決別とノーマルな関係
ゴールデンウイークが過ぎた頃、オープニングスタッフの何人かが辞めた。
初日の研修で同じグループにいたリナもそのうちの1人。
たった2ヶ月の間に他店舗の社員とイケナイことをしたとかしないとか。
真春はギャルってそんなもんなのかなと偏見を持ちつつ、ファミレスのバイトを続けている。
オープニングスタッフということもあって、この店のみんなはすごく仲がいい。
スタートが同じだからコミュニケーションも取りやすいし、みんな面白くていい人ばかりで、真春は毎日楽しいバイト生活を送っていた。
「真春さん、お疲れ様でしたー!」
「うん、お疲れ」
22時になり、締め作業する真春以外のバイトの子達が上がる。
「真春さん、お先に失礼しますね。ラスト頑張ってください!」
「ありがと、頑張る。おつかれ」
香枝も今日は22時までだ。
「香枝ちゃーん!一緒に帰ろ!」
キッチンの奥にある事務所に向かおうとする香枝に小走りで近づき抱きつく、香枝より少し背の高い子。
高校3年生の賀来優菜だ。
彼女と香枝はもう一番といっていいほど仲が良い。
いつもこんな感じでベタベタしている。
優菜はオープニングスタッフより1ヶ月あとに新しく入ってきたが、すぐにみんなと打ち解けた。
誰にでも笑顔で接してくれるし、明るくて話しやすい。
が、少し図々しいところがあり、既に店長の清水さんと怪しい関係と噂されるスキャンダラスな彼女をあまりよく思わない子も中にはいるみたいだが、今のところは上手くいっている。
一部では、清水さんとの関係は優菜の一方的な気持ちに過ぎないという噂だが、どこまでが本当なのかは誰も知らない。
香枝と優菜は家が近いらしく、上がる時間が同じ日はほとんど一緒に帰っているみたいだ。
「香枝ちゃん今度遊び行こーよ!優菜、行きたいとこあるんだ!」
ほんと仲良しだよなーと2人の会話を聞きながら真春は締め作業を続けた。
デシャップ台をダスターで拭き、散らかったソースのボトルを綺麗に隅に並べる。
「まはるん、ばいばーい!」
優菜がでっかい声で叫ぶ。
真春のことを「まはるん」と呼ぶのはこの店で優菜だけだ。
変なあだ名をつけられてしまった。
高校生のくせに、大学3年生に向かってタメ口か!と思ったが「うん、ばいばい!」と笑顔で返事した。
「しみちゃんまたねー!」
また優菜のでっかい声。
「じゃーな」
清水さんは翌日の仕込みで忙しそうにしながらぶっきらぼうに返した。
「しみちゃんつめたーい!もういーもん!香枝ちゃん帰ろ!」
優菜は口ではそんなこと言うけど、清水さんと話せたことが嬉しいみたいで、ずっと笑顔。
「お疲れ様でーす」
香枝と優菜が帰って行く。
裏口のドアがバタンと閉まる大きな音がした。
0時。
締め作業を終えた真春はさっさと帰る準備をした。
更衣室でスウェットとパーカーに着替える。
「おい白石、もう帰んの?」
裏口から出ようとすると、まだ仕込みをしている清水さんの声がキッチンから飛んできた。
「帰りますよ、明日学校ですもん」
「えー!俺が終わるまで待ってて」
面倒臭い絡み…若い店長はこれだから嫌だ、と真春はイラッとした。
清水さんはエリア内の店長の中でも一番若い24歳。
見た目も話し方も、何もかもがチャラチャラしている。
触りすぎってくらい髪を触り、常に前髪のポジションを気にしすぎていて、事務所には清水さん専用のワックスが置かれているほどだ。
蓋にはマジックで「清水専用」と優菜の字で書かれていて2人の関係を疑いたくなるが、多分これは優菜の一方的な行いだと真春は思っていた。
「待ちません、じゃ、お疲れ様でーす」
「なんだよー。気をつけて帰れよー!」
真春は清水さんの言葉を無視して強引に帰った。
優菜は清水さんのこういう構ってちゃんなところを気に入っているのだろうか。
真春は、今の状況、優菜だったら絶対喜んで待ってただろうなと考えながら夜道を自転車で駆け抜けた。
残務をする清水さんを置いて家に帰ったあと、真春はベッドの上に体を放った。
ふと携帯に目をやるとランプが小刻みに点滅した。
色は青。
バイトの人からメールだと分かる。
携帯の機能にグループごとにメールを受信した時に光るランプの色を設定できる機能があり、バイトの人は青に設定したのだ。
他にも、大学の友達は緑、家族は白などと設定している。
明日代わって下さいというメールかなと思いながら真春は携帯を開いた。
【新着メール1件 永山香枝】
香枝からのメールだ。
出会ったその日、香枝とは連絡先を交換していてたまにくだらない内容のメールをすることがあった。
『真春さん!ラストお疲れ様です!今日めっちゃ混みましたね~。明日もバイト入ってますか?』
やっぱり、いつものような、なんてことない内容だ。
『おつかれ!今日は疲れたねー。明日もバイトだよ!』
テキトーに返事を返すと、またすぐ返事が来た。
香枝とは回数は少ないものの、バイトの事だけでなく色んなことをメールでやりとりしていた。
香枝にはもう1年付き合ってる年上の彼氏がいること、自分と同じ血液型だと思ってたら違ったこと、学校のこと、将来のこと…。
『真春さんと同じ血液型だと思ってたー!だってめっちゃ気が合うし!』
『残念でしたー(笑)そんな風に思われてたんだ!』
『思ってましたよ!それと、真春さんはあたしの憧れです!なんか、いいなって思います』
いつだかにそんなやり取りをした時、香枝が自分のことちょっと慕ってくれていると知って一瞬胸が高鳴るのを感じた。
今夜も香枝からメールが来て、その時のことを思い出して、少し嬉しくなった。
翌日は、学校から帰ってきてからのバイトだった。
「真春さーん!おはよーございますっ!」
18時に出勤するなり、香枝が満面の笑みで飛びついてきた。
「おはよ。香枝めっちゃ元気じゃん」
「だってー真春さんとバイト一緒なんだもん!」
嬉しいことを言ってくれる香枝に、真春は自然と笑顔になった。
いい子だなぁ。
「あ!まはるーん!おはよーぅ!」
キンキンした大声がパントリーから聞こえてくる。
今日、優菜もいたんだっけ。
「おはよ。優菜はいつもうるさいなぁ」
真春が笑いながら言うと「まはるんひどーい!優菜うるさくないもん!」と優菜は頬を膨らませて真春の肩を軽く叩いた。
香枝はいつもこの子と一緒にいて疲れないのかな、と疑問に思う。
自分にはこのテンションにずっと付き合うのは絶対に無理だ。
香枝も大変だなぁと思いながらホールに出る。
