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にじいろの煙  作者: 芝みつばち
17/19

終わりの始まり

7月の上旬、最も辛いと言われている小児科病棟での実習が始まった。

寝る間もないくらい記録物が多い上に病棟の実習担当の看護師や先生までもが厳しく、心身ともにズタボロになるという噂だ。

大学の附属病院で行われる小児実習は、何故かは分からないが隣の県にある附属病院の小児科病棟で行われる。

実習生用の寮を借りることができるとの説明があったが、真春は実習以外でもグループの人と関わるのは気が休まらないと思い、実家から通えない距離ではなかったので電車で通うことにした。

真春と同じ考えの人は意外と多く、3分の1は寮を選ばずに通っているようだった。

だがしかし、これが大失敗だった。

寝る時間が確保できないと言われていたのに、通うのに往復3時間半かかるのはかなりのタイムロスだった。

夜は早くて0時過ぎ、遅いと2時頃に就寝、朝は5時起きという生活が2週間続いた。

2週目の火曜日から体調を崩してしまった真春は「自己管理がなっていない」と先生に冷ややかな言葉をかけられながら実習に励んでいた。

それでも、担当している5歳の男の子がとてもいい子で、可愛くて、その子だけが真春の唯一の癒しだった。

香枝は病児は担当しないのだろうけど、将来はこんなに可愛い子供たちに囲まれて仕事するんだろうなぁと真春は何故か香枝のことばかり考えてしまっていた。

未央に話した日から真春はバイトには入っていなかった。

香枝もきっと実習だから入っていないだろう。

未央も実習と言っていたが、始まったのだろうか。

みんなそれぞれ忙しいんだろうな。

早く夏休みにならないかな。

みんなに早く会いたい。

そして最後に思うのは、香枝に会いたいという禁断の欲求だった。

日に日に悪化していく体調が最終日まで持ちこたえてくれるのを願いながら真春はみんなに会えるのを楽しみに、夜な夜な机にかじりついた。

最終日はケアに入ることはなく、ほぼカンファレンスだった。

恐ろしく具合が悪くて、話している途中でガタガタと震えそうになったがなんとか堪えて誰にも変に思われずに終わることができた。

座っているより動いている方がまだマシだった。

真春は最後の挨拶をするなりロッカーに直行し、顔面蒼白な自分を鏡で見た時に本気でヤバいと思った。

これは、疲労などではない。

ロッカーで同じグループの子たちが解放された喜びからハイテンションでベラベラと喋っているが、真春の耳には一語一句入ってこなかった。

「先帰るねー。お疲れ」

真春は声を絞り出してそう言うと、早足で駅に向かって行った。

病院の最寄駅のホームで電車を待っていると、最初は少し寒いくらいだったが、我慢できないほどの寒さに変わり真春は立っていられなくてベンチを探して腰掛けた。

感じたことのないくらいひどい震えが身体を襲う。

真冬並みに震えている気がする。

抑えようとしても、無理だった。

しばらくして電車が到着したが、帰宅ラッシュでかなり混雑していたのと立てないのとで、見送ることにした。

真春は朝着て来たパーカーを羽織って、しばらくの間リュックを抱いて前のめりになった体勢から動くことができなかった。

次第に頭の中でボワンボワンと音が鳴り始める。

電車を2本見送り、さすがにそろそろ帰らなければと思い、最後の力を振り絞って真春はガクガク震えながら次の電車に乗り込んだ。

残念なことにさっきよりも混んでいて、真春は心の奥底から後悔したが、次の駅に着く頃にはそんなことはどうでもよくなってしまった。

おそらく熱が上がり切ろうとしている身体は、制御不能なくらい小刻みに震え、立っているのもままならない。

すし詰め状態の電車内の人々は真春のそんな状況など知るはずもなく、左に揺れれば左に倒れ、右もまた同様だった。

電車内の記憶はほとんどなくて、気付いたら自宅の最寄り駅まで着いていて、身体が勝手に電車から降りて改札をくぐっていた。

駐輪場まで向かおうとしたが、あまりにもしんどくて真春は駅から出たところにあるベンチに倒れこむようにして座った。

寒気はどこかへ行き、代わりに例えようのない倦怠感が真春を襲った。

どうしよう、歩けない。

母親に電話をして迎えに来てもらおうと思い、携帯を取り出して電話帳を呼び出したが、今朝「今日はお父さんの会社の人と食事に行くから」と言われたことを思い出し、電話を掛ける手前で待ち受け画面に戻した。

