ」と香枝に渡した。
「えっ、いいんですか?」
「どうぞ。何年も前のだし」
真春は「なんでまだあるんだって感じだけど」と気まずさを隠すようにウィスキーを飲み干した。
香枝は受け取った淡いピンク色の封筒から紙を2枚取り出して読み始めた。
「真春さんへの愛がひしひしと伝わってきますね」
2枚目を読み進めると、香枝は「ホント、この子すごい」と言って真春に手紙を見せて笑った。
「『レズ上等』って書いてありますよ」
「これ家帰って読んだ時、どうしようかと思ったよ。でも何年も経って今思うと、可愛いよなぁって思う」
「え?それ、どういう…」
「あー、違う違う!レズがいいとか悪いとかそういうんじゃなくて…」
真春は香枝に誤解されたくない一心で言葉を遮った。
そして、なんでこんなもの見せてしまったのだろうと当たり前の後悔の波が押し寄せた。
しかし、もう後戻りはできない。
引かれたら引かれたで、それを受け入れるしかない。
「こうやって慕ってくれる子がいるって、嬉しいなぁってことだよ。香枝だって後輩にこんなこと言われたら、特に好きじゃなくても嬉しいでしょ?」
真春が言うと、香枝は「やっぱり真春さんは素敵です」と優しく微笑んだ。
「へ?」
「真春さんがそういう人だから、この子も真春さんのこと好きになったんだと思います。それに、真春さんもこの子の気持ちをちゃんと受け止めてて、本当に優しいなぁって尊敬しますよ。今のバイトだって、みんな真春さんのこと好きだし。…なんか嫉妬しちゃいます。その子にも、みんなにも」
嫉妬。
7割程アルコールでひたひたになった脳みそにその言葉がこだました。
自分の気持ちは今のまさにその『レズ上等』状態になりかけている。
このまま香枝を抱きしめたい。
ウィスキーはほとんどなくなり、お互いに視界や頭はぼやんとしているかもしれない。
明日の朝起きたら、こんなこと話したなぁ…くらいの感覚になっているかもしれない。
だったら、いいかな。
「なーんちゃって!こんなこと言ったら彼氏に怒られちゃいますね」
いつの間にか呂律の怪しい喋りになっている香枝。
「あ…。怒らないよ、優しいから」
そういうことじゃないだろ!と思いながら、おそろしい速さで減速していく思考回路を巡らせる。
やっぱり、ダメだ。
そんなことをしてはいけない。
香枝は自分のことを慕ってくれている、可愛い後輩だ。
真春はグラスに注いだウィスキーをまた少し飲むと、窓を開けてタバコに火をつけた。
寒いはずなのに、全然感じない。
タバコの味も、よく分からない。
カラメル色の苦味が胃の中で踊っている。
ニコチンが、酔いを助長させていく。
窓を閉めた時、ウィスキーのボトルが空になっているのを目にした。
残りを香枝がグラスに均等に注いでくれたみたいだ。
「飲むねー」
「真春さんも」
そう言った香枝の目は座っていた。
これだけ飲んだのだ。
当たり前だ。
「顔赤くなってますよ」
「え、うそ」
真春は両手で頬を触った。
ほんのり温かいような気がする。
「あまり顔に出ないタイプだと思ってたけどそうじゃないみたい」
「いつも大体赤くなるじゃないですか」
「そうだっけ?」
「そうですよ」
香枝はふふっと笑って最後のひと口を飲み干した。
真春も一気にウィスキーを流し込んだ。
携帯を見ると、午前2時。
なんだかんだ色々な話をして、こんな時間になってしまっていた。
「そろそろ寝よっか」
小さくあくびをした香枝を見て真春は言った。
布団を準備するのも面倒臭くなり、鼓動に合わせてズンズンと脈打つ頭でまた香枝と密着して眠ることをぼやんと考える。
最後に吸ったタバコのせいで、ひどく酔いが回ってしまったようだ。
夢より深い場所にいるような気がする。
部屋の電気を消し2人で1つのベッドに横になった時には、緊張も何も感じなくなっていた。
「眠いー」
しかし、香枝がそう言って真春の体を抱き枕のように腕と足で抱え込んだ瞬間、酔いが完全に覚めた。
予想外すぎる展開に、鼓動が速くなりすぎて吐きそうになる。
きっと香枝はひどく酔っ払っているに違いない。
「真春さん」
「ひ、へっ?!」
「真春さーん…」
香枝は真春の首元に頭を預けて「へへっ」と笑った。
「おやすみ」
おやすみと返したいところだったが、声が出なかった。
しばらくするとスースーと寝息が聞こえ始めたので、きっと朝起きてももう何も覚えていないだろう。
頭に響く鼓動が激しさを増し、胸がギューっと締め付けられる。
しばらくそのまま動くことができなかった。
胸が苦しくて、神経という神経が興奮して、体から火が出そうなくらい熱い。
