優しい嘘ならば
8月の最後の週は、蝉は例年と変わらぬ音量で夏を盛り上げ、台風は世の中を騒がせた。
気付けばあと少しで9月。
あれから、香枝と律と真春の3人のシフトが一緒になることは度々あったし、香枝と律がラストまで全く同じシフトだったことも何度かあったが、3人とも何も語らなかった。
香枝と律は何を考えているのかは分からないが当たり障りない感じで働いていたし、真春も深く考えないようにして臨んでいた。
しかし、香枝に対してはどうしても普通になれなくて、ぎこちなさを感じ、毎日家に帰っては反省するばかりだった。
『金曜日、18時に駅前のカフェ集合で』
唐突に未央からメールが来たのは水曜日の夕方。
宛先は自分と香枝だけだ。
3人で集まるのは旅行以来だ。
香枝は未央と何か話したのだろうか。
香枝が未央に相談していたのも、自分が未央に相談していたのもお互いにもう分かっている。
でも、最後の最後まではまだ言っていない。
あれから日にちも経っているので事後報告みたいになってしまうだろうなと思いつつも、やはり未央には全て語らなければと心の隅で思っていた。
「いつか3人で話せるといいね」と言っていたことが実現されることに、喜んでいいのかどうか…。
未だに、あの結果が本当に正解だったのだろうかと立ち止まってしまう時がある。
自信を持ってイエスと言えないが、イエスと言わなければならない何かが常に存在するのだ。
ハラハラしながら迎えた当日は、本格的になってきた国家試験対策授業の予習に時間がかかり、定刻より1時間以上遅れてカフェに到着した。
自動ドアをくぐった時、奥の方で手を振る未央が目に入り、真春は軽く手を振った。
アイスコーヒーを頼んで未央と香枝のいる席に着く。
「ごめん、遅くなって」
「いーえ、全然平気です」
「てか居酒屋じゃないのが意外」
真春が言うと、未央は「まーまー、お茶してから居酒屋行きましょ」と勿体ぶった口調で言った。
「えー、なになに?未央の考えでもあんの?」
「ま、それはお楽しみってことで!」
未央は香枝をチラッと見た後、ニヤニヤし始めた。
「なに?」
「真春さん、怒らないでくださいね?」
「えっ…?あ、うん。てか、な、なんで香枝泣いてるの?」
席に着く前から、香枝の様子がおかしいことに気付いていた。
触れていいのかどうか分からなかったが、やはり言わずにはいられなかった。
真春は目を見開き、訳がわからないといった表情で未央を見た。
香枝は何故か真っ赤な目をしていて、真春が来てから何も言葉を発していない。
「今までずっと、騙しててすみません」
未央は真春の質問に答えずにそう言うと、香枝が鼻をすすった。
「へ…?!」
意味が分からず、真春は硬直した。
深呼吸する未央をまじまじと見る。
唇が震えるそのわずかな動きさえも逃すまいというような目で。
未央は、少し楽しそうな目をして語り始めた。
11月半ばの日曜日。
香枝と久しぶりにラストが被った未央は、のんびりとホールの締め作業をしていた。
閑散期のわりに混んだので洗い物が山積みだったが、テキパキと片付けていく香枝を見て、自分も頑張らねばと未央は思った。
香枝はおっとりしているように見えるけど、実はしっかり者で努力家だ。
バイトではあまり見せないが負けず嫌いだし、かわいい文句だって言う。
未央にとって香枝はこのバイトでは唯一の同い年なので、何でも気兼ねなく話せる大切な友人だった。
おそらく、さやかや真春が知らないことも自分は知っている、と未央は思っていた。
締め作業が終わり、戸田さんに挨拶してお店を後にすると、何の前触れもなく香枝が「未央。あのね…」と沈んだ声で言った。
「なにー?」
駐輪場に向かいながら、未央は軽く返事をした。
後ろにいた香枝は黙ったまま歩いた。
「え、何?どうしちゃったの?」
なんだかいつもと様子が違うので、少し心配になる。
「へ、変な話かもしれないんだけど…」
「変な話?」
「あたし…真春さんのこと、好きかも」
自信なさげに言った香枝は俯いていて表情は分からないが、勇気を振り絞ってこの言葉を口にしたのだろうと未央は感じた。
「好きって…あたしもそりゃ真春さんのことは好きだけど。それとは違うってこと?」
なんとなく、デリケートな話題のような気がして、未央はなるべく香枝を傷付けないような言葉を選ぶのに必死だった。
未央の言葉に、香枝は頷きも首を振ることもしなかった。
「でも…こんなのっておかしいよね?どうしよう…」
「憧れの好き?それとも…恋してるみたいな。片想いみたいな?」
「分かんない…」
香枝は声を震わせて呟いた。
「でも…真春さんとバイトが一緒だとすっごく嬉しくて、ずっと一緒にいたいって思っちゃうの。なんか最近、そんなことばっかり考えちゃって。おかしいよね」
「真春さん、優しいし可愛いからね。女子は結構憧れるんじゃない?…たまに抜けてるけど」
未央は真春の数々の失態を思い出して少し笑ってしまった。
真春には人を惹きつける魅力がある。
それが何かと言われたら分からないが、誰にでも分け隔てなく優しくて、ミスしても面白おかしくフォローしてくれるその心遣いが人として尊敬できる。
ずば抜けて仕事ができるわけではないし、仕切るわけでもないが、真春がいるだけで空気が和んで働きやすいのだ。
平和主義の真春は誰からも愛される、愛されキャラだ。
そんな真春に憧れているのはきっと香枝だけではない。
そう思っているが、多分香枝の言っている好きは憧れの好きではなさそうだ。
「なんかもう…一緒にいるとドキドキするっていうか、優しくされるとどうしていいか分からなくて…」
「あはははっ!それ、恋だよ、恋!」
「えっ?!どうしよう…。変だよね?おかしいでしょ!」
半べその香枝は未央のジャケットの袖を掴んで「笑わないでよ」と言った。
「ごめんごめん。…おかしくないよ。誰だって人のこと好きになるでしょ」
「でも、同性だよ?」
「好きなら好きでいいじゃん。ダメなの?」
未央は思った通りの言葉を口にした。
偏見を持つ人もいると思うが、未央は何故だかそういうものにはそれほど抵抗はなかった。
それも人間の神秘だと思っている。
人を好きになることはとてもいいことだ。
異性だろうが同性だろうが、好きなものは好きと堂々とすればいい。
でも、世の中はそう単純ではないのが現実だ。
未央はこれから香枝がどうするのか、心配で仕方なかった。
「何かあったら相談して」
「えっ?」
「応援するよ」
「そんな…応援って言われても…」
「その気持ち、言わないままなんてもったいなくない?」
「でも言ったら引かれちゃうよ…」
「引かないよ」
「何で分かるの?」
香枝は弱々しく言った。
「真春さんはそんな人じゃないよ」
未央が言うと、香枝はコクンと力なく頷いた。
それから香枝には会う度に近況を聞いていた。
香枝は片想いしている少女のようにキラキラとしていて、時に恥ずかしそうに語る姿は、真春に対する気持ちは間違いのないものなのだと、話す度にひしひしと感じた。
そんな中訪れた真春の家での飲み会。
当日の香枝のテンションは今までに見たことないくらいぶち上がっていたし、緊張しているようにも見えた。
「香枝、真春さんの家に行くのすごい楽しみにしてるみたいですね」
「確かに。超ハイテンション」
「ホント、香枝は真春さんのこと大好きですね」
「分かりやすいところが可愛いよね、妹みたいで」
真春は香枝を見て、親が子供を見るような目で優しく微笑んだ。
いつものように、穏やかで優しい口調。
そして、太陽みたいな笑顔。
どちらかというとタレ目の真春は、実年齢よりも若く見られることが多いと言っていた。
それがコンプレックスらしいが、自分からしたら贅沢な悩みだと未央は思っていた。
「人のこと見て、なんだよ未央〜」
真春が未央を見上げる。
「あははっ、可愛いから見惚れてました」
「うそつけ!」
真春はケタケタ笑った。
もともと香枝が真春のことが大好きだということは、真春に対する態度でよく分かっていた。
よく抱きついたり、腕を組んだりしていたし。
しかし未央に相談してからというもの、香枝のそんな行動はぴったりと止んでしまっていた。
そのことを咎めると、香枝は「恥ずかしくてできない」と言った。
「今までしてたのに?」
「だって、嫌われたくないもん…」
いつの日かそんな会話をした。
何をしても真春なら優しく受け止めてくれそうな気もするが、香枝にとっては不安なことなのだろう。
しかしそう言いつつも、宅飲みでは酔っ払って真春のベッドで2人で寝ていたので、未央は夜中目が覚めた時、驚くと同時ににやけが止まらなかった。
その後、また真春の家で宅飲みをすることになってもドタキャンしたり、イルミネーションを見に行った時も奈帆たちと一緒にトイレに行くフリをして、真春と香枝を2人きりにさせたり、クリスマスシーズンに合わせてお店でサンタやトナカイの格好をした時の真春の写真を香枝に送りつけたり等、未央は香枝の片想いを陰ながらに応援していた。
