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にじいろの煙  作者: 芝みつばち
19/19

4月の緑との再会

6時ちょうどのアラームで目が覚めた。

「…あれ?今日仕事だっ…」

寝言かそうではないのか分からない言葉を発した恭介を置き去りにして、真春はキッチンでケトルのスイッチを入れた後、洗面所に向かった。

今日は受け持ちでもリーダーでもないから早く帰れそうな予感でワクワクしていたが、14時から担当患者のカンファレンスがあることを思い出した。

しかもその後、医師からの病状説明に同席しなければならない。

よく考えたら、今日は新人が初めての受け持ち開始の日だ。

顔を洗いながら今日の予定を頭の中で繰り返す。

繰り返して吐き気がしてきた。

6:10。

コーヒーを淹れてソファーに腰掛ける。

リモコンでテレビをつけると、毎朝観ているニュース番組が映し出された。

"LGBT"の文字が右上に浮かんでいる。

最近、よく目にするようになった。

数年前、男性芸能人が突然「僕は、男の人が好きなんです」と告白した。

以前から"イケメン俳優"と話題になっていた人だったので、そのニュースは世間を騒がせた。

ありえない、とでも言うように。

しかしそれを皮切りに、芸能界では同性愛者、両性愛者など、多岐にわたる性的マイノリティーが世間に知らしめられ、今では性別にくくりはあるものの、同性同士の恋愛に対する見方や考え方は、多少なりとも受け入れられるようになった。

ドラマでも同性愛を取り上げることも少なくない。

10年前の出来事を頭の片隅に思い出したのも束の間、今日の仕事のことで頭がいっぱいだったので、その思いは白い霞となって姿をくらました。

コーヒーを飲みながら手短に準備を済ませ、「いってきまーす」と独り言のように呟きながら真春は自宅を後にした。


カンファレンスのある患者の情報収集をしようと勤務開始30分前に病棟に着いた時、ナースステーションの隣の観察室にいる患者さんが運悪く急変したところだった。

日勤リーダーで朝の情報収集をしていた同期の三枝朱音(さえぐさ あかね)が対応しており、真春は「あたしやるから、戻って情報取ってて」と声を掛けた。

「ごめん、ありがと」

朱音は簡単に経緯を伝えると、パソコンの前に腰を下ろした。

夜勤リーダーは3年目の後輩で、泣きそうな顔で真春を見た。

「細かいことは後でいいから、要点だけ伝えて先生にすぐ来てもらって」

朱音は何も言わなかったのだろうか、と思いながら真春は横で心臓マッサージをしている新人の男の子に「腕伸ばしてもっと強く押して」と言いながら背中をポンポンと叩いた。

救急カートの横で焦っている2年目の女の子がキョロキョロとしていたので、「先生来るまでに挿管の準備しておいてね」と声を掛ける。

女の子は「は、はいっ!」と無駄に大きな声を出した。

夜勤リーダーが連絡して5分も経たずに来た循環器内科の大迫寛也(おおさこ ひろや)先生は「早く挿管の準備して〜」と気怠そうな声で言って、真春を一瞥した。

「この子がやります」

真春は2年目の女の子の両肩に手を添えた。

「は?出来んの?」

「やらないと出来るようにならないので」

「偉くなったもんだな、白石も。あ、もう桧山さんか」

大迫は鼻で笑うと「早くして」と冷たく言い放った。


患者さんがICUに送られたのは9時ちょっと前だった。

観察室に散らばった物品を片付けていると、知らない間に大迫がICUから戻って来ていて「これ、サインしといたから」と言って手術の同意書が入ったファイルを真春に差し出してきた。