なんでこんな時に…。

おそらく帰宅も遅いだろう。

周りに聞こえていてもおかしくないくらいの大きなため息をついて、真春はベンチに浅く腰を掛けたまま脱力した。

だめだ、一度座ってしまったらものすごく怠くて動けない。

全身の皮膚が敏感になり、服が擦れるだけでも重苦しくて気持ちが悪い。

次第に視界もぼやけてきて、このまま眠ってしまいそうになる。

呼吸するたびに胸の辺りの筋肉が痛む。

動きたくない。

でも、ずっとこんなところにいるわけにもいかない。

とりあえず、家に帰らなければ。

自転車には乗れるわけもないので、真春は頑張って歩いて帰ることにした。

15分頑張れば、なんとかなる。

ふらふらと立ち上がってリュックを背負った時、真春はバランスを崩して前に倒れこんだ。

その時、右腕を引っ張られたかと思うと、何かに抱き締められた。

「…さん?」

誰かが何かを言っている。

「真春さん」

「…へ?」

真春は今にも閉じそうな目で声の主を探した。

顔を上げた時、そこにいたのは…。

「香枝…?なんで?」

「大丈夫ですか?」

「ん…え?」

真春はついに頭がおかしくなったのかと思った。

いるはずのない香枝が、どうしてここにいるのだろう。

飲み会帰りの夢でも見ているのだろうか。

真春は香枝と思われる人に支えられながら、無意識に帰路を辿った。

何か話し掛けられているが、頭のてっぺんまでまたゾワゾワと悪寒が走り始めたため、そちらに意識がいってしまう。

「大丈夫ですか?」

もう一度言った香枝の声が、しんどい身体にじわりじわりと広がっていく。

「なんで…」

「え?」

「ホントに香枝?」

単純な疑問が口から飛び出る。

「香枝ですよ」

「ほんと?」

「嘘なんかつかないですよ。ほら、ちゃんと顔見て」

香枝はそう言うと、真春の頬を両手で包んで「見た?」と笑った。

ちょうどコンビニの前を通り過ぎていたので、看板の明るいライトで香枝の顔がよく見えた。

黒髪が少し色落ちして茶色くなっている。

左分けの前髪はいつも眉毛がちょうど隠れるくらいの長さで絶妙な角度をなしていて、綺麗に横に流れているのが羨ましいと真春はいつも思っていた。

大きくはないが、二重の黒目がちな目は変わらない優しさで満ちている。

今日も、いつもと変わらなかった。

本物の香枝だ。

真春は頭が回らなくて何も言葉が出てこなくて、代わりに香枝に思い切りしがみついた。

辛くて辛くて、人の温もりが恋しくて仕方ない。

もしかしたら、香枝の顔を見たからかもしれない。

自分がとんでもないことをしているということは分かっているが、抑えきれない。

香枝は家に着くまでずっと真春と腕を組み、荷物も持ってくれて、息を切らしながら歩く真春の歩調に合わせてゆっくりと歩いてくれた。

やっとのことで自宅まで辿り着き、真春が朦朧とする意識の中リュックをまさぐっていると、香枝が代わりに鍵を探し出してくれた。

「誰もいないんですか?」

暗い玄関に上がりながら香枝が言った。

「うん。会社の人と食事とか…確か」

「そっか…」

香枝は階段を上がる時も真春と腕を組んでゆっくりと歩いた。

やっとの思いで自分の部屋に着いた今は、一体何時なのだろうか。

真春は着の身着のままベッドに倒れ込んだ。

「真春さん、お布団かけないと」

ぼんやりした頭に香枝の高くてやわらかい優しい声が響く。

身体に、薄手のタオルケットが掛けられた。

半開きの目で、香枝を見据える。

少しひんやりした手のひらが、真春の額に触れた。

香枝を前にして恥ずかしいと心の片隅で思ったが、荒くなる呼吸を抑えることはできなかった。

真春は目を閉じて「ごめん…」と呟いた。

「何言ってるんですか。…とりあえず、お熱測りましょ。体温計ありますか?」

真春は机の上を指差した。

このところ具合が悪かったので、毎朝熱を測っていたのだ。

こんな状況なのに、今朝までは熱がなかったのにと言い訳したくなる。

香枝から体温計を受け取り脇に挟む。

目を閉じると、香枝が髪に触れた。

速すぎる鼓動が、更に速くなった気がした。

ピピピと鳴った体温計が示したのはなんと40.2℃。

香枝は驚愕し「えっ、うそ?!」と言いながら体温計を二度見した。

「ね…だ、大丈夫?」

香枝は少し取り乱しているようだった。

真春もそんな高熱は出したことがなかったので、大丈夫かどうかと聞かれても分からなかった。

ただ「ん…」という言葉を発するのが精一杯だった。

すると香枝は突然部屋から出て行き、数分後に戻ってきたかと思うと、タオルに包んだアイスノンとおでこに貼るタイプの冷却剤を手にしていて、真春の頭の下にアイスノンを、額に冷却剤を貼った。

