86.試行錯誤
86話目です。
よろしくお願いします。
ラングミュア王国だけでなく、どうやらこの世界の国々には海水浴の習慣は無いらしい。
ようやく仕事が一段落し、残りはイレーヌたちに任せられる状態になったところで、うずうずしていたヴェルナーが下着一枚になって海へ向かい始めたのを、妻たちは悲鳴をあげて止めた。
「なんでだよ! ちょっと泳ごうとしただけじゃないか!」
「海で裸になって泳ぐなんて、危険です!」
アシュリンに抱え上げられ、仰向けの状態でマーガレットから非難を受けるヴェルナーはなおも手足をばたつかせて抵抗する。
「オスカーも小さい頃は川で泳いでいたと言っていたぞ?」
「それは川でのことでしょう? 海は広く深い上に、波は人の身体を簡単に攫って行ってしまうというではありませんか!」
川遊びは問題無いが海は漁をするために潜ることはあっても、遊びで泳ぐような場所では無いというのがマーガレットとエリザベートの見解らしい。
「川だって危険だぞ。水が冷たいうえに流れもある」
「そういうことであれば、海でも川でも、泳ぐのは危険ですからおやめくださいな」
エリザベートに冷静に返され、ヴェルナーは藪蛇だったと後悔した。
「わかった、わかった。とりあえず下ろしてくれ」
抵抗を止めたヴェルナーの身体を、アシュリンはそっと王妃たちの前へと下ろす。背後にはアシュリンが仁王立ちで待機しており、あまりに的確な場所を選んたアシュリンをヴェルナーは思わずちらりと見た。
「なんでしょうか、陛下」
「いや……なんでもない」
アシュリンがどうにも王妃たち寄りな雰囲気であるのは気のせいだろうかと危惧しながらも、ヴェルナーは立ち上がった。
「泳ぎは得意なんだ。とくにこのあたりは港の予定地から外れて砂浜が広く開けているし遠くまで浅いから足もつく。そんなに心配しなくて良い」
「ですが、裸になる必要は……」
「必要はある。服を着ていたら泳ぎにくいんだよ。水の中では服が邪魔で溺れることもあるんだ」
戦闘の為に海軍の兵士達は皮鎧を着ているが、それも浮き袋を兼ねた装備だからであることを説明すると、二人はようやく納得してくれたらしい。
「そういうわけだから、君たちも足を濡らすくらいは水に入ったら良い。気持ちいいと思うぞ?」
ヴェルナーの誘いに、手を引かれて砂浜をよろめきながらも歩いて来た王妃たちは、ゆるやかな波にくるぶしを濡らしながら、その冷たさとくすぐったさに二人で楽しそうにはしゃぎ始めた。
ようやく解放された、と感じたヴェルナーはクロールで猛然と沖へ向かって泳ぎ、久しぶりの感覚をたっぷり味わってから浜へと視線を向ける。
二人の妻が手を振っているのに応え、しばらくゆるゆると泳ぎながらヴェルナーは海水浴を一般のレジャーとして確立するのはまだ難しいようだと判断していた。
「もうしばらくすれば国内の経済も安定し始める。そうすれば余暇を楽しむ人口も増えるんだが……」
造船事業は順調ではあるが、資金的な不安は尽きない。どこかで国家事業を興して儲けを出さないといけないと考えていたヴェルナーは、一つの案が消えたことにため息を吐いた。
海運が安定すれば商人たちの利用も拡大できるが、操船技術者が育っていない以上はまだ安定した航路の設定はできない。安定的に利益を出せるようになるまでまだ数年はかかるだろう。
運河を作るなどということも夢想していたが、即座に自ら却下している。
「これ以上、ダイナマイト役で良いように使われてたまるか」
ヴェルナーの本心は、十代でありながら「もっと楽したい」という方向に傾きつつあった。自分が色々と発案したことで自分の首を絞めているような状況にうんざりしはじめており、何をおいても官僚システムの構築を優先すべきだと確信している。
「専制君主は何でもできる……そのかわり、何でもやらされる」
何か悟ったような気がして、ヴェルナーはぷかりと浮かんだまま空を見上げた。
「官僚体制もそうだが、諜報部もだな」
諜報など一朝一夕で身に付く様な技術であるはずもなく、組織としても表立って募集をかけるようなものでも無い。
現状は兵や騎士の中から適性がありそうな者、あるいは活用できる魔法を使える者を選抜することにしているが、まず“諜報に関する適性を見抜く”ことが難しい。