するとクリスマスの日、真春から突然「香枝が好きかもしれない」と相談されて、未央は驚きのあまり笑いそうになってしまった。
未央は両想いである真春と香枝に相談され、どうにかして2人の気持ちをお互いに伝えさせたいと必死で考えた。
客足もまばらになってきた年末、あまりにも暇だったので未央は14時で上がりになった。
もともと14時までのシフトだった奈帆と事務所で鉢合わせた時、この悶々とした気持ちを抑えきれず、ついに未央は「奈帆に相談があるんだけど」と言ってしまった。
他言無用なデリケートな話題なのは重々承知だが、1人では煮詰まるばかりだった。
「未央さんが相談なんて、珍しくないっすか?悩みとかなさそうなのに」
「あたしの相談じゃないんだよねー」
「えっ?なにそれ。よくわかんない」
奈帆は未央が固い表情で笑ったのを見て「外で話しましょ」と言って立ち上がって伸びをした。
裏口から出て階段を下り、喫煙スペースのベンチに腰掛ける。
奈帆は反対側に腰掛けてタバコに火をつけた。
「奈帆さー、前に律さんと付き合ってたみたいなこと言ってたじゃん?」
「えー、その話掘り返すー?恥ずかしいからやめてくださいよ。もうそんなんじゃないから」
奈帆とよくシフトが被る未央は、このお店のスタッフの中では奈帆とは仲が良い方で、深い話をすることが多かった。
サバサバしてつっけんどんな奈帆とおっとりしてマイペースな未央は全くと言っていいほどタイプは違うが、何故か波長が合うのだ。
「それが役立つ時が来たんだよねー」
未央の表情がやけに真剣で困惑していたので、奈帆はただ事ではないと瞬時に察知した。
「誰かの恋愛事情知っちゃった感じっすか?」
奈帆は身を乗り出して未央を見据えた。
「そう」
「うわー!待って待って!」
奈帆は楽しそうにはしゃいだ。
口から甘い香りの煙がモクモクと上がる。
「誰だか当てたいから、言わないでくださいね」
「当ててみて」
未央はベンチの上で体育座りして、膝の上に顎を乗せた。
「えーっと…」
奈帆は天を見上げて考えた。
そして数秒後「汐里?」と言った。
「なんでそう思った?」
「んー、だって汐里女子校だし…っていう偏見?」
奈帆はあはは、と笑った。
「ハズレー」
「なんすか!今の当たってたっぽい反応だったじゃないっすか!…えーっ、じゃあ誰だろ」
「びっくりするかも。ってか、意外」
「意外ねぇ…」
さっきよりも長く考えた後、奈帆は「分かっちゃったかも」とニヤニヤした。
「香枝さんだ」
「おー!」
「正解?」
未央は頷いた。
「相手は?」
「まさかとは思うけど優菜じゃないですよね?」
「だとしたらどうする?」
奈帆は「その言い方は違いそうだなー」と言って、灰皿に灰を落とした。
「これこそ意外かも」
「うーん…」
「奈帆も大好きな人だよ」
「えっ?」
目を丸くして未央を見た奈帆は「真春さん?」と信じられない!というような表情で言った。
「正解!」
「嘘でしょー!」
奈帆は右手に持っていたタバコを灰皿に思い切り投げつけた。
「えー、あたしの真春さんがー…。てか真春さん彼氏いますよね?」
「そうなんだけどさー。なんか2人の話聞いてたら、すごい応援したくなっちゃって」
未央は奈帆に2人から相談されたことをこと細かに話した。
驚きを隠せない奈帆は終始口が開きっぱなしだったが、未央が話し終えると「2人ともピュアか!」と言って爆笑した。
「なんか、懐かしいなー」
「律さんとのこと?」
「そう。思い出しちゃいました。律とは付き合ってたかって言われたら、どうだったんだろ…って感じだけど、お互いに超大好き!って感じだったし、トキメキはありましたからね」
奈帆はそこまで言うと、恥ずかしそうに2本目のタバコに火を付けた。
「ちゃんと好きだったんでしょ?」
「うーん…細かく言ったら、今考えると恋愛の好きとはちょっと違ってたかもしれないですけど、好きでしたよ。でも、律はあたし以上に本気でしたよ」
「そうなんだ」
「あたしに男の子で好きな人できた時、律と大喧嘩したって話しませんでしたっけ?」
「うん、聞いた」
「男が絡んでくると厄介ですよ。で、真春さん彼氏いるのに大丈夫なんすか?」
奈帆の吐いたバニラの香りのする煙が風に乗って未央を取り巻いた。
「そうなんだよねぇ。でも、1回くらい浮気してもいいと思わない?」
未央はいたずらっ気たっぷりの目で奈帆を見た。
「未央さん怖いわー。まぁでも確かにね。付き合う付き合わないは別として、こんなに悩んでるのに気持ち伝えないのももったいないですしね」
「なんとか気持ちだけでもお互いに伝え合う方法ないかなーって考えてるんだけど、なかなかいい案が思いつかなくて。香枝は絶対無理って言うし、真春さんにははぐらかされるし…」
「あはははっ!2人らしいっすね。んー…あ、そうだ」
思いついた!と言う風に奈帆は目を輝かせた。
「律にも協力してもらいましょ。そういう経験豊富だし、気持ちわかると思うんで」
「経験豊富なの?奈帆だけじゃないの?」
奈帆は意味深な笑みを浮かべた。
「あの子は好きな人なら男も女も関係ないんですよ。レズだろうがゲイだろうが、性同一性障害だろうが好きになっちゃったら、そりゃもうゾッコンですよ」
「好きって、恋愛の好き?」
「そうです。実際、世の中にはそういう人もいるみたいです。バイとも違うらしいんですけど…なんかその辺はよく分からないです。恋のオールラウンダーってとこっすかね」
奈帆の例えに未央は手を叩いて笑った。
「上手いこと言うね。全人類が恋のライバルだ」
「そうそう!敵増えちゃってるんすよ」
「でも、男女関係なく人を好きになれるってすごくない?深いよね」
「未央さんはそういうの偏見ない人ですか?」
「うん、なんとも思わない。好きなんだからしょうがなくない?」
「あー、世の中未央さんみたいな人でいっぱいになればいいのに」
何か言いたげな物言いの奈帆は短くなったタバコの先端から立ち上がる煙を眺めた。
「やっぱり同性が好きだなんて言ったら、周りから変な目で見られるのが普通なんですよね」
「うん…」
「あたしも、律と手を繋いだ時、幸せだったけど心のどこかで周りからどう思われてるのかって考えるのが怖かったですもん」
「奈帆でもそんなこと思うんだ」
「思いますよー。でも、やっぱり好きなものは好きなんですよね」
灰皿に吸い込まれていった吸い殻がジュッと音を立てて濁った水に沈んでいった。
その日の夜、律を招いて近所の居酒屋で会議が開かれた。
「真春がそんな恋焦がれる感じなの、意外」
未央が昼間奈帆に話したことを今度は律に伝えると、ビールを片手に焼き鳥を頬張りながら律はしれっと言った。
「驚かないんですか?」
「そりゃ驚かないこともないけど…。真春って結構ドライなのかと思ってたけど、そんなに好き好き!ってなるなんて、ねぇ?彼氏いるのにそんな浮ついちゃってダメじゃんねぇ。別れる気なのかな?…あ、ビールお願いしまーす!」
結構シリアスな話題の途中で店員を呼びつけてビールのおかわりを要求する律。
自由人とはこういうことをいうのだろうか。
知り合ってまだ1週間と少しだが、未央は律という強烈なキャラクターに圧倒されまくっていた。
「ねー、りっちゃん聞いてるの?」
「聞いてるよ。あ、奈帆ちゃんオコですか?」
律はふざけて隣に座る奈帆の頬を人差し指でつついた。
「もうっ!ちゃんと聞いて!真剣な話してるの!」
「分かってるって。真春と香枝をくっつければいいんでしょ」
「言い方…」
「だってそうじゃないの?めっちゃ燃えるわ、こういうの。片想いって、不安だけど何故か良い方に期待しちゃったりしてドキドキするよねー」
律は楽しそうに言うと、運ばれてきたビールジョッキを店員から受け取り「あざまーす」と小さく片手を挙げた。
「りっちゃんふざけてる」
未央は奈帆と律のやりとりを見てクスッと笑った。
「何笑ってんすか!」
「仲良いなーって思って。香枝と真春さんも、そのうちこうなれるのかなってちょっと考えちゃった」
それもそうだが、奈帆が律のことを"りっちゃん"と呼んでいるのが微笑ましくて、つい笑みが零れてしまった。
バイトの時はいつも呼び捨てなので、ちょっぴり新鮮だ。
何故バイトではりっちゃんと呼ばないのか聞こうと思ったが、今はそんな事を聞いている場合ではないと思い、やめた。
「なんで未央はそんなに2人のために一生懸命なの?」
「んー…友達だから、ですかね」
「友達…」
律は考えるように言ってビールをひと口飲んだ。
「あの2人が本当にいい子だから、未央さんもなんとかしてあげたいって思ってるんじゃない?じゃなきゃここまで考えないでしょ」
奈帆がきゅうりの漬物を箸でつつきながら言った。
「そう思わせるほど、あの2人の人間性は素晴らしいってことだ」
