クリア
10月になり、実習がスタートした。
真春は座学より断然実習派だ。
そう思っていたが、やはり気疲れするし、いくら体を動かすのが好きとは言え、毎日6時起きとそれに加え膨大な量のレポートをこなし、病棟ではバタバタと動き回るのはさすがにキツい。
あまり要領のいい方ではないので、その日のレポートと病態の勉強をするのに毎日深夜1時近くまで机に向かう日々が続いていて、ついにひどいクマができてしまった。
しかし、患者さんと関わると元気をもらえる。
この人のためにもっと勉強しなきゃ。
もっと勉強して、早く良くなるように援助しようと何度も何度も思った。
「ありがとう。若いのに偉いねー」と言われ、その度に嬉しくなる。
病棟の看護師さんも看てくれているが、学生なんかに「たくさん勉強して立派になるんだよ」と自分の命を預けてくれるなんて、どれだけ寛大なんだ…と頭が下がる思いだ。
だから、患者さんのために頑張らなければならないと真春は毎晩机にかじりつきながら思っていた。
しかし、実習はいいことばかりではない。
真春は半ばで挫折した。
受け持っていた患者さんの状態が急に悪くなってしまい、担当を外すかどうか先生と実習担当の看護師さんと話し合うことになった。
「白石さん、どうする?…って言われても困るわよね。朝来て急にこの状態だものね」
「ずっと受け持ってくれてたから、このまま受け持ち続けてもらってもいいんだけど、少し病態が難しいからね…。慢性期の実習なのに、急性期になっちゃうのが、ちょっとね」
看護師さんがうーん、と唸った。
なにもできない。
なにもわからない。
…でも、最後まで続けたい。
考えていた真春は気付いたら「受けもたせてください」と先生と看護師さんに頭を下げていた。
もう後戻りは出来ない。
やると言ったからにはやるのだ。
しかし、何故急変したのか全く分からない。
真春はその日、先生や看護師さんのアドバイスを受けながらカルテや参考書を見て勉強した。
家に帰っても、頭を抱えながら関連図を書いては参考書とメモ帳を開き、また関連図に書き込むといった作業を続けていた。
あまりにもややこしく、ついに何をしているのか分からなくなりかけて煮詰まった頃、香枝からメールがきた。
いつもと同じ小刻みのブルーのランプ。
『真春さーん!お酒飲みたいよー』
バイト仲間の間で何度か飲み会が開催されたことがあったが、香枝はあまりたくさん飲む方ではないことを真春は知っていた。
そんな香枝がお酒を飲みたいなどと言うのが珍しい。
何かあったのだろうか。
煮詰まってどうしようもなかった真春は疑問を抱きつつすぐに返事を返した。
『あたしも!今、実習で行き詰まっててさー。いつ飲みに行く?』
香枝からの返事は早かった。
勉強をしながら何度かやり取りをし、金曜日にバイト先の近くの居酒屋に19時に集合することになった。
『2人じゃさみしいので、未央も誘いません?』
『いいね!あまり誘いすぎてもバイトに入る人いなくなっちゃうから、今回はとりあえず3人でいっか』
『わーい!じゃああたし、未央に連絡しておきますね』
0時10分のメールを最後に、香枝とのやり取りは終わった。
金曜日を楽しみに真春はその週の実習をいつも以上に頑張った。
患者さんの状態はよろしくないが、徐々に快方に向かい始め、先生達からたくさんアドバイスをもらえてなかなか充実した週になった。
そして金曜日。
真春は実習先から帰宅するなり参考書や記録用紙が詰まったパンパンのプラスチックのケースを部屋に放って、急いで家から出ると、タバコに火をつけて自転車のペダルを漕ぎ始めた。
10月中旬の夜。
空気は澄んでいて、吸い込むと喉の奥が冷たくなる。