まして、貴族の子弟である騎士ともなると表舞台に立つ機会が奪われてしまう裏方の諜報部隊を希望する者はほとんどおらず、編成は遅々として進んでいない。軍事行動で短期間であればまだしも、長期間平民として潜入するような任務についても貴族たちは嫌がる。
騎士訓練校校長であり軍務省長官のミリカンですら、希望を募っても意味が無いと答えたほどだった。
「荒事への対応も考えると、普通に暮らしている者たちに依頼をするのも限度があるからなぁ。どこかにある程度戦闘慣れしていて、身分的にも自由な連中が……いるな」
完全に忘れていた、とヴェルナーは声を上げて上半身を起こし、自分が海の上に浮かんでいたことを思い出して軽く溺れた。
ヴェルナーはむせながら浜へ泳ぎ着くと同時に、王都へ戻り次第スラムのリーダーであるグンナーを呼びつけようと決めた。
●○●
ヴェルナーが海辺で正座させられ、溺れかけたことについて妻たちから叱責を受けている頃、ラングミュア王城敷地内にある訓練場に一人の兵士が呼び出された。
名をロータルと言い、兵士になって五年ほどになる。未だ二十歳になったばかりだが、数人の小隊を率いる十人隊長の肩書を持っている。
「な、なんで呼ばれたんだろう……」
町中の警備任務についていたところを、突然やってきた王城詰めの騎士に声をかけられたのだ。しかも、呼び出したのは軍務省長官兼騎士訓練校校長のフリードリヒ・ミリカンであるという。
名前も顔を知ってはいるが、鍛冶屋の三男で平民中の平民であるロータルにとっては雲の上の人物である。面識など無く、呼び出された理由は皆目見当もつかない。
王都の警備任務に就いて一年程だが王城内へ入るのは初めてだったロータルは門番の騎士に頭を下げて訓練場の場所を聞き、早足で教えて貰った場所へ向かった。
恐る恐る入口から中を窺うと、訓練場には誰もおらず、一人の偉丈夫が腕を組んで待っているのが見える。その隣には、スラリとした美男子が訓練場には似つかわしくない整った服を着て立っている。
「あの……」
「む。お前がロータルか」
偉丈夫からぎろりと睨みつけられ、ロータルはすっかり縮こまって俯いたまま頷いた。
「何とも覇気の無い奴だ。よくこれで十人隊長になれたものだな」
「貴方に睨まれれば、誰でもああなります。騎士たちと違って、一般の兵士達は貴方が持つ威圧感に慣れていないのですから」
美男子が偉丈夫を諌め、まずは名を名乗るべきでしょうと促す。
「そうだった」
ぴしゃり、と禿げ頭を叩いた偉丈夫は良く通る太い声で名乗る。
「わしはミリカン。フリードリヒ・ミリカンだ。ロータル。お前を呼んだのはわしだ」
ロータルはやはりそうだった、と軍の最上位者を前にして、敬礼をすべきか跪くべきか迷いに迷って、操り人形のように奇妙な動きを見せた。
「なにをやっておるのか」
「あなたは武官。私は文官ですからね。軍の敬礼で構いませんよ」
美男子に促され、ロータルは咽る程に自分の胸を叩いて姿勢を正すと、涙目でミリカンへ顔を向けた。
「十人隊長ロータル。さ、参上いたしました!」
「任務で忙しいところ、わざわざすみません。私はオットー・ホイヘンスです。あまりこの家名を名乗りたくはありませんので、オットーと呼んでいただいて構いません」
「ホイヘンス……こ、ここ、侯爵閣下!?」
「一応は侯爵家当主ですが、今はヴェルナー様の秘書官としての仕事でここにいます」
だからといって、ロータルが気楽になるはずもない。音を立てて地面に座り込んだかと思うと、まるで罪人のように平伏し始めた。
「……少し楽にしていただいて、話を聞いていただきたいのですが」
「やれやれ……立て! シャキっとせんか!」
震えているらしいロータルに、ミリカンは叩きつけるような声で起立を命じた。
訓練の成果でもあり、ミリカンの声がもつ迫力のせいもあるだろう。ロータルは飛び跳ねんばかりの勢いで立ち上がった。
「で、この男が役に立つ、ということだが?」
「ええ。ロータルさん。貴方も魔法の才能があられますね? 内容を説明してください」
「はっ!」
半ば自棄に近い勢いで変事をしたこのロータルだが、魔法の才能はあっても戦闘にはまるで役に立たないものだった。
「着火の魔法が使えます!」
上ずった声でロータルが説明する内容は、彼の魔法の特性だった。およそ十メートル程度まで離れた場所であれば、魔法ですぐに火を点けられると言う。