いつ見ても病的な白い手。

そして、人を見下し、吐き捨てるような話し方。

鋭い目つきと偉そうな口調で周りを凍りつかせる大迫は、循環器内科の医師の中でもスタッフに恐れられていた。

何をしても塩対応で、時には心にグサッと刺さるような痛い言葉を浴びせられることもある。

真春も今でこそ笑い話にできるが、リーダーをやり始めた頃は大迫に暴言を吐かれまくって精神的に病みそうになった。

しかし患者さんには優しく腕も確かで、大迫目当てで来る人が多いので、外来はいつも混んでいるらしい。

「…あたし今日リーダーじゃないんですけど。三枝に言ってください」

真春はゴミ袋を持った手と反対の手で、リーダー席でパソコンとにらめっこしている朱音を指差した。

「えーっ。だってあいつ怖いんだもん」

「先生がそんな態度だからじゃないですか」

「三枝っていつもファイティングポーズだから、俺も構えちゃうんだよなぁ」

「あはは。朱音は仕事熱心ですからね、あたしと違って」

「白石はのほほんタイプだもんな。三枝と対照的すぎるくらい」

「そうですねー。だから結構ナメられてますよ」

大迫は「ナメられてそー」と言って真春を面白そうな目で見つめた。

「てか桧山サン、結構やらかしまくってたじゃん?なのに、今となっては一応先輩らしくなっちゃってさ。リーダーやり始めの時なんて何度俺に怒鳴られたことか…」

「"一応"って…。それに桧山さんって呼び方、悪意感じるんですけど」

真春は鼻を鳴らして、一通り回収し終わったゴミを集めた袋を怒り任せに思い切り縛った。


10年前。

国家試験に合格し就職先の病院がこの大学病院に決まった時、そこで行われた説明会で配られた用紙に希望する配属先を書く欄があり、迷わず"循環器"と書いた。

実習が楽しかったし、病態的にも一番興味を持てたのだ。

思いのほか循環器を選択した人は少なかったようで、第1希望はすんなり通り、その日のうちに循環器病棟の配属になると発表された。

その日ワクワクしながら帰った真春の心は、すぐにどん底に突き落とされた。

持ち前のポンコツ具合が前面に出てしまい、真春は新人の中でも特に目立って出来の悪い新人で、同じチームの先輩を事あるごとに困らせていた。

視点の違い過ぎる意見を述べたり、インシデントの数はダントツだし、提出物の期限は間違えるし、しまいには泣き出すし。

初めの1年は、思い返すだけで自分が自分ではないようで変な気持ちになる。

あの頃は、自分を出すことすらできなかった。

いや、出していたとしてもねじ伏せられるか処置室に連行され聞いたことのないような罵声を浴びせられるかのどちらかだったと思う。

2年目になった頃から、徐々に先輩達も真春のキャラクターを理解してくれるようになり、仕事にも慣れポンコツ度も落ち着いてきた。

が、いじられキャラが定着してしまったのは予想外だった。

窮屈な思いをした2年が過ぎた頃、リーダー研修を受けるようになってから真春の中で何かが変わったのは確かだった。

真春は3年目になってから、人が変わったように仕事が出来るようになった。

観察力もさることながら、患者さんの気持ちや葛藤、後輩が悩んでいることなどがなんとなく分かるようになったのだ。

それは何故だか分からない。

分からないけど、なんとなく、分かるのだ。

それからというもの、真春は「あの白石がねぇ」という嫌味たっぷりの言葉で装飾されながらこの病棟で生きてきた。

いつしか誰もそんなことを言わなくなった今は、10年目の自分がドンのようになっているからだ。

そんな風になるつもりなど、なかったのに。

結婚したらここを離れて、どこかゆったりとした病院もしくは介護施設でのんびりと看護をしている…それが理想だったのに。

恭介の職場がこの近くということもあり、この地を離れる理由もなく、真春は結婚しても変わらずこの病棟でストレスと戦っている。

いい加減離れたい、と思うことが最近多くなってきた。

でも、同期の朱音がひとりになってしまうと思い一歩踏み出せない自分は、変にお人好しなのだろう。

そんな自分が少し嫌になる。

朱音はひとりでもやっていけそうだが、不意に見せる弱さが気になって、放っておけないのだ。

だから、立ち止まってしまう。


「朱音。大迫先生がこれ持ってきてくれたから置いとくね」

"病棟ではどんなに親しくても苗字にさんを付けて呼びなさい"と言う今年度からこの病棟に来た師長の決め事を思い出し、真春は「あっ、三枝さん」と言い直しながら、仕方なく受け取ってしまったファイルをパソコンの隣に置いた。

「ありがと」

「今日、週明けだし忙しいよね。手伝えることあったら言ってね」

「うん」

「あはは。顔怖いよ」

「え、うそ」

普段からあまり笑顔を見せない朱音だが、戦闘モードの時の朱音は特に表情が固く、後輩からとても恐れられている。

言い方もキツいし、何より患者さんに対する熱い思いが強すぎるので、同期の真春でさえ引いてしまうことも多々ある。

でも、この病棟では朱音を制することができるのは真春しかいない。

先輩も朱音のことを煙たがっていることを知っているので、真春は時折板挟みになるとも少なくなかった。

「ほらっ、今日から5連勤でリーダーなんだから、初日からそんな顔しないの」

「真春ー…今日ご飯行こ」

「えー?今からそんなこと言っちゃう?弱気だねー」

真春はケタケタ笑って朱音の肩をポンポンと叩いた。

新人の頃、真春と涙を流す多さを競えるほど悔し涙を流しまくっていた朱音。

負けず嫌いで、努力家で、何に対しても全力で挑むパワフルな子だ。

入職した頃、同期は6人だった。

数年が経ち、気付いたら朱音と真春だけになっていた。

切磋琢磨してやってきたこの10年、朱音の視点はすごいと思うし、勉強になるなと思うこともたくさんあった。

朱音とは友達以上の、強い絆で結ばれていると思う。

のんびり屋とガツガツ系の相反するコンビの真春と朱音だが、お互いに高め合える存在なのだ。

プライドが高くて泣き虫なところは、今までに出会ったことのない人種なので、真春をたまに困らせていた。

しかし、朱音は本当は自分に自信がなくて寂しがり屋で、すぐ怒ってしまう自分が嫌いなのだということを知っている。


今日はリーダー初日で、新人達からの的を得ていない報告に疲れ切った朱音に、真春は尊敬の念を込めながら「朱音はすごいよ」と酔っ払いの声が響き渡る居酒屋で向かいに座る朱音にポツリと言った。

4月下旬の居酒屋は歓迎会モードが強く、どこの席もどんちゃん騒ぎしている。

今日は朝から急変があるし、大迫先生は気分屋で困るし…と愚痴を言いながら始まった会だったが、真春が周りの音に負けじと大声で褒めると、朱音は「真春はずるい」と言った。

顔の中心にパーツが寄っている朱音は、一言で言えば美人だ。

真春はその顔になりたいと何度も思ったことがある。

その朱音の目からポロポロと涙がこぼれ落ちた。

「えっ?!ち、ちょっと!朱音?!なんで泣くの…」

「あたし…今日ちゃんとできたことなんて1つもなかった」

「…そんなことないよ!絶対にない!」

真春は朱音の手を握った。

「今日1年目がひとり立ちだったじゃん?」

「ん、そだね」

「もう、イライラして仕方なかったの」

「あー…んー…分かる!宇宙人と喋ってんのかなとか思うよね!」

「聞いても答えないし、ヘラヘラ笑ってるし…それでイライラしちゃってさ…。なんか、怒り方が分からなくて。年々分からなくなる。どこまで言ったらアウトなんだろうって常に考えててさ。こんなのおかしくない?頭ごなしに怒るはそりゃいけないって分かるけど…。全然出来てないのに、その自覚ない人に注意したり怒ったりするって、難しいなって思って」

朱音は「うちらが新人の頃なんてさ」と続けた。

確かに自分達が新人の頃は酷かった。

無視は当たり前だし、報告するのにも色々と突っ込まれて1時間以上かかるし、手に持っている何かで頭を叩かれるし…思い返したらキリがないし、あの洗礼は一体何だったのだろうか、今それをされていたら間違いなくパワハラ問題に発展していただろうと思うくらい酷かった。

リーダーを任されるようになってから、自分がされたことは反面教師としてやらないようにしてきた。

やらないように…というよりは、やってはいけないという気持ちの方が大きかった。

あんな風に、これでもか!というくらいに精神的に人を傷付ける人の気が知れなかった。

「時代は変わるんだよ。10年も経てば変わるって。人の価値観も…何もかも、受け入れなきゃ」

「だけど…」

「自分がされたからって、あの時と比べるのは違うと思うよ。…厳しく言いたいのは分かるけど」

真春は「でも、人のこと考えられる人だからこの職業選んだと思うからさ、テキトーな思いで患者診てるとは思わないよ」と言った。

「なんか、どうしたらいいのか分からなくなっちゃった。人の命がかかってる現場でヘラヘラしてるのは許せなくない?」

「うん…それは分かるよ。あたしもそう思う。けど、これからあの子達は患者さんときっとぶつかるし、傷付くことも絶対言われるよ。まだ2ヶ月も働いてないんだからさ、何も分かるわけないよ」

