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遠き開発  作者: 安 幸村
第八章 別離
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(六)退職

 数日後、七階にある総務課に呼び出された雪乃は、総務のスタッフから、退職届が正式に受理されたことを告げられた。

 最終出勤日はプロジェクト責任者と話し合って決めること、退職予定日はそこから残りの代休と有給を消化した後の日付になること、後は会社に返却する貸与物やパソコン内部のデータ処理の方法、離職票の送付などの連絡事項を受けた後で自席に戻ると、パソコンに北浜からのメールが届いていた。内容は極めて事務的なもので、最終出勤日は現在の資料整理が終了次第好きな日に決めていいこと、資料のリストを作成しておいてほしいこと、そして『BK2におけるイベント作成の段取り』を北浜宛に送っておいて欲しいことだけが淡々と綴られていた。

 雪乃は返信を打った。資料整理はほぼ終わり、リストを作成するだけになっているので、本日を最終出勤日としたい旨を記載し、『BK2におけるイベント作成の段取り』を添付して返信した。ほどなく北浜から『了解いたしました。お疲れ様でした』とだけ記載されたメールが返ってきて、雪乃は心の中でそっと彼に頭を下げた。

 資料のリスト作成を早々に終えると、雪乃は全社員宛用のメーリングリスト向けに、退職のあいさつ用メールを作成し始めた。オストマルクの退職者の大半は、いつの間にか姿が見えなくなって、気がつけば退職していたというケースが圧倒的に多かったが、これまで仕事を共にした人全員に直接あいさつをすることは難しい以上、メールででも一言あいさつをしておくべきだと思った。送信自体は退社直前にしておこうと思って保存すると、パソコン内部のデータの整理と、机の清掃を開始した。

 定時十分前になると、席を立って直接あいさつをしておきたい人たちのところを順に回っていった。社長室で社長に頭を下げた時はさすがに緊張したが、社長は淡々とお疲れ様でしたと言ってくれ、雪乃が退出する間際に、あなたみたいにちゃんと挨拶をする人は少なくてねとだけ付け加えた。潮見は力になれなくてごめんねとだけ言って見送ってくれた。紺塔は、雪乃にとって幸か不幸か出張のため不在だった。

 特に親しくしてもらった未沙には昨日に退職する旨は電話で知らせてあって、退社後未沙と二人だけで送別会をやることになっていた。定時になり、パソコンの整理も私物整理も一通り終えた雪乃は、退職あいさつのメールを送信した。ほどなくイベント班の面々が青天の霹靂という体で雪乃の元へやってきたが、その時雪乃はもうパソコンをシャットダウンして退社の準備を終えたところだった。椎名は特に焦った様子だったが、雪乃は椎名の力量ならきっとイベントのスペシャリストとしてやっていけるとだけ伝え、イベント班のみんなに、それからオフィス全体にいるスタッフに、お世話になりましたと頭を下げて最後の出勤を終えたオフィスを後にした。大学を卒業して約二年以上に渡り通勤したビルの入り口で、雪乃はオフィスのある階を見上げたが、あまり感慨が浮かんでこないのはなぜだろうかと思っているところへ、未沙がぽんと肩を叩いて現れ、お疲れ様と言ってくれた。



 今夜は私が奢るから好きなお店をリクエストしてくれと言ってくれた未沙に甘えることにした雪乃は、以前新能が連れて行ってくれた居酒屋『ほおずき』に未沙を案内した。大将は雪乃を覚えていてくれた。


「新ちゃん、福岡へ行く前にウチにも寄ってくれてん。それで、早見さんがまた来ることがあったらサービスしてやってくれって。それから、これ新ちゃんのキープボトルの飲み残しで良かったら好きに飲んでくれって」


 そう言って大将がカウンターに置いてくれた上等の芋焼酎のボトルは、どう見てもほとんど減っていなかった。

『新能』と書かれたタグを愛おしそうに撫でた雪乃の姿を見て、未沙は今晩は聞きたいことが山ほどあるねえと笑った。料理を頼んでから、未沙もお酒は飲めるほうなので、最初だけビールで乾杯して、後は新能が残してくれた焼酎を飲み始めた。つきだしのもずくのキムチ和えをおいしいと言って頬張りながら、未沙は一通の封筒を取り出して雪乃に渡した。