客はまばらで窓から外を見ても入店してくる気配はない。
「お客さん、来ませんね」
真春が裏に戻ると香枝がデシャップで意味もなく大葉を揃えながら言った。
「ね。ゴールデンウィークも終わっちゃったしね」
結局この日は非常に暇で、仕事にも気が入らなかった。
優菜は清水さんとキッチンで終始いちゃついていた。
と言うより、ほとんど優菜がちょっかい出してるだけだ。
真春は香枝の隣でシルバーを拭きながら2人をぼーっと眺めていた。
清水さんも清水さんでチャラいので、まんざらでもない感じでなんだか楽しそうにしている。
しかし、当たり前だがこの会社は社員とバイトの恋愛は禁止されている。
お互いに分かっているはずだろうけど、好きになってしまったらそのお熱は完全には冷めないだろう。
むしろ、掟破りの恋で燃え上がるかもしれない。
そんな事を考えてるうちに22時になった。
今日は香枝と2人でラストまでだ。
暇だから1人上がらされるかと思ったが、清水さんが仕事が山積みだと言ってパソコンの前から動こうとせず、2人で全て締めることになった。
「お疲れー!」
優菜が帰ったのは23時近く。
事務所で清水さんとしっかりラブラブしていたのは、キッチンからよーく聞こえていた。
清水さんに働けよと言いたいところだったが、香枝と黙々と作業を進め、早めに締め終わったのでイライラも少しはマシになった。
「あー、疲れた!なんか暇疲れしちゃったね!」
「ほんと今日暇でしたね!」
香枝と話しながらホールを回って最終チェックをする。
お客さんももう来ないので、サロンと帽子を外してゆったりした格好でいられる。
「あたし、彼氏と別れようと思うんです」
窓際の6人席の呼び出しボタンを置き直していた時、突然香枝が言った。
「へ?」
突然すぎて真春は変な声を出した。
「なんでいきなり?最近上手くいってないの?」
香枝曰く、彼氏が遠くに転勤することになったらしく、2、3年で戻ってこれるかもしれないけど、そんなに待つのもなんかなあ…と考えてしまっているらしい。
よく考えれば考えるほど、待てる自信もないし、そもそも待つほど好きではないかもしれないと思い始めていると。
「だから別れようかと思って。なんか微妙なんですよね、気持ちが。それにこんな中途半端じゃ彼氏にも申し訳ない気がして」
真春は「そっか…」としか言いようがなかった。
でも、どことなく悲しそうな目をしている。
本当は寂しいんじゃないのかな。
「真春さん」
「ん?」
「髪の毛、あとついてますよ」
香枝が笑いながら真春の右のもみあげを指差した。
「え、うそ」
真春は左手で自分の髪の毛に触れた。
帽子を被っていたから変な風に抑えつけられていたみたいだ。
美容院に行ったばかりで綺麗なマッシュショートだから、なおさら目立ってしまう。
「はは、ほんとだ」
何故か、笑い方がぎこちなくなってしまった。
微妙な雰囲気のまま2人は事務所へ戻り、店をあとにした。
翌日、真春はまたラストまでバイトだった。
今日は泰貴と一緒だ。
栗田泰貴は同じ中学の同級生で、この店で偶然再会したのだ。
中学の頃からクラブチームでサッカーをしてたサッカー大好き少年だった泰貴は、今は大学でフットサルをしてるらしい。
清水さんは泰貴のことがお気に入りで、よくバイト終わりにラーメンを食べに行ったりしている。
そして泰貴は、香枝と優菜と仲が良い。
ほぼ一方的に優菜が絡んでいるだけだが、泰貴もノリがいいので3人でよく遊びに出掛けている。
ノリノリでチャラい清水さんも加わり4人でご飯を食べに行くことも多いらしい。
真春もたまに誘われるが、清水さんのノリが苦手でいつもなんだかんだ理由をつけて断っている。
入口の看板を"Close"に変えて鍵を閉めたあと、真春と泰貴は事務所でくつろいでた。
「まさかヤスとここで再会するとは思わなかったよねー」
「ははっ、俺も思った。でも白石全然変わってなくて良かった」
「なにそれ」
「えー、いるじゃん。中学の頃の面影なんか全くなくて、あれ?こんな顔だったっけ?みたいなやつ」
「あははは、なんか分かるかも」
泰貴は、昔から爽やかな笑顔と話しやすい雰囲気で、女子にとても人気があった。
恋愛の噂もちらほら聞いていたが、いつも違う女子との噂だった。
真実はどうだか知らない。
2人で話していると、泰貴の携帯に電話がかかってきた。
「もしもし……香枝?どーしたの?」
短い会話の後、泰貴の顔が急に曇った。
「うん…うん、そっか、頑張ったな」
泰貴は困ったような顔をしている。
「ん?今日は白石とだけど。…うん、ちょっと待って」
真春はシフト表から顔を上げて泰貴を一瞥した。
はい、と携帯を渡される。
「香枝が真春さんに代わってって」
真春は泰貴から携帯を受け取って探るように口を開いた
「もしもし?か、香枝?」
『真春さーん!!うぇーん。…うっうっ』
状況が飲み込めず、泰貴に目で助けを求めるが、「聞いてやれ」とでも言うように顎でクイッとやられた。
「香枝、どーしたの?なんかあった?」
『彼氏にっ…別れようって…っ、…言ったのっ…うっ…』
そういうことか。
それにしても、昨日の今日でよく言えたな。
相当辛い決断だったに違いない。
「そっか。辛かったね…」
上手く言葉をかけられない。
これが精一杯だった。
『…うっ、うっ……電話かわってもらって、ごめんなさいっ…真春さんの声聞いたらなんだか安心して、涙が出てきちゃいました…っ』
「あは、ありがと。大丈夫?…じゃなさそうだね」
しばらく話して、泰貴に携帯を返した。
泰貴は香枝とまた少し話をしてから電話を切った。
「香枝、なんだって?」
「あたしの声聞いたら安心したって」
「ははっ。香枝って本当に白石のこと好きだよな」
「普通じゃない?」
「でもこの間香枝が、白石のこと一番好きだし、気が合うって言ってたよ」
「うっそー。優菜と一番仲よさそうに見えるけどね」
「あー、優菜からの一方的なすげー愛ね!」
泰貴は困ったように笑った。
「いーじゃん。人に好かれるってすげーいい事だと思うよ」
他人にも自分のことそんな風に話しているのか。
一昨日といい、今日といい、なんか調子狂うな。
あれから数日、香枝は元気がなかったが、徐々に立ち直ってきているようだった。
真春は香枝と会っても気にかける言葉や慰めの言葉はかけなかった。
香枝が自分から何か話すまではそっとしておこうと思っていたのだ。