「あたしリーダー向いてないかも」

朱音が涙を流しながら言った。

「考えすぎだよ、朱音」

「そうかな…」

「まだリーダー初日でしょ?初日からこんなんじゃ持たないよ」

人一倍完璧主義で努力家の朱音は、わりとこういう風になってしまうことが多い。

自分の鈍感力を少しでも分けてあげたいと何度思ったことか。

「ほら、飲も飲も!こんな世界一つまらない仕事の話なんかやめよ!」

真春がビールの入ったジョッキを掲げて明るく言うと、朱音は「ごめん」と言って両手で涙を拭い同じくビールの入ったジョッキを持つと、真春のジョッキに軽く当てた。

涙を拭ってビールを飲む朱音を見た時、こんなに自分や他人のことを考えて涙を流せる朱音は、やっぱりすごいな、と真春は思った。


帰宅したのは0時近く。

昔のように記憶がなくなるまでとか、朝まで飲むとか、そんなことはしなくなった。

しなくなったというか、"したくなくなった"と言う方がしっくりくる。

8年近くの交際を経て恭介と結婚してから、自分の中で生活がガラリと変わった。

とにかく家事をこなし家を綺麗に保つことと、一人暮らしをしたことのない不器用過ぎる恭介のお世話をすることで忙しいのだ。

付き合っている頃に比べたら色々とギクシャクすることも多いが、今のところは上手くいっている。

もう少し頑張って欲しいな…とリビングに落ちている脱ぎっぱなしの恭介の靴下を回収しながらお風呂場に向かいシャワーを浴びる。

随分伸びたセミロングの髪の毛を乾かさず、タオルを頭にかけたまま真春は冷蔵庫からビール缶を出し、間接照明を点けた薄暗いリビングのソファーに座った。

明日は夜勤なのでゆっくりできる。

なんとなくまだ飲みたい気分だった。

恭介はまだ帰って来ない。

メールの返事がない。

何しているのだろうか…仕事忙しいのかな、と思いながらSNSを開き、今日投稿された写真をぼーっと眺める。

週末に遊んだこと、趣味のこと、仕事のこと、デートのこと…。

しばらく見ないだけで他人の信じられないくらいの量の情報が入ってくる。

真春はSNSは一応やっていてなんとなくアカウントだけは作っているが、投稿はあまりしていない。

周りの友達も、SNSに関してとても詳しい人とそうでない人がいる。

現代っ子は1日に何度も投稿して"いいね"の数を競うようにタグ付けをしているようだ。

ネットに詳しくない真春でも、そこまでなら分かる。

自分の日常を投稿しても誰が喜ぶわけでもないし、むしろ嫌悪感を抱かれたら嫌だ。

例えば、自分と恭介が結婚指輪をチラつかせた自撮りなんかを投稿した日には、結婚願望があってもできなくて泣きたいほど辛いフォロワーが、もしいたとしたら、傷付くのだ。

そんなことを考えてしまい、なかなか投稿までに至らずいつも見る専門になってしまっている。

今日も、リア充な未婚、子育てに奮闘しているママ、飲み会の動画を際限なく投稿する人達で溢れている。

死んだ魚のような目で見ていると、突然お知らせのマークに色が付いた。

こんな時間に誰が自分なんかに…。

真春は少し酔っ払ってぼんやりした頭でそのマークを見つめた。

意味もなく、ビールを一口飲んでそのお知らせを開く。


"@kae_n1129があなたをフォローしました"


真春は画面を二度見した。

kae?

カエってあの香枝?

真春は飲み込みかけたビールが出てきそうになるのを堪えた。

酔いはどこかへ行ってしまった。

なんなら、消滅した。

もはや胃から何か逆流してくるんじゃないかというくらい、真春の心拍数は制御不能なまでに上昇していた。

震える指で、海を背景に背を向けてピースしているアイコンをタップすると、3件の投稿が画面に表示された。

加工アプリで友達と自撮りした写真がアップされている。

一番最近の投稿は、去年の8月だ。

自分と同じくSNSはあまりやらないようだ、と確信した。

そう思えただけで、真春は10年間会っていないのに、香枝に親近感を抱いていた。

そして、何故か気持ちが昂ぶった真春はビールを飲んでいるという投稿をした。

酔っ払っている時は躊躇いなくどうでもいいことを投稿できる。

深夜ならきっとみんな分かってくれるはず。

真春はそう思いながら、普段はやらないようなことを投稿した。


"真春また飲んでる"

"そのビール私も好き!"

"会いたいよ真春〜。早くみんなで集まろ!"