「忘れないうちに。これ、新能さんから」

「えっ」

「新能さんが会社を辞める時に私のところに来てね、もしも早見さんが会社を辞めるようなことがあれば、これを渡してくれませんかってお願いされたの」

「新能さんが……」


 封筒には糊で封がしてあった。雪乃は未沙に断りを入れてから、はやる気持ちを抑えて慎重に封を開ける。中には手紙と名刺が入っていた。

 手書きで丁寧に書かれた手紙の内容は、もしもオストマルクを辞めて次の就職先が決まっていないなら、紹介したい会社があるというものだった。


 東京にある小さな開発会社だが設立されてまだ数年で、随時中途採用で経験のあるスタッフを募集している、携帯電話やスマートフォン向けのゲームを中心に開発しているところだが、経験あるプランナーが圧倒的に不足していて早見さんの経験とスキルはきっとうまくマッチすることと思う、社長は大学時代の自分の先輩で信頼のおける人だ、あなたのことはすでに伝えてあるので気が向いたら応募してみてほしい……。


 同封された名刺はその社長のもので、『株式会社トリスタン 代表取締役社長 オスカー・路偉ろい』とあった。

 手紙を読み進めていくうちに、雪乃はこみあげてくる感情を抑えられず、右手で目元をぬぐった。最近、泣いてばかりいるなと思う。


「新能さんが、次の会社を紹介してくれるって」


 未沙は見せられた名刺を見て、この会社は知っていると言った。


「トリスタンでしょ、私の彼が言ってた。何年か前、数人での開発でパソコンのインディーズゲームでヒット作を出して、それで法人化したっていう会社だよ。面白そうじゃないかな」


 未沙は名刺を返してくれながらそう言っただけだった。未沙はこういう時、他人の事情を根掘り葉掘り聞くという、他人の心に土足で踏みこむような事を決してしない。雪乃は新能からの手紙を取り次いでくれた未沙にお礼を述べてから、北浜と別れたことを告げ、改めて退職に至る経緯を語り出した。新能の暴力事件の真相まで語ったので、すべてを語り終えるころには、頼んだ料理もすべて食べ終えた上、焼酎のボトルも残り三分の一くらいにまで減っていた。未沙も雪乃も、チューハイに切り替えて喉を潤しながら、大将がサービスで出してくれたアイスクリームをつつく。

 未沙は、この仕事に限ったことではないかもしれないが、人間は喉元を過ぎれば熱さを忘れてしまうし、仕事上の環境が当たり前になると、つい感謝の心を忘れてしまいがちだと自分の経験を語ってくれた。


「以前勤めた会社でね、プロジェクトが炎上したことがあったの。プランナーはうまく仕様も決められなくて、プログラマーやデザイナーはプランナーを責めるばかりで、もうスケジュールは遅延しまくり。チーム全体の空気も重くて、出勤するのも億劫だったなあ。そこで、中途入社のプランナーの人がアサインされてその人が仕切りだしたら、少しずつうまく回り始めたの」


 そのプランナーの手でプロジェクトは立ち直って、無事に終えることができたという。


「とにかく現場ではどんな状況の時も明るい人だった。不機嫌な人間は現場の生産性を低下させるっていうのがその人の持論でね、打ち合わせの場でも机で仕事をしている時にも人と話している時にはいつもくだらない冗談で場を明るくしていたわ」


 そのプランナーの手で、会社として何とかプロジェクトの進め方の型の様なものができて、以降それは会社全体としての開発進行方法の指針になったが、それが普通になると、そのプランナーの居場所が少しずつ無くなっていったという。


「苦手なジャンルのゲームのディレクターを担当した時にクオリティを高くすることができずにずっと悩んでいたの。でも周囲は、もうプロジェクト進行方法に慣れていて、割り当てられたタスクをこなしていけばいい、問題解決は上がやれってその人に突き上げがいって……」


 その人がいたから、会社としても開発の進め方を一段階レベルアップさせることができたのに、それが浸透してどのプロジェクトも大過なく進めることができるようになった時には、皆が作業をもらうのが当たり前の空気になり、言われたことだけをやればいいという風潮が強くなっていったと未沙は続けたが、拝道が教えてくれた過去の経験そっくりだと雪乃は気づいた。


「結局その人は退職したの。退職の挨拶に席に来てくれた時に、お力になれなくてすいませんと言ったら、その人は自分はセンスが無いので段取りばかりを勉強してきた、段取り意識が会社に浸透して誰もが開発を進められるようになった今、センスで劣る自分の居場所はいつか無くなるだろうと思っていたって……」


 当時は自分も想像するしかなかったが、今ならその人がやったボロボロのプロジェクトを立て直す大変さが分かる、ディレクターというよりは、プロジェクト・マネージャー的なポジションに就ければもっと開発体制を改善する方面で腕を振るってもらえたと思うが、それができずにまるで追い出すように退職にまで追い込んだのは、会社の人の見る目の無さと、割り当てられた作業だけをやればいいと自ら創意工夫することをスタッフが忘れてしまったこと、そして何よりもきつかった開発の進行をあそこまで楽にしてくれたのに、その結果生まれた開発環境を当たり前に思って、皆が感謝の心を忘れたからだと思うと未沙は続けた。


