捻れる境界線
4月の初めの金曜日は、今にも雨が降り出しそうなくらい暗い空だった。
灰色の雲が、空の低いところでびっしりと覆い尽くしている。
真春は来週から始まる国家試験対策授業の予習プリントをこなしながら、バイトしていた。
香枝と一緒に働ける日はもちろん嬉しいし、上がる時間が同じ日は、優菜がいなければ一緒に帰ったりもした。
先日未央からメールで送られてきたたくさんの旅行の写真を見て、真春は毎日ドキドキしていた。
香枝と写っている写真を見るだけで、胸が高鳴ってしまう。
未央が撮ってくれた写真はどれもこれも上手かった。
一番のお気に入りは未央に香枝にもっと近づいて、と言われてインカメラで撮った写真だ。
ぎこちない笑みを浮かべる自分を見ると、あの時の気持ちを思い出す。
変な顔をしているのに、なぜか一番好きだ。
多分それは、香枝がすごく楽しそうに笑っているからなのかもしれない。
旅行を境に香枝との距離が瞬く間に縮まり、香枝はどう思っているのかは分からないが、少なくとも真春は付き合いたてのカップルのような浮かれた気持ちになってしまっている。
恭介とは月に2、3回は会っていたが、こちらの方が気心の知れた友人のようで、まるで気持ちが正反対だった。
浮ついた気持ちは通過点だとしても、この気持ちをどう処理すればいいのか分からず、真春は中途半端なところで揺れ動いていた。
「おはようございまーす」
雨が降りそうだなと思いつつも、傘も持たずに出勤した今日はなんと7連勤目だ。
ここ最近、考え込むことが多くて顔にも疲労が見え隠れしている。
「白石さんいつもいるね」
事務所に入ると、パソコンに向かっていた戸田さんがこちらを一瞥して微笑んだ。
「今しか入れないんで。こき使ってください」
「あははっ。4月はみんな学校が始まって忙しいみたいだから助かるよ」
そういえば最近、香枝はあまりバイトに入っていない。
学校の課題でもやっているのだろうか。
バイトで会わないことに加えて前ほど連絡もとっていないので、真春は何も知らなかった。
「そうですよね。あたしはゴールデンウィーク明けから実習なので、それまではたくさん入れますよ!」
「えーっ!じゃあお願いしちゃおっかな」
「任せてください!」
真春は更衣室で着替えを済ませ、帽子を被りながらキッチンを横切った。
パントリー横のホワイトボードに貼ってあるシフト表を眺めながらサロンを巻いていると「真春!おはよ!」と横から律が驚かすようにやってきて、真春はビクッと身体を震わせた。
「うわっ!びっくりしたー…。おはよ」
真春は「テンション高っ」と言って律を横目で見た。
「真春テンション低くない?あ、7連勤目って言ってたもんね?お疲れー?」
律はそう言うと、真春の肩を軽く揉んで「それとも香枝がいないからー?」と小声で囁いてきた。
「ちょっ…」
「あたしがいるじゃんっ!」
真春は周りをキョロキョロと見渡して誰もいないことを確認してから「いい加減にして」と言った。
「真春の『いい加減にして』は優しいから効かないよー」
律は楽しそうに言うと、パントリーの暖簾をくぐりホールに向かって行った。
自然とため息が出る。
あれからいくら月日が経っても、律とは全くと言っていいほど何もなかった。
それ故に、あの日のキスや告白は一体何だったのだろう、あれこそ夢なのではないかと思ってしまう。
香枝よりも自分を好きになれと言っていたのに、結局、それは実現せずに決着はついた。
それともまだ彼女の中では現在進行形で、将来的には香枝よりも律に自分の気持ちが向くことを信じて待っているのだろうか。
強引な手口を使ってこないあたりが、なんだか怖くも感じる。
律のことを探りながら接するのは本当に難しくて、真春はいつも普段の数倍のエネルギーを脳内で消費しながら律と話していた。