思いのほか反応してくれる人が多くて、翌朝起きた時、真春はSNSからのお知らせの多さにげんなりした。

みんなに返信しなければならないという使命感が重くのしかかり、自然とため息が出る。

それと同時に香枝からのコメントはないのだろうかと無意識に探してしまう。

いつしかの気持ちが、土から頑張って芽を出す植物のようにゆっくりと顔を出そうとする。

香枝の優しい笑顔が脳裏を過ろうとするが、上手くその顔を思い出せない。

あの頃の香枝の顔が思い出せない。

考えれば考えるほど、顔も声も抱きしめてくれたことも思い出せない。

人間はそういう風にできているのだろうか。

今、結ばれた人以外の人の温もりを思い出してはいけない、とでも言うように。

いつの間にか帰宅し、隣でいびきをかいている恭介に背を向けて、真春はぼんやり眺めていたスマホを伏せた。

チラリと見た時計はまだ11時を示していた。

真春はゆっくりと目を閉じた。

10年前の気持ちがふつふつとどこかで騒ぎ出そうとしているのは確かだ。

勝手にひとりで胸騒ぎを感じている。

香枝は何の感情もなく知っているからとフォローしてくれたに違いない。

同じ時期に働いていた未央やさやかや優菜のこともフォローしているのだから、そうに違いない。

そう思いたいのに、特別な何かを期待している自分は何なのだろう。


不思議な気持ちで過ごした半年は、あっという間だった。

毎日仕事で忙しいはずなのに、ふとした時に香枝のことを考えては日に日にあの頃が美化されていった。

それと同時に、妄想が過ぎて何が本当なのか分からなくなってきていた。

時折更新される香枝の投稿を見て、コメントしようかどうか悩み、結局コメントせずに終わっていた。

今更、何を言うこともないしな…。

そんな中訪れたバイト時代のみんなとの飲み会。

言い出しっぺは奈帆だった。

就職を機に辞めてからもみんなとは定期的に会っていた。

呼べば大抵の人は来ていたのだが、年を重ねるごとに参加する人は減っていた。

今では招集をかけて大体来るのは、さやか、未央、南、奈帆、真春の5人だ。

真春が辞める時期、同じく進路や就職を理由にバイトがたくさん辞めていった。

香枝もそのうちの1人だったが、真春よりも半年早く辞めた。

理由は分からない。

それ故に、真春が最後にもらったアルバムには香枝のメッセージはなかった。

代わりに未央が旅行の時に3人で撮った当たり障りのない写真とともに温かいメッセージを添えてくれていた。

約束の19時より少し遅れて居酒屋に到着した真春は「奈帆は飲みたがりなんだから」と笑った。

「真春さーん!待ってましたよ!」

奈帆が「こっちこっち!」と手招きする。

真春が奈帆の隣に腰掛けて荷物を整理していると「真春さん、ビールですよねー」と言って未央が勝手に呼び出しボタンを押した。

「あはは、よく分かってらっしゃる」

真春が軽く笑うと店員が来たので、ビール1つお願いしますとサラッと頼んだ。

程なくして来たビールはキンキンに冷えていて、ジョッキに霜が付くくらいだった。

「お待たせしました…乾杯」

「かんぱーい!」

奈帆と未央は声を揃えて言った。

「今日は3人だけ?」

「うん、みんなにも声掛けたけど、来れなさそうで。仕事忙しいのかもですね」

そう言う奈帆は今はバックダンサーとして色々な場所で頑張っているようだ。

この間は某有名アーティストのバックダンサーに選ばれたとかで、ツアーに同行したと楽しげに語ってくれた。

「そういえばさー」

真春はなんてことないと装いつつ、気になっていることを2人に告げた。

「この前香枝にSNSフォローされてさ。懐かしすぎてびっくりしちゃった。辞めてからずっと香枝と会ってないし…誰か会った人いる?」

"ずっと友達でいよう"と誓ったあの日の言葉は、いとも簡単に消えてなくなった。

香枝が辞めてから、香枝からは一切連絡はなかった。

辞める時もあっさりと辞めてしまい、真春に対して特別なことも何もなかった。

初めは他の子と同じように振舞っているだけなのだと思っていた。

が、しかし、待てど暮らせど連絡はおろか、生存すら確認できなかった。

連絡をしてみようかと思った時期もあったが、仕事が忙しかったこともあり、次第に真春は香枝の存在を忘れていた。

あの頃の気持ちなんて、思い出すことも忘れていた。

「真春さん」

未央がかしこまった様子で真春に声を掛けた。

「香枝に連絡してみたらどうですか?」

「…え?」

真春は未央の顔をまじまじと見た。

「なんで?」

「なんでも」

「その言い方はなんか知ってるんでしょ」

真春は眉間に皺を寄せて未央を睨んだ。

未央はふふっと笑った。

「今はしないからね」

「そうっすね、ひとりの時の方が一番いいかもです」

「なにそれ」

隣にいる奈帆も気まずそうに黙っている。

「奈帆も何か知ってるんでしょ」

「こういうの好きじゃないんで言いますけど…結論から言うと知ってます」

奈帆は「ただ…」と真剣な口調で言った。

「未央さんの言う通り、真春さんから連絡してあげた方がいいと思います」

「なに…2人して…」

「とにかく、そのうち連絡してくださいね」

「わかった…」

真春はビールをひと口飲んで「てか、奈帆は律とはどうなの?」と言った。

変な空気にしてしまって申し訳なくなり、真春は話題を変えた。

本当は、何があったのか喉から手が出るほど情報を欲しがっている自分がいる。

でもそれは、この2人に聞くべきではないのだろう。

「んー…特に何も変わらないですよ、あの頃と。りっちゃん、韓国のアーティストに気に入られちゃって、今ワールドツアー中だから全然会えてない」

奈帆は寂しげな表情でビールの入ったジョッキを見つめた。

「やっぱ律はすごいね」

「うん、本当にすごいって思うし、尊敬する。だけどりっちゃんみんなと仲良くするから、世界見たらあたしのことなんかどうでもよくなりそうな気がして…」

奈帆はそこまで言うと、涙を堪えた声で「なんか、怖い…」と呟いた。

「あの律が奈帆のこと簡単に捨てるとは思えないけど」

「だって真春さんと平気でキスしたじゃん!」

「もーっ。それは作戦だったんでしょ?律はそんなことしたいって微塵も思ってなかったよ。奈帆のことが大好きだったんだから。今だってそう。奈帆が一番大事って思ってるよ」

真春は俯いた奈帆の顔を見た。

「真春さんは、香枝さんともし付き合うことになってたら、離れ離れになっても平気?」

「えぇっ?何その例え話。恭介がいたから付き合うっていう選択肢はなかったよ…」

「それは分かってますけど。仮に、真春さんに彼氏がいないフリーの状態で香枝さんとそうなってたらって話ですよ」

「んー…」

真春は奈帆の質問を本気で考えた。

もしあの時、奈帆の言うような状況だったら自分はどうしていたのだろうか。

10年も前の事など昨日のようには思い出せないが、奈帆と未央に香枝の話をされて、あの頃を思い出し、楽しくて少し切なかった淡い初恋のような思いがゆっくりと膨らんでいるのは確かだった。


帰宅したのは午前1時。

上着を脱いでソファーの背に掛ける。

わりと酔いの回っている真春は、ソファーに寝転びリモコンの電源ボタンを押してテレビをつけた後、いつものようにSNSを開いて投稿を確認した。

すると珍しく香枝が"よっぱらい"というコメントとともに写真をアップしていた。

未央と奈帆の言葉が頭を過り、酔っ払っていた真春はしばらく躊躇った後「そんなにお酒強くないのにね」とコメントした。

ついにコメントしてしまった。

フォローされてから、お互いの投稿は見てはいるものの絡みはなかったこの半年間。

真春がアクションを起こしたことに、香枝はどう思い、何と反応するのだろうか。

アカウント名が"桧山真春"になっているので結婚していることは分かっているだろうけど…。

その時点でなんとなく気まずいと思ってしまう自分は、10年経った今でも香枝を特別視しているのだろう。

結婚指輪を見つめ「何やってんだろ」と心の中で呟いてスマホの画面を下にしてテーブルに置いた。

重い腰を上げて立ち上がった真春はフラフラしながらキッチンまで歩き、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し、喉を鳴らして飲んだ。

