76.現場責任者の苦悩
76話目です。
よろしくお願いします。
スドの海岸線沿いを航行し、時折補給を行いながら進むこと半月ほど。ようやくヴェルナーの乗船と随行する船の二隻はスド砂漠国の海岸沿いを通り過ぎた。
ここまで聖国との戦闘は一度きりであり、二隻とも目立った故障などは起きていない。イレーヌはまだ青い顔をしながらもどうにか普通に食事ができる程度には揺れに慣れ始めていた。
「船の名前?」
「はい、陛下。この船もそうですが随行する船にも名称がありません。スドの寄港地で兵の一人が尋ねられて返答に困ったという報告がありまして……」
船長ダミアン・クラウスの言葉に、甲板でごろりと横になっていたヴェルナーは上体を起こして腕を組む。
グリマルディから船を得るまで、ラングミュアには猟師が使用する程度の小舟しか存在しなかった。船に名前を付けるという発想も無く、ヴェルナー自身も完全に忘れていた。
「名づけとかは苦手なんだがなぁ」
「畏れながら、今後陛下は多くの場面で命名を求められるお立場。また、今回の命名が今後の基準ともなりましょう」
どうあってもヴェルナーに決めさせたいらしいダミアンの静かな熱意に、そういうものかとヴェルナーは納得した。
「女性の名前を付けると良いんだったか……」
「そうなのですか?」
ダミアンは知らなかった、とヴェルナーの博識に感心していたのだが、前世での事なのであまり褒められても困るのだが。
「どこかの風習さ」
そう誤魔化しながら首を回して周囲を見たヴェルナーだったが、この船に乗っている女性と言えばアシュリンとイレーヌの二人しかいない。アシュリンは甲板でヴェルナーへとすぐ近づける位置で腕立てをしており、イレーヌは船の縁にぐったりともたれかかっている。
「……アシュリンにしようか」
「お呼びですか?」
船酔い女騎士を船の名前にするわけにはいかんだろう、とヴェルナーが名前を呟くと、腕立てをしていたアシュリンが弾かれたように立ち上がって近づいてきた。
「お前の名前をこの船につけたいんだが、良いか?」
「船にですか? 自分で良いのでしょうか?」
王妃であるマーガレットやエリザベートに遠慮しているらしいのだが、ヴェルナーとしてはそれで良かった。
「妻たちの名前を付けるなら、戦闘に使う船じゃない方が良いかと思ってな。アシュリンは騎士だから、丁度良いと思ったわけだ」
「では、もう一隻にはイレーヌの名前をつけるのですか?」
「それなんだがなぁ……」
ヴェルナーが視線をイレーヌに移すと「どうにか吐かずにすんだ」と口元の涎を拭っている姿が見えた。
「随分と船に慣れたようです。これならば次の戦闘では活躍できるでしょう」
アシュリンがやたらとポジティブな意見を語るのを聞いて、ヴェルナーは仕方ないと言ってイレーヌを呼び寄せた。
「具合はどうだ?」
「な、なんとか……」
言葉少なに答えるイレーヌに、船の命名について断りを入れる。
「勿論構いませんわ。イレーヌという名前は、そう珍しいものでも、ありませんし」
自分と紐付けして考える者もそう多くないだろう、と短く呼吸を挟みながらイレーヌは答えた。
イレーヌの返答を受けたアシュリンは、今の乗艦をイレーヌの名にして欲しいと言い始めた。
「別に構わないが、理由を聞かせてくれ」
「この船はイレーヌが怪我を負ってまで守ったのです。彼女の名を与えるのであれば、子の船かと」
「なるほどな」
それがアシュリンの考える道理なのだろう。
「では、この船をイレーヌ号、随行の船をアシュリン号とする」
「畏まりました。さっそく船員たちに申し伝えることにします」
ヴェルナーの決定を受け、ダミアンは早速動き始めた。
話が広まったのか、船の下層から歓声があがるのが甲板まで届いてくる。
「イレーヌ号とアシュリン号、ね。陛下、ありがとうございます」
深々と頭を垂れたアシュリンとイレーヌに、ヴェルナーはあまり気にしないようにと伝えた。
「それよりも、ここから森林国に入る。情報が少ない国だから何が起きるか予想がつかない。今まで以上に気を付けてくれ」
「はっ!」
グリマルディ王国の東側に半島状に突き出したスド砂漠国の南側、ヘルムホルツ帝国の西側、ランジュバン聖国の北側にはメンデレーエフ森林国という国が存在する。
正確には、国として扱われているものの、その政治体制などはほとんど知られておらず、隣接する帝国とも聖国とも交流が無い鎖国状態になっていた。単なる集落の集合体とも王政とも言われているが、はっきりしたことは誰も知らない。
名称も国境を守る者たちが語っている固有名詞を帝国の警備兵が聞いた単語を組み合わせただけに過ぎず、正式名称かどうかすらわからない。
国土の大半を深い森に包まれており、森の深くへ一定以上踏み込んだ人間は問答無用で攻撃され、多くが帰ってこないとまで言われていた。
先ほどからヴェルナーが見ている海岸線も、砂浜や岸壁になっている部分は小さく、すぐに森が始まっている。
「森に住む民族か」
「計算上は寄港せずとも聖国までは到達できますが、往復は難しい状況です」
ダミアンの報告に、ヴェルナーは舌打ちする。
「聖国の連中がここを通る時の寄港地がある可能性もある。まずはそれを見つけるつもりで海岸線の記録も取っておくように」