ひんやりしていて、とても気持ちがいい。

「香枝…」

「はい?」

「ありがと」

香枝はふふっと笑うと「いいえ」と穏やかな笑顔を向けた。

きっとこれを幸せというのだろうけど、今は何も考えられない。

「ごめんね、実習忙しいのに。帰っていいよ」

「こんな状態で放っておくなんてできません」

「でも…実習中でしょ…」

「明日はお休みだから大丈夫です。…真春さんのご両親が帰ってくるまでいますから」

「いいよ…大丈夫」

「40℃は大丈夫じゃないですって」

香枝は少し怒った顔をして「過信は良くないですよ」と言った。

「はい…」

タオルケットで顔を覆い、目だけ出して香枝の顔を覗き見る。

するとすぐにその視線に気付いた香枝が「なんですか?」と口角をキュッと上げて微笑んだ。

いつもは子供っぽくてみんなにイジられている香枝が、今日はとても頼もしく見える。

「なんでもない」

真春は重すぎる瞼を必死に持ち上げて香枝を見据えた。

優しい香枝の表情を、見ていたかった。

「こんなの不謹慎かもしれないけど」

香枝は真春の目にかかった前髪を優しく整えながら言った。

「…ん?」

「真春さんと一緒にいれるのが嬉しい」

視線を逸らした香枝を、真春は閉じてしまいそうな目を見開いて目に焼き付けた。

つい、口元が緩んでしまう。

「真春さん」

香枝は数秒黙った。

そして「早く良くなってくださいね」と言って、真春の頭を撫でた。

あたしも嬉しい、と言いたいところだったが、溶けそうな頭ではもう言葉を出すことすら不可能だった。

限界を迎えた瞼が、くっつきそうになる。

真春は香枝の細くて綺麗な指を握って「少しだけ」と呟いた。

「風邪の特権ですか?」

香枝がクスクスと笑う。

手を握ってくれた香枝の温もりを感じながら、真春は眠りについた。


目が覚めると、カーテン越しに日が差し込んでいた。

枕元に置いてある携帯で時間を確認すると、なんと12時だった。

今まで寝れなかった分を取り戻しているかのようだ。

いくらかスッキリした気がするが、脇に挟まれた体温計は38℃を示していた。

見たら更に怠くなった。

真春は頭までタオルケットを被り、目を閉じた。

そういえば、昨日昼食を食べたきりで何も口にしていない。

食欲ないし、動きたくない。

でも、食べなければ良くならない。

そんなことを考えていた時。

「真春ー?」

母親がドアをノックした後、部屋に入ってきた。

窓側を向いていた身体を声の方に向け、のそのそと起き上がる。

ボサボサで寝癖の立った髪を撫でながら「んー…」と声にならない声を出した。

「大丈夫?なんで連絡しなかったの?」

「お父さんの会社の人と食事に行くって言ってたから…」

「もー。なんでそんな事気にするの。あんなに熱あって親に気なんか遣わないの。お母さんも悪かったけど」

「お母さんは悪くないよ…」

真春は掠れた声でそう言った。

「昨日来てた子、バイト先の子でしょ?前にもうちに来てたじゃない?」

「ん…そう」

「あの子、ホントにいい子よねぇ。香枝ちゃん。たまたま駅で会ったんだって?」

「うーん…」

真春はしばらく考え「覚えてない」と言った。

昨日の夜のことはほとんど覚えていないのだ。

偶然、香枝があそこに居合わせたのは奇跡だと思う。

気付いたらこのベッドに横たわっていた。

でも、とてつもなく幸せだったことは微かに覚えている。

「言葉使いも丁寧でさ、話し上手だし。すごく礼儀正しい子だったよ」

「うん、香枝はすごくいい子だよ」

「今度お礼しなくちゃね。仲良いなら、またうちに来てもらえばいいじゃない」

「えっ?!…そのうちね」

高熱でやられていた脳でも、そのことに関しては過剰に反応した。

香枝と何を話したのだろうか。

無性に気になる。

「うどん作るから、もう少ししたら下りて来なね」

「うん…」

母親がドアを閉めた後、真春は再びベッドに横になって携帯を確認した。