「まぁまだ律さんは入ったばっかりだからあんまり話したこともないし、分からないかもしれないですけど…」
「これから知ってけばいいっしょ。大丈夫、大丈夫!」
律はガハハと大きな口を開けて笑った。
「入ったばっかりで、こんなことに巻き込んじゃってすみません」
「ぜーんぜん!2人の気持ち分かるからさ、あたしでよければ何でもやるよ。なんなら体張るし」
未央は「体張るって?!」と半笑いで聞いた。
「キスでもなんでもするよ」
なんの抵抗もなくそんな事を口にするので、奈帆が「いきすぎでしょー」と制したが、表情はなんだか楽しそうだ。
「え、律さん。それ本気ですか?」
「本気だよ」
「じゃあ…」
上手くいくかは、正直、自信がない。
それに2人を傷付けてしまうこともあるかもしれない。
でも、これしか思いつかなかった。
未央は今思いついたシナリオを2人に伝えた。
年が明けて更に寒さが増してきたある日。
律は22時に上がり、事務所で香枝と話していた。
未央に作戦を聞いてからというもの、律は真春と香枝に必要以上に絡んだ。
『まずは香枝に嫉妬させましょ』という未央のシナリオだったので、特に真春には鬱陶しがられるほどベタベタした。
もちろん香枝がいる時は確実にやるが、怪しまれないように色々なシチュエーションで真春にちょっかいを出していた。
今日は真春がラストまでだ。
もともとあまり緊張しないタイプだが、今日に限っては別問題だ。
1つの失態が全てを崩しかねない。
「律さんはまだラストまでは入らないんですか?」
その時を待っている律は、緊張を悟られないようにいつも通りの自分を演じた。
「うん。まだ入ったばっかりだから、もう少し慣れたらシフト組んでくれるって戸田さんが言ってた」
「そうなんですか」
「教えてくれるの誰だろー。さやかさんかな?」
「さやかさん教えるの上手いし、バイトリーダーだから、そうかもですね」
香枝はコップに入った水を飲んで「今も結構さやかさんに教えてもらってますもんね」と言った。
「うん。でも真春がいいなー」
「えっ?なんでですか?」
「だって優しいんだもん、真春。教えるのも上手いしさ」
律は「でもたまに抜けてるんだよね」と言って真春に教えてもらっていた時のことを思い出してクスッと笑った。
「あははっ。確かに抜けてるところあるかもしれないです。でも頼れるところもありますよ」
「たまに見せる真春のぎこちなさがちょっと胸キュンなんだよね」
「胸キュンですかー?」
香枝は何を考えているのか分からないトーンで笑った。
「うん、なんか可愛くて」
律は香枝に少し挑戦的な目を向けると、香枝は「コップ、片付けてきますね」と微笑んで、空になった2つのコップをキッチンに持って行ってくれた。
「ありがと」
香枝の姿が見えなくなってすぐ、律はテーブルに置きっ放しになっている香枝のバッグから財布を抜いて、自分のロッカーに入れた。
香枝が戸田さんと真春と何やら話している声が聞こえる。
律は未央に『財布抜いた!』とメールで一報入れた。
しばらくして香枝が事務所に入ってきて「まだ帰らないんですか?」と言った。
「うん、ちょっと戸田さんに用あるから」
「そうなんですか?じゃああたし先に帰りますね」
「お疲れ」
「お疲れ様です」
香枝はなんの疑いもなく、財布を置き去りにして帰って行った。
締め作業を終えた真春が事務所に戻ってくる前に、律は先程自分のロッカーに入れた財布を香枝のロッカーに入れた。
律は真春が上がって事務所に入ってきた時、未央に再びメールを送った。
『真春、上がりました〜!いよいよだね』
「あれ?朝比奈さん、まだいたの?」
戸田さんはニコニコしながらパソコンの前に座った。
「まだいましたよー!でも真春来たしそろそろ帰ろっかな」
律は「真春、一緒に帰ろ」とさりげなく携帯をポケットに入れる前に時間を確認し、真春の隣にピッタリくっついた。
「だからいつも近いんだってば…着替えるからちょっと待って」
真春はいつもの調子で律を鬱陶しそうにあしらった。
帽子を取った真春の髪に痕がついているのが少し可愛いと思ってしまう。
本当はあまり嫌われたくないのに、損な役回りだよなぁと思いながら律は新着メールを確認した。
『了解です!今から香枝に電話するんで、15分後くらいにお願いします』
未央からの返信を見て、律は深呼吸した。
律からのメールを見て未央は香枝に電話をした。
いよいよだ。
「もしもし香枝?」
3コール目で取った香枝の声はいつもと変わらぬ可愛らしい声だった。
『あ、未央ー!どうしたの?』
「あのさー、この間飲みに行ったお店のポイントカードって持ってる?」
『え?ちょっと待って……あ、あれっ?財布お店に忘れてきたかも!取ってくるからまた連絡していい?』
「うん。ごめんねー」
ついに、作戦が始まる。
律は大丈夫だろうか。
未央は『香枝、お店に向かったよ』と律にメールした。
23:55。
未央からメールが来て10分が経った。
真春と暗い駐車場を歩いて駐輪場に向かう。
そろそろ決行しなくては。
少し鼓動が速くなった。
話している真春の言葉を遮り「あたし、真春のことが好き」と、律は真剣な顔で言った。
そう言った時、言葉の重さがのしかかってきた。
今まで演じていたせいか、真春のことが本当に好きなのかと錯覚してしまうくらいに気持ちのこもった言葉が飛び出した。
くりくりした目を更にくりくりさせて、真春は硬直した。
サバサバしている性格とは思えないほど見た目はあどけなくて、可愛くて、同性なのに胸がキュンとなってしまう香枝の気持ちがとてもよく分かる。
あの頃、自分が抱いた気持ちと同じ気持ちなのかもしれない。
律は真春の両手首を握った。
「冗談でしょ?」と困ったように笑った真春を押さえつけ、心の中で何度も謝りながら唇を奪った。
香枝がどのタイミングでこのキスを見たかは分からない。
もしかしたら見ていないかもしれない。
この衝撃的な現場を香枝に目撃させたかったのは、真春が同性とのキスに抵抗がないことと、真春を律に取られるのではないかという不安を持たせるための作戦
だった。
できればここで香枝が「なにしてるの?」とでも言って来てくれれば良かったのだが、さすがにそれは無理だった。
演じている自分に感情移入しそうになったところで、思い切り真春に突き飛ばされて、律は我に返った。
作戦の途中だということを忘れそうになっていた。
「な、なんでこんなことするの…」
「真春のことが好きだから」
「意味分かんない…」
"レズだということをカミングアウトする"という作戦はかなり効果的だった。
細かく言うと、律はレズではない。
男だってしっかり愛せるのだが、今回はややこしくなるのでレズという設定にしようと未央と奈帆と話したのだ。
彼女がいたということを話すと真春はかなり困惑した様子で俯いていた。
「真春のこと、好きでいてもいい?」
「あたしのこと、嫌い?」
そんな問いに対し、真春は否定も拒絶もせずに、しっかりと答えてくれた。
こんなめちゃくちゃなことをした相手とちゃんと話すなんて、真春はお人好しだし優しすぎる。
普通なら無視するか、怒って帰るだろう。
その優しさと人を思いやる気持ちが、真春の気持ちにブレーキをかけているのかもしれない。
律はそう思った。
「香枝よりあたしのこと好きになって」
そう言った時、真春は香枝が好きだということを必死に隠そうとしたようだったが、諦めて自分の気持ちを早口で述べた。
目にたくさん涙を溜めた姿を見て、心苦しくなった。
それほど悩んでいるのだ。
「もう…この話おしまいでいい?」
真春は目と鼻を真っ赤にして、絞り出すような声でそう呟いた。
律は、何も言う気になれなかった。
同性を好きになってしまったがために、泣きたいほど悩んでいるのだ。
それは、律にも痛いほど分かった。
今でこそ楽しくいられるが、最初にその気持ちに気付いた時は、自分で自分が受け入れられなかった。
それでも、好きなものは好きなのだ。
その気持ちは驚くほど真っ直ぐで、シンプルで、真っ白なものだ。
それが分かるから、少し可哀想な思いをさせてでも2人の気持ちは無かったことにはして欲しくなかった。
カラカラと自転車が空回りする音が遠ざかっていく。
その時、ポケットの中で携帯が震えた。
『もしもーし。律さん、どうですか?』
「うん、ちょうど今、真春帰ったよ。香枝はどうだった?電話した?」
『いや、それが…。電話出てくれなくて』
「そっか」
『真春さんは怒ってなかったですか?』
「怒るもなにも…泣かせちゃったよ。やり過ぎたかな。まーた嫌われるよ」
律は、ははっと感情のこもっていない笑いを飛ばした。
「とりあえず、香枝に"真春さんが律さんに取られるかもしれない"っていう焦りを与えましょ」
律が身体を張った演出後はどういう風に進めるかを事前に話していた時、かなりキツい作戦を未央が用意していたので、律は少し驚いた。
