最後の試練
むせかえるような緑の匂いに包まれながら自転車を漕ぐのは最高に気持ちいい。
薄手のグレーのパーカーを風になびかせ坂道を下りながらそんなことを考えていたゴールデンウィーク初日。
香枝への気持ちの整理がつかないまま迎えたこの日は22時まで香枝と一緒のシフトで、真春はどう関わろうか昨日の夜からそんなことばかり考えていた。
香枝とこんなに早くシフトが被るとは思っていなかった。
ちなみに、今日は律も出勤日で律は真春と同じ22時上がりで香枝はラストまでだ。
何があるというわけでもないが、無性に胸騒ぎがするのは何故だろう。
5月の午前11時の陽射しは、汗をかくのには十分な強さだった。
お店に着いて背中に汗が滲むのを感じた時、真春はパーカーを着て来たことを後悔した。
「おはようございます」
実習のために切り揃えた髪を整えながら事務所に行くと、着替えを済ませた奈帆が「あ!真春さーん!なんか久しぶり」と、いつもの元気いっぱいの笑顔を向けた。
「髪切ったんすね。なんかその髪型見ると実習って感じ」
「あはは、分かる?ゴールデンウィーク明けたら実習始まるんだよね」
「いよいよですねー。頑張ってください」
奈帆は小さくガッツポーズをすると、「先に行ってますね」とパソコンで打刻して一足先に行ってしまった。
ロッカーにリュックを入れた時、更衣室の扉がガチャンと開く音がした。
見ると未央が「あ、待ってました?」と靴の踵を潰していそいそと更衣室から出てきた。
あれ、今日って未央もいたんだっけ?
真春は奈帆と未央もシフトに入っていたことなどすっかり忘れていた。
香枝も律もそうだが、あの2人とも個別に色々と関わっているので、今日のシフトは色々な意味でひどく疲れそうだなと真春は思った。
着替えと打刻を済ませ、薄暗い通路とキッチンを抜けてパントリーに向かう。
手を洗っていると、ホール側の暖簾を早足でくぐり抜けた香枝と遭遇した。
「わっ!真春さん!おはようございます」
「びっくりしたー。おはよ。忙しい?」
「うーん、まぁまぁです」
ニコッと笑う香枝から目を逸らすことができない。
何か言わなければと思うが、この間の出来事が頭から離れなくて上手く口が回らない。
香枝は何を思っているのだろう。
なんか、いつもそんな事ばかり考えて人の顔色を伺っている気がする。
そんな自分にうんざりする。
「香枝ちゃん一緒にお座敷行こー!」
久しぶりに聞いた優菜の甲高い声で真春ははっとなった。
香枝は「待ってー」と言いながらその場から去って行ってしまった。
結局、何も言えなかった。
いや、今は何も言うべきではないか。
「真春さん」
「えっ?!」
「いつまで手洗ってるんですか?」
不意に未央にそう言われて、今の今まで目の前の水道から水が流れ続けていることを忘れていた。
「あ…ごめん」
「ぼーっとしすぎ。香枝のことでも考えてたんですか?」
未央の顔は堪え切れないと言った様子で笑みが溢れ出しそうになっていた。
真春は「考えてないよ」と心のこもっていない返答をしながら蛇口をひねった。
その後も未央と奈帆はそれぞれ別の場所とタイミングで香枝のことを聞いては心配してくれたり、時にニヤニヤしたりしていて、終始心臓が暴れっぱなしだった。
逆に律はいつもより大人しく感じた。
真春が香枝とバッシングして一緒に帰ってこようが、香枝が真春に他の人には見せないようなキラキラした笑顔を向けようが何も気にしていない様子だった。
しかし今日の律はなんだかおかしいと思ったのは17時を過ぎた頃だった。
今まで怖いくらいに何もなかったのに、やたらベタベタしてくるのだ。
香枝とサラダバーの仕込みをしながら他愛のない話をしていると、突然後ろから律が抱きついてきて「真春ー。それ終わったらスープの作り方教えて?」と猫撫で声で耳元で囁いてきた。
「…え?さやかさん今手空いてるから、さやかさんに聞きなよ。ってか顔近いから」
「真春に教えてもらいたいの。さやかさんはレジの対応に追われてまーす」