律の逆鱗に触れたら、香枝に関する何かがどうかなるのではないかと、内心、いつもビクビクしている。
シフト表をパラパラとめくっていくと、明日久しぶりに永山香枝のところに長い横棒が23時半まで伸びているのを見つけた。
その上には自分の名前が書いてあり、全く同じシフトが表記されていた。
思わず口元が緩んでしまう。
「真春さーんっ!」
「えっ?!」
今度は奈帆が抱きついてきた。
その拍子にホワイトボードからシフト表がバラバラと床に落ちてしまった。
「あ…すみません」
「大丈夫、大丈夫」
真春がしゃがんでシフト表を拾っていると、奈帆が「真春さん今ニヤニヤしてませんでした?」と鋭いツッコミを入れてきた。
「へ?してないよ」
「なんか良いことでもあったのかと思った」
「毎日バイトしかしてないのに、良いことも何もないよ」
明日までの8連勤でとりあえず一区切りだ。
こんな風に毎日バイトに明け暮れていられるのも今のうちなのだと思うと、少し寂しい気もする。
シフト表を日付順にまとめてホワイトボードに貼り直すと、お客さんの来店を告げるチャイムが店内に鳴り響いた。
「いらっしゃいませー!」
律の陽気な声が聞こえてくる。
今日のディナーは入学祝いやらなんやらで混むのだろうか。
真春は気合いを入れ直して戦闘態勢に入った。
適度な混み具合で片付けもスムーズに終わり、真春は予定通り22時に上がった。
イレギュラーなこともなくこれだけスムーズだと、とても清々しい気分になる。
今日は律と泰貴がラストまでだ。
律は仕事を覚えるのが早く、入って1ヶ月でラストまで入るようになった。
これから真春も未央も実習が始まってしまうので、学生ではない律やさやかがいてくれると助かる、と戸田さんが前に言っていた。
「お疲れ様でーす」
真春は帽子を外して律に「よろしくね」と言った。
「はいはーい。てか真春髪伸びたねー」
「うん。実習始まる前に切ればいいかなと思って放置してた」
律はもうすぐ肩までつきそうな真春の髪を見ると、頭をわしゃわしゃと撫でた。
実習が始まったらまた黒く染めて、髪も整えないといけないので、前回の実習が終わってからは何もしていなかった。
伸びきった髪の毛先は色落ちし、髪質の問題なのか何層ものグラデーションになっていて、何度も毛染めに失敗したような頭になっている。
元々ストレートすぎるストレートヘアのおかげで、前髪も他の人のように上手く分かれてくれないので毎度毎度苦労していて、真春は自分の髪質が好きではなかった。
「それくらいの長さも似合ってるよ」
「そう?」
律はぐしゃぐしゃにした真春の髪を整えながら言った。
「香枝は何て言ってるの?」
「はっ?!」
デシャップで誰もが聞いているかもしれないところでしれっと香枝の名前を出されて、真春は過剰に反応してしまった。
「なんで今その話するの」
「なんでそんなに焦ってるの?」
律は右の口角をキュッと上げて「いいことあった?」と真春の顔を覗き込んだ。
「ないよ。うるさいな。もう帰る。お疲れ」
真春はムスッとして足早に事務所に向かった。
「てか真春さんさー」
事務所に入るなり、パイプ椅子に座って携帯をいじっている奈帆が顔を上げずに言った。
「ん?なに?」
「律となんかあったんすか?」
何故、奈帆がそんなことを言うのだ。
今しがた律に香枝の話を振られて動揺していたのに、今度は奈帆が律の話か。
「えぇっ?何もないよ…」
きっと自分の声は上ずっていたかもしれない。
一緒に上がった高校生たちは戸田さんからお許しが出たドリンクバーをとりに行ってしまったので、事務所には真春と奈帆の2人だけだ。
「そっか。でも律、真春さんのこと好きですよね」
普通の会話をするかのように奈帆は言ったが、真春は上手い言葉が見つからず、キョロキョロしてしまった。