翌日の二日酔いを最小限にとどめるために、よくやる方法だ。

30歳を迎えてから身体も変わった気がする。

全体的に代謝は落ち、元々体力がある方ではない真春はよく体調を崩すようになった。

不規則な生活が一番の原因ではあるとは思うが、それに加えて年々増している周りからのプレッシャーもまた真春を追い詰めていた。

ストレスから解放されたいと思う一方で、頼られているという事実が真春を救っていた。

しかし一生キャリアウーマンでいるつもりはないし、そろそろ子供も欲しい。

ここ最近は、相反する状況と気持ちに揺れながら仕事をしている。

毎日、同じような事を考えている。

それでも、同じように明日は来る。

『明日の関東地方は広い範囲で雨が降るでしょう』

気象予報士からの情報に大きなため息をついた時、テーブルの上のスマホが聞き慣れない音を発した。

確認すると、SNSからの通知音だった。

表示された文章を見ずにそのお知らせを開くと、香枝の投稿が目の前に広がった。

自分のコメントに返信が書かれている。

返事はもちろん香枝からだ。

『前よりは強くなりましたよー!また真春さんと飲みたいです!』

その文章を見て、お世辞なのかな、と思っていたがダイレクトメールを確認した時その考えは吹っ飛び真春は硬直した。

香枝からのメールだったのだ。

『お久しぶりです。メール送ろうかどうか迷ったけど、送っちゃいました』

真春の指先は震えていた。

動悸がして仕方ない。

香枝からのダイレクトメールの続きを読む。

『久しぶりに会いたいですね。都合のいい日ありますか?』

先程、「真春さんから連絡した方がいい」と未央と奈帆に言われたばかりで心の中で少しモヤモヤしていたので、真春は冷静になれなかった。

まだ震える指先で画面をタップし、香枝に返信をする。

香枝にメッセージを書くなんて何年ぶりだろう。

カチカチとボタンを押して小さい画面を見ていたあの頃が懐かしい。

『久しぶり。こんな風に香枝がメールくれるなんて思わなかった。ちょっと嬉しいかも』

ストレートな言葉を打ち込んだ画面を眺める。

このまま送ったら、なんだか色々と勘違いされそうで怖い。

真春は最後の一文を消し、シンプルに空いている日にちを送った。

本当は"会いたい"と言いたかった。

普通の友達なら躊躇うことなく言える言葉も、香枝には何年経っても言えない。

あの頃の中途半端な関係を引きずっていると思っているのは自分だけかもしれない。

友達でいようと言った日から、真春は本当は悩んでいた。

自分の気持ちに正直になりたいという思いに、恭介の存在と世の中の目には抗うことはできないという気持ちが覆いかぶさり、結局押し潰された。

本当は、恭介に別れを告げてでも香枝の側にいたかった。

しかし、その先の未来と現実的な考えに壁を作られたのだ。

いや、自ら作ったのだ。

律のような人間だったら…と何度も考えた。

世間の目を気にせずその瞬間を楽しめる人だったら、自分の気持ちの赴くままに生きられたら、どれだけ楽だろうと。

そして、そう思う中で香枝の幸せを考えた。

香枝の考える幸せが何なのかは分からないが、少なくとも自分と結ばれて生涯を共にすることではないだろうし、香枝の人生には自分は少しだけ印象に残る人として刻まれるだけでいい、と次第に考えるようになった。

やはり、あの気持ちは一過性のもので、結局香枝と会わなくなった今、こうして何事もなかったかのようにそれぞれの道を歩んでいるという事実が、今のこの現実が、間違いではなかったと物語っているように思える。

何でも言い合える友達でいようなんて、無理だったのだ。

10年も会っていない香枝に、今更何を言われても何を言っても上っ面でしかないのかもしれないと思ってしまう。

香枝からはこの10年、何一つ連絡はなかった。

たまにある飲み会で"らしいよ"という噂を耳にするだけだった。

何故、飲み会に来ないのかは、真春は知らなかった。

でも、未央の言い様だと何か知っているように思えた。

今度会う時、香枝はこのことについて何か話してくれるだろうか…。

虚ろな目で眺めたテレビに"同性婚を認めた区に迫る"の文字が広がった。

タイムリーな話題に、酔っ払った真春の頭が瞬時に反応した。

この頃よく目にするLGBTの文字。

10年前、この言葉があって世間も同性愛や両性愛に対して関心があったら、今ここに自分がいるかどうかは正直分からない。

違う人生を歩んでいたかもしれない…それくらい、あの出来事や気持ちは大きな人生の岐路だった。

"世間の言う当たり前"に縛られて自分の強い気持ちを封じ込めたのは、間違いだったのか否か。

それは今でも分からない。

しかし目の前の"世間の言う幸せ"を当然のごとく手に入れた今、何もかも説得などできない状態だ。

自分は、世間の目を選んだのだ。

喉を伝う弱い炭酸が胃に流れ込む。

次第に眠気に襲われる。

明日は日曜日。

休日なのに出勤だ。

飲み干したビールの缶を洗ってシンクに置きながら、真春は軽く欠伸をした。

虚ろな目でスマホを見る。

香枝から『じゃあ、木曜日でもいいですか?』とメッセージが来ていた。

真春は了解の返事を送り、鼻から息を吐いた。

来週の木曜日に都内のカフェで香枝とランチをすることになった。

香枝は今、地元を離れて都内で働いているらしい。

真春も都内で働いているのでちょうど良かった。

木曜日を楽しみに、そしてわずかな緊張を感じながら真春はベッドに潜り込んだ。


木曜日までの道のりは長かった。

月曜日から日勤リーダーだった真春は、ひとり立ちから数ヶ月経って少し自信のついてきた可愛い後輩達の取り扱いにとても困っていた。

時代が進めば人間も多種多様で、スポーツマンシップやら上下関係やら年功序列やら厳しい決まりの中で育ってきた真春にとっては考えられないくらい、年上に対しての敬意や礼儀のない奴らの集まりで、言葉遣いや態度に嫌悪感を感じることが多かった。

これが現代だと言われてしまえばそれで終わりだが、多少の敬意は述べてほしい。

全体的に緩すぎる。

しかし怒ればパワハラだのなんだの言いがかりをつけて訴えられそうな気もするので、何も言えない。

朱音が随分前に憔悴しきっていた理由も分かる。

水曜日は1泊入院と日帰りの手術の多い日で、おまけに受け持ちが1年目と2年目のオンパレードで真春は朝来た時点で白目になりそうだった。

案の定、朝から勤務後までてんてこ舞いだった。

短期入院が多いせいで点滴の量は普段の倍で、確認するのにも時間がかかり、昼過ぎのシフトで朱音が来てくれなかったらどうなっていたのかと想像すると、恐ろしくて仕方ない。

なんとか仕事を終えた頃には20時を回っていた。

隅にある記録用のパソコン前は、7台中6台が埋まっていた。

記録に時間がかかるのは分かるし、真春も新人の頃は22時上がりなんてザラだった。

しかし今は残業は無くして早く帰りなさい、という空気が嫌というほど漂う。

自分も仕事が遅い方なので、この子らに早くしろなどとは口が裂けても言えない。

片っ端から何の仕事が終わってないのか聞いて回る。

大体の後輩は、真春に声を掛けられるとはっとなり緊張した面持ちになり「もう終わります」と残務を隠して言うのだが、今時の新人達は何が終わっていないかはしっかり言うし、やって欲しいことも遠慮なくズケズケと言う。