「そんな才能があるなら、火攻めなどで活躍できるだろうに。十人隊長の地位で止まっているのは何か理由があるのか?」
戦闘に役立つ魔法が使えれば、平民の出でもすぐに百人隊長になっていてもおかしくない。それどころか、戦果があるならば騎士爵すら夢では無いのだ。
「その……種火程度が限界でして……」
ロータルは離れた場所に火は点けられるが、そこに燃える物が無ければすぐに消えてしまい、火を点けたあとの調整などもできないという。
「以前に彼の適性を記録した資料によりますと、火打石でも代用できる程度の能力である、とされていますね」
そのため、魔法が使える分十人隊長の地位まですぐに成れたが、それ以降は頭打ちになっているという。
彼のように魔法の才能があっても活躍の場が無く、平凡な人生を歩んでいる者は決して少なくない。
「その才能を活かせるかも知れません」
と、オットーは訓練場のやや離れた場所に置かれた一つの小皿を指差した。その上には、黒い砂のような物がほんの一つまみ程度置かれている。
「あの砂に火を点けてください。近づかないように、ここから」
「砂に、ですか? すぐ消えてしまいますが……」
それでもかまわないから、とオットーに促されたロータルは砂の方を見て魔法を発動した。
これと言って何かする必要は無い。着火するイメージだけあれば、後は勝手に魔法が発動して小さな火が生まれる。そしてすぐに消える。
そのはずだったのだが。
「ひえっ!?」
小皿の上で小さな破裂音が響き、皿は砕けてしまい。砂はどこにも見えなくなってしまった。
火を点けた当人であるロータルだけが小さく悲鳴を上げ、オットーもミリカンも砕けた皿を真剣に観察している。
黒い砂は聖国の城からヴェルナー達が持ち帰った火薬だったのだが、ロータルはそれを知る由も無い。
「なるほど。あの程度の量でこれほどの破壊力があるか。まこと、陛下が赴かれて正解であったかも知れぬな。あれが大量にあったのでは一般の兵はひとたまりもあるまい」
「そうですね。ですが、陛下が今の時点で戦場に頻繁に出向かれるのは極力控えて頂きたいのです」
オットーが危惧しているのは、ヴェルナーに子が生まれぬままに彼が死ぬことだった。ともすれば不敬ともとられる発言だったが、王国の正統たる血統が途絶えるのは大問題であることをミリカンも理解している。
「それで、この火薬を活用することで陛下が戦場へ赴かれる必要が無い程度には、警備の戦力を増強したいと考えております」
それはヴェルナー自身が言い出したことでもある。
火薬を手に入れ、さっそく一般の兵でも利用可能な銃として原始的な火縄銃を開発し始めたのだが、悉く失敗に終わった。ヴェルナーが持つライフルのように、シンプルな銃身としての鉄筒だけなら作れるが、そこに火皿などの余分な加工を施すと強度に不安が出てきた。
幾度かの実験を経て数十丁の銃身を破裂させた結果、結局は金属加工技術の進歩を待たざるを得ないという結論に達した。
最終的にヴェルナーは銃以外の方法で火薬を活用すべく、オットーとミリカンへ火薬の特性を伝えたうえで対応策を検討するように命じるに至る。
「ロータルさん。そこで貴方に白羽の矢が立ったのです」
オットーから火薬という爆発する砂がまだ大量にあると知らされ、ロータルは続く言葉を聞きたくないと思いながらも、直立不動のままでいた。目の前にいる二人を前にして、何を言われても断るという選択肢など端から存在しないのだ。
「火薬を使って爆破や砲撃などを行う特別な部隊の編成を行います。ロータルさん。貴方を百人隊長に昇格させた上でその部隊長にしますから、ヴェルナー様のため、王国の為に頑張っていただきたい」
正式な辞令はヴェルナーが戻り次第直接伝えられると言われ、ロータルは昇進の喜びよりも未知の部隊を任される緊張とプレッシャーに押しつぶされそうになりながら、フラフラと訓練場を出て行った。
「……大丈夫かのう」
「あの方は兵士ですから、後は陛下と、ミリカン様にお任せしますよ」
涼しい顔をして仕事を押し付けて去っていくオットーを、ミリカンは何とも言えない顔で見送った。
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