奈帆は律と昔から仲が良いし、律のことを色々知っていてもおかしくない。
「律に、何か聞いたの…?」
ついに本音が口を突いて出てしまった。
こんな問い方じゃ、何かあったこと前提で聞いているようなものだ。
否定すればそれで済んだのに、ひどく動悸がしてそれすらも思いつかなかった。
「律がレズってことは知ってます?」
「…」
「前に、言われたんです」
奈帆が真春の顔を見た。
真剣な表情だ。
「真春さんのことが好きって。あたし、律とは小さい頃から仲良かったし、恋バナとかもよくしてて…。今も悩んでるみたいだったから、話聞いちゃった」
真春は言葉を失った。
何て答えたらいいのか分からない。
「大丈夫ですって。誰にも言ってませんから」
「うん…」
律は一体どこまで話したのだろう。
沈黙が訪れた時、ドリンクバーに行っていた南と汐里が戻ってきた。
「真春さんウーロン茶でしたっけー?」
南が真春にコップを差し出した。
「あ、うん。ありがとー」
お礼を言って南からコップを受け取る。
指先が麻痺しているような感覚になり、しっかり持っていないと落としてしまいそうだ。
心臓がバクバクして上手くウーロン茶を飲み込めない。
「あー、学校始まっちゃったよ。まーじダルい」
汐里が黒染めしたロングヘアの毛先を指で弄びながら言った。
「真春さん、学校まだなんすか?」
「んー…国試の授業がちょこちょこあるけど、週1だよ。ゴールデンウィーク明けたらまた実習」
「また?!この間ずっと行ってたのに?看護ハンパないっすね」
汐里は「あたし絶対無理だわ」と言ってオレンジジュースを飲み干した。
「大学生って、なんかみんな大変そうですよねー」
「うーん。学部によるんじゃないかな?ま、今のうちに高校生楽しんどきな」
「真春さんおばちゃんみたいなこと言ってるー」
3人はケラケラ笑ったが、真春はぎこちない笑みを浮かべるので精一杯だった。
さっき言われた奈帆の言葉には必ず続きがあるはずだ。
ちゃんと聞いて、宙ぶらりんな律との関係をどうにかしなければ。
「諦めませんから」と言われたあの日以降、律は何を考えて過ごしていたのだろう。
「お疲れさまでーす」
ドリンクバーを飲み干した4人は、キッチンに挨拶してお店を後にした。
南と汐里の家は反対方向なので、必然的に真春と奈帆は一緒に帰ることになる。
自転車を漕ぎながら手を振る2人と別れを告げ真春は自転車の鍵を外した。
「律、中学の時彼女いたんですよ」
何から聞こうかと考えようとした矢先に奈帆からその手の話題が出た。
「彼女がいたってことは律から聞いた」
「自転車、押して帰りません?」
奈帆は自転車の左側に立って、自転車に跨がろうとした真春を見据えた。
自転車を降り、奈帆と並んで人通りの少ない帰り道を歩く。
春の匂いに混じる雨の匂いが好きだったはずなのに、今日は何故か鬱陶しく感じる。
「その彼女って、あたしなんですけどね」
「えっ?!」
真春は目を丸くして奈帆を見た。
何故自分の周りにはそんな人ばかりなんだ。
まさか、奈帆も同性が好きだったなんて…。
真春が固まっていると、奈帆は笑った。
「今はちゃんと彼氏いるし、女の子には興味ないですけど」
「…」
「小中学生ってさ、仲間意識が妙に強いじゃないですか。あたしと律、すごく仲良くて、きっとそれの延長線上だったんだと思います」
「じゃあ、付き合ってたわけじゃないんじゃないの?」
「いや…それが。律に告られて、キスされたんです。その頃、キスなんて初めての経験だったからちょっと戸惑ったけど。律は年上だけど本当に同級生みたいに仲良かったし、なんか素直に嬉しかったんですよね」
その頃から律は積極的だったのか、と真春は思った。