香枝からメールが来ている。

昨日の23:55だ。

『ご両親が帰られたので、私は失礼しました。お母さん、とてもいい人ですね。真春さん、お大事にしてください。また来週も実習ですか?』

真春はしばらく文面を見つめていた。

実習で疲れていたのにも関わらず、家まで送ってくれて、親が帰ってくるまでそばにいてくれた香枝。

考えていたら、ぽつりぽつりと昨日の夜の出来事が頭の中に沸いて来た。

それを頭の中で巡らせると「具合が悪いと、人恋しくなる」と言っていた香枝の気持ちが痛いほど分かった。

意志の弱い自分は、香枝に思い切り甘えてしまった。

終止符を打ったはずの気持ちは、いとも簡単に暴れ始めた。

真春は香枝にお礼と謝罪のメールを送り、頭からタオルケットを被った。

何をしていても香枝のことが頭から離れない。

ダメだと思えば思うほど、抗うように強い気持ちが押し寄せてくる。

実習が終われば、香枝と恋人のフリをして律を突き放さなければならない。

こんな不安定な気持ちで、そんなことをして大丈夫なのだろうか。

熱で叩き潰された頭でも、そんな心配事は冷静に処理されていた。

『無理しないでくださいね。実習終わったら、またバイトで会えるの楽しみにしてます!』

そう来た香枝のメールに返信せず、真春は静かに目を閉じた。


7月最後の日曜日は、オープンから22時までのシフトだった。

無事に実習を乗り切った真春は、昨日から鬼のようにシフトに入っていて、これから6連勤をこなす予定だった。

実習で体調を崩してから、自分の体力のなさを痛感して自信がないが、毎日朝から晩までということはないのでそこは安心だ。

10時5分前にシフトインし、ホールの立ち上げをする。

戸田さんが「白石さん久しぶりだから、なんか嬉しいー」と、いつもの仏のような笑顔で言ってくれたので、真春は自然と笑顔になった。

「夏休みシーズン、よろしくお願いします」

「頼むよ〜!最近、朝比奈さんも結構いい感じだから助かってるけど、やっぱ白石さんと永山さんいないと寂しいよ」

「あはは、あたしはただのペーペーですけど、香枝はしっかりしてるからいると安心ですもんね」

「何言ってんのー。白石さんがいるだけでみんな働きやすくなるんだから。卑下しないの」

戸田さんは「白石さん、たまにネガティブだよね」と言って笑った。

真春は苦笑いしながらホワイトボードに貼ってあるシフト表を眺めた。

今日は香枝が11時からラストまで、律が17時から22時で上がりだ。

今月は今日しか2人とシフトが被る日がない。

だから、今日、これから来る香枝に未央に言われた作戦を伝えて、実行しなければならない。

考えただけで、胃の内容物が逆流してきそうになった。

考えたくなくて、オープン前のホールを無駄に歩いたりドリンクバーやサラダバーのエリアを必要以上に拭いたりした。

11時になり、香枝、南、さやかが出勤してきた。

「おはようございまーす」

一番最初に現れたさやかは真春を見るなり「あーっ!真春!会いたかった!」と言って真春に抱きついた。

「もーっ!癒しの真春がいないから死にそうだったよ」

「えー?あたしそんなに癒してますか?」

「癒してるよ!真春いないとやっぱダメだわ、あたし」

さやかはニコニコしながら真春の肩を何度も叩いた。

南も笑顔で「久しぶりに会えて嬉しいです」と笑顔を見せた。

「終わってないところありますか?…あ、真春さんだからないか」

「いやいや。分かんない。どっか抜けてるかも。見つけたら教えて」

「あははっ!了解です。真春さんと久しぶりに働けるのテンション上がるー!」

「本当?」

「本当ですよー!ずっと会いたかったんだもーん」

南はそう言うと、真春と軽くハグした。

「ありがと。よろしくね」

パントリーを通ってホールに出て行った南を目で追った後、デシャップに置く仕上げのソースを端にある小さな冷蔵庫から出しながら、香枝が「またソース出してない」といたずらっぽく笑った。