「じゃああたしが最後に香枝と話すな的なこと言っておこうか?」
「香枝さんと話したら、キスしたこと言っちゃうよー?っていうのは?」
奈帆はこの中で一番ノリ気でなかなかの悪魔っぷりを発揮していた。
結果的に奈帆の言う通りにしたら、真春は香枝のことが好きだと打ち明けたので、それはそれで作戦中にもいいスパイスとして使えると未央は言った。
その日以降、真春と香枝は全く口をきいていないようだった。
3人とも、「そりゃそうなるよね」と口を揃えて言った。
「あたし、ものすごい香枝に避けられてるんだけど」
律が真春にキスをした数日後の夜、前回と同じ居酒屋で近況報告会を行った。
律はため息をつきながらお通しの枝豆を指でいじった。
「真春さんじゃなくて?」
「真春は話せば普通に話してくれるよ。『香枝に何か言ったでしょ?』って怒ってはいたけど。香枝はもうフルシカトだよ。話し掛けるなオーラやばい」
「完全にバリア張られちゃってますね」
未央は失笑して梅酒の入ったロックグラスを傾けた。
「ホント、律さんには申し訳ないと思ってます」
「謝らないでよ。今だけなんだし!で、次どうする?新年会は何か仕掛ける?」
「あたし、思いついちゃったんすけど…」
奈帆はニヤニヤしながら2人を交互に見た。
新年会当日、3人の元に真春をキープし、これでもかというくらい律と絡ませた。
香枝に嫌われたと思っているであろう真春は結構ダメージを受けていたと思うが、それに追い打ちをかけるかのようにゲームと称してまた律とキスをさせた。
ポッキーゲームが終わると真春は無言で外に出て行ってしまった。
「さすがに怒った…?」
奈帆は真春の背中を見ながら未央に小声で言った。
後を追った律が振り返り、2人に目で合図を送った。
「律さんに後で聞こ」
そうは言ったが、やはり真春のことが気になって仕方なくて、未央はなかなか戻ってこない真春を探しに行った。
すると事務所の窓から、裏口から出たところの手すりにもたれかかってうずくまっている真春の姿が見えた。
声を掛けてはいけない気がして、未央はそのままみんなのところに引き返した。
相当傷付けてしまったようだ。
そのことを2人に伝えると「とりあえず、様子見にする?」という結論に至ったので、しばらくの間、2人の関係を見守ることにした。
その後1ヶ月が経っても関係は修復していないようで、バイトで会う真春はいつも元気がなかった。
未央が香枝について話そうものなら「もういいよ、忘れて」と吐き捨てるように言われ、それ以上何も言えなかった。
香枝は逆に常に殺気立っている感じで、未央すらも話し掛けるのをためらってしまうほどの威圧感だった。
真春の名前を出しただけですぐに話を変えられてしまうし、笑顔を見せるが目が全く笑っていなかった。
それがいつのまにか緩和されていたのは、バレンタインデーが過ぎたあたりだった。
バイト中、楽しそうに話しているのを見て、未央は驚いた。
2人の間に何かしらの出来事があったのは確実だが、それが何なのかは分からなかった。
未央はさりげなく探りを入れてみたが、真春は「何もない」の一点張りだった。
珍しく真春がいなかった日曜日の夜、香枝とラストまでのシフトだった未央は帰り際、香枝に「最近、真春さんとはどう?」と何も知らないような口調でさらっと言った。
「えっ?」
「『えっ?』じゃなくて」
未央は笑いながら「なんか仲悪くなったり良くなったりしてるなーと思って」と言った。
「最近まで香枝、真春さんと全然話してなかったじゃん?気のせい?」
未央がそこまで言うと、香枝は笑顔で「別に何も変わりないよ。早く帰ろ」とバッグを持って裏口から出た。
「真春さんのことが好きってあんなに悩んで相談までしてくれてたのに。ひどいなー」
香枝の数段後ろから階段を下りながら、未央は仕掛けるように声を掛けた。
香枝は階段を下り切って少し歩いたところでピタッと止まった。
「真春さんとは、今まで通りの仲というか…特別なことは何もないよ。好きだけど、付き合う付き合わないとか、そういうことじゃないっていうか…」
俯いた香枝は「ごめん、何言ってるのか分からなくなってきちゃった」と力なく笑った。
真春と話し合いでもしたのだろうか。
それとも1人で悩んでいて、真春とギクシャクしてしまっていたのだろうか。
「真春さんと、話したの?」
未央の問いに香枝は少し間をあけて、口を開いた。
「最近、自分の気持ちがよく分からなくて。好きになっちゃいけない人好きになってるみたいで…っていうか実際そうなんだけど…」
香枝は未央の質問には答えずにそこまで言うと、ジャケットの袖で流れ出る涙を拭った。
真春への気持ちを諦めようとしているのだろうか。
もしこの香枝の気持ちが自分たちの作戦のせいだとしたら…?
2人を騙している反面、なんとも居た堪れない気持ちになる。
「香枝は真春さんのことまだ好きでしょ?」
「…うん」
「真春さんと、ちゃんと話してみたら?自分の思ってること伝えないと、きっと後悔すると思うよ」
「言っても、その先どうすればいいのか分からないよ…なんかもう、どうしよう」
「先のことはまた考えればいいじゃん」
未央は笑って「相談乗るからさ」と香枝の肩を叩いた。
翌日、お決まりの居酒屋に集合した3人は、同じ疑問を抱いていた。
律の隣に座る奈帆は「あの2人、和解したんすかね?」と煙を吐きながら言った。
「え、そうなの?」
「律さん分かんないんですか?」
「あたし口きいてるとこ見たことないよ」
律は驚いたような表情で未央と奈帆を見た。
「律さんのこと警戒してるのかもですね」
「警戒?」
律は未央を一瞥してビールの入ったジョッキを傾けた。
「2人の恋の妨げになってるんですから、そりゃ警戒されてますよ」
「だから2人はあたしの前では何も話さないわけ?」
「かもしれないですね」
未央はそう言った後「律さんには本当に申し訳ないことしてますよね」と沈んだ声を漏らした。
「いやいや…あたしが自分から体張るって言ったんだし。こうなることは分かってたじゃん?未央が2人のこと考えてるからこその作戦なんだから、気にしないでよ」
「いや、でも…ここ来てからそんなに経ってないのに、こんなことに巻き込んでしかも悪役だなんて…2人にとって律さんのイメージはとてつもなく悪くなってるから、本当に申し訳なくて…」
「何言ってんの。今演じてるのは女優の朝比奈律だよ?」
律はヘラヘラ笑いながら言った。
「女優は何にだってなれるんだから。本当のあたしはちょっと休憩」
律はそう言うと、未央に笑顔を向けた。
「ありがとうございます」
「で?2人の間に何か進展あったんだっけ?」
「んー…きっと何かあったはずです。で、2人に聞いてみたんだけど」
「けど?」
「何もないって口を揃えて言うんだよねー」
律と奈帆は残念そうな顔をして同じタイミングでテーブルに乗り出していた身を引いた。
「でも」
未央は香枝が言っていたことをそのまま伝えると、2人はうーんと唸った。
「あっ!」
律は未央に「旅行とかどう?」と提案した。
「旅行ですか…いいですね!」
「そこで2人を急接近させちゃう的な?」
奈帆がワクワクしたような様子で言った。
「急接近って?」
「んー、例えば…旅行と言ったら写真は絶対撮るじゃないっすか?そこでベタベタさせるとか」
「あははっ!いいね、いいね!」
「ずっと一緒にいて、しかも接近することが多ければきっと『やっぱり好きだ』って気持ちが強くなると思いません?この先どうとかもう関係なしに、自分の気持ちに素直になってもらいましょ!」
「だね。それでいこう」
未央はテーブルに置かれた木目を見ながら、頷いた。
この旅行で自分がなんとか2人を近付けなければ、もしかしたら何も伝えずに終わってしまうかもしれない。
そんなことはなんとしてでも避けたかった。
せっかくお互い好きでいるのに、同性だからという理由で抑え込むのは違うと思う。
未央は旅行中、2人をくっつけるためにあらゆる策を取った。
真春が2度も体調不良になってしまったのは予想外だったが、香枝と触れる機会もあったので不謹慎ではあるが、良かったと思う。
色々な場面で真春も香枝も照れ臭そうな表情をしているのが見ていてよく分かったので、未央はこの旅行で2人の進展を促すために、バレないように個別で話した。
旅館では、真春が随分と長い時間温泉に浸かっていてくれたおかげで、香枝とはしっかり話すことができた。
「少し、2人で話してみたら?」
「え…なんて…」
「それは自分で考えなよ。…気持ち伝えてもいいんじゃない?」
「でも…」
「大丈夫だよ」
香枝は体育座りで膝に顔をうずめて「自信ない」と呟いた。
「なんで未央は大丈夫って言い切れるの?」
「んー…。真春さんだからかなぁ?受け入れるかどうかは別として、受け止めることは絶対してくれるでしょ?」