自分が新人だった時は先輩にこんなに優しく声を掛けてもらったことはないし、先輩に雑用レベルの残務を任せるなんて以ての外だった。

今は昔とは違うのだ、とこの瞬間もまた真春はため息が出るような気持ちになった。

結局、後輩達が全員帰ったのは21時ちょっと前で、真春は全員が帰るまで頼まれた残務と委員会の仕事をしていた。

ようやく帰ったことを確認し、真春も病棟を後にした。

疲れた。

家に着いた時、そう思いながらお風呂に入り、何もしたくなくてソファーに寝転がりながら意味もなくニュースを眺めていたらそのまま寝落ちしていたみたいだった。

よく陽の入る出窓から冷気が漂ってきていて無意識に「寒っ…」と声が漏れた。

テレビの画面は暗くなり、真春の身体には厚手のベージュの毛布が掛けられていた。

いつも恭介と使っているやつだ。

起き上がって窓の外を見ると、パラパラと小雨が降っていた。

帰って来た時、ひどい顔して寝てたんだろうな、自分…と思い、落ち込みながらテレビをつける。

時刻は6:50。

いつもより少し遅い。

そろそろ恭介を起こさなければ…。

真春は寝室に行き、ダブルベッドの端で丸くなっている恭介に「7時になるよ」と声を掛けた。

「んー…」

「遅刻するよ」

「…しないよ」

「電車間に合わなくなるよ!もしかしたら止まるかもしれないじゃん!ほらっ、早く起きて!」

真春が恭介の顔をペチペチと叩くと、いきなり右腕を掴まれて引っ張られた。

そして、キスするかしないか寸前のところで止まり「

真春、今日休みなの?」と聞いてきた。

「ん…休みだよ」

「俺も」

「はぁ?なに?まだ酔っ払ってんの?」

昨日、仕事終わりに『今日、他部署の同期と飲みに行くから遅くなる』と恭介からメールが来たのを思い出した。

付き合っていた時期も含めるともう10年以上の間柄なので、口も悪くなるし、態度もまたそうだった。

しかし恭介は何をしても何を言っても絶対に怒らないし、むしろ「真春、仕事で疲れてるんだよね?俺も疲れるけど真春の仕事は看護師さんで大変だし、夜勤もあるし俺以上に大変だよね」などと言って本気で労ってくれる。

そんな恭介はサービス残業含めて1日10時間以上は働いて、おまけに休日出勤までしているのに。

その仏のような態度はどこから滲み出て来るのか知りたいくらいだ。

そう思った時、バイト時代に奈帆に「真春さんは仏のようですから」と言われたことを思い出した。

何かにつけてあの頃を思い出してしまうのは、香枝と連絡を取ったからだろうか。

ざわつく胸を抑えて「恭介。起きて」と強い口調で言った。

「…っだよ、もー!」

恭介は開かないタレ目で起き上がり、「なんで嘘つきよばわりすんだよ」と言った。

「遅刻する!」

「有給なの!」

「えっ」

「だからー、今日は有給取ったの!部長がうるさいんだよ。有給取れって…」

やっと目を開けた恭介は「真春も休みなんだろ?」と体育座りする真春に眠そうな目を向けた。

「そうだけど…」

「じゃあ、いいね」

恭介はクスリと笑いながら真春の腕を引っ張り、優しく抱き締めた。

窓に当たる雨の音が、さっきより大きくなっていた。


12:05。

約束の時間より10分も前に着いてしまった。

11月も間近なこの時期、駅に立っているだけで吐く息が少し白く見える。

人がごった返す都心の駅は、木曜日と言えど混雑は避けられない状況だった。

おまけに雨なので、いつもよりも更に人が多く感じる。

都内に住んでいるとはいえ、こうして都心に遊びに来るのは久しぶりだ。

周りは結婚して子供も数人産まれて、なかなか会えなくなっている。

あっさりと予定が組めた香枝は彼氏がいないか、それともいるけど寛容な彼氏か…と無駄な妄想をしていたのも束の間。

改札をくぐり抜けてきた清楚な女の子に目がいった。

それが香枝だと瞬時に分かったのは何故だか分からない。

こちらに向かってくるその姿に見惚れた。

全てがスローモーションに感じる。

改札から少し離れた広告が張り巡らされた柱の所で待っていた真春は、香枝が「お久しぶりです」と言うまで何も言葉を発せられなかった。

「ひ、久しぶり」

声が上ずっていないだろうか。

そんなことを気にする。

目の前に現れた香枝は、あの頃よりも随分と大人っぽくなって、可愛らしい女の子というより、美人という言葉の方が似合う女性になっていた。

セミロングの栗色の髪は変わらないが、ハーフアップにしているとろこがまた可愛らしい。

「ごめん、どこもお店予約してないんだ」

「全然いいですよ。平日だし、どっかしら空いてますよ」

久しぶりに聞く香枝の優しい笑い声。

懐かしさで胸が膨らむ。

あてもなく歩きながら、ぎこちない会話が繰り返される。

10年も会っていないのだから無理もない。

途切れ途切れの会話で、駅から10分程歩いて裏道に入ったところにある、最近新しくできた肉料理で有名なお店に行ってみたいという意見にまとまり、そこを目指すことにした。

スマホのマップを凝視するが、何が何だか分からず真春は「香枝、地図読めたっけ?」と困り果てた顔で言った。

「はい、仕事で鍛えられてるんで大丈夫です」

香枝はニコッと笑うと真春からスマホを受け取り「こっちじゃないですかね?」と言って歩き出した。

程なくして、迷うことなく目的地に着く。

あまり混んでいなかったのですぐに案内された。

まだ新しさの残る椅子に腰掛ける。

メニュー数が少ないので、わりとすぐに注文できた。

運ばれてきたお冷がバイトしていたファミレスのグラスと同じで驚く。

「あはは、あそこと同じ」

「ですね。懐かしい」

「てか香枝、さっき地図のこと聞いた時、仕事で鍛えられてるって言ってたけど…。保育士でもそういうことあるの?」

真春が率直な疑問を述べると、香枝は少し言いづらそうに「今は保育士じゃないんです」と言った。

「えっ?あ、そうなんだ…」

「ずっと…」

「ん?」

「ずっと真春さんに言ってなかったことがあります」

急に改まった口調になった香枝を見て、頭が真っ白になる。

未央と奈帆が言っていた言葉が脳の裏側を過ぎった。

心臓の鼓動が、鼓膜のすぐそばで聞こえる。

「この10年間、本当は真春さんに会いたかった。でも、もう甘えちゃいけないって思って、ずっと言えなかったんです」

俯いた香枝の目が潤んだ。

間も無くして、ボロボロと涙が零れる。

真春は急な展開に焦りながら、震える手でバッグの中からハンカチを探し、目の前の香枝に差し出すことしかできなかった。

「甘えるって…な、なんかよく分からないけど…。辛いこと、あったの?」

真春は受け取ったハンカチを握りしめて俯く香枝を覗き込んだ。

次第に賑やかになり始めた店内が、香枝の嗚咽を消す。


香枝の母親は、香枝が20歳になる頃に数年前から腎不全を患っていることを彼女に告白した。

透析を週3回しなければならなくて、透析の前日は苦しがって眠れないこともしばしばあり、この頃から香枝は自分が母親の面倒を見なくてはいけないと思い、なんとなく保育士になることを諦めていた。