「真春さん、いつもここのソース出し忘れますよね」

「あはは…香枝にはすぐ抜けてるとこバレちゃう」

真春はぎこちなく笑った。

実習中に具合が悪くなったあの日以来、香枝とは会っていなかった。

たまに体調を心配してくれるメールが来るくらいだった。

それに対してお礼はもちろんだが、香枝の近況を聞いたりおちゃらけた返事をしたりと、今までと大きく変わったことはない日々を過ごしていた。

心配してくれているのは嬉しかったが、いつも結局何て返事を返していいのか分からなくなって真春からメールを終わらせてしまうことがほとんどだった。

悪いなと思いながらも、突き放してしまっているようで、香枝はどう思っているのか不安で仕方ない。

それに、律のことを考えるあまり、自分の気持ちに正直になれないとろこがある。

早くこの状況に決着をつけたい。

「香枝」

香枝はソースをデシャップ台に綺麗に並べ終えると、いつものように「ん?」と可愛らしい高い声で小首を傾げた。

真春は香枝の右手を掴んで戸田さんから見えない所に引き寄せ「今日、大事な話がある」と言った。

「え?大事な話って…?」

「休憩入ったら、外で話すね」

「はい。…分かりました」

香枝は不思議な物を見るような、そしてどこか不安の入り混じった目で真春を見た。

そんな運命の休憩時間はすぐに訪れた。

運良く香枝と同じ休憩を組んでくれた戸田さんに感謝したい。

忙しい夏休みのこの時期、ロングシフトの休憩を組むのが難しいと戸田さんが嘆いていた。

時刻は16時。

先に休憩に入ったさやかと南と入れ替わる。

休憩は1時間と言われた。

短い休憩の間で香枝に伝えなくてはならない。

どうしようと思いながらまかないを平らげた真春は、空になったお皿を洗おうと事務所を出ようとした。

するとその時、「大事な話ってなんですか?」と香枝がナポリタンを食べ終えて冷静な口調で言った。

「外行こっか」

真春と香枝は食器を洗った後、裏口から外に出て階段を降りた。

真夏の午後の太陽が肌にジリジリと刺さる。

喫煙スペースのベンチに香枝が腰掛ける。

真春は「この間、未央に全部話した」と意味もなくコンクリートを見つめながら言った。

香枝は目を見開いた。

「未央、なんて言ってました?」

「あたしと香枝なら良い関係でいられると思うって」

「あははっ!未央のお墨付きなら大丈夫ですね。よかった」

「うん。でも、よくはないんだよね…」

真春は「あ、香枝のことじゃないよ」と付け加えた。

「どういうことですか?」

「ん…ちょっと…律のことがそうはいかなくて」

香枝の向かいのベンチに腰掛け、真春はタバコに火をつけた。

「また律さんとなんかあったんですか?」

香枝の顔がどことなく寂しげな表情に変わる。

その顔を見ただけで、真春の胸は締め付けられた。

「いや、何もないんだけどね。真春さんのこと諦めませんから!って言われてから、それが解決してないからさ…」

「そうなんですか…」

香枝の純粋な反応を見て、律にされた2回目のキスは見られていなかったのだと真春は確信し、ホッとした。

「それでね、あたしは律にどうしたら諦めてもらえるかを未央に相談したわけ」

「そしたら?」

「そしたら……ビックリしないでね?」

「何ですか?」

「嫌だったら断っていいからね」

香枝は「じらさないでくださいよ」と笑いながら頬を膨らませた。

「あたしと香枝が付き合ってるフリすればいいじゃんって」

「えっ?」

香枝は目を丸くして口に手を当てて一瞬考えた。

「な、何すればいいんですか?律さんの前で…キスとかすればいいんですか?」

「えっ?!あ、いや…それはいきすぎじゃない?…じゃなくて、もっとこう、なんていうか…律の前でさりげなくイチャつく?とか…」

「イチャつくって言われても難しくないですか?」

「んー…」

真春は煙を吐き出して灰皿にタバコを投げ入れると、おもむろに立ち上がって香枝の隣に座った。

そして、ぴったりと密着して香枝の肩に頭を乗せて「こうするとか」と冗談混じりに笑った。

香枝のヒヒッという可愛らしい声が間近で聞こえ、心臓がトクンと鳴った。

すぐに香枝から離れる。

「真春さん、結構ノリ気じゃないですか?」

「ノリ気じゃない!…あ、えっと。違う、そういう…わ、悪い意味じゃなくて…」

「えーっ?」

香枝は左手を口元に当ててケラケラ笑った。

こんな近くでそんな可愛い顔しないで、と思ってしまう自分には、こんな作戦は律を諦めさせるためとはいえ、刺激が強すぎる。

好きという気持ちが止まらなくなってしまう。

「なんかもうよく分かんなくなってきちゃった…」

真春は香枝から離れて、元いた向かいのベンチに戻った。

顔がものすごく熱くなったような気がして、さりげなく両手を頬に当てると微かに熱い気もした。

「どうしましょっか」

「んー…」

考えていると、香枝のずっと後ろから自転車に乗ってくる人影が見えた。

次第に大きくなるそれを見て、それが律だと真春は確信した。

「来た」

「え?」

真春は作戦も決まらないまま、本能同然で香枝の横に位置し「律が来たから仲良いフリして」と耳元で囁いた。

すると香枝は何を思ったのか、真春の右腕を引っ張り、突然真春の右手を自分の頬に当てた。

表情はかなり焦っている。

「おはよー」

駐車場を抜けてきた律が、いつもと変わらぬ調子で挨拶してくる。

真春は目を見開き「お、おはよう」と整理のつかない心で必死に挨拶した。

律は真春と香枝を一瞬冷ややかな目で見たがいつもの笑顔で「ホント、仲良いよね」と言って階段を上って行った。

真春と香枝は顔を見合わせた。

途端に恥ずかしくなり「これ、なんのポーズ?」と真春はからかうように笑った。