未央がそう言うと、香枝は膝の上から目を覗かせて「それって、真春さんの優しさにつけ込んでる気がする」と言った。
そう言われてしまったらそうかもしれないが、真春が香枝のことを好きなのは紛れも無い事実だ。
どんなにはぐらかされようが、一度好きだと言った相手をそう簡単に諦めるはずがない、と未央は思っていた。
相手が同性であるということが、その思いを更にリアルに装飾している。
「じゃあこのまま中途半端でいいの?」
「……」
「今しかないんじゃない?香枝の気持ち伝えるの」
香枝は潤んだ瞳で未央を一瞥した後、目を伏せた。
もう一声掛けようとした時、真春が脱衣所から出てくる音がした。
「お待たせー。長くなっちゃってごめ…」
真春は言いかけながら近くにあった柱に頭を強打し、そのまま倒れ込んだ。
香枝が「えっ?!なに?!だ、大丈夫?!」と手をバタバタさせた。
未央はすかさず真春を抱え込み、安全な場所に寝かせた。
「ど…どうしよう」
あたふたする香枝に、未央は「のぼせただけだと思うよ」と笑いながら言った。
「真春さーん!」
未央は真春の真っ赤な頬を軽くはたいた。
「んん…」
顔をしかめた真春は声にならない声を出してぐったりしている。
とりあえずその場に寝かせて近くにあったフェイスタオルを濡らして真春の額に乗せた。
「真春さんのことよろしくね。お風呂入ってきまーす」
「えっ?!ち、ちょっと、未央!」
香枝の焦る声を背に受けながら未央は露天風呂へ向かって行った。
ゆっくりと温泉に浸かると、考えるつもりはなくても色々なことが頭の中を巡った。
短絡的な作戦を決行するつもりはない。
だけど、香枝も真春も何か隠しているような気がしてならなくて、どう動こうか迷うところだ。
おそらく悪い方向にはいっていないようなので、この旅行でなんとかして2人の距離を更に縮めたいと未央は考えた。
烏の行水の如く全てを済ませて部屋に戻ると、真春がぼーっとした表情で畳の上に寝そべっていた。
なんやかんやと喋っているが、ポワンとした口調だ。
そんな真春を可愛いな、と思いながら未央は香枝が脱衣所を抜けた音を確認した後、真春に率直な質問をした。
「さっきの続きですけど」
「続き?」
「香枝のことですよ。しつこいかもしれないですけど」
「だからもういいって」
「じゃあ言わせてもらってもいいですか?」
「なに…」
「さっき、半分本気って言ったけど、あれ、嘘です」
「嘘?なに?どういうこと?」
真春は分かりやすいくらいに、目を泳がせた。
その目には不安の色が見え隠れしていた。
「香枝も真春さんのこと、ちゃんと好きってことですよ」
真春はポカンと口を開けたままだった。
「実はずっと、相談されてました」
そう言うと、真春は声にならない声で何かパクパクと口を動かした。
嘘でしょ?とも言いたげな表情だ。
「11月の半ばくらいに香枝に相談されたんです。真春さんのことが好きって」
「…え?」
「言われた時は本当にびっくりして冗談なのかと思ったんですけど。…すぐにそうじゃないって分かったんですよね」
「え…な、なんで?」
「んー?直感?」
未央が笑うと真春も笑ったが、完全な苦笑いだった。
「香枝にそう言われてから、そんなに間あけずに真春さんが香枝のこと好きだなんて言うから、ホントに焦っちゃって。…焦るっていうかほぼ喜びでしたけど」
未央が飛ばした冗談を軽くあしらうどころか、無視されたが真春の表情は続きが気になるようなものだった。
「てか、両思いじゃないですか!」
「いや、でも…付き合うとか、そんなんじゃないって思うの。ただ好きなだけというか…」
真春はなにやらモゴモゴと言った言葉を濁した。
そこで香枝と2人で話してみたら?と提案した。
何も言わない真春は、何を考えているのか分からない。
でも、単純そうに見えるが実は結構考えたりしているのだろう。
「まだちゃんと好きでしょ?」
クールなイメージの真春がその問いに、恥ずかしそうにコクンと頷いた時は、未央も少しドキッとしてしまった。
のぼせて上気し、虚ろな目の真春は言葉では表せないほど可愛らしくて抱きしめてしまいたくなるほどだった。
でもきっと香枝の好きな真春は優しくてサバサバしていて、誰にも媚びないところなのだろう。
食事の時も真春はなにやら様子がおかしくて、完全に香枝のことを意識しているようだった。
そういうことに関しては、香枝はわりと演技派なのだと思う。
夜、未央が眠ったフリをしたのをきっかけに2人は部屋を出て行った。
どうか上手くいきますようにという願いはどう形を変えたのかは分からないが、香枝はわりと普通だったが真春は終始うわの空で、ぼーっとしているようだった。
やはり彼氏がいることがネックになっているのだろうか。
2人の気持ちをなかったことにしたくないというのは、余計なお節介だったのだろうか。
これからどうすればいいのだろう。
失敗に終わったわけではないが、真春の態度を見るとこれ以上何か仕掛けるのは難しい気がする。
それに、夜に香枝と何があったのかもなんとなく聞けない雰囲気だ。
どちらかというと、香枝の方が積極的に動くような気がしたので、香枝にはあえて両想いであることは伝えなかった。
それが悪い方向に作用してしまったのだろうか。
分からない。
そんなことを思い続け、3月も終わろうとしていた風の強い日、久しぶりにお決まりの居酒屋に律と奈帆を招集すると、向かいに座る奈帆が開口一番「旅行どうだったんすか?!」と言った。
「んー…」
「なんすか、んー…って」
「何かあったっぽいんだけど、真春さんなんかおかしくてさ」
「おかしいって?」
「なんかボーっとしちゃって」
「真春はいつもボーッとしてるでしよ?」
律は口をへの字に曲げつつ、少し笑っていた。
「なんか悩んでそうな感じなんすよね」
未央が鼻から息を吐き出すと、奈帆が「真春さんもどうしていいのか分からないんじゃないんですか?」と言った。
「冷静に考えて、彼氏いるのに同性好きになるなんておかしいって思うと思いません?」
「まぁ…そうだね」
「りっちゃんはオールマイティだから困らないかもだけど、真春さんは真面目なとこもあるし、彼氏に罪悪感とか感じてるかもしれなくない?」
奈帆の鋭い見解に、律が「奈帆、それ悪口?」と嫌味たっぷりの表情で言った。
「悪口じゃないってば。りっちゃんいつもそう。何か事あるごとに『悪口?』って」
奈帆はコークハイの入ったジョッキをドンとテーブルに置いた。
律は「奈帆が喧嘩腰だからでしょ?」と立ち上がる。
「おーい。ちょっとちょっと!今は真春さんと香枝の話でしょ」
未央は2人の前で手を大きく広げて場を制した。
律は「ごめん」と短く言い、未央の隣に腰を下ろした。
長椅子なので、怒りの振動がこちらにも少し伝わってきた。
「律さんと奈帆はさ、なんていうか…なんでも言い合える仲だからいいですよね」
「んー、ま…そうかも」
奈帆は律をチラッと見た後、何か言いたそうにしながらビールを一口飲んだ。
「なんでも言い合える仲って、やっぱり時間が必要だと思いません?…真春さんと香枝にも2人みたいになってもらいたいって思うけど、今すぐにそうなるなんて無理だし、そもそも2人みたいな関係性が奇跡というか、すっごく難しいことが重なり合ってできた賜物というか…」
未央の言葉に奈帆が「めっちゃ分かりますけど、その語り口調、ウケますね」と茶々を入れた。
「未央は最終的にあの2人にうちらみたいになってもらいたいの?」
律は真剣な目で未央を見据えた。
「別れた後のカップルって、本当に口をきかなくてお互いの存在を消したかのように振る舞う人もいれば、別れても友達みたいにしてる人もいるじゃないですか。あたしは、後者になってもらいたいって思ってるんです」
「なにそれ。破局前提の話?」
「破局っていうか、そもそも結ばれる事はお互い考えてないですし…真春さんなら絶対そうすると思います。真春さんが彼氏を断ち切ることはないと思うし、香枝のことも傷付けずにどうにかしたいと思ってるはずです」
「でも香枝さんのこと好きじゃん?」
奈帆はタバコに火をつけながらモゴモゴと言った。
「それでなんだけど。…今度はちょっと奈帆に協力してもらいたくて」
「おっ?未央様の作戦発動っすか?!」
奈帆は待ってましたと言わんばかりのニヤニヤ顔で未央を見つめ「何するの?」と言った。
律の恋愛対象はジェンダーレスだ。
小学6年生の時に律に好きだと告白された。
律は同じダンススクールに通う年上の女の子で、とってもダンスが上手で周りから憧れの目で見られ、律に言い寄る子は多かった。
特にヒップホップを得意としている律は、高校生と同じクラスでも才能を発揮していて、一目置かれる存在だった。
週2回のレッスンに通っていた奈帆は、ダンスが好きで待ち遠しかったその2日が、時が経つにつれ律に会うのが楽しみになっていることに気付いた。
律は週5回レッスンを受けていると風の噂で聞き、親にレッスンの回数を増やしてほしいと懇願した。