「律が自分を好きでいてくれたんだって思ったら、すごく嬉しかったというか、安心したというか。それで、あたしも律に好きだよって言ったんです」
「そうだったんだ…」
「まぁでも、あの頃は付き合うなんて口約束みたいなもんでしたから、結局それらしいことはしてませんけど。ダンスのレッスン終わったら一緒に帰ったり、遊んだりするだけでした。でもそれでも、すごく楽しかったし、一緒にいられるのが嬉しかったんです」
奈帆は当時を思い出すように、楽しそうに語った。
「それに」
奈帆は続ける。
「付き合う付き合わないは別として、お互いの気持ちがいつも相手に向かってて、相思相愛みたいな感じだったんですよね。相手が男だからとか女だからとかじゃなくて、人として好きだったんだと思うんです」
「…人として?」
「そう。だから、あたしは今でも律が好き。でも付き合うとかじゃないです。何でも言い合える仲だし、なんていうか…友達以上恋人未満みたいな」
人として…。
自分も香枝のことは、人として好き。
だけど、触れたい、キスをしたいと思ってしまう気持ちは"人として"を通り越しているし、"友達以上恋人未満"にも当てはまらない気がする。
ポツリとつむじに冷たいものが当たった。
次第にパラパラと雨が降り始めた。
「真春さんにお願いがあるんです」
「…なに?」
「律のこと、嫌いにならないでください。律が真春さんに強引にキスしたこと、まだ真春さんは気にしてるかもしれないけど、律そういうの下手くそだから…好きな相手に気持ちを伝えるのが、あまり上手じゃないから」
「わかった…」
「多分、律なりに頑張ったんだと思います。それだけ真春さんの事が好きだっていう証拠だと思います」
なんだか複雑な気分だ。
そう言われてしまうと、律とどう接していいのか分からなくなってしまう。
「律はまだあたしのこと好きって言ってるの?…っていうのは、その…キスされた日以来、何もそういうこと言ってこないし、なんかよく分からなくて」
奈帆はなんだか困ったような顔をした後「もうひとつ、聞きたい事があります」と笑った。
はぐらかされたような気分になった。
「真春さんと香枝さんの関係」
「え」
息が詰まりかけたと同時に、ペダルに足を引っ掛けて転びそうになった。
心臓がバクバク鳴って口から飛び出そうになる。
強くなりはじめた雨の音で、この心臓の音を消してほしい。
「香枝との関係って…。別に何もないよ、普通の友達」
真春は態勢を立て直して半笑いで言った。
「律が、香枝さんは真春さんの事が好きかもって言ってました」
「へ?そんなことないでしょ。な、何もないってば…」
しらばっくれるのが下手だな、と言ってから後悔する。
動揺を隠せていないこの感じは奈帆にビンビン伝わっているに違いない。
「でも、キスしてるとか、そういう現場見たわけじゃないからなんとも言えないですけど…。でも当たるんですよねー、律の勘って」
真春は口をポカンと開けたまま何も言えずにいた。
ついに奈帆にまでバレてしまったのだろうか。
あの日、感情的になりすぎて律に自分の気持ちを言ってしまったことを後悔した。
奈帆と仲が良いのだから、そんな話をされてもおかしくなかったはずだ。
香枝が自分のことを好きだと言っているが、自分が香枝のことを好きだということも、奈帆には知られているに違いない。
「動揺しすぎ。本当、真春さんって分かりやすいし、そういう素直なとこ可愛いですよね。嘘とかつけないタイプでしょ?」
奈帆はあはは、と笑った。
「まぁ、香枝さんとのことはまた今度教えてください」
分かれ道に差し掛かかると「じゃ、お疲れ様です!風邪ひかないように!」と言って奈帆は自転車を漕ぎ始めると、片手を挙げて去っていった。
真春は近くのコンクリート塀にもたれかかってタバコに火をつけた。
まだ心臓がドキドキいっているのが分かる。