「な…なんだろ」

「あはは、でも上出来かも」

律が裏口からお店に入って行ったところを確認した後真春が言うと香枝の両手が真春の右手を優しく握った。

「こんな感じでいいですか?」

「あ…う、うん。でもバイト中はそこまでしなくてもいいからね」

「分かりました」

なんだか変な空気になってしまった。

でも、これしかもう手は残されていない。

「そろそろ戻らなきゃ」

「ですね。…頑張りましょ!」

「ごめん、変なことに巻き込んで」

「大丈夫ですよ。ちょっと楽しみです」

そう言った香枝の耳がほんのり赤くなっていることに、真春は気付かなかった。


「真春さん!ちょっと…オーダー間違ってます」

「え、うそ」

南が「真春さん、らしくないですね」と心配そうな面持ちで言った。

作戦のことを考えるあまり、真春の頭の中はそれ以外のことを受け付けなくなってしまったようで、ミスを連発しまくっていた。

17時に休憩から戻るとあと2席で満席というところまで混んでいて、さやかと南が早送りのようにいそいそと動き回っていた。

作戦どころではないこの状況でも真春は忙しさよりも律のことが気になってしまい、ずっと心臓がバクバクと鳴り止まなかった。

ミスを連発していた真春は気持ちがどんどん落ち込み、本格的に泣きたくなってきた。

「真春、どうした?」

一番絡まれたくない律に肩を叩かれてため息が漏れそうになる。

「ごめん、ミスばっかで」

「んー、まぁ…そんな日もあるっしょ!」

何かをしなければと思うほど何もできなくて、忙しさも相まって結局何もできない。

香枝が何度もこちらの様子を伺いながら働いているのは視界の隅で見えていた。

でも、真春があまりにも焦っていて香枝は言葉ひとつ掛けられずに時間がただ過ぎて行くばかりだった。

気付いたらあと10分で22時。

魂の抜けたような顔でバッシングをしていた真春は、テーブルの下に赤い小さなキャップが落ちているのを見つけた。

子連れの家族がつい先ほど帰ったばかりだ。

その中の小さな男の子がこのキャップを被っていたのは、記憶に新しい。

まだ間に合うかもしれない。

真春はレジにいた香枝に「忘れ物あったから、渡してくるね」と声を掛けて、小走りで店を出た。

サウナのような熱風が身体を取り巻く。

階段を降りて駐車場を見渡すが、見当たらない。

お店の前の片側一車線の道路に出て左右を見ると、道路の向こうの歩道に、4人の親子が歩いているのが見えた。

おそらく、あの家族だ。

真春は脇目も振らず道路に飛び出した。

すると、左手を思い切り引っ張られ、何かにぶつかった。

被っていた帽子が地面にパタリと落ちる。

目の前を大型トラックが走り去っていった。

「ねぇ、真春さん!」

「あ…」

「びっくりした…。もう、今日どうしちゃったの?!」

そう言って後ろから抱き締めたのは、少し怒った顔をした香枝だった。

香枝がいなかったら、今頃あのトラックに轢かれていたかもしれない。

脳が正常に働いていなくて、周りが全く見えなくなってしまっている。

今日の自分はとことんイカレている。

「ごめん」

無意識に抱きしめてしまったことを後悔するかのように、香枝はすぐに真春から離れ「すみません」と言った。

地面に落ちた帽子を手に取った香枝は、汚れを払って真春の頭に被せた。

「ぼーっとしてて心配だったから来たんですけど…真春さん、ディナー入ってからおかしいですよ」

「ごめん…」

「どうしたんですか?」

作戦のことを考えていたなんて言ったら笑われてしまうだろうか。

理由がマヌケ過ぎて、言うのを躊躇う。

「ごめん」

「ごめんじゃ分かりませんよ」

香枝は「心配してるのに」と鼻から荒い息を漏らした。

「…律のこと考えてたら、何かしなくちゃって気持ちばっかり焦ってて。あ、律のことって作戦のことね」

「分かってますよ」

香枝は呆れたような顔をした後、右手の甲を口に当ててふふっと笑った。

「でも、それにしても盲目になり過ぎじゃないですか?真春さんらしくないですよ」

「んー…ダメだもう。なんか、何も考えられなくて…」

真春は両手で顔を覆ってため息をついた。

「あたしも何かしようと思ってたけど、真春さんが怖いくらいにミスしてるから何もできませんでした。それに、忙しくてそれどころじゃなかったし」

「ごめんね。結局なにも出来なかったし、香枝にもみんなにも迷惑かけて。…これも渡せなかったし」

真春は右手に持ったキャップを一瞥した。

何をしているんだろうか、自分は。

「帽子は忘れ物コーナーで保管しておきましょ。そのうち取りに来ますよ」

「だね。ごめん。…戻ろっか」

真春が力なく笑うと、香枝はおもむろに帽子の上から真春の頭を撫で「落ち込まないでください」と言った。

「これ、そこの窓から律さん見てますかね?」

香枝は口角をキュッと上げた。

2階にあるお店の窓際の席からは、今いる場所がよく見える。

バッシングでもしていたら、この状況は律の脳裏にしっかりと刻まれるはずだ。

「もう上がりじゃないですか。最後にそれっぽいことしようかなって」

いたずらっ子のような目をした香枝が可愛くて、少しあざとくて、このまま抱きしめたくなる。

そして、"最後"という言葉が、胸にチクリと刺さった。

「見てるといいね」

上手く笑えているだろうか。

わけもなく涙が出そうになる。

真春は香枝に背を向けて、階段を上った。

「失敗しても、また考えればいいじゃないですか」

真春の心を見透かしたような声が後ろから聞こえてくる。

振り向いた時、香枝は「どこまでも付き合いますよ」とニッコリ笑った。


戸田さんに挨拶して事務所に戻ると、既に着替えを終えた律がパイプ椅子に座りながらパソコンでソリティアをしていた。