どれくらいの時間が過ぎたか分からない頃、真春は香枝の腕と足を優しく振りほどき、香枝に背を向けて目を閉じた。
目が覚めた時にはもうお昼近くになっていた。
隣にはスヤスヤ眠る香枝。
そんなに大きくはないけど、黒目がちな可愛らしい目。
筋が通った高い鼻。
小さくて口角のキュッと上がった口。
いつも楽しそうにはしゃぐ姿。
誰にでも優しくて、すごく気が利く。
本当に可愛いし、本当にいい子。
その優しさや愛嬌はいつもみんなに平等に向けられていて、きっと真春もそのうちの1人に過ぎない。
しかし、自意識過剰かもしれないが、もしかしたらみんなよりは頭ひとつ分くらいは出ているかもしれない。
そうだといいと思う気持ちの裏で、もっと特別な何かを求めてしまう。
「んー…」
香枝がゆっくり目を開けた。
「おはようございます…」
「おはよ」
「眠い…だめだぁ…」
香枝はそう言ってまた寝始めた。
真春は香枝の顔を見ることができなかった。
「まだ寝てていいよ。コーヒー淹れてくるね」
足早に部屋を出てリビングに向かい、コーヒーを準備する。
お湯が沸くまで昨日の出来事を思い出していると、また心臓がボコンボコンと暴れ出した。
酔っ払い過ぎていて、細かいところはぼやんとしか覚えていない。
しかし、眠りにつく直前のことはしっかりと覚えている。
香枝は覚えているのだろうか。
あんなに抱き締められてドキドキしたのは初めてかもしれない。
恭介にすら、あそこまでドキドキしたことなどない。
そう考えると自分は最低な女だ。
そして、妄想は飽きるほどするくせに、嘘でもいざ抱き締められると何もできずにフリーズしてしまう。
そうされて、その先に何を求めているのか、自分でも分からない。
部屋に戻り、テーブルにマグカップとスティックシュガー3つ、ミルク1つを置く。
ついでにカウンターにあったラスクも持って来た。
「あ!コーヒーだあ!ちゃんとお砂糖とミルクもあるー」
コーヒーの匂いで香枝が目を覚まし、ベッドからのそのそと降りてきた。
砂糖とミルクを入れてかき混ぜ、ゆっくりと息を吹きかける香枝。
「あちっ。でもおいしー」
寝起きの香枝は「なんかちょっと二日酔いかも」とまだ少し眠そうな声で言った。
「あたしもこの間よりは具合悪いかも。結構飲んだしね」
「最後の方、眠すぎて色々とぼやけてました。あんな風になったの久しぶりです」
これは、覚えていないと解釈していいのだろうか…。
覚えていてほしいような、そうでないような、複雑な心境だ。
「あたし、大丈夫でした?変なこと言ってませんでした?」
「うん…言ってないよ」
真春は優しく笑って答えた。
覚えていないならそれでいいか。
中途半端な出来事に感情を左右されていたら、身がもたない。
偶然だったことにしよう。
しばらくした頃、2人はまたオセロを始めた。
香枝はどうやらこの間オセロをした時からハマってしまったらしい。
「また負けたー!真春さん強すぎ!もーやだ!」
香枝がブツブツ文句を言いながら石を回収する。
5戦行い、香枝が勝ったのはたったの1回だ。
「次来る時はもっと強くなってきますから!」
「お、強気だねー」
「あー、バカにしてるでしょ」
「うーん…してる」
「もうっ!」
香枝が真春の左腕を軽く叩く。
触れられるだけで、胸が高鳴る。
もう、どうしようもない病気だ。
「よしっ、今日はもうお開きにしますか」
「そうですね。また長居しちゃってすみません」
「全然いいよ。また来て」
「はい」
荷物をまとめた香枝に、ダッフルコートを渡す。
ほんのり優しい香りがした。
玄関を出ると、雲ひとつない青空が広がっていて、今日は快晴なのだと気付く。
また2人で並んで歩く。
日に日に寒さが増していっている気がする。
通り過ぎた畑の端に生えている草木はもう黄色く枯れていた。
冬の日差しを照らすアスファルトが、穏やかに見える。
静かな冬が、やってきている。
「あ!飛行機!」
香枝が突然、空を指差して言った。
「ほんとだー」
地面を見ていた真春も空を見上げる。
薄い水色の空に小さく見える白い粒。
ゆっくりに見えるけど、実際はすごく速いからなんだか不思議だ。
「いいな、飛行機。あたしも乗りたいなー」
「香枝、飛行機好きなの?」
「小さい頃、キャビンアテンダントになりたかったんです」
そう言った香枝は少し恥ずかしそうだった。
「そうなんだ。でも身長で諦めた?」
「正解です」
香枝は「なんかむかつく」と下唇を出してふてくされた。
その横顔を見て、幸せを感じた。
そんな11月の終わり。