「わかった…」
真春が言うと、律はお礼を言いながら真春をきつく抱きしめた。
ため息を必死にこらえていると、香枝が隣でクスクス笑った。
「律さんは真春さんのことが大好きなんですね」
「当たり前じゃーん。前にも言ったでしょ?」
「はい、聞きました」
香枝はニッコリ笑いながら答えた。
2人のこんな会話、聞いていられない…。
「香枝も真春のこと好きでしょ?」
「…律」
真春はつい口を出してしまった。
絶対に変に思われただろう。
「え、何?」
「え?あ…なんでもない」
「好きですよ」
香枝が朗らかに言い放ったその言葉に、ドキンと心臓が脈打った。
「でもみんな真春さんのこと好きでしょ?」
「それと同じです」と言って、香枝はレタスが詰まったホテルパンを持ってキッチンから出て行ってしまった。
頭がぼうっとする。
「香枝とはいい感じなの?」
まだ身体を離さない律が後ろから囁く。
ニヤニヤする律をキッと睨むと、真春はその言葉を無視して「スープ作ろっか」と言ってブロッコリーの入ったホテルパンにラップをかけた。
それから律は事あるごとに真春に絡み、時折香枝を挑発しているようにも見える行動を取っていたので真春は気が狂いそうだった。
香枝とは決着がついたつもりだったのに、こんな風に外野に掻き乱されてしまったら、また気持ちが逆戻りしてしまいそうになる。
香枝は笑顔でかわしているから、もう割り切っているのだろう。
これ以上、香枝のことでとやかく言われたくないし、惑わさないでほしい。
拮抗する気持ちが身体中をぐるぐると駆け巡っているこの時期、少しでも惑わされたら欲望の方にコロンと転がってしまいそうなくらい綱渡り状態の心中なのに。
なのに何故そんな時に限ってタイミングを見計らったかのように律は飛び込んでくるのだろうか。
22時に律と上がる前、真春は香枝をパントリーに連れて行った。
「ごめんね」
2人でいるのを怪しまれないように、真春はダスターを洗いながら口を開いた。
「なんで謝るんですか?」
「あ…いや、律が変なことばっかり言ってて香枝困ってたよねって思って」
「真春さんが謝ることじゃないですよ」
確かにそうだ。
何に責任を感じているのか、香枝に言われて急に恥ずかしくなった。
「あはは、だよね…」
真春は力無く笑って蛇口をひねって水を止めると、ダスターを固く絞ってシンクの脇に置いた。
「変なこと言ってごめん。じゃ、ラストお願いね」
「はい、お疲れ様です」
「お疲れ」
何故か素っ気なく聞こえた香枝の声が冷たく胸に突き刺さった。
事務所に行くと、先に上がっていた律がパイプ椅子に座ってシフト表を眺めていた。
「真春」
パソコンで退勤の打刻をしていると、怠そうな声で律が言った。
「なに?」
「香枝のあの言葉は本当?」
「あの言葉って?」
「香枝の真春に対する好きは、みんなと同じ好きってやつ」
「……」
「真春、まだ告ってないの?」
「は?!」
どストレートな律の言葉に、心臓が飛び上がった。
何かを悟られていそうな気がして怖い。
「告るもなにも…香枝は、その…友達だよ」
「それでいいんだ?」
「こんなとこで話すのやめて」
真春はバクバクする心臓に、静まれと語りかけながら更衣室で着替えを済ませた。
一緒に帰るつもりなどなかったのに、事務所を出ようとすると律が「待って、あたしも帰る」と言って後ろからついてきた。
律と一緒にキッチンにいる戸田さんに挨拶すると、いつものように「気を付けてねー」と優しい笑顔を向けてくれた。
デシャップ台にいる香枝も挨拶してくれると思いきや、こちらを見向きもしない。
でも、それでいいやと真春は思った。
なぜなら、律が楽しそうに真春の腕に自分の腕を絡ませているから。
香枝に見られたくないと思っている自分って、一体何なのだろう。
裏口から外に出て階段を降りるとすぐ、律は真春を引き寄せて身体を密着させた。
いきなりすぎて、息が止まりそうになる。
「な…に?」
「香枝とは友達なら、あたしにチャンスがあるってことだよね?」