「お疲れ」

「遅いー。何してたの?」

「お客さんの忘れ物届けに。…でも、渡せなかった」

「ふーん」

真春が戻ってくるのを待つのが当たり前、といった態度の律はそう言うと、ソリティアの画面を閉じて打刻の画面を表示し「どうぞ」とマウスから手をどけた。

「ありがと」

マウスを操作して打刻しようとすると、律が右手を真春のそれに重ねてきた。

うっすらと冷たいその手に、ついビクッとなる。

「で、その後何してたの?」

「その後って?」

「香枝と」

「……」

香枝の「見てますかね?」は本当だったのかもしれない。

途端に、胃から何か出てきそうになった。

「ま、いいけど。今日の真春と香枝、妙に仲よかったよね」

「あー…そう?」

「なんか、付き合ってるみたいだった」

律からその類の言葉が出て真春は一瞬迷ったが「付き合ってるよ」と律の方を向かずにしれっと言った。

重い言葉に感じたが、今のタイミングしかなかった。

もっと、神妙な面持ちで言った方がよかったかな、と無駄な後悔をしたのも束の間、律は「えっ?浮気?」と驚いたような顔をした。

真春はロッカーを開けると、着替えを取り出して律を見た。

「なのかな」

恭介が全く接点のない人でよかったと心から思う。

無表情で淡々と言う心の裏で、心臓にドシンと重いものが落ちてきた。

「そうなんだ…」

「あたしは香枝が好き。どうしようもないくらい…」

言葉に出すと、本当にそんな気がしてくる。

あたしは香枝が好き。

好き…。

大好きだよ、香枝。

やっぱり、この気持ちを抑えるのは無理なのかもしれない。

「あたしだって真春のこと好きだよ。こんなに好きになったの、奈帆以来」

「え」

「無理。諦められない。真春があたしの事好きって言ってくれるまで、諦めないから。香枝と付き合ってても、絶対に諦めない!」

夏なのに事務所の空気は冷たくて、音さえも聞こえないくらいにしんとしている。

「待ってるから」

律はそれだけ言って、事務所を出て行ってしまった。

作戦は失敗だ。

結局悪い方向にいってしまった。

最悪だ。

しかも、香枝の事を好きだと言った時は、嘘偽りのない感情だった。

自分はまだ香枝の事が好きだ。

友達でいようなんて、そう簡単にはいかないのだ。

今日、香枝に付き合っているフリをしようと言ってから、自分を見失うほどドキドキして、周りすらも見えなくなって、香枝を意識していた。

きっと香枝は割り切っているはず。

でも自分の感情はそうはいかなかった。

最低だ、何もかも。

香枝が好きだ。

どうしようもないくらいに…。


『ダメだった』

家に帰り自分の部屋に入るなりベッドに身を投げた真春は、香枝にメールを送った。

締め作業が終わるまであと1時間はかかるだろう。

このメールを見て香枝は何を思うだろうか。

送ったメールの画面を意味もなく見つめる。

自然とため息が漏れた。

頭も身体も疲労困憊で、横になった状態から動くことができない。

もう、香枝と付き合っているフリなど耐えられない。

一生この気持ちに終わりを告げられなくなってしまう。

しかし律を諦めさせるには、まだ続けなければならないのかもしれないと思うと胸がはち切れそうになる。

あの律を、どうしたら諦めさせることができるのだろうか。

いっそのこと、好きにさせておこうか。

答えの見えない問題がぐるぐると頭の中を巡る。

そのうち、考えれば考えるほど自分の欲求を肯定していることに気が付いた。

香枝との関係を崩さずに律と和解するにはどうすればいいのか。

そんなことばかり考えている。

自分が傷付かない結果ばかり。

好みの妄想ならいくらでもできる。

でも、現実はそうはいかない。

頭の中で、何かがパチンと弾ける音がした。

その時、けたたましいメロディーが右耳の鼓膜をつんざいた。

ビクッとなり、画面を見ると"永山香枝"の文字が表示されていた。

いつのまにかそんな時間になっていた。

「はい…」

「真春さん…大丈夫ですか?」

「ん?」

「今終わってメール見ました。律さん、何て言ってたんですか?」

真春は横になったまま「今日ので逆に律を本気にさせたみたい」と沈んだ声で言った。

「えっ…どうしましょう…」

「とりあえず、付き合ってるって言ったからには、これからもそうしておかないとまずいよね」

そうあるべきではないと思いながら口から出る曖昧な言葉が、部屋に響き渡る。

「わかりました…」

「ごめんね」

自分の勝手な事情で香枝を振り回していることに、ひどく心が痛む。

「でも…」

電話越しの香枝の声が心地よい。

「今日、すごく楽しかったです」

香枝の言葉が痛んだ心に優しく染み渡った。

気を遣ってくれているのだろうか。

「迷惑だったらちゃんと言ってね」

「あはは。迷惑じゃないですよ。真春さんのこと諦められない、っていう律さんの気持ちすごく分かるから、ちょっと心苦しいですけど」

香枝はへへっと笑った。

「どういう意味?」

少しの沈黙の後、その問いに香枝は答えた。

「あたしも真春さんのこと好きだから、友達でいようって言われて本当は受け入れるのに自信がなかったんです。なんか、フラれた気分でしたし」

「……」

「好きな人に付き合ってる人がいるって辛いですよね。もし、あたしが律さんの立場だったら嫌だなって思います。それに真春さん、自分で分かってないと思うけど、すごく人を惹きつける魅力あるんですよ」

「なにそれ」

急に褒められて、真春は恥ずかしさのあまり鼻で笑ってしまった。

「うーん…なんていうのかな。かっこいいと思う時もあれば可愛いって思う時もあるし、しっかりしてんなーと思う時もあればたまに抜けてる時もあるそのギャップ!しかも、優しいでしょ?」