森林国を越えれば聖国の国土へ到達する。
そこからは強襲するように上陸して一気に首都を目指す。船で来ている人数は少ないのだ。占領などできる余裕は無い。
「目的は聖国の王と直談判してスドやラングミュア、帝国から手を引かせることだ」
改めて行動方針を伝え、ダミアンたちが頷くのを見ていたヴェルナーは、通り過ぎていく船を森の奥から見ている視線に気づくことは無かった。
●○●
ヴェルナーが聖国へ到達するよりも早く、皇帝からの命令書を受け取った帝国の女性大将アーデルトラウト・オトマイアーは、一千名ほどの軍を聖国との国境へ進めていた。
最初に命令書を見た時のアーデルは困惑したが、新皇帝フロリアンが聖国と手を切ると言うのなら、それは彼女に取って喜ばしいことだと判断している。
「とはいえ、とてもじゃないけれど準備が充分とは言えないのよね」
国境の警備をするため、長期間の野営を行うことも想定して兵糧は充分にあった。広い範囲を監視するために馬も多く用意しており、移動速度も通常の編成よりは速い。
だが、砦や町を攻撃するような道具はほとんど無く、町などを占領しても統治するための人員がいない。
最初から侵攻と占領をするのであれば、それに慣れた指揮官を連れてくるのだが。
日暮れを前に行軍を止め、野営の準備に取り掛かったところでアーデルは腕を組んで行軍計画を考え続けていた。
副官を呼び、今後の行動についての命令を告げる。これは毎日のことだった。
「皇帝が何をお考えなのかわからないけれど……とにかく国境前まで布陣して斥候を……いえ、何名かを選抜して先行させて国境の状況確認を。可能ならば国境警備兵に話を通して越境なさい」
「よろしいのですか?」
国境を越えて斥候が先に領地侵犯することを懸念した副官が確認のために問い返したが、アーデルは命令を撤回することは無かった。
「良いから、多少多めの人数を使って極力聖国の監視と戦力の配置状況を確認しなさい。特に砦や町の位置は可能な限り正確に」
グリマルディ王国側にいるギースベルトと同様、アーデルも情報の重要性を理解しているタイプの将軍だった。
ごく一部、アーデルと同様に強力な魔法使いが相手方に存在するとしても、一人で戦況を左右できるほどの脅威になる程の者が早々いるとは考えられない。兵数と配置、そして地形をしっかり確認することで勝率は飛躍的に上がるのだ。
「ヴェルナー陛下のような人物でもいたら話は別だけど……」
「何か言われましたか?」
一人ごとに反応した副官に、気にしなくて良いと伝えて先ほどまでの命令を遂行するように、とアーデルの為の天幕から追い出した。
仄明るいランプの明かりに照らされた天幕の中で、組み立て式の机に向かったアーデルは一枚の紙を取り出す。
「聖国に対してどれほどの勝利を治めれば目的が達成となるのかしら……」
皇帝からの命令は『聖国を攻撃せよ』としか書かれていなかった。聖国を滅ぼすまで戦うのか、いくつかの町や村を占領して国土を削り取れば良いのか。はたまた、攻撃の意志を見せるだけで良しとするのか。
アーデルは皇帝の考えがどのあたりにあるのか確認する手紙を送ってはいるのだが、まだ返答は届いていない。
今は、町を占領するための人員と適性のある指揮官を送ってもらうための書類を書いている。大将たるアーデルが封蝋を押した手紙は、検閲などされずに皇帝へと届くだろう。
「わからないわね」
皇帝はラングミュアを攻撃する可能性もある、とアーデルは考えていた。しかし、単に防衛するだけならまだしも、打って出るとなれば兵士も指揮官も足りない。
アーデルはしばらく目を閉じて考えていた。
防衛ならば拠点を作るのも補給をするのも難しくない。しかし、侵攻する側ともなれば拠点を攻略する必要があり、補給は自国から遠く運び込むか現地で略奪を行うしかない。
町を占領したならその規模に応じた戦力を割いて監視と防衛の体制を作る必要が発生し、万単位の人数がいる町ならば監視だけで数百人は必要であり、住人達が反抗的であれば今いる千名の人数でもギリギリだ。
考えれば考える程無茶苦茶な命令だった。
占領した町を搾取するのか同化政策を敷くのかも皇帝からは方針が示されていない。一度略奪を行えば、その町を統治するのは難しくなる。
かと言って、略奪をしないのであれば用意せねばならぬ資金や物資は飛躍的に増える。
「準備期間も人数も何もかもが足りないわね……」
地図を見つめていたアーデルはある決定を下した。
「聖国北部。森林国との国境に沿って聖国に侵入しましょう。いざとなれば森に入って身を隠して撤退できるはず」
森の奥へ入らなければ、森林国側から手出しをしてくることは無いはずだった。
「まずは国境で待機ね」
元より人数も物資も不安なのだ。アーデルは本格的な侵攻を命じられた場合、聖国から逆侵攻される可能性については国境警備に任せることにした。
「それ以上は、私の手に余るもの」
彼女は自分の魔法が強力であることを理解していたが、それが国同士の戦いでは限定的な役割しか果たさないこともきちんとわかっていた。
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