奈帆にとって律は憧れの存在で、ダンスを見ているだけで幸せになったし、同じレッスンを受けているだけで誇らしい気持ちになった。
レッスンの回数を増やした甲斐あって、奈帆と律は話したり一緒に帰ったりすることが多くなり、次第にお互いの魅力に惹かれ合っていった。
律が「男でも女でも好きになることがあるんだよね」と言った時、奈帆は動揺したが、だからなんなんだ?という疑問も浮かんできた。
男が女を好きになる、その逆もまた"普通"であることは考えなくても当たり前の常識だったし、授業で習うことはそれが前提の内容だった。
しかし、男が男を、女が女を好きになってはいけないと誰かが決めたのだろうか。
"普通"ではないことの何がいけないのだろうか。
そんな歌を歌った歌手の曲が教室で流れていたのを思い出した。
控えめに言った律はそれを恥じているのだろうか。
何がいけないんだろう。
自分だって律に憧れていた。
これは立派な"好き"という気持ちだったのには変わりない。
恋愛感情ではないかもしれない。
そんな事ばかり考えていたある日、律に好きと言われた。
でも、嫌な気持ちなんて1ミリもなかった。
好きなものは好き。
…なのに、心のどこかに迷いが出てしまうのは何故だろう。
人はそういう風にできているのだろうか。
律は誰でも愛せても、自分が愛せるのは異性でしかないのかもしれない。
けど、確かに律のことが好きだった。
律に「奈帆が後悔するかもしれないなら、忘れて」と言われた時過ぎったのは、律のことが好きだし、むしろ今この瞬間律を突き放すことの方がありえないという感情だった。
「あたしも、りっちゃんのこと好きだよ」
自然となんの躊躇いもなく出たその言葉に嘘はなかった。
律のことが大好きだった。
「ありがと」
そう微笑んでくれた律を見て胸がきゅうっとなったことは誰にも言っていない。
こんなこと、誰にも言えないと本能が身体中を駆け巡ったのだ。
頭ではそれをどこかに取り去って置いておきたいと思うのに。
やはり何故か、迷いが生じる。
きっとそんな気持ちを、真春も経験しているのだろう。
同性を好きになってしまったことは、受け入れるのにも時間がかかるし、受け入れたとしてもその先のことを考えてしまい、答えの見えない日々に嫌気がさしてしまうことも少なくない。
真春が自分の気持ちを人に伝えるのが得意ではないのは、話している感じでよく分かっていた。
たくさん考えているのだろうけど、とても口下手だ。
おそらく香枝よりも下手だと思う。
奈帆は真春が事務所に戻ってくるのを待っていた。
汐里がいつもの"だるい"話をしながら南とドリンクバーを取りに事務所から出て行った。
パイプ椅子に腰掛け『今上がったんで、これから仕掛けますね』と未央にメールを送った。
その瞬間、真春が「お疲れ」と少し疲れた表情で事務所に入ってきて、帽子を脱いだ。
作戦開始だ。
真春から目を逸らし「てか真春さんさー」と奈帆は呟いた。
「ん?なに?」
「律となんかあったんすか?」
探るような目で真春を見ると、真春はかなり動揺している様子で、顔を強張らせた。
「えぇっ?何もないよ…」
「そっか。でも律、真春さんのこと好きですよね」
さすがにみんなの前では律のことを"りっちゃん"と呼ぶことはできなかった。
なんだか恥ずかしくて。
律には「いいじゃん」と言われたが、奈帆は頑なに拒んだのだ。
どうしてもそこの線引きだけはしたいと思ってしまっているところが、律をまだ特別な存在だと思っている証拠だ。
真春はキョロキョロと小動物のように周りを見渡すと「律に、何か聞いたの…?」と小さな声で言った。
奈帆は引っかかった、と心の中で確信し、真春に自分が同性愛に対して抵抗のない人であることを伝える方向に持って行った。
帰り道が途中まで一緒なので、自転車を押して歩きながら奈帆は律の事を語った。
人として好きだということを強調して話したが、心の底では律のことはきっと誰よりも特別な存在だし、人としても好きだけど、やっぱり側にいたいと思ってしまう。
「なんていうか…友達以上恋人未満みたいな」
そう口を突いて出た言葉は、半分嘘だ。
「真春さんにお願いがあるんです」
「…なに?」
「律のこと、嫌いにならないでください。律が真春さんに強引にキスしたこと、まだ真春さんは気にしてるかもしれないけど、律そういうの下手くそだから…好きな相手に気持ちを伝えるのが、あまり上手じゃないから」
「わかった…」
「多分、律なりに頑張ったんだと思います。それだけ真春さんの事が好きだっていう証拠だと思います」
律のことを思いながら、口が勝手にペラペラと会話を始めた。
真春に律のことを嫌いになってほしくないと思ったのは、律が今していることは全て嘘だからだ。
見た目はチャラそうに見えるし、発言も行動もおちゃらけて馬鹿みたいなところもある。
かなり個性的なのは前から知っていたが本当はあんなにしつこく人に絡まないし、誰よりも繊細で、傷つきやすい子だ。
それに、人の気持ちをすぐに察して手を差し伸べてくれる優しさだってある。
律は他人の幸せの為なら自分が犠牲になってもいいと思う人だから、今回の要望を快諾してくれたのだ。
全ては真春と香枝のため。
律は真春のことをとても気に入っているようで、奈帆にもよく真春のことを話す。
その度に少し嫉妬してしまう自分がいることに、奈帆は気付いていた。
でも、真春の魅力は律に言われなくても分かる。
分かるから、ちょっぴり悔しくもなる。
未央と作戦会議をする度に心がモヤモヤしたが、律が真春を本気で好きになることなどないと何故か確信できていたので、それほど落ち込むことはなかった。
「未央ってすごいよね。ホント天才だと思う」
自分が嫌な役回りになっているにも関わらず、そう言って朗らかに笑っている律を見て、本当は無理しているんじゃないかと思ってしまう。
未央の作戦は律がとことん悪役でため息が出そうになるほどだったが、たまに「律さん、真春さんと香枝とどうですか?キツくないですか?」と気にかけてくれていたので、やっぱり未央はデキる人間だと奈帆は思っていた。
あらゆる作戦を練りながら迎えた4月のある日。
「今日、終わったら話したいことあるんだけど、いい?」
外でタバコを吸っていると、真春から直々に話し合いの申し出があった。
「はい。終わったらゆっくり話しましょ」
なんとなく目星はついていた。
真春はぎこちない笑みを浮かべて裏口へと続く階段を上って行った。
「前に奈帆が律さんと付き合ってたってこと話したら同じ状況だった奈帆に何か話すんじゃない?」
未央の作戦は、真春の葛藤を理解できる同じ境遇の人の存在を知らせるものだった。
律と奈帆の関係を知ってピンときたのだと未央は言っていた。
2人に演じてもらうことは申し訳ないと思うけど、協力してほしい、と言っていた未央の表情は本気だった。
世間では特別視される同性愛。
人を好きになることは特別ではない人間の本能なのに、どうして性差でこんなにも悩まなければならないのだろうか。
律のことが異性に対する思いと同じように好きだと思ったことは紛れも無い事実だ。
でも、真春にそう言えなかった。
異性で好きな人が出来たから律を振った、と心にもないことを言った。
ずっと心の中にはいつでも律がいる。
異性で好きな人など、律を好きになってから一度もできなかった。
つまりは嘘をついたのだ。
今この瞬間、やはり世間とのズレを自覚して後ろめたさを感じている自分がいる。
真春を諭せば諭すほど、胸が苦しくなる。
自分には真春に何もかも分かったかのように語る資格などない。
真春と全く同じ気持ちでいるのだから。
痛いほどに分かる真春のストレートな言葉を聞いて、奈帆も危うく泣いてしまうところだった。
真春の泣きじゃくる姿を見て、胸が締め付けられた。
偉そうに言っておいて自分の気持ちに素直にならないのはいけないよな、と心の片隅で奈帆は思った。
この作戦は効果抜群だった。
自分と律のことを重ねながら奈帆は真春の背中を押すような言葉をかけた。
"自分みたいに、何年も思い続けて苦しくなることなどないように"
"今の気持ちを大切に"
風化してしまわないように、今伝えて。
話す間、真春が泣きそうな目をしていたのを思い出すと、今でも鼻がツンとする、と奈帆が言っていた。
真春は香枝に本当の気持ちを伝える事ができた…かもしれない。
それに、香枝も本音でぶつかってくれたのかな。
どうだろうか。
2人の間に何があったのかは分からない。
しかし、悪いことがあったということはなさそうだ。
クールで頼りがいがありそうに見えて実は抜けてて可愛い一面もある真春と、フワフワしているけど実はしっかりしていて少し強情な香枝は、表も裏もお似合いな2人なのかもしれない。
未央はずっと心配してくれていたらしい。