真春は「何言ってんの」と言って身をよじらせて律から離れた。
「チャンスとかそういうのじゃなくて、そもそもあたしは律のことそんな風に見れないし…それに……も、もうとにかく無理なものは無理なの!」
そこまで言った時、奈帆に「律のこと嫌いにならないで。好きな人に気持ちを伝えるのが上手じゃないから」と言われたことを思い出した。
これが律なりの精一杯の言葉なのかもしれない。
ひどいこと言って傷付けていやしないだろうか。
急に律のことが可哀想になってきた。
それと同時に、いつも強く言えなくていらない優しさが出てしまう自分に嫌気がさす。
「ごめん…」
ポツリと言うと、律は「真春のこと、諦められない」と呟いた。
「でも…あたしは律の気持ちには応えられない」
「どうして?」
「どうしてって…前にも言ったでしょ?」
律の瞳が少し潤んでいるように見えた。
こんな顔をした律を見たのは初めてだ。
沈黙の間に、律の目にはじわじわと涙が溢れ始めていた。
「律…泣かないでよ。本当にごめん」
そう言いつつも何故謝っているのか分からなくて、真春は黙りこくった。
その時、裏口が開く音とビニールがカサカサと擦れる音がした。
おそらく、最後のゴミを捨てに香枝が出てきたのだろう。
こんな密会みたいなところ、見られたくない。
そう思った瞬間、腕を引かれてよろめいたタイミングで律にキスされた。
100パーセント、いや1000パーセント香枝に見られた自信がある。
香枝が来たタイミングでこんなことするなんて、悪意があるとしか思えない。
もう香枝とは友達だと思っているけど、こんなところを見られるのはやっぱり嫌だ。
他の人に見られるのもそれはもちろん嫌だが、相手が香枝となると話は別だ。
律のことなんて好きじゃないと言ったことを、香枝は覚えているだろうか。
心変わりしたのではないかと思われてしまっても仕方がない。
唇が離れた時、裏口のドアの前に大きなゴミ袋が置かれているのが見えた。
香枝の姿は、ない。
真春は律を見て「なんのつもり?」と冷めた声で言った。
怒りすらも沸いてこない。
「あたしの今の気持ち」
黙っていると、「じゃあね」と言って律はひとりで駐輪場へ向かって行った。
再び、裏口のドアが開く音が聞こえてきた。
真春は急いで駐車場の壁の影に隠れた。
何してるんだろう、自分。
そのままうずくまって膝に頭をつけると、頭にズンズンと血液が巡っていくのが分かった。
これ以上、考えたくない。
裏口のドアが閉まった。
真春はその場でタバコに火をつけて、大きく深呼吸した。
長期休暇明けの1つ目の実習は、産婦人科病院で行われた。
運が良ければお産に立ち会えると言われていて楽しみにしていたのだが、土日が明けて病棟に行った時には担当していた妊婦さんのお腹はへこみ、隣には驚くほど小さな人間が小さな赤ちゃん用のベッドに寝かされていた。
立ち会えなかったのは残念だったが、新生児を見た瞬間にそんな沈んだ気持ちは一気に晴れた。
神秘的で専門的な科である産婦人科での実習は、今までの物々しい雰囲気の実習とは全く違い、喜びや愛で溢れる温かいものだった。
記録はそこそこ多いが、精神的に癒されるこの実習はできれば最後の方にして欲しかった、と真春は最終日の帰りの電車の中で思っていた。
後半の実習は、7月下旬までほとんど実習と実習の間の休みがないため、バイトも全然できない。
入れても月に1回か2回のペースなので、今までフリーター並みにシフトに入っていた真春はスタッフのみんなが恋しくて仕方がなかった。
2つ目の市役所での実習を終えた6月の初めの土曜日。
久しぶりにバイトをした真春は、感覚が鈍ってしまっていてヘマをやらかしまくって戸田さんに「大丈夫?」と笑いながら心配されていた。
「はは…すみません」
ハンディーでオーダーを打ち直して新しく出した伝票はこれで3枚目だ。
「今日やばいっすね、真春さん」
ピークが過ぎた14時、未央がバッシングしてきた食器を仕分けしながら伝票をレールに挟んだ真春を見て笑った。