優菜は知っているのかそうでないのかは分からなかったが、いつもと変わらずハイテンションで香枝に絡み続けていた。
そして、清水さんとも相変わらずの関係だった。
じめじめした6月の空気をそのまま持ち越した7月に入る頃には、香枝の心の傷もほとんど癒えていた。
学生はもうすぐテスト期間となる。
真春もテストに向けて勉強に励んでいたので当然バイトなんて入っていなかったが、テスト1週間前の日曜日、1回だけバイトを入れた。
「真春さんバイト久しぶりですよね!最近全然入ってないですけど、学校忙しいんですか?」
忙しすぎるランチを終え、山積みになった食器を拭きながら女子高生、宮島奈帆が言った。
奈帆は真春が通っていた高校と同じ高校に通っている。
学生生活は被っていないが、可愛い後輩だ。
赤みがかった茶色のショートカットが天然パーマのせいで赤毛のアンをイメージさせる。
色白で日本人離れした顔をしているから尚更だ。
「うん、単位落とすと実習行けないから、今回はまじで頑張んないと…。でもテスト終わったら夏休みだから!それまで頑張る!」
真春はこれまた山積みになった鉄板を金タワシで擦りながら奈帆に言った。
「実習かぁ。看護って大変なんですね…。そういえば未央さんも看護ですよね?」
奈帆が洗い場で食洗機に食器を並べている、黒髪をキレイにまとめた女の子に言った。
「そーだよー。もうすでにやめたーい」
真春と奈帆は未央の発言に笑った。
中条未央は、真春と同じで看護師を目指しているひとつ年下の子。
大学は違うが勉強や実習のことなど色々共通することがあるから、よく話す。
身長が170センチと高くモデルのような容姿で、どんな男も落とせそうな整った顔。
小悪魔系と勘違いされやすいが、性格はおっとりしている癒し系。
こんな人に看護されたいなぁと思ってしまうほどだ。
「もう勉強いやです…。書くこと多すぎ」
3人で話しながらランチで荒れ果てた洗い物やなんやらを片付けていると「真春さーん!」とニコニコしながら香枝が近づいてきた。
「今日は一緒にラストですねー!」
今度は後ろから抱きつかれた。
「そーだったっけ?頑張って終わらそーね!」
「はーい!」
元気に返事をすると、香枝はホールで呼び出し音が鳴ったので行ってしまった。
「香枝、ホント真春さんのこと好きっすねー」
未央が言う。
「へ?そう?いつもあんな感じでしょ?」
「そんなことないっすよ、真春さんだけですって!真春さんいないと香枝、あんなんじゃないですよ」
「ふーん」
「真春さんとバイト一緒だとテンション上がるーって言ってましたよー」
今度は奈帆が言った。
「まー、真春さんはみんなに好かれてますからね!仏様のようですから」
「なにそれ!おだてても何も出ないよ」
真春が冗談を飛ばすと、未央と奈帆は声を上げて笑った。
2時間の休憩から上がって気合いを入れて戻った17時。
既に満席に近くなっていた。
そこからディナーはひどく混んだ。
ただでさえ忙しいというのに、事件は起こった。
オーダーはほとんど香枝と真春が取っていたが、あまりシフトに入らない高校生、大野南がオーダーミスを連発し、謝りながら泣き出してしまったのだ。
しかも19時という忙しさのピーク時に。
残念なことに、清水さんのイライラもピークだ。
「ご…ごめっ…なさいっ…」
真春が洗い場でとりあえずシンクにお皿をぶち込んでいた時、デシャップの担当だった優菜が「ほんとしっかりしてよー!」と苛立った口調で言うのが聞こえた。
優菜は忙しい時、率先してデシャップをやりたがる。
悔しいけど仕事はできる方なので、正直忙しい時にそこのポジションなのは助かる。
しかし、清水さんと一緒にイライラして空気を悪くするのはいかがなものかと真春は思っていた。
お前は何様なんだ?とたまに思うこともあるほどだ。
案の定、今日も2人でイライラして南のオーダーミスで更に空気が悪くなった。
優菜がネチネチ何か言っているので、真春は少し洗い物を片付けようとしていたが、南をパントリーに連れ出した。
「南、オーダーあたし打ち直すから。落ち着いたら、洗い場お願いしていい?」
「す…すみませんっ…」
「大丈夫だよ、気にしないで。…ホラ、お客さんに心配されちゃうよ?」
真春が笑いながら言うと、南は「すみません」とまた謝った。
南には洗い場を任せてホールに出ると、香枝が「南どうしたんですか?」と言ってきた。
真春が一部始終を話すと、香枝は苦笑いした。
「優菜っていつもそう。自分が少し仕事できるからって…あ」
「香枝がそんなこと言うの意外」
「へへへ。今のは内緒ですよ」
「はいはい」
香枝もそんな風に思うことあるんだ。
真春は微笑んだ香枝からしばらく視線を逸らすことができなかった。
22時を過ぎて客がまばらになっても、キッチンは大荒れだった。
片付けが全く進んでいない。
急遽、泰貴もラストまでとなった。
22時までのスタッフは事務所で少しおしゃべりした後、みんな揃って帰っていった。
帰り際、南に「白石さん、ありがとうございました」と言われた。
「へ?」
「色々とフォローしてくれて…。最後まで気にかけてくれたの白石さんだけです」
「いやいや…。ミスは誰だってするって。今日は負のループ過ぎだったけど。元気出しなね!」
真春は笑いながら南の肩をポンと叩いた。
「ありがとうございます。じゃ、お疲れ様です」
「うん、おつかれ」
ペコっと頭を下げた南を見送って、真春はお座敷席の掃除に取り掛かった。
全てが終わったのは0時を超えてからだった。
「あー疲れたー。無理ー」
今日は忙しかったから、と清水さんが好きなドリンクバーを飲んでいいと許可してくれた。
メロンソーダを片手に、真春は事務所のテーブルに突っ伏した。
「ホント、疲れましたねー」
香枝もメロンソーダだ。
清水さんはまたやらなきゃいけない仕事を最後まで残してキッチンでひとりでヒーヒー言っている。
泰貴も手伝っているようだ。
「今日は特に疲れた」
真春は伸びをしたあと、ぐちゃぐちゃにしたサロンを畳みながらため息をついた。
汚れているはずなんだろうけど、黒でよくわからない。
「真春さん、南のことすごい気にしてましたよね」
「だって清水さんと優菜がずっとネチネチ言ってるんだもん。誰もフォローしないし」
「あれは良くなかったですよね」
「忙しいのはわかるけどさー…。雰囲気悪くなるのだけは勘弁してって感じ」
真春は、あははーと笑ったあと、メロンソーダを飲み干した。
そして、丸めたため息をついた。