雨とかどうでもいい。
この際、少し濡れるのもずぶ濡れも大して変わらない。
律がまだ自分の事が好きだということは、奈帆の話からなんとなく察することができた。
ちょくちょく香枝の話題でからかってくる律は、香枝と自分の間に何かあったことを知っているか、もしくは探りを入れているからなのだろうか。
それとも、単純にからかっているだけなのだろうか。
自分はこのままでいいのだろうか…。
周りに見せつけるように香枝と仲良くすれば律は諦めてくれるだろうか。
しかし律の気持ちは、自分が何を言っても変わらない気がする。
自分が変わらなきゃいけないのかな。
頭の中で色んなことがグルグルする。
仮に律が諦めたとしても、今度は香枝との関係をどうにかしなくてはならない。
好きという気持ちの昂ぶりは、最初のうちだけかもしれない。
一緒に過ごす時間が長ければ長いほど、安定した感情になることは分かっている。
ずっと前から一緒にいた、なんでも受け止められる家族みたいに。
恭介がそうだ。
恭介には何だって言えるし、お互いに信頼し合っている。
好きの先にある、譲れない大切な存在だ。
香枝ともそういう関係になれるのだろうか。
きっとキスしたい、抱き締めたいという欲求があるのは今だけ。
友達として、境界線を引かなきゃいけないのかもしれない。
これ以上はもういけない、と心の中で叫び続ける自分と向き合う準備をしなくては。
香枝とはずっと友達でいたい。
奈帆と律の関係みたいに。
同じ境遇だった奈帆に、今の自分の気持ちを伝えてみようか…。
止まない雨を見上げると、真っ暗闇から降り注ぐ針のように見えた。
目の前にある大きな桜の木から無数の水滴に負けた花びらが切なげに散って、泥だらけのピンク色の絨毯に混じっていった。
左手に持ったタバコは、途中で鎮火してグシャグシャになっている。
真春は側溝にタバコを投げ捨てて、全速力で自転車を漕いだ。
翌朝、あれだけ雨に打たれたのに目覚めはスッキリだった。
11時に出勤すると、真春の本能が求めていた声が聞こえてきた。
「真春さーん!おはようございます」
一足先に来ていた香枝がいつもと変わらぬにこやかな笑顔でデシャップから手を振っている。
心なしか疲れているように見えるのは気のせいだろうか。
「おはよ。…なんか、やつれた?」
「授業始まったばっかなのに課題がすごくて…。睡眠不足な上に季節の変わり目でやられちゃいました。ちょっと喉と鼻の調子が…」
香枝はへへっと笑うと、鼻をすすった。
確かに、少し鼻声だ。
「風邪の引き始めじゃん。無理しないでね」
「大丈夫ですよっ!今日は真春さんとラストだから楽しみにしてたんですから」
「キツかったら言ってね。なんならあたし1人でラストやるから」
「だからー、大丈夫ですって」
香枝は「しつこいー」と言って笑った。
久しぶりに一緒に働くこの感じ、なんだかむず痒い。
真春は浮き足立った気持ちでホールに出た。
そろそろ休憩を回し始める14時が近くなった頃、今まで適度な混み具合だったのが一気に大混雑に変わった。
たまにある謎の激混みでキッチンもホールもてんやわんやで、みんなややハイテンションで働いていた。
忙しさを穏やかさでカバーし、時に笑いに変えてくれる戸田さんは、今日もその能力を発揮していて、忙しくても終始気持ちよく働けた。
ようやく休憩となったのは15時を過ぎてからだった。
「ごめん、今日は1時間でいいかな?」
「大丈夫ですよ」
「じゃあ、白石さんと永山さん休憩入っちゃって」
「はーい」
真春はお冷のグラスをパントリーに運んでいる香枝に「休憩入れる?」と声を掛けた。
が、返答がなく、フラフラとパントリーに入って行く香枝。
真春はパントリーを覗いて「香枝?」ともう一度声を掛けた。