自転車を漕いでるからか、顔に当たる風がちょっと痛い。
タバコの煙に汚染された空気が肺まで入る。
横断歩道を渡って住宅街に差し掛かると、散った金木犀がびっしりと道路を埋め尽くしていた。
暗闇でもよく分かる、オレンジ色の道路とその香りにうっとりする。
なだらかな坂を下り、十字路を右に曲がったところが居酒屋だ。
赤提灯がゆらゆらと揺れているのが目に入る。
店の前に着いたが、辺りを見渡してもまだ2人とも来ていなかった。
脇に自転車を停め、サドルに跨ってぼーっとしたり携帯をいじったりしていると、遠くに自転車に乗った女の子が見えた。
だんだんと近付いてくる人物は見慣れた茶髪にやんわりとした笑顔。
「真春さぁぁーん!」
香枝だった。
「ちょっと遅くなっちゃいましたー。すいません。あれ?未央はまだ来てないんですか?」
「うん、まだ来てな…」
言いかけた時
「未央ー!」
香枝が叫んだ。
振り返るとスレンダーな女の子がカツカツとヒールを鳴らしながら歩いてきた。
「意外とみんな時間通りに来るんですね。あたし時間にルーズなんすよ」
あははと笑って未央が真春と香枝の間に入ってきた。
「じゃ、入ろっか」
真春を先頭に店内に入る。
「いらっしゃい!何名様で?」
威勢のいい店員の声。
3人と伝えると、テーブル席が満席でカウンターしか案内できないと言われた。
特にこだわりはなかったので、店員に案内された席に奥から真春、香枝、未央の順に座った。
ここの居酒屋の店内は狭く、席が少ない。
金曜日ということもあって、サラリーマンややさぐれた中年女性、学生など色んな人で賑わっている。
とても騒がしく、大きな声で話さないと聞き取りにくい。
「何頼むー?あたしきゅうり食べたい!あっ、でも唐揚げも食べたいなー」
香枝が興奮気味に言う。
「ねーねー、真春さん何食べたい?」
はしゃぐ香枝を見て、可愛いなぁと思いながら「何でも食べるよー」と真春は答えた。
こんな妹がいたらすごく可愛がるし仲良くするだろうな。
真春にはきょうだいがいないので、こんな兄や弟がいたら…姉や妹がいたら楽しいだろうなとよく妄想してしまう。
「何でも食べるんですか?じゃあレバーも?」
香枝は思いつきで言ったつもりだと思うが、真春はレバーだけは大嫌いだった。
「え…レバーはあんまり」
「何でも食べないじゃないですかー!」
真春の左肩をバシッと叩いて楽しそうに笑う香枝。
「じゃ、真春さん枝豆食べよ!」
食べる物ばかりをどんどん決めていく香枝に「とりあえず…飲み物頼まない?」と未央が苦笑いして言った。
初めの1杯は3人ともビールだ。
サワー系やカシスオレンジなどの甘いものは、真春は苦手だった。
引かれるほどビールを飲み続けるので、珍しがられることも少なくない。
お酒の飲み方がおっさんみたいだとよく言われる。
「かんぱーい!おつかれー!」
ビールが運ばれてくるなり、未央はジョッキを手に取り大きな声で乾杯の音頭を取った。
真春と香枝もジョッキを手にして、カチカチと合わせる。
キンキンに冷えたジョッキには少し霜がついている。
疲れた後のビールは最高においしい。
真春は一気に半分ほどビールを飲み干すと、タバコに手を伸ばした。
少し吸い込みながら火をつけるといつもとはちょっと違った味。
お酒飲むとタバコがなぜだかイイモノに感じる。
左手に持ったタバコからは煙がモクモクと上がり、香枝と未央の方に向かっていく。
「あ、煙ごめんね。席代わる?」
真春は2人に訊いた。
「ううん、大丈夫ですよ」
香枝が答えた後、未央が「実はあたし…」と何か言おうとしたので、2人で未央を見た。
「時々タバコ吸うんです」
驚いた。
穏やかで清楚なキャラだと思っていたから、タバコなんかとは無縁かと思ってた。