「忙しさは人を怖くしますね」
「ホントそれ」
「でも真春さんは平和主義だから、いてくれるとほんわかしますよ」
「はは、なんだそれ。でも確かに平和主義かも」
重い腰を持ち上げてロッカーからパーカーを取り出し「帰ろっか」と真春が言うと、香枝は黙った。
「コップ」
「ん?」
「コップ洗ってきますよ」
香枝はテーブルに置き去りにされたコップを持ってキッチンに向かった。
「なんだよ香枝。まだいたのかよー」
キッチンから清水さんの声が聞こえる。
「いましたよー」
「早く帰れよー!」
「ひどーい!」
キャッキャとはしゃぐ3人の声が聞こえる。
最近、帰ろうと言っても一向に香枝は帰ろうとしない。
清水さんの仕事を手伝ったり仲良さげに話してたり、やたらと清水さんの側にいたがる。
香枝は誰とでも仲良くするし、いつも楽しそうだ。
誰にでもやんわりと笑って、誰からも好かれるタイプ。
それに世話好きだから、構ってちゃんの清水さんは香枝の好きなタイプなんだろうな。
優菜といい香枝といい、物好きな人もいるものだ。
「香枝、あたし帰るよ?」
真春はリュックを背負い、キッチンに顔を出した。
「え?…うーん」
何か迷っている香枝。
清水さんの側にいたいんだろうな…となんとなく悟った真春は「じゃーね!」と言ってそそくさと帰った。
時刻は午前1時。
勉強…してない。
1週間後、なんとか勉強を間に合わせ臨んだテストはどれもボロボロだった。
学校の友達に「勉強してんのー?」と、からかわれるくらい真春は頭が悪い。
テスト前はいつもギリギリ追い込み型で、当日になって「もっと早く取り掛かればよかった」といつも後悔するのである。
案の定テストの点数は悪かったが、なんとか単位を落とさずに済み、無事に後期からの実習に行けることになった。
今回のテストが終わって座学の終了に多少悲しみを感じたものの、解放された気分になりすっかり頭と心は夏休みモードに入った。
7月下旬の土曜日、久しぶりに17時からシフトに入っていた。
2週間ぶりのバイトだ。
「おはよーございまーす。やっとテスト終わったー!」
真春は出勤するなり、喜びを噛みしめるように言った。
「もう夏休みっすか?」
真春と入れ替わりで上がる奈帆が、帽子を外しながら言った。
赤茶色の髪の毛は、見ないうちに金髪に変わっていた。
先生に怒られないのだろうか。
「うん、明日行ったらおしまい!」
「大学生は夏休み長いからうらやましーなー」
「2ヶ月近くあるからね!でも終わったら実習だから…」
真春が言いかけた時。
「まはるーん!早く飲み行こ!」
優菜が左腕にガシッとしがみついてきて、奈帆との会話がぶった切られた。
「わ!びっくりした。高校生のくせに飲み行こうとか言うんじゃないの」
「いーじゃーん」
今日の優菜はいつになくテンションが高い。
その時、真春は奈帆の表情が一変したのを見逃さなかった。
「じゃ、真春さんお疲れ様でした。ディナー、頑張ってくださいね!」
「あー、うん。おつかれ!」
なんか怒ってる…?
真春は奈帆を目で追い、その目で優菜を見た。
優菜は壁に貼ってあるシフト表を見て、今日は誰がどこのポジションだとか色々と仕切り始めた。
ランチから入っていた未央が休憩から上がって、キッチンでまかないのお皿を洗っていた時「あ!未央姉戻ってきたー。ディナーはサラダバー中心に見てもらってもいいー?」と未央の背中に声を投げかけた。
「え?あ…わかったー」
困惑した未央が真春の顔を見て苦笑いした。
真春もぎこちなく笑い返す。
シフト表を見ると、スタッフの名前の端に担当する場所がガタガタした字で書いてあった。
昼間からそうしていたみたいだ。
今まで決めていなくても回っていたのに、なんで今更こんなことしているのだろうか。
シフトに入っていない間に色々と変わってしまっている。
18時からあと3人来る予定だが、そこにも担当が書かれていた。
真春はいつも通りホールを一周して店内を確認した後、レジの下で充電してあるハンディをサロンのポケットに入れてパントリーでシルバーの整理を始めた。
お客さんはスポーツ新聞を読むおじいさんしかいなかった。
「まはるんは、ご案内係ね!」
仕込みをしている清水さんにちょっかいを出していた優菜がこちらにやってきた。
「はいよ」
なんだか腑に落ちないが、真春は子供のごっこ遊びに付き合ってあげるような気持ちで答えた。
「だから、ハンディは持たなくていいの!オーダー取る人決めてるから!」
「持ってて損はないでしょ。誰も対応できないって事があったら困るでしょ?それに余ってるんだからいいじゃん」
真春が言うと「んもーしょうがないなぁ!」と口を尖らせた優菜はまた清水さんにちょっかいを出しにデシャップへ戻って行った。
今日は昼間から清水さんとずっと一緒にいられて優菜のテンションは最高潮に達しているようだった。
「真春さん」
「ん?うわ、びっくりした」
ホールとパントリーを繋ぐ仕切りの暖簾から顔を半分出した未央が真春に呼び掛けた。
「ちょっと来て下さい」
言われた通り暖簾をくぐり、ホールに出る。
「優菜、ヤバくないですか?」
ピシッと立ってホールを眺めるフリをしながら未央が言った。
真春も未央の隣に並んで立ち「うん、なんか変だと思う」と答えた。
15センチの身長差で、はたから見たらでこぼこコンビだ。
「最近あんな感じらしいんすよー。あたしもついこの間テスト終わって、久しぶりに来たらこれですよ。なんか仕切っちゃって」
未央がまったりした口調で言った。
「あー、あれ優菜が勝手にやってるの?清水さんが決めてるのかと思った」
「ま、決めたのはは清水さんですけど…。なんか、他店舗でポジション固めたら店が上手く回ってるっていうのを見てここでもやり始めたらしいですよ」
「優菜関係ないじゃん」
「そー!それなんすよー。あの2人、すごく仲良しじゃないですか。それで最近、清水さんの仕事とかにも手を出すようになって、なんか社員気取りっていうかなんていうか…」
未央は呆れたように笑った。
「ランチの時なんて奈帆ものすごいキレててホントにヒヤヒヤしましたよ。優菜に怒鳴り散らすんじゃないかって。奈帆ってたまに結構キツイこと言ったりするじゃないですかー」
なんとなく感じてはいたが、奈帆は優菜の事をあまり良く思っていない。
ここ最近の優菜の行動で、間違いなく"あまり好きではない"から"嫌い"に昇格したに違いない。
それでさっきの態度だったのか。
「困ったね…」