「大丈夫?休憩、行ける?」
肩をポンと叩くと、香枝はビックリした顔でこちらを見た。
「あっ…すみません。大丈夫です、行きましょ」
ニッコリ笑った香枝は帽子を外し、結んでいたポニーテールを解いた。
真春も帽子を外して事務所に向かった。
「疲れたねー。なんなんだろ、あの混み方」
「本当ですよね。なんか疲れちゃった…」
香枝は眠そうな声で言った。
「まかない頼みに行く?」
真春はパソコンを操作して休憩の打刻をしながら香枝を見た。
香枝は椅子に座り、テーブルに突っ伏したままピクリともしない。
なんだか様子がおかしい。
「香枝?」
真春は誰もいないことを確認して、頭をポンポンと叩いた。
「んー…」
「具合悪い?」
「ちょっと眠いだけです。…まかないは、いいです」
そう言うと、香枝は腕に顔をうずめた。
薄手のワイシャツ1枚だと寒そうだったので、真春は香枝のロッカーから上着を取り出して香枝に掛けてやった。
「ありがとうございます」
「無理しないでね」
あんなに元気のない香枝を見たのは初めてだ。
少し休めば良くなるだろうか。
真春はロッカーからマウンテンパーカーを取り出して羽織り、コンビニに向かった。
たまにはコンビニのご飯でも食べようかな、と思いながら店内をウロウロする。
お菓子のコーナーを通り過ぎた時、清水さんが好きだというチョコレートが目に入った。
あれから約1年が経とうとしている。
何も考えずに香枝と楽しく話していた日々を思い出して、自然と遠い目になってしまう。
だめだ、考えるのはやめよう。
おにぎり2つと、香枝にプリンを買って真春はコンビニを後にした。
結局休憩中、香枝はずっと眠っていた。
16時半に休憩から戻り、さやかと未央と入れ替わる。
「あー、お腹空いた」
さやかが伸びをしながら言った。
「とりあえず洗い物は全部片付けたのと、あとサラダバーの補充が途中だから残りお願い」
さやかは真春に紙切れを渡した。
あとどれくらいの野菜を補充すればいいのかが正の字で書かれている。
「ありがとうございます。了解です」
さやかと未央がまかないを頼んで事務所に行ったあと、真春は一緒に話を聞いていた香枝に「体調、どう?」と小声で聞いた。
「はい、大丈夫です。寝たらちょっと良くなりました」
香枝はいつもの調子で言っているつもりなのだろうが、明らかにぼーっとしている。
「本当?」
「全然大丈夫ですって!元気元気!あ、プリンありがとうございました」
「いいえー。…じゃあ、あたしサラダバーの補充してていい?」
「はい、お願いします。あたしホール見てきますね」
香枝は頑として認めないので、真春はそれ以上何も言わなかった。
サラダバーの補充が終わったのは17時半。
終わったというより、強制終了の方がしっくりくる。
ランチの忙しさがそのままスライドされたかのように突然混み始めたのだ。
「なんか今日激しくない?」
休憩から戻ってきたさやかが笑いながら言った。
「あたし補充代わるからホールお願い」
「はーい」
久しぶりにホールに出ると、席は半分以上埋まっていた。
香枝に丸投げしてしまっていて申し訳なかったな。
声を掛けて謝ろうと思い香枝を探すと、ちょうど3人組のお客さんを案内しているところだった。
真春はお冷を準備しにパントリーに戻って来た香枝に「任せっぱなしでごめんね」と言った。
「ん?あ、大丈夫ですよ…」
帽子でよく見えないが、さっきよりも目が虚ろに見える。
大丈夫?と言おうとしたが、香枝はそそくさとお冷を出しに行ってしまったので何も言えなかった。
それからピークを迎えて少し落ち着くまで香枝となかなか話すことができなかった。
団体客が帰ったお座敷席をバッシングしていると、香枝が「手伝います」と言って靴を脱いで座敷に上がってきた。
その瞬間、香枝がよろめいて転びそうになった。