「そうなんだ。1本いる?」
真春は未央にタバコを差し出した。
「いいんですか?タバコ今高いじゃないですか」
「いーのいーの。未央になら何本でもあげるよー」
真春はヘラヘラ笑ってタバコとライターを未央に渡した。
香枝は「真春さん太っ腹~」と言って笑った。
話しているうちに、つまみや料理が運ばれてきた。
お通しのキャベツ、房に入った枝豆、きゅうり、ししゃも、鶏の唐揚げ。
全部香枝のセレクトだ。
香枝は真春に枝豆を剥いてお皿に乗せて「はい、これ真春さんの分!」と言って渡した。
「おー!ありがとー!」
灰皿にタバコを押し付け、ビールを一口のんでから箸で枝豆をつまむ。
やっぱビールには枝豆だなぁとおっさんみたいな事を思う。
適度に酔いがまわってきた頃、真春は香枝にずっと聞きたかったことを言おうか悩んでいた。
結局何も聞けていない。
でも、こんなところで言うのもかわいそうかな。
未央は何も知らないし。
香枝にとっては思い出したくないことかもしれないし…。
「真春さん?」
香枝に話しかけられてハッとなる。
タバコの先端が長い灰と化していた。
「なにぼーっとしてるんですか?考え事?」
「あー…うん、ちょっとね。ごめんね。あ、何の話だっけ?」
「悩み事?あたしでよければ聞きますよ?あ、もしかして彼氏のことですか?」
アルコールのせいで普段よりオープンになっているのか、香枝はいつもに比べて踏み込んでくる。
それならば…と思い、真春は意を決した。
「ここでこんなこと言うのもどうかと思うんだけど…。ずっと引っかかってたからこの際聞くね」
香枝と未央は緊張した面持ちでこちらを向いた。
「香枝、ヤスと何かあったの?」
一瞬の沈黙。
未央は本当に何も知らないので、キョトンとしている。
香枝はビールを一口飲んで「そうですよね、言わなきゃですよね」と言った。
「どういうこと?」
「優菜から聞いたんです。ヤスくんがあたしに告ってきた日、真春さんにもあたしたちが何してるか言ったって。でも、真春さんはそれから何も言ってこないし、次の日耐え切れなくて泣いちゃった時も、理由言わなくてもいいよって優しくしてくれて…困らせてたのに、何も言わなくてごめんなさい」
香枝がそこまで言うと、未央が「ちょっと待ってよー!」と言った。
「なになに?!ヤスさんと香枝ってデキてるの?」
「いや、逆」
真春が言うと、香枝が一部始終を話した。
あの日、好きでもないのにキスをされた香枝が激怒し、それからお互いに気まずくなってしまったらしい。
そこまでは知っていた。
翌日泣いてしまったのは、なんでこんな嫌な気持ちで働かなくちゃいけないんだ、とか、何事もなかったかのように楽しそうに仕事している泰貴がムカつく、とか、そもそも怒っている自分がムカつく、とか色んな感情が入り混じって涙が抑え切れなくなってしまったらしい。
真春は香枝に慰めの言葉をかけた。
話には南のことは一切出てこなかった。
おそらく、全く知らない話なのだろう。
詳細を知ってしまったら、いくら香枝でも穏やかにはいられないと思うし、それこそバイトを辞めてしまいそうだ。
遅かれ早かれ知ることにはなってしまいそうだが、その事には触れなかった。
「まだちょっと嫌だなーと思うことはありますけど、前よりはマシです。あー、話したらなんか楽になった!」
「よかった、よかった!嫌なことはお酒で流そ!」
未央が香枝の前にビールを置いた。
再び乾杯をして、真春と未央は香枝にエールを送った。
それから3人はガンガン飲み、ガンガン話し、真春はガンガンタバコを吸った。
お酒を飲みながらタバコ吸うと、酔いがまわるのが早い。