「だから、雪乃ちゃんがイベント班の段取りを改善したのに、そのことに掌返して陰で貶めるなんて……北浜さんへのおべっかなんだとしても許せない」


 雪乃は俯いてレモンチューハイのジョッキを手にすると、結局自分は紺塔と北浜という形をした、オストマルクという会社のディレクションのやり方にもう耐えられなくなったのだと思う、それに加えてそのディレクションに追従するスタッフがいるところでは、もう自分ががんばる意義を見いだせなくなったのだと退職を決意した理由を改めて述べた。


「北浜さんと別れることにしたのもそこ?」

「新能さんを好きになったこともあるけど、やっぱりそこはあります」


 未沙は、仕事に対する価値観の違いは同じ仕事をする恋人同士にとっては案外大きな問題だと思うと持論を述べたが、それ以上の事は言わなかった。ただ北浜と初台との接触については、正直見ていてあまりいい印象を持たなかったので、雪乃にそのことをどう伝えるべきかどうか、最初悩んでいたという。


「ただ雪乃ちゃんがあの新能さんを好きになるなんてねえ」


 もっとも、新能については自分もとっつきづらそうで近寄り難い印象を持っていたのが、出向から戻ってきた時にその雰囲気は和らいで、印象は良くなっていたと未沙は続けた。


「私、『箱入りモンスター』チームで新能さんとは少し一緒に仕事をしたから。テストプレイとデバッグ要員って事だったけど、現場のプランナーが仕事を裁き切れて無くて、結局新能さんが現場の取り回しをそれとなくやってくれたの。問題点の改善のために仕様書を作って、打ち合わせを主催して、実装を確認して修正依頼を出して……地味で面倒なことばかりで、なかなか自分から前に出てくる人がいないから助けられたなあ」


 その時に一緒に仕事をして、新能への印象が変わったのだという。


「私、打ち合わせの時につい言っちゃったことがあるの。新能さんてもっと怖い人かと思ってましたって。そしたら彼、出向先のせいで変わったのかもしれないって照れたの。あの新能さんがよ? で、私思い切って大阪で一緒に仕事をした雪乃ちゃんはどうでしたかって聞いたの」

「えっ……」


 ドキッとして胸の鼓動が早くなる。未沙はちょっともったいぶるように、顔をちょこんと傾けてから笑顔で続けた。


「早見さんは、とてもいいクリエイターになれると思うって」


 言いようのない歓びに包まれて、雪乃は両手でジョッキをきゅっと握りしめた。今自分の顔はニヤけているのだろうか。ごまかしたいが、どんな表情をすればいいか分からない。


「あらあら」


 未沙はいたずらっぽく笑った。


「雪乃ちゃんにそんな顔をさせちゃうんだから、新能さん、やっぱり素敵な人なのね」


 未沙の言葉にこくん、と小さく頷く。またいつか新能と逢える日はくるだろうか。あの壊れた優しい右手に再び触れられる日はくるだろうか……。

 そんなことを考えながら、雪乃はこれからも連絡を取り合って、たまに飲みにつきあってくださいねと笑って未沙と再びジョッキを合わせた。


 十一月十六日を最終出社日とし、代休と有休消化後の約二ヶ月後に早見雪乃は株式会社オストマルクを正式に退職した。在籍期間は二年と約八ヶ月。


 プレイステーショ3 『武器道メモリアル』

  ・敵キャラクターのアクションスクリプト作成

 プレイステーションポータブル 『魔法少女伝説』

  ・UI仕様作成

  ・敵キャラクターの仕様作成

  ・キャラクターのアクションスクリプト作成

  ・イベントスクリプト作成

 プレイステーション3 『アンバランスヒーロー』

  ・ステージ仕様作成

  ・UI仕様作成

  ・プレイヤーキャラクター仕様作成

 スマホ『ヴァルキリー・エンカウント』

  ・バトル仕様作成

  ・バトル関係データ作成 

  ※株式会社バルバロッサへの出向にて担当

 スマホ 『剣戟の彼方に』 リードプランナー

  ・仕様作成全般

  ・開発進行管理

 プレイステーション3 『武器道メモリアル弐』

  ・イベント進行管理

  ・イベント作成

 

 以上が、早見雪乃がオストマルクで担当した業務の全てだった。

 

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