「うん、本当にやばい。テンパっちゃってるよ」
「久しぶりに入った日が休日で忙しいとそうなりますよね。あ、実習どうですかー?」
「今回は休みあまりないから大変だよ。あと3つあるけどもう既に夏休みが待ち遠しい」
「気が早いっすねー。まだ6月になったばっかりですよ。あたしも今月ちょっとだけですけど実習あるんですよね」
未央は「怖いなー」と呟いた。
「未央なら大丈夫でしょ。要領いいし」
意味もなく黒髪の綺麗なポニーテールを見ながら真春は言った。
未央にはまだ言っていない。
香枝との間にあったこと全て。
ゴールデンウィークに1度シフトが被って以来、香枝とは会っていない。
しかも、もしかしたらまた律になんやかんやされたところを見られたかもしれないという、いらない不安がまとわりついていて、香枝と会うのが恐ろしく緊張する。
そんな彼女は今期は学校が忙しく、授業と実習がびっしり入っているらしい。
幼稚園の先生になりたいと言っていた香枝は短大に通っているので、4年制の大学よりもずっと詰め込まれたカリキュラムをこなしている。
バイトに入れないのも頷ける。
メールもしばらくしていないし、元気でやっているのかそうでないのか分からない。
友達でいようと言ったあの日から、これといって何かがあったわけでもなく、自分達が一体どんな関係なのかふとした瞬間考えることがある。
きっと友達であることに変わりはないのだろうけど。
このところ忙しいので考え込むことが少なくなっているせいか、前より気持ちがいくらか楽になっていることに気が付いた。
しかし今日、香枝は15時からシフト入っているので後で会うことになる。
律のことは絶対に口に出せないし、見ていたとしても香枝は何も言わないだろう。
それとも、もう割り切って話題に出してくるのだろうか…。
休憩中、そんなことを考えながらカレーを食べていると「あれからどうですか?香枝と」と、隣で和風ハンバーグを頬張る未央が真剣な顔で聞いてきた。
心の中を読まれているような気がして、真春は未央を凝視してしまった。
「旅行から帰る日、真春さんなんだか変だったじゃないですか。ずっと気になってて…。今更ですけど」
「あー…」
「本当は実習始まる前に声掛けようと思ってたんですけど、なんか図々しい気がして真春さんから話してくれるの待ってたんです。話したくない感じになってたら嫌だなーとも思って」
未央には色々と聞いてもらっていたのに、何も話していないなんてあまりにもひどすぎるよな、と真春は今になって後悔した。
スッキリしたかと言われたら自信満々に頷けない結果だが、未央には全て話す必要があるのではないか。
もうこれ以上は何も望まないし、望んではいけない。
「そのことなんだけど…。後で、話していい?」
「バイト終わったら飲み行きますか?」
未央は優しく笑った。
カレーを食べ終え、タバコを吸おうと裏口から外に出た時、湿気を帯びた風が頭上で渦巻いた。
やわらかさと照りつけるような強さの両方を感じさせる太陽が、雲に隠れて駐車場のコンクリートにさっと影を落とした。
今年の梅雨は例年通りだと、天気予報が伝えていたのを思い出す。
ベンチに腰掛けてタバコに火を付けたその時。
「おはようごさいます」
優しい、やわらかい声が鼓膜を震わせ脳に伝わった。
振り向くと、髪を黒く染めた香枝が変わらない笑顔で真春の顔を覗き込んでいた。
久しぶりに会って、無意識に顔が綻んでしまった。
この笑顔は、律とのことを何も知らないということでいいのだろうか。
それとも、得意の演技か。
「おはよ」
香枝は少し間をとって真春の隣に腰掛けると「久しぶりですね」と言って地面を見つめた。
「髪、染めたんだ」
「はい。実習行くんで」
「そっか。頑張ってね」
綺麗な栗色の髪しか見たことがなかったので新鮮に感じると同時に、とても清楚で黒髪も似合っていたので「似合ってる」と言いたいところだったが、何故だか言えなかった。
心の中で色々な物が邪魔してくる。