ビールを何杯飲んだかも分からなくなり、ベロベロに酔っ払って視界もだんだんおかしくなってきた。
香枝も未央も目がすわっている。
もう何時間話しただろうか。
3人は完全に出来上がっていた。
しかし、話は止まらない。
香枝は「あたしあんま酔わないんです」と言っていたくせに、今は呂律が回らないくらい酔っ払っている。
「真春さーん…。まーはーるーさーん!」
ベロベロになった香枝が真春にしがみついた。
一瞬、心臓がドクンと脈打った。
「香枝、大丈夫?もう顔やばいよ?」
自分も大丈夫ではないが、あまりにも香枝が酔っていたのと胸が高鳴ったのとで、ふと冷静になってしまった。
「だいすきー!」
答えになってない返事をし、香枝は真春に抱きつく。
「久しぶりに飲んだから、飲み過ぎちゃったー」
香枝はえへへーと笑って上目遣いで真春を見つめた。
「…香枝、酔いすぎ」
真春は笑って香枝を体から離した。
酔いすぎて鼓動が速いのだろうか。
それとも…。
「香枝、大丈夫?そんな飲んだっけ?」
未央はお酒に強いみたいで、騒ぐわりには一番冷静だった。
「ラストオーダーの時間になりますけど、ご注文ございますか?」
店員に声を掛けられるまで気付かなかった。
あれだけいたお客さんはいなくなり、残っているのは3人だけとなっていた。
そんなに時間が経っていたのか。
楽しかったからあっという間だった。
お会計を済ませて3人は居酒屋を出た。
「おねーちゃんたち、気を付けて帰んなね!」
最初に席に案内してくれた店長らしき人が声を掛けてきた。
ハイテンションな3人は「あざーす!」と言って自転車を停めてあるお店の脇に向かった。
香枝はずっと真春の腕にしがみついている。
「真春さーん」
「ん?」
「楽しかったねー!」
香枝はケタケタ笑った。
完全に酔っ払いだ。
でもなんだか無性に可愛くて、心が温かくなって、キュンとした。
居酒屋を出てからも寒空の下、3人はずっとしゃべっていた。
何を話したいとかではないが、ただただしゃべり続けた。
酔っ払って火照った体には、10月中旬の夜の空気はとても気持ちよかった。
香枝は相変わらず真春の横でベロベロに酔っ払っている。
「もぉー、香枝!そろそろ帰らなきゃだよ?チャリ漕いで帰れんの?」
「だーいじょぶだってー!」
「大丈夫じゃなさそう」
未央と香枝がやり取りしてる。
「香枝、酔っぱらうとかわいーなぁ」
未央が「妹みたい」言う。
「えー!えへへー!でも酔っ払った真春さんめっちゃかわいかったー!ね?」
「え!あたし?」
「だって甘えてくるんだもーん!」
酔っ払った香枝にキュンとしたから甘えてみたくなったのは事実だった。
でも、そうなってしまうのはどの飲み会でもそうだ。
酒に酔うと、自分でもびっくりするほど甘えたくなるみたいだ。
「うるさいなー。たまにはいいじゃん」
「ほらほらー!かわいいー!」
「香枝ちゃんのがかわいいよー」
そのノリで真春は香枝のほっぺに掠める程度のキスをした。
本当に可愛くて可愛くて仕方がなかったから、してみたくなったのだ。
「きゃああああ!真春さんにチューされたー!」
香枝がキャーキャー言って笑っているのを見て、真春と未央は爆笑した。
会話がプツンと切れた頃、誰からともなく「そろそろ帰ろっか」と言葉が出て、おひらきとなった。
「ばいばーい」
2人に別れを告げ、自転車のペダルを漕ぎ出す。
帰り道、途中でタバコに火をつけた。
身体はまだ火照っている。
お酒のせいなのだろうか。
タバコと夜の空気を一緒に吸い込む。
あたし、香枝のこと…。
いや、まさか。
キュンとなる胸に気付かないフリをした真春は、再び自転車のペダルをのろのろと漕ぎ出した。
吸い込んだ夜の空気はタバコの煙と一緒でも、どこかクリアに感じた。