運良く通路の近くでバッシングしていた真春は、反射的に香枝の腕を掴んで支えた。
真春は驚くと同時に、やっぱり…と思った。
「すみません…」
「香枝、熱あるでしょ」
「…」
真春は香枝の顔をまじまじと見た。
顔がほのかに赤くなっていて、目も充血している。
ものすごく怠そうに見える。
真春は何も言わない香枝の額に右の手のひらを当てた。
驚くほど熱い。
「何で黙ってたの?」
「帰らなきゃいけなくなるから…」
「帰らなきゃダメだよ。無理して働いてたって辛いし、もっと悪くなったら大変だからさ。戸田さんに言って帰ら…」
「やだ」
「えっ?」
香枝は潤んだ瞳で真春を見据えた。
こんな時でもドキドキしてしまう自分はどうかしている。
「帰らない」
「なんで…。ラストはあたし1人で大丈夫だよ。それか、さやかさんも未央もいるから、もしかしからどっちかラストまでやってくれるかもしれないし」
「違う…」
「違うって何が?」
「真春さんとラストまで働きたいの」
なんでこんな時に子供みたいな駄々をこねているのだろうか。
真春は困惑した。
なんて言うべきなのだろう。
「真春さんまた実習始まっちゃうし、あたしも学校が忙しくてバイトどころじゃないから、もうこういうシフトもほとんどないと思うから…」
「そんなこと言ったって…」
「…お願いします。みんなに言わないでください。真春さんにも迷惑かけないようにするので」
香枝は更に酷くなった鼻声で「お願いします」と言った。
これは何を言っても聞かなそうだ。
真春は「分かった」と降参という風にため息をついた。
「じゃあ約束ね」
「…え?」
「重いもの持つ時は1人でやらないで、あたし呼んで。バッシングも一緒にやるから」
「はい…」
「あと、辛かったら我慢しないでね。すぐあたしに言うこと」
真春は半分呆れながら「いい?」と俯いた香枝の顔を覗き込んだ。
すると香枝は「ありがとうございます」と微笑んだ。
無理矢理にでも帰らせない自分はバカだ。
普通にバカだ。
でも、香枝に言われた事を考えたら、それもそうかもしれないとなぜか納得してしまったと同時に寂しさが押し寄せてきたのだ。
もっと一緒に過ごしたいと思ってしまった。
これで香枝の状態が悪化したら自分のせいだ。
なんとしてでもフォローしなければ、と考え続けた3時間は、特別な時間だった。
他のスタッフにバレないように、真春はさりげなく香枝をフォローし続けた。
そのため、いつも働いているよりもずっと長い間香枝と一緒にいることができた。
何回「大丈夫?」と声を掛けただろうか。
この世で一番その言葉を使った自信がある。
具合が悪いのを見ているのは心苦しかったが、この状況を喜んでいる自分がいたのもまた事実だった。
22時半で真春と香枝以外のスタッフが上がっていったが、案外真春の行動に疑問を持つ人は誰一人としていなかった。
ようやくラストオーダーの時間になった頃、香枝がレジ横の椅子で少し休んでいるのを見つけた。
「大丈夫?」
香枝はコクリと頷いてから「すみません、こんなとこで…サボってるみたいですね」と言って身体を起こした。
「全然。休んでていいよ」
「いえ…ちゃんと最後までやります」
お客さんが全員帰ったのは23時半。
残りの洗い物を済ませて、全て終了した。
香枝はぎこちない笑顔で戸田さんに挨拶をした。
事務所に戻ると、香枝は昼間と同じようにテーブルに突っ伏した。
「帰れる?」
「はい…」
更衣室で着替えを済ませて出ると、まだ香枝は同じ体勢でいた。
真春はパイプ椅子に座って、香枝の隣で頬杖をついてその姿を眺めた。
心なしか、少し息が荒いような気がする。
「香枝ちゃーん」
そう呼び掛けると、香枝はふふっと笑って「…はい」と、くぐもった声で返事し、うずめていた眠そうな顔をこちらに向けた。