「ホントですよー。最近、みんなどんどん優菜のこと嫌がるようになってて見てる方も嫌なんですよねー」
知らない間にそんなに大きく人間関係が動いていたなんて。
これから夏休みに入るし、お店も忙しくなるっていうのに、こんなんで乱されるのは嫌だ。
真春は考えただけでお腹が痛くなりそうだった。
今日を乗り越えるのも、なんだか怖い気さえしてきた。
18時から出勤してきた子達が優菜に聞こえないように何か言っているのを真春は聞こえないフリをした。
最近、ずっとこんな感じなのかな…。
今までみんなで声を掛け合いながらチームプレーしてきたのに。
それで上手くいっていたのに。
確かに担当を決めるのは効率よくなるかもしれないけど…。
清水さんが変なことをし出したせいで、物事がネガティブな方向に動いている。
何より一番問題なのが、何故か優菜が仕切っているということだ。
裏では高校生達から大ブーイングが起こり優菜は高校生の中で孤立している、と団体客が帰ったお座敷のバッシングをしていた時、未央が漏らしていた。
今日の団体客は中学生とその保護者だった。
ドリンクバーを混ぜ合わせて言い表せないような色をした液体が入ったコップが十数個、ポテトサラダが雪山のように高く盛られたまま手が付けられていないお皿など、食べ物で遊び散らかされたその他諸々を綺麗にトレンチの上に乗せていく。
ため息が出た。
「未央はどう思うわけ?」
「えー?あたしですか?うーん…ちょっと困っちゃいますけど、優菜自体は別に悪い子じゃないしなぁ」
「んー、だよね。でも、同世代からは嫌われそうなタイプではあるよね。ま、優菜が一番仲良いのは香枝だしそんなこと気にしなさそうだけどね」
真春は「絡みづらいけどね」という言葉を飲んで軽く笑った。
「確かに優菜、高校生と仲良いイメージないっすね。最近じゃさやかさんを味方につけようとしてますしねー」
滝本さやかはこの店のアルバイトの中で一番年上の25歳。
現在フリーターだが、デザイナーになりたくて今は独学で勉強しているらしい。
面倒見が良くてみんなに優しくて、お姉さん的存在だ。
シフトにも多く入っていて、店長からもバイトリーダーを任されている。
おそらく優菜は、さやか的ポジションに憧れている。
「デキる女になりたいんだろうねー」
「ですかねー」
「てか、さやかさんもよく何も言わないよね」
「さやかさんがいる時はさやかさんに従順なんで。今日はさやかさんいないから、やりたい放題ってとこですねー。でも多分、知ってると思いますよ」
さやかさん以外のスタッフは下に見ているということか。
呆れた真春はトレンチ5つ分の食器を片付け、再び未央と混雑しているホールに出て行った。
締め作業が終わったあと、事務所で売り上げをパソコンに打ち込んでいる清水さんに「ポジション決めて仕事するとかいつから決めたんですか?」と真春は率直に聞いた。
「なに?どうしたんだよ急に」
「いやー…久々に来たらなんか勝手にあそこやれだのハンディ持つなだの優菜に言われたから、なんかやりづらくて」
「まぁ新しいこと始める時は何だってやりづれぇよ。これからもやってくかどうかはみんな次第だけどな。今はなんつーか、オタメシって感じかな。優菜はなんか履き違えてるみたいだけどさ。そこのポジションだけをやれって言ってるんじゃなくて、忙しいピークの時は基本的にそこで動いてもらってあとは臨機応変に今まで通りにやりゃいいだけなんだよ」
「なんで優菜にそれ言わないんですか?みんな困ってますよ」
「俺が優菜に怒るのは、俺がここから去る時かなー」
清水さんが笑いながらパソコンをタイプした。
「どういうことですか?」
真春が言うと、清水さんは突然真剣な顔をして「俺、もうこの店の店長じゃなくなるから」と言った。
「え?」
まだ来て3ヶ月も経ってないのに?
「どこ行くんですか?」
「ド田舎」
清水さん曰く、そのド田舎の店舗の店長が辞めるらしく、代わりにそこの店長にならなきゃいけなくなってしまったとのこと。
若いしフットワーク軽いと思われて、清水さんが選ばれたらしい。
「そっか。いつからですか?」
「9月から。新しい人くるからさ。まあ上手くやれよー!」
あと1ヶ月か。
あまり好きじゃないけど、それはそれでなんか寂しい。
「あ、それと、この事はまだ誰にも言うなよ!白石なら誰にも言わなそうだし。まじで誰にも言うな」
誰にも知られたくないなら、本当に誰にも言わなきゃいいのにと本気で思う。
そういうところが構ってちゃんで面倒臭い。
「わかりましたよー。じゃ、お疲れ様です」
「冷たいなー。泣けてくるぜ。…お疲れ」
この話を聞いて心から寂しがるのは、多分香枝と優菜くらいだと思う。
そして、店長という立場なのに優菜に注意できないということは、付き合っているのか?…とずっと囁かれている噂は本当なのかもしれないと真春は思った。
香枝と優菜は夏休み中よく遊んでいるようだった。
バイト中「昨日楽しかったね!」「香枝ちゃんまた遊ぼうよー」という優菜の声がよく聞こえていた。
優菜と休憩中、ふと視界に入ってきた彼女の携帯の待ち受けが2人のプリクラの画像で、仲の良さを改めて実感した。
真春は香枝とは前ほどはメールもしなくなっていたし、バイトで話すくらいの関係だ。
優菜との遊びに忙しいんだろう。
真春もバイトのない日は大学や高校の友達と遊んだり、彼氏と会ったり、なんやかんやと忙しく過ごしていた。
8月下旬、さやか主催のバーベキューがあったが、真春は風邪を引いて参加できなかった。
「真春さんいないのちょー寂しかったですよー」
やっと風邪が治って声も少しずつ出るようになった頃、ランチを終えて休憩していた時、奈帆がまかないのカレーとサラダを食べながら言った。
真春も同じくカレーを食べながら「あたしだって行きたかったよ」とガサガサな声で答えた。
今日は病み上がりなのにオープンからラストまでのロングシフトだ。
「思ったんですけど、朝より声悪化してません?ラストまで大丈夫ですか?」
「大丈夫、大丈夫。で、楽しかった?バーベキュー」
「楽しかったですよ。まー、相変わらず優菜が清水さんと絡みまくって、その他はその他でワイワイみたいな。あ、あと香枝さんとさやかさんもちょくちょく向こうに行ってたかな」
その光景が見ていなくても容易に想像できてしまう。
"向こう"という表現ですごく分裂している図が脳裏に浮かぶ。
「てかてかー、聞いてくださいよ!バーベキューの後花火やったんですけど…」