父親はほとんど家にはおらず、亭主関白かつ冷酷な人だったようで、母親の病状に関しては医者からの定期的な経過を聞くだけで、あとは放ったらかしだった。

香枝は短大を卒業して保育園に就職したはいいものの、母親の病状は悪化するばかりで月に何度も仕事を休むことが続いた。

いつしか保育園のクラスを担当するなんてことは出来るはずもなく、香枝は保育園を辞めて今の派遣の仕事に就いた。

苦しむ母親を見て、何度も真春の顔が過った。

この状況を伝えたら、真春は親身になって話を聞いてくれるかもしれない。

病気のことだって、教えてくれるかもしれない。

この先、どうしたらいいかアドバイスをくれるかもしれない。

たくさん考えた。

でも、真春には言えなかった。

きっと、真春はあの時と同じように優しくしてくれるから。

それが怖かった。

真春に『友達でいよう』と言われてから、香枝の中ではすぐに諦められるわけがなくて、そう言われてからずっと、納得したようなフリをして過ごした。

いつしか真春の顔を見るのも辛くなって、大して就活が忙しいわけでもないのに、就活を理由に真春より先にバイトを辞めた。

ずっとずっと、真春のことを思っていた。

母親の病状が悪いということもあったが、真春に対する気持ちの整理がつかなかったので、バイトを辞めたメンバーで会おうと誘われても行けなかった。


「真春さん、言ったら絶対に気にしてくれると思ったから…」

「そりゃ誰だって気にするよ。あたしだけじゃないと思うよ。全然連絡取れなかった時期があったのは、それが理由だったんだね…。ちなみに今はお母さんは…?」

真春が遠慮がちに聞くと「もう4年前に亡くなりました」と香枝のか細い声が聞こえた。

「そうなんだ」

真春は「香枝が側にいてくれて、お母さん嬉しかったんじゃない?」と言った。

香枝の目から再び涙が溢れ出す。

「だといいな。…あともうひとつ、真春さんに言ってなかったことがあります」

「え」

真春は腫れぼったい目から落ちる涙をハンカチで拭う香枝を見た。

「清水さんのこと」

「ん?清水さん…あー!あの清水さん?優菜と付き合ってたって言ってた社員だよね?」

「優菜、実際には清水さんと付き合ってなくて、あの話は結局汐里の言う通り、妄想だったんです」

「…なんで分かったの?」

「直接聞いたんです。清水さんに」

真春は「香枝って結構やり手だね」と笑った。

「『あんなガキ興味ない』って言ってて、誰なら興味あるんですか?って聞いたら、真春さんかさやかさんって言ってたんですよ」

「え」

「だから、清水さんと真春さんがデキてるのかなって思って…。今思うとあの頃からあたし、真春さんのことが好きだったのかもしれません」

真春は言葉を失って、視線が空中を行ったり来たりしていた。

「だから、清水さんの話されるとすごく嫌で…。こんな気持ち認めたくないって思ったけど、真春さんのことが好きでしょうがなかったんです」

「ん?え?ち、ちょっと待って…。あたし、香枝が清水さんのこと好きって小耳に挟んだんだけど」

真春は「時効だと思ってるから言うけど」と付け足した。

「あはは…それはないです。優菜が言ってたんでしょ?」

「うん」

「清水さんのこと取られたくないと思ってたから色々と変な噂立てたりしてたみたいですよ。あのブログだって、誰にでも分かるようにしてたじゃないですか。実際は付き合ってないのにそういう風に見せて、清水さんに誰も寄せ付けないようにしてたんだと思います」

「香枝は、優菜から何か言われてたの?」

「ううん、何も。あの頃、本当に心を開けるのが優菜しかいなかったから、実際は嘘でしたけど清水さんとのことを隠されてたのは結構傷付きました。でもそれよりも、真春さんとじゃなくて良かったって思ったんです。さやかさん家で飲んだ時のこと覚えてますか?」

「ブログの話してさやかさんがブチ切れてたやつ?」

香枝は「そうそう」と余った涙を拭いながらクスッと笑った。

「あの日、真春さんが家まで送ってくれた時、酔っ払った勢いで真春さんに好きって言おうかなって思ってたんです」

少し恥ずかしそうに俯く香枝は「今更こんなカミングアウトしてすみません」と笑った。

「全然。ショックすぎて香枝が黙り込んでるのかと思ってたから、なんて声掛けていいのか分からなかったけど、なんか放って置けなくて…。でも結局家まで行っても何も変わらなくてさ。何してんだろって思ったけど、あの頃は香枝のことあまりにも知らなさすぎたから、自分が何か言うべきじゃないよなって思って、なんか無駄に気を遣わせちゃったかな…なんて思ったりもして」