寝起きのような、怠そうな弱っているその顔が愛おしすぎて思わず抱き締めたくなってしまう。
「帰れますか?」
「帰れます」
「それとも少し休んでく?」
真春がそう言うと、香枝は「早く帰らないともっと怠くなりそうだから、帰ります」と言って立ち上がり、フラフラと更衣室に入って行った。
着替えを終えた香枝は「寒い」と言ってジャケットを羽織った。
外に出た時、ふわっと生温い風が2人を包んだ。
ほのかに緑が香る、湿った4月の風。
「家まで送るよ」
「大丈夫ですよ…」
「だいじょばない」
「なんですか、その日本語」
香枝はクスクス笑った。
ゆっくり歩きながら、香枝の家まで向かう。
相当疲れているのか口数は少なかったが、一緒に歩く帰り道はとても楽しくて、幸せだった。
暗い住宅街を香枝の歩調に合わせて歩き、日付が変わって30分以上経った頃、ようやく香枝の家の前に着いた。
「すみません、真春さんも疲れてるのに」
「全然。てか香枝があんなに意地っ張りだったとは思わなかった」
香枝は自転車を駐車スペースの傍に停めるとこちらへ歩いてきた。
そして、なんの前触れもなく突然抱きついてきた。
「真春さんがずっと側にいてくれて安心だったし、嬉しかった。将来、真春さんに看病される患者さんが羨ましいなって思いました」
「なにそれ。具合悪いのにそんなこと考えてたの?」
真春は手の甲を口に当ててクスッと笑った。
前から思っていたが、香枝は一生懸命にやっているつもりなのだろうけど、たまに的外れなことを言ったり考えていたりする。
そういうところも、香枝の魅力だと真春は思っていた。
「考えてた」
そして、たまにタメ語になってしまうところも可愛らしい。
「でも、最後まで何事もなく終わってよかったよ。あったかくして寝なね」
「はーい、白石先生」
「看護師は先生って言わないよ」
「あはは、そっか」
香枝は真春から離れてヘラヘラ笑った。
「さっき寒いって言ってなかった?」
「はい、実は混み始めた時もすごく寒くて…」
そう言って虚ろな目をした香枝の額に、真春は手を当てた。
さっきほどではないが、熱はありそうだ。
「これからまた熱上がるかもね」
「…そんなことされたらドキドキする。もっと具合悪くなりそう」
「あ…ごめん」
真春は笑いながら温もりが残る手を引っ込めた。
気持ちをストレートに伝えてくる香枝に、真春の心臓は止まってしまいそうだった。
今日はどうしてこんなに照れ臭い言葉がなんの迷いもなく出てくるのだろう。
熱のせいだろうか。
「うそ」
香枝が間近でヒヒッと笑った。
その笑顔の破壊力はすごかった。
これ以上はダメだと毎度ながらに思う気持ちを一瞬でゼロにする。
「具合悪いと、なんでこんなに人恋しくなるんだろ」
「分かるかも。なんでだろね」
真春が困ったように笑うと、香枝は「真春さん」と呟いた。
「ん?」
「風邪、うつしちゃったらごめんなさい」
香枝はそう言うと真春の左手を握り、唇に短いキスをした。
不意打ちだったので真春はフリーズしてしまった。
みるみる顔が赤くなっていくのが自分でもよく分かった。
熱のある香枝よりも赤いかもしれない。
香枝はいたずらっぽく笑うと、「それじゃあ、また。ありがとうございました」と言って玄関のドアを開けた。
「お…お大事に。じゃあね」
真春は軽く手を振って香枝が家の中に入っていくのを見届けた後、自転車を漕ぎながらはち切れそうな胸をなだめることに集中した。
友達でいるために境界線を引かなければ、と昨日考えていたばかりなのに。
その決意は轟音とともに崩れ去った。
よほどの強い意志がないと無理そうだ。
胸が苦しくてタバコを吸う気にもなれない。
緑の匂いで肺が膨れ上がる。
この緑は、一生ここに残り続けるかもしれない。