「真春さんはこの間より少し伸びましたね」
香枝が顔を上げてこちらを見る。
その顔は、少し疲れて見えた。
「ん?そう?」
「やっぱりその髪型、似合います」
香枝は「マッシュボブ」と言ってニッコリした。
「あはは、ありがと」
ストレートな言葉に、真春ははにかんだ。
時の流れがゆっくりに感じる。
どんな顔で香枝と会えばいいのだろうと、そればかり考えていたが、いざ会ってみると驚くほど何も感じない。
実習に忙殺されてついに神経が狂ってしまったのだろうか。
今なら香枝と友達として普通の会話が出来そうな気がする。
本当に"今"だけかもしれないけど。
そして、未央に全て話そうと決意したことも伝えなければ。
「この間は…ごめんね」
「何が?」
香枝は分かっているような顔をしてヘラヘラ笑った。
「謝らないでって言ったじゃないですか」
「そうだったね」
真春は苦笑いした。
「良かったです。ちゃんと話せて」
「あたしも。それでさ…」
改まった口調で言うと、香枝は心配そうな顔をして次の言葉を待った。
「未央に言おうと思うの。今までのこと全部」
香枝は視線を泳がせ、綺麗な左分けにした前髪を撫でつけながら考えているようだった。
「未央はあたしと香枝の気持ち、知ってるでしょ?でも、ほんの一部の気持ちだけで、実際何があったかなんて何も知らないと思う」
真春は手に持ったタバコを灰皿に入れた。
「色々と相談もしてたのに、何も言わないなんて未央に申し訳ないし」
「そうですね…。言わなきゃですよね。未央には迷惑かけちゃったし。あんなこと言われたって、未央だってどうしていいのか分からなかったんじゃないかな、って今になって思います」
「だから、ちゃんと未央には言おうと思う。いつか3人で話せたらいいね」
「そうですね。…いつか」
空を見上げると、白い粒がゆっくりとしたスピードで白い線を作りながら動いているのが見えた。
「あ、飛行機だ」
「なんか、懐かしいですね」
「だね」
この先も、飛行機を見る度にきっと香枝のことを思い出すだろう。
それは恋をしていた時の気持ちか、それともそれ以外の気持ちか。
時が経てばきっとどちらも美化されているのかも、と真春は心の片隅で思った。
22時までのシフトの香枝は真春に「ラスト、頑張ってくださいね」といつものように声を掛けて帰って行った。
次に会う時にはおそらく夏が来ているだろう。
「お疲れ。またね」
手を振った香枝の笑顔が瞼に焼き付くのが分かった。
こんな笑顔でたくさんの子供達とふれ合う香枝は、きっと慕われるんだろうな、と想像する。
小さい子供がいる家族連れのお客さんとの関わり方は、バイトリーダーのさやかよりも上手いと真春は思っていた。
きっと香枝なら素敵な先生になれるはずだ。
裏口のドアが閉まった後も、真春はデシャップ台を掃除しながら意味もなく暗い通路を見続けた。
しばらく会えないと思うと胸がざわざわと音を立てたが、真春はその音が聞こえないフリをした。
締め作業を終えた後、真春と未央はクリスマスの日に行ったバーに向かった。
店の扉を開けて中に入ると「お好きなとこどうぞ」と店員に笑顔で言われたので、一番奥の隅の席に座ることにした。
「ここに来る時は、いつも香枝の話ですね」
椅子を引いて背もたれに薄手のジャケットを掛けながら未央が笑った。
「まだ2回目だよ」
ドリンクのメニューを眺め、真春は「普通のビールにしようかな」と言って未央にメニューを渡した。
「じゃああたしはまた黒ビールにしようかな」
「ハマったの?」
「いえ、2回目ですけど。ここ来るとなんとなく黒ビールって感じがして」
ビールとおつまみを注文して店員が去った後「で、何があったんですか?」と未央は待ちきれないといった様子で真春の言葉を待った。
「いきなりだね。何から言えばいいのかな…」
「いきなりも何も、その話をしに来たんじゃないっすかー」
未央が「焦らさないでくださいよー」とまたニヤけた時、ビールと小皿に盛られたお通しのジャーマンポテトが運ばれてきた。