人の気持ちなんてコロッと変わってしまうから、いつどんな事が起きるか分からないし、ひょっとしたら真春と香枝が喧嘩した状態のまま終わってしまうかもしれないと思っていたと。
それから、今回の律を諦めさせる作戦は、真春と香枝の仲を更に深めるためのものだったというのだから驚きだ。
「律に『真春のこと、諦めないから!』って言われた」と真春が相談した時に、未央は作戦を思いついたらしい。
"香枝と付き合うフリ"というシチュエーションを用意し、叶わないならそういう状況を作るのもいいのでは…という3人の心遣いだった。
「友達でいようって言うのは、本当は辛いと思うよ。だから、少しでも付き合ってる感じっていうか…そういうのもきっと嬉しいんじゃん?」という律の言葉に、未央と奈帆は納得したらしい。
香枝の鼻をすする音がした。
「あ…香枝はもう全部聞いたんだよね…?」
真春が恐る恐る聞くと、香枝は一点を見つめ、コクンと頷いた。
「こんなに長い間、騙しててすみません」
未央は謝っているが、顔はニヤニヤしている。
「あたしたちのために、ずっと半年間も…ってこと?」
「そうですよ。長かったー!」
「てか、なんで香枝は知ってんの?」
香枝と自分のための作戦だったのに、既に泣いている香枝が不思議だった。
未だに状況を理解できない真春は、「ん?」とか「え?」とか言いながら未央に質問した。
「さっき真春さんが遅れるっていうから、先に聞いたんです。ビックリして、しばらく何も言葉が出なかった」
へへっと香枝は笑い、また鼻をすすった。
「いや…あたしも驚いた。まさか全部未央の作戦だったなんて」
真春は視線をストローから未央に移し、時間を忘れるくらい見つめていた。
「これで良かったのかどうかはあたしにも分からないですけどね」
「え?」
真春と香枝が同時に言った。
「最終的にどうなったのか、聞いてないんで。…でもこうしていられるってことは、悪くはないってことだよね?」
未央はニヤニヤしながら香枝を見た。
「え?あ…う、うん。…ね?真春さん?」
「んっ?!…えっと…うん、そうだね」
真春はしばらく考えた後「それに…」と続けた。
「ここまで色々してくれてちゃんと話さないなんて申し訳ないよね」
「えー?なんすか、それ」
「んと…未央が期待してるような結果じゃないかもしれないけど…。香枝とちゃんと話して、たどり着いた結果があるの」
真春は深呼吸して「ホントにありがとう」と言った後、全て、嘘偽りなく語った。
時折香枝に「言っていい?」と聞きながら未央に今まで言っていなかったことを事細かに全て話した。
何もかも、特別で大切な思い出だ。
思い出と言ってしまったら終わりのような気もするが、香枝との場合はなんだか違う気がした。
思い出という名の通過点だ。
香枝がどう思っているかは分からないが、真春はなんとなくそう思っていた。
話し終える頃にはグラスの中のアイスコーヒーは空っぽになっていたが、喉はカラカラだった。
「なんか、恥ずかしいね」
真春は一瞬沈黙が訪れた時、そう呟いた。
香枝が咳払いする。
「話してくれてありがとうございます」
「ありがとうはこっちのセリフだよ」
真春は困ったように笑った。
「…あ、そろそろ行かないと」
未央はおもむろに携帯の画面を見て時間を確認すると「行きましょ」と言い、そそくさと立ち上がって空のグラスを持って返却口へ向かった。
真春が香枝の飲みかけのカフェラテを「飲む?」と指差すと、香枝は首を横に振ったので自分の空になったグラスと一緒に返却口に返した。
未央に案内されたのは、数十メートル先のチェーン店の居酒屋だった。
「予約してる中条です」
「え?予約?」
「こちらにどうぞ〜」
真春の疑問は店員の声に掻き消された。
頭が整理されないまま案内されたのは個室だった。
入った瞬間、目を疑った。
そこには奈帆と律が座っていたのだ。
「お疲れ様です」
「待ちきれなくてお先にいただいてます」
律がビールが入ったジョッキを軽く持ち上げた。
真春と香枝は声が出なくて、代わりにお互いの顔を見つめ合った。
促されるまま、奈帆と律の向かいに座る。
とんでもなく不思議な光景だ。
真春は状況を飲み込めず、手元にあったおしぼりで必要以上に手を拭いていると律が「未央、全部話したの?」と言った。
「はい、言いました。…って2人ともこの状況理解できてないよね?」
未央はケラケラと笑った。
「協力してくれた2人にも本当のこと話してもらえませんか?」
笑っている未央の目に真剣な色がちらついた。
「奈帆と律さんがいなかったら、この作戦はできなかったって本当に思うんですよね」
未央の目線の先の奈帆と律は、心なしか恥ずかしそうな表情で俯いていた。
真春は未央と目が合ったその瞬間、先程と同様、全てを語った。
未央から裏事情を聞いていたので2人を見る目が変わっていた。
しかし、なんとなく腑に落ちないところが点在していたのは確かだった。
「律がレズだったっていうのは本当なの?」
恐る恐る聞くと、律は爆笑した。
「あはは。レズっていうか…誰でも好きになれるっていうのが本当かな。男でも女でも誰でも好きになるの。ややこしいからレズだってことにしてただけ。…でも、奈帆と付き合ってたっていうか、そんな感じだったのは事実。なんもしてないけど」
「え?だってキスしたって…」
「フレンチな感じでね。真春だって香枝のこと好きだったらそれくらいしたいって思うでしょ?同じことだよ。女同士でキスなんて…って誰だってためらわない?」
「ちょっとね」
「同性が好きなんておかしいって思いながらするキスなんて尚更。…でもそうしたいくらい、好きなものは好きなんだよね」
律は遠い目をした。
「世の中が考える当たり前に縛られて、後ろめたさを感じるなんて勿体なさすぎるよ。我慢することなんか、何もなくない?」
そう言った律の笑顔には、いつものからかうような挑発的な色は微塵もなくて、今までに見たことないくらいの可愛らしい笑顔だった。
これは、自分の目がおかしいのだろうか…。
しかし、兎にも角にも、一番体を張って頑張ってくれたのは律だ。
最低な人だと心の中で思い続けていたことを後悔する。
これほどまでに、自分の心を理解してくれる人はいないだろう。
「ごめん、律。あたし…今まで律のこと勘違いしてて…」
「大丈夫。もう真春のこと諦めないから!なんて言わないからさ。あたしも今、ちゃんと好きな人いるから」
「えっ!女の子?」
「どっちだと思う?」
律のその言葉にみんな笑った。
「ヒントはね〜…あたしのことが好きで好きでしょうがない人。そんなことないフリして、実はすっごい照れ屋さんなの」
「なにそれ、分かりづらいよ!」
真春が笑いながら言うと、奈帆が突然「ねぇ、りっちゃん!」と声を荒げた。
真春、香枝、未央は2人を見ながら硬直した。
「誰が…好きなの?」
「……」
律は目を泳がせた後、堪え切れないと言った風に笑い出した。
それと同時に奈帆の目から涙が零れ落ちた。
「奈帆だよ」
「えっ…?」
「奈帆のことが好きだって言ってんの」
律がやわらかい笑顔で笑っている。
「…え?」
「ちょっとちょっと!…な、なに?公開告白?」
未央が笑いながら言うと律は「悪い?」と何も言わせないような目で未央を見据えた。
言ってしまったことを後悔するように、だんまりする未央を一瞥し、真春は律と奈帆に目を向けた。
「2人だけじゃ奈帆に疑われるからみんなの前で言うね」
律の強い口調にその場がしんとなる。
「アメリカに行く前、奈帆、あたしになんて言ったか覚えてる?」
「えっ…?」
奈帆は数秒間の沈黙の後「男の子で好きな人ができたって言った」と小さな声で言った。
「それ聞いて、すごく悲しかった。やっぱり奈帆はあたしと違うし、奈帆のこと好きになっちゃいけないんだって思ったよ」
訪れた沈黙に、真春はどうしたらいいのか分からなくなって、目の前に置かれた箸の先端を眺めた。
「でも、アメリカ行って色んな人と会って話して、そうやって悩んでるのは自分だけじゃないって分かったの。それに、好きな人になんで好きな気持ち伝えちゃいけないの?言わなきゃ何も始まらないし変わらないよ、って言われて、その通りだなって思ってさ。向こうにいる間、すっごく考えたんだよね。本当に好きなのかなって。でも、こっち戻ってきて、久しぶりに会ったらやっぱり奈帆のこと好きだって思ったの」
律が見たことも聞いたこともない口調で奈帆に話しているのを見て、今までの律って一体何だったのだろうと真春は頭がおかしくなりそうだった。
それと同時に、律の気持ちが分かるので、少し複雑な心境になる。
「りっちゃんずるいよ」
いつもヘラヘラしている奈帆がこんなに弱々しく見えることはこの先ないだろう。
驚くほどに女の子らしい。
この2人の関係は、間違いなく律が男だ。
いや、男とか女とかもはや関係ないのか。
そんな余計なことを考えながら2人のやりとりを見ていた。