「そんなことないよ」

「真春さん分かってないなー!」

香枝の笑い声が脳を刺激する。

途端に、胸がざわざわして息が苦しくなった。

「会いたい…」

「え?」

つい、本音が出てしまった。

「香枝に会いたい」

自分は、最低な人間だ。


10分後、真春は香枝の部屋にいた。

初めて入る香枝の部屋。

女の子らしい部屋だった。

アイボリーのカーペットにピンクのカーテン。

隅に置いてあるクマのぬいぐるみが可愛らしい。

「焦った」

香枝は笑って言った。

「どうしたんですか?」

「わかんない…」

「わかんないって…とりあえず、どうぞ」

香枝はいつものように穏やかに笑いながらティーカップに入った紅茶をテーブルに置いた。

「香枝…」

「はい?」

「あたしたち、今日付き合ってるフリしてたじゃん?」

「うん」

「嬉しかった…。全然それっぽいことできなかったけど、香枝と嘘でもそうなれた事が嬉しかったの」

香枝は黙ってテーブルに置いた紅茶を見つめている。

「自分で香枝に友達でいてって言ったくせに、やっぱりあたし…香枝のことが好き」

目の前がじわっと涙でぼやけるのが分かった。

「あたしも、真春さんのことが好き。でもそれは律さんもきっと同じなんじゃないかなって思ったんですよね」

「えっ?」

「律さんもこんな風に悩んでるのかも。理由は違うけど、好きなのに手に入らないもどかしさがあって、律さんも泣きたいくらい辛いのかもしれないって…ちょっと思っちゃいました」

好きだけど、香枝がいるから手に入れられない。

自分は香枝が好きだけど、手に入れてはいけない。

香枝の言葉は胸が痛くなるほど正論で、もし自分が律だったら、本当に悲しくて辛いと思う。

でもそれは律の話だ。

他人のことなど心配するほど心は広くはない、と真春の心に黒い影が立ち込める。

そんな律に待ってると言われたものの、結局どうすればいいのかも分からない。

それどころか、また自分の頭の中は香枝の事でいっぱいになっている。

振り出しに戻った気分だ。

自分が愚かすぎて、情けなくなってくる。

ぼやけた視界を作っていた涙がボロボロと零れ落ちた。

「真春さんって意外と泣き虫」

香枝は笑って真春の顔を覗き込んだ。

感情が抑えられない。

どうしよう…。

本当に香枝が大好きだ。

真春は渡されたティッシュを無視して香枝にしがみついて泣きじゃくった。

なんでこんな事してるんだろう。

自分から香枝を説得したくせに最低だ。

「こんなことされたらまた好きになっちゃうよ、真春さん…」

「どうしよう…あたし…」

真春は「香枝のことが大好き」と、涙でぐしょぐしょになった恥ずかしい顔で香枝の目を見据えて言った。

「ダメだって分かってるけど、我慢できない…。最低なのも分かってるけど…でも…」

「あたしもずっと…真春さんとこうしたいって思ってました。ダメなのはあたしも分かってます。でももう、何がダメって決めつけるの、やめたい」

香枝の優しい言葉に、また涙が溢れてくる。

「ごめんね…」

「謝らないでください」

決着をつけると決めたのは、自分だ。

どこからかふと、そんな声が聞こえてきた。

いつまでもこのままではいけない。

そんなのは分かっている。

でも、香枝のことが好き。

その気持ちを抑えることが出来ないのもまた事実だ。

揺れる気持ちがどちらに転がるべきなのかは、誰にでも分かる。

圧倒的多数を、選択しなければならないのも分かっている。

それでも、最後くらい…。

最後だけは、甘やかして欲しい。

「香枝…」

「はい」と言った香枝の目から一筋の涙が頬を伝った。

これが最後だと予期しているかのようだった。

真春の心の中ではこの数十分間の間で、すっきりと晴れ渡る空のように終わりを見据えていた。

いつが最後なのかも、何かに導かれるように確かな足取りでここまで進んできていた。

「なんで、泣いてるの?」

香枝に好きだと言われた時も同じことを聞いたのを思い出した。

あの時は、香枝の心の内が全く分からなかった。

しかし、今は香枝という人間を知り、少しでも近づくことができた。

「なんでだろ…真春さんと同じ気持ちだからかも」

へへっと笑った香枝の目から、今度は大粒の涙がポロポロと零れ落ちた。

あの頃より、お互いを理解しているのかもしれない。

見たことないくらいに泣きじゃくっている香枝を見て、真春の心は痛んだ。

「これで最後にしよ」

「え…?」

真っ赤な目をした香枝を見つめる。

香枝の顔を見ていたいのに、また涙が溢れて、大好きな顔がぼやけた。

「好きになってくれて、ありがとう」

真春はそう言うと、香枝の首筋に腕を回して愛おしい唇に自分のそれを重ねた。

そして、優しく抱きしめた。

背中に、震えている感触が伝わる。

「真春さん…大好き。ありがとう」

温かい唇が触れながらそう言った言葉は、生涯忘れることはないだろう。

ひどくしょっぱい味がした。

どちらの涙の味なのかは、分からなかった。

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