「はい、乾杯」
「かんぱーい」
カチッとグラスが当たる。
どこから、何から話せばいいのか何も考えていなかったので、いざ言うとなると頭の中が真っ白になってしまった。
代わりに一気に流し込んだアルコールと吸い始めたタバコのニコチンが頭の中を巡る。
「でも、悪い感じじゃなさそうですよね」
未央はジャーマンポテトを箸で突きながら言った。
「うん…悪い感じではない。…なんて言うのかな。とりあえず、友達だよ香枝は」
真春はタバコの先端の火に目を向けて言った。
「友達ですか。でも真春さんは香枝のこと好きなんですよね?香枝だって真春さんのこと好きだし」
「じゃあ、未央はあたしのこと好き?」
「えっ?」
「好き、嫌い、どっち?」
「そりゃ好きですけど…って何言わせるんですか!」
未央は困ったような笑顔を向けた。
「そういうこと」
「え?全然意味分かんないです。じゃ、聞き方変えます。旅行で何かありました?」
煙を見ながら「あったよ」と真春は答えた。
その先に見えた端整な顔は、少し期待が込められた笑みを浮かべていた。
真春は深呼吸した後、ゆっくりと語り始めた。
香枝を好きになったきっかけ。
律にキスされたところを香枝に見られたことがきっかけでギクシャクしたけど仲直りしたこと。
旅行中の出来事。
香枝の家まで行って話したこと。
全部、香枝とのことは何も包み隠さず言った。
さすがに奈帆と律の関係と、奈帆に相談したということは言えなかった。
話し終わる頃には4杯目のビールが空になっていた。
興奮していてあまり酔いが回っていないような気がする。
未央はからかったり話を遮ることもせず、時折笑顔を見せながらずっと頷きながら聞いてくれた。
空になったグラスをテーブルの端に寄せて、未央が店員を呼ぶ。
真春は少しだけ残っていたビールを飲み干して同じようにグラスを端に寄せると、すぐに来た店員に未央と同じビールをお願いした。
「香枝からも少し聞いてましたけど、ただ好きってだけで、どうなりたいとかは分からないって言ってました」
「あたしと同じだったんだね」
「そうなんすよ。ちゃんと話せて良かったですね」
「うん、よかった。最後は自分でもびっくりするくらい取り乱してたけど」
5杯目のビールが運ばれてきて、空のグラスと交換された。
「あはは。でもそれほど香枝の事が好きだったんですよね、真春さん」
「そうだね。今も香枝のことは好きだけど、前みたいな感情は少し薄れてきてるかもって思うような思わないような…。香枝と話してる時、本当に自分って最低だなって思ったし、香枝よりも自分に友達でいなきゃって言ってるような感じになってきちゃってさ」
「すぐに気持ち切り替えるのって、難しいですよね」
「え?」
「好きなのに友達でいようって言うのも言われるのも、辛くないですか?」
「それはそうかもしれないけど…」
未央の言う通りだ。
現に、まだ少し気持ちが揺らいでいる自分がいるのは確かだ。
「だけど、香枝と真春さんだったら良い関係でいられると思いますよ」
「だといいな。未央に言われると安心する」
「あはは、そうですか?…いつか、3人で話せるといいですね」
「それ、香枝とも話してた」
真春はクスッと笑うと、ビールをひと口飲んでタバコに火をつけた。
「でもすごいっすね、なかなかこんな経験する人少ないんじゃないですか?」
「んー…そうでもないと思うよ」
瞬時に奈帆と律が昔付き合っていたということを思い出した。
しかし今は言うべきではないし、2人のことは関係ない。
それよりも、律への対応を考えなくては。
「あのさ…」
「ん?」
「律のことなんだけど」
「あー、真春さんのこと好きって言ってましたね。まだ好きなんですか?」
「よく分かんないんだけど、そうみたい」
冷たくなったジャーマンポテトを、意味もなく爪楊枝でつつく。