気付いたら2人は付き合うことになっていた。
頼みづらかったビールもしっかり3人分注文し、乾杯をした後ビールを半分飲み干したところで「2人とも、よかったね」と律が言った。
「いやいや、りっちゃんと奈帆こそ」
真春が言うと、律は眉をひそめて「なに?」と言った。
「なにその呼び方」
「奈帆にりっちゃんって呼ばれてるからさ。可愛いじゃん、りっちゃん」
クスクス笑うと、律は怒って「真春は香枝になんて呼ばれてんの?まーちゃん?」と言いながらジョッキをテーブルにドンと叩きつけた。
「あははっ!真春さんだよ、相変わらず」
真春は「ね?」と香枝に目を向けた。
香枝はコクンと頷いてビールをひと口飲んだ。
「2人の気持ち、すごくよく分かる。…ってさっきの見てたら察するよね」
律がお通しのナムルを口に頬張りながら言った。
「未央から聞いた時ちょっとビックリしたけど、昔の自分思い出しちゃって、なんだか応援したくなったんだよね」
律は微笑んだ。
「本当は、あたしがどうにかしようと思ってたんだけど、なかなか難しくて…。律さん、本当にありがとうございます。奈帆もね」
未央はぺこりと頭を下げた。
「ほんとに…ありがと」
真春はジョッキの下に敷いたおしぼりから目の前の2人に視線を移して言った。
「あたしも香枝も、結局同じ気持ちだったんだよね。…好きだけど、どうしたらいいか分からなくて。誰かに言える事じゃないし、ずーっとモヤモヤしてた」
真春が言うと、律は「意外じゃない?」と言った。
「なにが?」
「真春って、どちらかというとクールな感じじゃない?誰かに恋焦がれるようなタイプじゃないと思ってたんだけど」
「ん…え?そ、そう?」
「絡んでもドライだしさぁ、未央から作戦のこと言われても、大丈夫かなぁ…伝わるかな?って正直思っちゃったもん」
「あそこまでされたら、危機感じるから」
「でも真春、鈍感じゃん?」
「そうやってすぐバカにする!」
「してないから」
真春は言い返しながらビールを飲み干した。
「あれはホントにありえないと思った」
「未央ちゃんの作戦だもん」
律は未央をチラッと見た。
「すみません、思いついちゃって」
「あたしの心は大分傷付いたけどね」
「あれは申し訳ないことしたなって思いましたよ」
「てかよく考えたら作戦の一番初めじゃん」
「ちょっとパンチ強すぎましたかね?」
「だいぶね」
真春はふふっと笑った後「でも、あたしまんまと引っかかってたんだよね」と言った。
「あはは、そういうことですね」
「あの時…律に言われたことがすごく心に響いてさ。結果的に細かく言ったら律はレズじゃないけど、あの時のあたしにとっては救いのような言葉だったよ。同じ気持ちになったことのある人がいるだけで、ちょっと救われた気持ちになった」
思い出したら、じんわりと目の奥が熱くなってきた。
あの時期、今までにないくらいの怒りと虚無感を感じていたことは、自分にとって必要な時間だった。
今だからそう思える。
香枝のことが好きだ、とずっと押さえ込んでいた自分の気持ちに素直になれた。
自分の気持ちと向き合うきっかけになる出来事だったのだ。
ポロッと涙が零れて、真春は急いでその涙を拭った。
「ごめん…」
ヒヒッと真春が笑うと、未央が「真春さんはそれほど悩んでたんですよね」と優しく言った。
「誰だって誰かのこと好きになるのに、その相手が同性ってだけで泣きたくなるほど悩むなんておかしくないですか?」
未央の言葉に、真春は「だね」と言って笑った。
「その時はそう思ってた。でもさ、あたしと香枝はなんていうか…2人で話して答えを見つけられたから、よかったよ」
「真春さんが言ってくれなかったら、ずっとモヤモヤしたままだったかも。あたしもどうにかしなきゃってずっと思ってたから」
香枝が隣で言った。
「香枝さんにもちゃんと伝わったから良かったじゃないですか。でも、真春さんが決断して動いたのが意外と早すぎてちょっとビックリしましたけど」
奈帆は空になったグラスを端に避けながら言った。
「えっ?そう?」
「あの時、結構思いつめてそうでしたし。自分が言った言葉で真春さんがまた深く悩んじゃったらどうしようとか色々考えてました。でも、結構スパッと行動したのを今聞いて安心しました」
「うん、なんか今言わなくちゃってその時思って。でも、何も考えてなかったから、自分でも何言ってんのか全然よく分からなかったけど…。ちゃんと聞いてくれて受け入れてくれた香枝には感謝してるよ、ホント」
いい話だったのに、なんの前触れもなく律が「真春って語彙力ないよねー」と茶々を入れてきた。
「律に言われたくないし!」
「すーぐ支離滅裂になっちゃうんだから。必死だと特に!」
「うるさいな」
「冷静に淡々とこなしてるイメージあるのに、実はポンコツだもんね」
「ポンコツじゃな…」
「香枝は真春のそういうとこが好きなの?」と律が躊躇いもなく言う。
「あたしも意外でした。最初に好きになった時は、クールだけど優しいとこが好きだった。けど、だんだん仲良くなってったら、可愛かったり、抜けてるとこもあったりして…」
「何のろけてんだよ!」
香枝の言葉に、律が突っ込んで笑いが起こった。
「でも、なんでここまでしてくれたの?」
疑問だった。
わざわざ人のために、こんな長い時間をかけてくれるなんて。
「真春さんと香枝が大切な友達だし…それに、律さんと奈帆は2人の気持ちがよく分かるから」
未央が言った。
「大切な友達が悩んでたら力になりたいって思うでしょ?その悩み事は、今回は難しい事でした。2人から相談された時どうしようって思いました。けど、どうにかするしかないって何故か思って…。そしたら奈帆と繋がって、そこから律さんにも協力してもらえて。別にスピリチュアルなのとか信じてないですけど、ここまでくると、運命なのかなって思ったりもして」
「運命?」
「真春さんと香枝が惹かれ合ってるのは、運命なのかもって思ったんです。でも、結末を決めるのは2人だし、うちらがかき混ぜて悪い方向に行ったら嫌だし…とか散々考えました。本当はこんなこと2人のためなんかじゃないと思ったりもしました。けど…2人が向き合えるようにどうしたらいいかって考えるの、結構楽しかったです。上手くいった時はすごく嬉しかった。友達が幸せになれば、自分も嬉しくないですか?」
未央が話す間、みんな何も言わなかった。
話し終えた未央の目には薄っすらと涙が浮かんでいた。
「…ありがと。もう、ありがとうしか言葉が出ない」
未央の涙を見て、真春はポロポロと涙を零した。
未央は優しく笑っていた。
律も笑っている。
「思い出したら、なんだか放って置けなくて。だから、りっちゃんと協力してあげようって話してたんです。なかなかない話だけど、それだからこそ悩んでるんじゃないかって思ったんです」
「でも…」と奈帆は続けた。
「真春さんが泣いた時、本気で焦ったー!」
「うるさいなー!」
「いつもクールなのに、なんか可愛かったです」
「もう、そういうのいらないから」
「真春さんって、みんなから好かれてるよね」
奈帆の言葉に真春は困惑した。
「そんなことないと思うけど…」
「そんなことあるんですよー!なんでかは分かんないけど、惹かれるものがあります。それが真春さんなんですねー!」
奈帆はヘラヘラと笑うと「香枝さんも、そんな真春さんが好きって言ってたし」と言った。
「言ったっけ?」
「言ってた言ってた。てか逆に真春さんはなんで香枝さんのこと好きになったんですか?」
律と付き合うことになってテンションが上がっているのか、今日の奈帆はブレーキがやや狂っているようだ。
「んー…なんだろ」
「ないんですか?!」
奈帆は大げさに言った。
「いや、あるよ!」
「なんですか?」
「…可愛いとこ。あと、素直だし」
「何照れてんすか!」
奈帆が正面から真春の頭を軽くはたいた。
みんなが爆笑する。
「でも、付き合うとかそんなんじゃなくて、ずっと友達でいようって結果にたどり着いた。人としてお互いを好きになれたから、それでよかったと思う」
真春が言うと、香枝も頷いた。
「後悔してない?」
律の言葉に真春は深く頷いた。
「律にとっての正解は、奈帆と付き合うことかもしれないけど、あたしと香枝にとっての正解は付き合うことじゃない」
真春は大きく息を吸って、吐いた。
「お互いを理解し合える関係でいることが、あたしたちのゴールなんだと思う」
1年前、香枝にこんな気持ちを抱くなんて思ってもみなかった。
そして、こうなれることも…。
みんながいたから、ここまで来れた。
ひとりじゃ無理だった。
"恋人のような好き"から"人として好き"という感情が生まれたのは初めてだった。
同性に恋をして、初めてこの気持ちに気付いた。
ありがとう、香枝。
香枝を好きになってよかった。
これからも、ずっとよろしく。
あたしがクールな人じゃないってことは、香枝が一番知ってるよね。