奈帆が言いかけた時、裏口が開く音がした。
「おはよーございまーす」
「おはよーう!」
眠そうな顔をした香枝とテンション高めの優菜が事務所に入ってきた。
奈帆があからさまに嫌そうな態度を取り始め、事務所から出て行った。
呼び止めようとしたが、声がガサガサで上手く出なかった。
香枝は真春の顔を見るなり「あ、真春さーん!風邪大丈夫なんですかー?」と言った。
「おはよ。全然大丈夫。もう熱下がったし」
「えー。でもそんな声だし、今日丸一日バイトなんて…」
「へーきへーき。超元気だから!」
「もう。無理だったら言ってくださいね!」
「うん、ありがと」
真春は急いでカレーを食べ終えキッチンでお皿を洗い、裏口から外に出て階段下に向かった。
この店は1階が駐車場になっていて、2階に店がある構造になっている。
スタッフは裏口の階段下にある喫煙スペースでタバコを吸う決まりだ。
階段を降りていくと、ほのかに甘いバニラの香りが鼻を刺激した。
「態度に出しすぎでしょー」
奈帆がベンチに座って怒ったようなそうでないような顔をしてタバコを吸っていた。
「もう、生理的に無理です」
「いやいや…一緒に働かなきゃなんないんだから、そんなこと言わないでよ」
奈帆の隣に座って、真春はタバコに火をつけた。
高校生のくせにタバコだなんて…と思うけど真春は何も言わなかった。
「さっきの話の続きですけど」
「うん」
奈帆は煙を吐き出すと、花火をしたというところから話し始めた。
「このこと誰にも言わないでくださいね」
「なになに?」
「南、泰貴さんのこと好きなんですよ」
「え!まじ?!」
左手に持っていたタバコの先端からポロリと灰が落ちた。
奈帆と南は高校が同じということもあって仲がいい。
随分前に、奈帆は南から相談されていたらしい。
「驚くのそこじゃないんですよ」
「どういうこと?」
今の情報でもだいぶ驚いたが他に何があるっていうんだ。
「泰貴さんは、多分香枝さんのことが好きなんですよ」
「えぇぇ!なにそれ!三角関係…。で、香枝は?まさかヤスのことが好きとかないよね?」
だとしたら絶望的だし、見ていられない。
真春は最悪な答えが出ないことを祈った。
「うーん。香枝さんのことは分からないです。でも、優菜と泰貴さんと3人で仲いいし、なんとも言えないですよねー。南もそれ見て嫉妬しちゃってるっていうか、なんていうか」
「南はヤスが香枝のこと好きって知ってるの?」
花火をしていた時、泰貴はずっと香枝の隣にいたらしく、南はそれを見て泰貴の気持ちに気付いたかもしれないと奈帆は言った。
だから、南はちょっと香枝のことを遠ざけているらしい。
香枝もとんだ被害を受けてしまったものだ。
ヤキモチって怖い。
「あー、なんか心がザワザワするわー。その3人のこと見てられない」
「あたしもですよ!でも言ったらなんか少しスッキリした!味方が増えたみたいで。内緒ですよ?」
「言えないよ」
奈帆はいたずらっぽく笑って、タバコを灰皿に入れた。
そして2本目に火をつけて、深呼吸のようなため息をついた。
「なに?ため息?」
「あはは、すいません」
「優菜のこと?」
奈帆はまた笑った。
「確かに仕切っちゃってるのとか正直、何様?って思うけど。ああいう子なんだよね、きっと。だから受け入れるしかないのかも」
「どうしたら真春さんみたいにそうやって考えられるようになるんですかね。すぐイライラしちゃってダメなんですよ、あたし」
「誰だってそうだよ」
真春はそれ以上答えなかった。
平和主義でいるのは、ごちゃごちゃするのが面倒臭いから。
そして、人にそう言いながら一番語りかけているのは自分だから。
人一倍短気だし、本当は態度に出して仲間はずれにしてしまいたいくらいの気持ちになることだってある。
ふと沸いてくる自分の感情が恐ろしくて仕方ない。
それと同時に、周りから見放されるのが怖い。
だから、平和主義でいたいのだ。
一番最低なのはいつも自分だ。
だから、人を諭すフリをして自分を諭しているのだ。
驚異のロングシフトを乗り越え、締め作業が終わった頃には声はほとんど出なくなっていた。
小さい声で話すと掠れてしまうので、声を張りまくって接客していたらついに喉が限界を迎えてしまったようだ。
レジ締めをしている清水さんと、その横でレシートを捨てたりハンディを揃えたりしている香枝を、真春はウェイティングスペースの長椅子に横たわりながら交互に見た。
やっぱ、好きだよなぁ清水さんのこと。
泰貴か清水さんかといったら、確実に清水さんだと思う。
急に泰貴のことが可哀想に思えてきた。
そして、優菜のことが過った。
誰の矢印も交わらないとか切なすぎる。
ぼーっとしていると、清水さんが「ほら、香枝。これでお買い物して来いよ」と1000円札を香枝に渡しているのが見えた。
そして、こちらへ笑顔で向かってきた。
「真春さん!清水さんがこれで好きなもの買ってきていいって!一緒に行きましょ!」
「なんでもいいの?」
「いいみたいですよー」
「清水さん太っ腹!ありがとうございます」
「あははっ!白石声ひでー。早く行って来いよ」
レジ締めをしている清水さんを残し、香枝と真春は道路を挟んで隣にあるコンビニに向かった。
「なんか夜のコンビニってワクワクするー!」
香枝はそう言いながらコンビニの中を歩いた。
前から思っていたけど香枝ってなんか、子供みたい。
「真春さん、何にしますか?」
「んー…アイスにしようかなー」
アイスが並んでいるケースを眺めながら真春は言った。
「暑いしあたしもそうしようかなー!どれにしますー?」
飲み物を見ていた香枝は真春の隣に来るなり、腕を組んできた。
なんで女子って、こうやって腕組んだり手を繋いだりしてくる子が多いんだろ…と思いながら真春はイチゴ味のかき氷を手に取って「これにする」と言って香枝が持っているカゴに入れた。
お会計を済ませてコンビニを出た時、香枝が持っている袋にはなんだか色々入っていた。
真春は気になる雑誌を見ていたので、香枝がアイス以外にも何か買ったのに気が付かなかった。
「他にもなんか買ったの?」
「はい。清水さん、このチョコ好きだから買ってってあげようと思って」と言って香枝が袋から出したのはパフ入りの板チョコだった。
「へー、そうなんだ。よく知ってるね。好きだねー、清水さんのこと」
真春がからかうように言うと、香枝は微笑んで黙ってしまった。
これは本気のやつなのか…?