真春は「でも」と続けた。

「その時から、香枝のことが放って置けない存在だったのは確かだったよ」

「真春さん優しいから、そうやって誰にでも手を差し伸べるじゃないですか」

笑った香枝の潤んだ瞳は、あの頃と同じ、可愛いのだけどどこか強気で奥に炎が燃えていそうな、そんな目をしていた。

「今じゃそれが欠点かも」

「どういうことですか?」

「後輩のこと怒れないの」

香枝は「後輩からしてみれば、最高な先輩じゃないですか」と笑った。

笑い合っていると、先に持ってきてくださいとお願いしたアイスコーヒー2つが運ばれてきた。

「ミルクと砂糖使う?」

小さなお皿に乗せられたミルクと砂糖を香枝の方に差し出すと、香枝は「いただきます」と言って砂糖を2つ、ミルクを1つ手に取った。

「そういえば真春さん、結婚してるんですよね?」

「あ、う、うん」

何故か気まずさを隠せない。

「風の噂で聞きました」

「そっか…。結婚式も家族だけで済ませたから誰も呼んでないしね。なんか周りの人よりはサクッとしてたかな」

真春はストローに口を付けて運ばれてきたアイスコーヒーを少し吸った。

あまり好きな豆ではない。

「香枝は?彼氏、できた?」

なんとなく話の流れでそう言うと、香枝は「彼氏っていうか」と言葉を濁した。

「真春さんだから言えるかな」

香枝は俯いて「真春さんのこと好きになってから、女の人に目が行くようになっちゃって」と言った。

「今まで彼氏いたことありますけど、同性といる方が気持ちが落ち着くし、友達とかそれ以上の関係になりたいって思うことが多くなったんです」

「そうなんだ…」

「今、一緒に住んでる人がいるんです」

「女の人と?」

「はい」

「香枝はその人のこと、好きなの?」

真春の問いに、香枝はコクンと頷いた。

少し、切ない気持ちになるのは何故だろう。

「好きな人と一緒に暮らせるなら、いいじゃん」

なんだろう、このザワザワした胸糞悪い感じは。

自分は結婚しているくせに、香枝が他の人の事が好きと言った時のこの感情に、自分でも驚く。

「今の人をちゃんと好きになるまでにはやっぱり時間かかって…」

「香枝から告白したの?」

香枝は首を振った。

「意外。香枝、結構積極的なのに」

「向こうがそれ以上にすごく積極的だから。半分押しに負けた感じです」

香枝は恥ずかしそうに笑うと「真春さんは真逆ですもんね」と言った。

積極的な香枝が好きだったことを思い出した。

真春が変な沈黙の後「だね」とぎこちない笑みを浮かべた時、店員が料理を運んできたので会話が中断された。

むしろ中断してくれて、良かった。

「そういえば真春さん」

シルバーをいじりながら香枝が言う。

「タバコ、やめたんですか?」

「ん?あ、うん…やめた。なんで?」

「こういうお店って大体禁煙じゃないですか。最近うるさいし。だから、大丈夫かな?って思って。でも吸ってないなら大丈夫ですね」

タバコとはあっさりオサラバした。

その理由は看護師になって1年目の新人時代に遡る。

時代に合わなさすぎる、病棟独特の新人いびりと今で言うパワハラの嵐だったあの頃。

病態が分からなければ即座に「受け持たなくていい」と冷酷な目で言われ、「受けもたせてください」と朝の申し送り前に先輩に懇願するというのがマニュアル化しているという謎の流れがあったりして、精神的な部分では同期で支え合いなんとかなっていたが、要領の悪い真春は残業が多過ぎてとうとう1月に体調を崩した。

1週間近く39℃台の熱が下がらないと思っていたら、なんと髄膜炎だったのだ。

1ヶ月の入院期間中、全くタバコを吸わなかった。

その時、この先吸うこともないかな…となんとなく思い、退院後からあっさりとタバコを辞められたのだ。

そんな話をすると、香枝は「真春さんがタバコやめられたとか意外」と言った。

「そう?」

「なんか、大体タバコ吸ってるイメージだったから」

「お金かかるし、いいことないなって思ったらまた吸おうとは思えなくて」

「あはは、たしかに」

いつの間にかお皿は空になっていて、料金はかかるがドリンクを追加注文した。

10年も経てば、お互いに想像できない人生を歩んでいたし、本当は香枝のことが恋しいと思った時期もあった。

でもそれは、自分が自分と向き合うのに必要な時間だったし、香枝もまたそれは同じだった。

そして今、それぞれの人生を歩んでいる。

香枝とこうして会ったことで、固まっていた化石となっていた自分の気持ちが少し蘇った気がした。

香枝のことが好きだ。

そう思っていた頃を鮮明に思い出す。

何が正解か、何に従うべきなのか、10年経った今でも世間の大半の答えは変わらない。

でも、増えてきた少数派が異論を唱える。

"100人中8人は性的マイノリティー"

いつしかニュースで聞いたこの言葉は、香枝のような人々にとって、どのような影響をもたらすのだろうか。

認められつつあるもののやはりそれは一部で、まだ世間の大半は偏見を持つのだろう。

香枝が選んだ道なのに、何故か少し責任を感じてしまう。

「そろそろ行きますか?」

香枝が左手首の腕時計を一瞥して言った。

真春もスマホを見て時間を確認する。

まだ16時少し前だ。

「早く帰らないと、怒られちゃうんですよね…」

そう言った香枝の微笑みからは、何も読み取れなかった。

真春は「心配してくれてるんだよ」と言って椅子に掛けたジャケットを羽織った。

香枝もいそいそと準備をする。

外に出た時にはすでに雨は止んでいて、傾きかけた太陽が雨上がりの街を温かく照らしていた。

ビルの無数の窓に反射した光が、足元の水たまりにキラキラと降り注ぐ。

雨上がりの空を見上げると、大きな虹がかかっていた。

灰色の雲間から見えた水色の空に白い粒が見えた。

「あ、ヒコーキ」

真春が無意識にそう言うと、香枝が「懐かしいですね」と笑った。

あの日一緒に見た飛行機を思い出す。

お互いに思い合っていたあの頃、真春は幸せの先にある予測できない未来に不安を抱いていた。

世間から一目置かれることなら尚更だ。

逃げた自分は悪なのか、自分の気持ちに素直になった香枝は善なのか。

決めるべきではないし、比べるべきでもないが、やはり自分はずるいと思ってしまう。

10年の時を経て、胸に残っていたあの頃の緑の味は、思い出したのも束の間、枯葉となって使命を果たした。

「今日はありがとうございました」

「こちらこそ」

駅に着き改札をくぐり抜けた時、香枝は「またご飯行きましょ」と綺麗すぎる笑顔を向けた。

「香枝の恋人が怒らない範囲でね」

「あははっ!大丈夫ですよ」

「ならいいけど」

数秒の沈黙の後、真春は「じゃあ、またね」と手を振った。

「はい、また連絡します」

にこやかに笑った香枝は回れ右をして雑踏の中に消えていった。

きっと、これで最後だ。

なんとなく、そう思った。

周囲の音が次第に大きく聞こえ始める。

今の今まで香枝の声に集中していたから、周りの音など気にならなかった。

真春も香枝に背を向けて歩き始める。

溢れてくる涙は、何なんだろう。

嬉しさか、虚無感か、それとも他の何かか。

分からない。

ひとつの恋が終わるとは、こういうことなのだろうか。

それまでにどれほどの時間を要したのだろう。

時を重ねれば、今日という日がいい思い出になるだろうか。

香枝にとって、特別な日になるだろうか。

振り返ると、そこには数え切れない人が行き交っていた。

誰がどんな人を好きなのだろう。

"本当の好き"を手に入れられる人は、どれくらいいるのだろう。

電車に揺られながらぼやんとした頭で考える。

その考えは次第にもやとなり消えていった。

電車の窓にもたれかかりながらものすごい速さで過ぎ去る景色を横目に、零れ落ちた涙を両手で拭う。

もう、香枝の顔は思い出せなくなっていた。

好きな人ほど思い出そうとすると、顔も声も思い出せない。

最寄駅の改札をくぐり抜け、深呼吸して歩き始めた道にはキンモクセイの絨毯が広がっていた。

甘い匂いが肺を満たし、香枝を好きになった秋の夜を思い出した。

冷たい風を感じればジェラートを食べに行った寒い日を思い出すだろうし、春になれば思いを伝え合った日の緑の匂いが蘇るだろう。

そして、全てを知った夏を思い出す。

鼻をすすりながら歩く帰り道は、帰るべき場所に導いてくれた。

このドアの先にあるのは、"世間の言う幸せ"。

たくさんの色で溢れる世界はまだ、遠い未来の話なのかもしれない。

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