「真春のこと好きでいていい?なんて言われて、あたし何も言えなかったんだよね。実際、あたしは香枝のこと考えた時に、好きだからなんなの?って考え込んだし。それに、香枝は彼氏いたことあるけど、律はレズだよ?香枝と同じ方法じゃ説得できない気がする…。まぁ、そもそもあの律を説得するなんてこと無理な気もするけど」
「それは難しいっすねー。一方的に攻められまくってますしね」
未央はクスクス笑った。
ため息をついた真春は「全然笑えないよ…」とタバコを灰皿に押し付けた。
「あはは、すみません。あ、それとなく律さんに探り入れてみましょうか?」
「どうやって?」
「とりあえず、真春さんの事が本気で好きなのは分かったんで…。あ!」
未央は目を輝かせて真春をまっすぐ見た。
その目には少し悪戯っぽさが見え隠れしている。
「香枝と付き合ってるフリして下さい!」
「えっ?!やだよそんなの!」
真春の声が店内に響いた。
入口近くの席に座っているカップルがこちらを見た。
「いや、無理でしょ」
演技とはいえ、そんな事をしたらまた香枝の事を好きになってしまいそうな気がする。
せっかくたどり着いた答えにまた終止符が打てなくなる。
「律さんは真春さんが香枝と何もないって言ったから、チャンスだと思ってるんですよね?だったら付き合ってるって言っちゃえば諦めてくれるんじゃないんですか?」
「いや、でも…」
「律さんがいる時だけ、香枝とやたら仲良くして下さいよ!」
「え…」
「で、帰り際に律さんに付き合ってるって言えばオッケーです」
「オッケーって」
「じゃあこのまま律さんが真春さんにキスしたり、色々されたりしてもいいんですか?」
「それは…やだ」
よく考えたら、律と香枝と真春が同じ日にバイトに入るのは、土日くらいしかない。
真春も香枝も実習があるし、一緒に働く確率は限りなく低い。
たった1日だけなら、頑張るしかない。
「わかった…」
「あたしも協力するんで!」
未央はなんだか楽しそうだ。
「てか香枝と付き合うフリしなくても、律に言うだけでよくない?」
「それはダメですよー」
「なんで?」
「信憑性に欠けるじゃないですか。あの律さんですよ?バッチリ証拠見せつけないと、またどんな手使ってくるか分からないじゃないすか」
「たしかに…未央、律のことよく分かってるね」
そう言った真春は半ばうわの空状態だった。
香枝と付き合うフリだなんて大それたこと、考えもしなかった。
「真春さん実習終わるのいつでしたっけ?」
「7月の半ばかな」
真春は息を詰まらせながら答えた。
想像しただけで心臓がバクバクして、今まで飲んだビールを全て吐き出してしまいそうだ。
視点が定まらなくなってきた。
「真春さん、今から緊張してるんですか?」
「へっ?!」
ジョッキを持ったまま固まってしまっていたようで、未央は真春のその姿を見て「ホントに真春さんってギャップ萌えって言葉が似合う」と笑った。
「なにそれ、どういう意味」
「サバサバしてると見せかけて、実は奥手で恥ずかしがり屋だし、めっちゃ女子っぽいとこあるし」
「本当はこんなんじゃないんだってば」
真春はジョッキをテーブルに置いて、両手で顔を覆った。
香枝を好きになってから、知らなかった自分がどんどん見えた気がした。
本当に好きな人ができると、こんな気持ちになるのだと初めて分かったのだ。
恋い焦がれるということがどんなことなのか、初めて実感したのだ。
「いいじゃないですかー」
「でも、ちょっと怖い」
「なにがですか?」
真春は「香枝のことをまた好きになってしまいそうで」と言おうとしたが、喉まで出かけたその言葉を飲み込んだ。
もうダメだと、誰かが強く押し潰した。
「えっと…律がそれでも諦めないって言ったらどうしようって思って」
「んー…まぁそうなっちゃったら、また考えましょ!大丈夫ですよ」
真春は力なく頷いた。
決戦の日はおそらく真春と香枝が夏休みに入ってからだ。
香枝には直前に作戦の内容を伝えることにした。
上手くいくかどうかは分からないが、とにかくやるしかない。
自分の心がどこかに逃げてしまわないように、しっかりと手綱を握っていなければ…。