「あと…これ」
香枝は清水さんの事には触れず、また袋を漁って今度は真春にお菓子の袋を渡した。
「真春さん、喉痛めてるから。これ、どうぞ。…って言っても清水さんのお金ですけど」
「え、いいの?」
香枝が差し出したのはのど飴だった。
しかも真春が一番好きなはちみつレモン味だ。
「あっ、はちみつレモン味だ!あたしこの味がのど飴の中で一番好きなんだよね」
「あははっ!真春さん、子供みたい!カワイイ!」
「なにそれっ。…ありがとね。清水さんのお金だけど」
真春は香枝の目を見てお礼を言った。
「いーえ」
香枝がクシャッと照れ臭そうに笑う。
子供みたいってどっちがだよ、と真春は心の中でやわらかく突っ込んだ。
お店の裏口に着き、階段を上る前に真春はタバコに火をつけた。
喉が痛かろうが吸いたいものは吸いたい。
「先行ってて」
ベンチに座ると、香枝は「待ってる」と言って隣に座って地面を見つめた。
短い沈黙の後、香枝が口を開いた。
「真春さん、清水さんがいなくなること、知ってたんですよね?」
「え?」
「バーベキューの時、聞いたんです。9月から異動になるって言われて、すごくびっくりしました。そしたら、マジの反応なの?って言われて意味わかんなくて」
「……」
「真春さんにしか言ってなかったって言ってて。真春さん、本当に誰にも話してないんだって驚いてて…」
「ん?え、ちょっとよく意味が分からないんだけど…。清水さんから誰にも言うなって言われてたから、言わなかっただけだよ」
それの何が問題なんだろう。
香枝の言わんとしていることが全く分からない。
真春はタバコの煙を吸い込んで、ふーっと細く吐き出した。
「真春さんが…清水さんとそういう関係なんですか?」
「へ?!」
「だ、だから…清水さんとそういう…」
必死な香枝を見て、真春は笑いそうになった。
自分しか知らなかったということで、香枝は嫉妬しているのか?
「ないないない!絶対にそれはない!」
真春は大声で否定した。
「じゃあなんで真春さんにしか言ってなかったんですか?!」
「知らないよそんなの。ただの気まぐれじゃない?」
そんな弱い言葉では香枝が納得するわけがなかったが、真春がタバコを吸い終わるまで清水さんの愚痴を延々と言い続けたのでなんとか信じてもらえたようだった。
「なんだ…真春さんモテそうだから」
「だからないって。そんなに言うってことは香枝もしかして清水さんのこと…」
「それはない!」
言い終わらないうちに、香枝が食い気味に否定してきた。
「そう?結構好きそうに見えたけどな」
真春は少しからかいの気持ちを込めて言った。
「好きじゃ…ないです。彼氏と別れたばっかりだし、そういう気分にはなれないです」
「あ…あぁ、そうだよね。ごめん、変なこと言って」
「いえ」
香枝はまた地面を見つめた。
「てか、あたしがってどういうこと?清水さん、誰かと付き合ってるの?」
もしかしたら、香枝は何か知っているのかもしれない。
しばらく返事を待ったが、変な沈黙が訪れた。
「アイス、溶けちゃうね。行こっか」
真春はその場の空気を変えようと明るく言いながらタバコを灰皿に投げ入れて、香枝の頭を軽くポンと叩いて階段を上り始めた。
すると、後ろから二つ折りにした黒いワイシャツの袖をキュッと香枝に掴まれた。
「ん?なんかついてた?」
「…なんでもないです。中、入りましょっか」
香枝が小さい声で呟く。
ふわっと残暑の夜風が吹いた。
どこか切ない匂いがした。
新しく来た店長の戸田さんは優しい小太りのおじさんで、みんなとすぐに打ち解けた。
あのチャラ店長より数億倍もマシだ。
お店に余裕ができた気さえする。
そして、真春の心にも余裕ができてきて穏やかな日々を過ごしていた9月半ばの平日。
締め作業を終えた真春が「お疲れ様でーす」と事務所に戻ると、そこには泰貴、優菜、そして戸田さんがいた。
「あれ?まだ帰ってなかったの?」
真春がなんとなく言うと、泰貴と優菜はワケありと言ったような表情でお互いに顔を見合わせた。
何も言わない。
真春はそんな2人を横目でチラチラ見ながら更衣室に入り、Tシャツと短パンに着替え始めた。
すると、香枝が戻って来たようで「おつかれー!」と声が聞こえてきた。
更衣室のドアを開けたと同時に事務所のドアがバタンと閉まり、続いて裏口のドアが閉まる、重たい大きな音が聞こえた。
泰貴が外に行ったようだ。
「あれ?ヤス、帰ったの?」
「あ、ちょっと外に出ただけ」
優菜が落ち着かない表情で言った。
その隣に座る香枝はシフト表を見ながら「あー、今月週末ロング多いなぁ」とひとりで呟いていた。
その時。
―――ブーッ、ブーッ、ブーッ
香枝の手の中で携帯のバイブが鳴り響いた。
一瞬戸惑った表情になり「もしもし?」と不思議そうに話す香枝。
「…わかった」
電話をしながら外へ行ってしまった。
戸田さんはパソコンの前で他店舗の人と電話中。
「ヤスくん、香枝ちゃんのこと好きなんだよ。多分今、外で2人で話してる」
優菜がヒソヒソ言った。
「え!」
真春は知らないことになっているので、驚くフリをした。
窓から外を覗いてみる。
現実を知っているこの身には辛すぎる光景だ。
泰貴が香枝に抱く思い、南が泰貴に抱く思い…。
2人の距離はあまり近くない。
あれは泰貴に対する香枝の心の距離だろうか。
「ヤスくんもかわいそうだよね」
優菜が呟いた。
「やっぱ香枝はヤスのこと友達としか思ってなさそうだよね」
真春は2人の姿がよく見えるように少し移動しながら言った。
優菜はいつもは見せない真剣な表情で「そうじゃなくて」と否定した。
「へ?」
「香枝ちゃんは、清水さんのことが好きだから」
優菜が小さい声で言った。
衝撃的だった。
真春は窓から2人を眺めていた目を優菜に向けた。
あの日、清水さんのことを好きじゃないと言ったのは嘘だったのか。
でもなんでそんな嘘ついたんだろう。
ただ単に、知られたくなかっただけなのかな。
「バーベキューの日、清水さんにド田舎行くって言われて、ほんと信じらんなくて、すごく悲しくて、優菜と香枝ちゃん2人で泣いたんだ。清水さんにバレないようにだけど。その時知ったの」
てっきり優菜と清水さんがデキてたのかと思ってた。
これも思い違いだった。
あのちょっかいは、ただのお節介だったということか?
「今も好きなの?」
「うーん…あれから優菜にも何も言ってくれないから分からないけど…。でもそんなすぐに忘れられるわけないよね」
「そっか…」
結局、誰の思いも叶わないのか。
ロッカーからリュックを取り出して背負ったちょうどその時、裏口のドアが開く音がした。
足音はひとつだけ。
「香枝ちゃん、おかえり」
事務所のドアから入ってきた香枝は「ただいま」とだけ小さく呟いた。
真春は重すぎる空気に耐えられなかった。
「あたし帰るね。お疲れ」
香枝は知らないことになっているだろうから。
泰貴が香枝のことを好きということや、香枝が清水さんのことを好きということ…つまり、嘘をついていたこと。
きっと、自分と清水さんが何かあるのかもしれないと思っていたから、最後まで好きという気持ちを自分に隠していたのかもしれない。
何もなかったとはいえ、真春はすごく心苦しくなった。
翌日、真春はオープンからだったのでいつもより早起きだった。
強い日差しがアスファルトを照らし、夏が最後の力を振り絞っているかのようだった。
自転車でたった10分なのに、お店に着いた時は薄っすらと汗をかいていた。
戸田さんは既に仕込みを始めていた。
「おはようございます」
着替えてキッチンを通ると戸田さんは優しく「おはよう」と微笑みかけてくれた。
朝から癒されるなぁ。
恵比寿様のような柔らかい笑顔。
真春はいい気分でホールの立ち上げを始めた。
ランチはそこそこ混んだが、上手く回っていたため気持ちよく仕事ができた。
ポジションを固定するやり方は戸田さんが来てから一旦中止となり、優菜が暴走することも少なくなってはいたが、仕切りたがりな性格は相変わらずだった。
それ故に、周りとの溝は深まる一方だった。
オーダーが切れて時間に余裕が出来た時、シフトの紙が貼ってあるパントリー横のホワイトボードを見ると、昨日のままになっていることに真春は気付いた。
「戸田さん。シフト昨日のままになってるので、今日のに替えときますね」
「おー、ありがとう!」
真春は事務所のテーブルから今日の分のシフトが印刷されている紙を持ってくると、ホワイトボードに貼り付けた。
しばらく眺める。
今日は夜から優菜、南を含め高校生が3人と香枝が来る。
そして泰貴も来る。
残念なことに、香枝と泰貴がラストまでだ。
なんてタイミング。
香枝は大丈夫だろうか…。
ランチの片付けが一通り済んだ14時。
真春が休憩に入りまかないのカレーを半分食べ終えた頃、奈帆が事務所に入ってきた。
「お疲れ様でーす。あ、真春さんまたロングかー」
「稼ぎ時だからねー。奈帆はもう終わりか」
「はい、これからダンスのレッスンなんで。あ、真春さん」
「ん?」
「ちょー大事な話があるんですけど…喫煙所で待ってますね」
奈帆はそう言うと、「お疲れ様です」とキッチンに声を投げかけて裏口から出て行った。
真春はカレーを大急ぎで食べ終えて、喫煙所に向かった。
風が甘いバニラの香りを運んできた。
階段を下りると、ちょうど奈帆が1本目のタバコを灰皿に入れたところだった。
「ちょー大事な話ってなに?」
真春はタバコに火をつけてから奈帆の隣に腰掛け、煙を吐き出しながら言った。
「南、泰貴さんと付き合ってるらしいんですよ!」
煙が思い切り鼻を通って目まで染みる痛みに襲われる。
真春は驚きの声すら出なかった。
付き合っている…?
「なんか、南から告ったらしいんですけど、ずっと返事待ちだったみたいで。てか半月も返事待ちってひどくないですか?ま、結果オーライなん…」
「いつ?!」
真春は奈帆の言葉を遮った。
「いつなの?南がヤスに言ったのって」
「確か、バーベキューの1週間後くらいですかね?」
「で、返事したのはいつなの?」
「それが、聞いてくださいよ!昨日の夜なんですよ!めっちゃホットなニュースじゃないすか?!」
愕然とした。
昨日の夜って泰貴が香枝に告白していたはず。
なんだ?
どういうことだ?
「なにそれ、深夜の話?」
「いや、そこまでは分からないですけど。でもよかったですよね、南の思いが届いて!告られたら香枝さんより好きになっちゃったんですかね?」
奈帆はニンマリして、2本目のタバコに火をつけた。
ディナーもランチ同様、適度な混み具合だった。
気持ち良く働けるはずだったが奈帆のビッグニュースにより、それは不可能となっていた。
当事者ではないのに、なぜこんなに胸が苦しいのだろうか。
香枝と泰貴は一言も口をきかずに働いているみたいだ。
キッチンとホールなので別々のポジションなのが唯一の救いだと真春は思った。
誰にでも優しくて穏やかな香枝だが、今日ばかりはそうはいかないようで、なんだかイライラしたような、心ここに在らずといった様子に見える。
そして南も18時から出勤してきて、周りは何とも思っていないだろうが真春の脳内はこの状態を修羅場と認識していた。
自分にフラれた後にキープしていた女と付き合うなど、いくら香枝でもそれはさすがに怒るだろう。
何も知らないことになっているし、変に思われるかもしれないが、真春はついに香枝に声を掛けることにした。
「香枝」
「はい?」
サラダバーを整理しながら、香枝はこちらを見向きもせずに言った。
「元気ないじゃん。なんかあった?」
これでは何かあったようにしか聞こえないじゃないか。
心の中で自分を罵倒する。
「そんなことないですよ。いつもと同じです」
真春は「そ?」と言って香枝の顔を覗き込んだ。
「顔怖いよ。笑って笑って!」
からかうように言うと、香枝は黙って真春を見据えた。
なんか色々と下手くそだな自分…と思っていた次の瞬間、香枝の目に涙がぶわっと溢れてきて、なだめる間も無く頬を伝って滴り落ちた。
「えっ?!あ、ご、ごめん…ちょ、裏行こう!」
真春は鼻をすする香枝を事務所に連れて行った。
事務所のドアを開けると、香枝は真春に抱きついて嗚咽を漏らして泣いた。
どうしよう…。
やっぱり昨日、ただでは済まされない何かがあったのだろうか。
「香枝?大丈夫?」
香枝は黙って泣いていたが、しばらくして「ごめんなさい」と蚊の鳴くような声で言った。
「真春さんの顔見たら、どうしても我慢できなくなっちゃって…」
「なんか辛いことでもあった?」
「……」
「言いたくないならいいよ。ただ、いつもより元気がなかったから変だなーと思って、気になっちゃって。ごめんね」
本当は何があったか知りたがっている自分がいる。
別に知らなくてもいいのに、なんだか意味もなくザワザワするのだ。
「また今度、話します」
香枝は手の甲で涙を拭って言った。
「わかった。仕事、戻れる?」
「はい、大丈夫です。…すみません」
鼻をすする香枝に、真春はティッシュを渡して笑った。
「泣かないの!」
香枝はティッシュで鼻を押さえながらヒヒッと笑った。
後から聞いた話、あの時、泰貴は香枝にキスをした。
香枝の気持ちも聞かずに。
南からの告白を保留にしておいて香枝に告白し、オーケーしてもらえたら香枝と付き合うつもりだったのだろう。
という考えは強ち間違いではないと真春は思っている。
結局フラれたから南と付き合っているわけだけど、泰貴は本当にクズな男だ。
女好きなところも、昔から変わっていないようだ。