仮面
「真面目な話……ねぇ」
アッシュが立ち去るのを皮切りに、シトリィが口を開く。
先程までのおどけた態度やふざけた口調ではない、纏う雰囲気さえも変わった別人のように。
この口調になるのを、一度だけ俺は見た。
月光の下でその髪色が如く、炎のような苛烈な激情に駆られ、恨み辛みを吐き捨てる。
あの怒りは紛れもない本物だった。
ならば、先程まで俺の前にいた、ふざけた態度の女は何者なのか――それもまた『シトリィ・フラン』なのだろう。
「真剣な話だっつうなら、まず教えてくれ。さっきまでのふざけた口調のあんたと今のあんた、どっちが本当の『シトリィ』なんだ?」
「……まずそれなのね……」
シトリィははあと溜め息をもらし、自らの髪をくしゃりとかき回す。
どうやら触れてほしくない琴線のようだが、こうも露骨に違うと此方としても気になって仕方がないのだ。
「で、口調を変える意味は」
しきりに溜め息を吐き、小さな声で「だから嫌だったのよ」や「これも全部姐さんのせいね」などとぶつくさと不満をもらし続けるシトリィを促す。
「……はぁ。アレは、あの口調は一種のスイッチみたいなものよ。ああした方が女を意識させず、チンピラや格下であると相手に思わせるためのね。ここじゃ女であるだけでまずナメられるから」
シトリィは観念したと言わんばかりに口を開く。しかし、その姿は肩を落とし、如何にも嫌々であることをはっきりと伝えてくる。
「女であることを隠すため……ねぇ」
言わば一種の仮面なのだろうが、そもそも声や顔などで丸わかりであり、その延長であろう薄汚れたローブで全身をすっぽりと覆い隠してはいるが、腰のくびれや丸みを帯びた女らしさなどは全く包み隠されてはいない。
主に前につき出された胸部が。おっぱいが。
「……意味あんのか、それ」
「女であることはもう隠しきれないのだけれど、意外と効果的なのよ、アレ。
媚びた声でごまをすってヘラヘラしてるだけで男はどんどん調子に乗るから。でも本当はああしなさいって上に言われてるからやってるだけで、私も嫌だし、それにさっきみたいに昂っちゃうとどうしても素が出ちゃうから私もまだまだ未熟ね」
とか言う割にはご機嫌で随分板についていたようだが――などとは口にはしない。
口に出せばどうなるか、如何にも彼女の語るような口調に騙された一人になりかねない。
なんせこう見えてギンと戦ったあとに彼女を追いかけ回し、疲労すら感じさせない傑物だ。未だに底が知れない、確かな強者であることに違いはない。
――しかし、まぁ……なるほど。確かに。
こうしてシトリィを見ると改めて美人であると思う。
端整な顔立ちに頭部には人間には見慣れない赤茶色の犬のような耳が付いており、長く伸びた彼女の真っ赤な髪と相まって違和感は感じず、ところとごろ寝癖のように跳ねる癖毛に野性味を感じるがその実、彼女の気性は穏やかで、あの口調でなくともフランクで実に話しやすい。
髪の長いボーイッシュ美人で気さくな女友達――彼女を言い表すならそんなところだろう。
「これで満足かしら」
「返答どうも。……で、俺に、俺一人の前にだけその口調になる意味っつうのは――」
「私が女で、貴方が男だから――これでわかるかしら?」
彼女の先程の言い分であれば、俺は彼女と対等と認められ、『女』を見せるに値する――そういうことだろうか。
「……よくわかんねぇなぁ。遠回しにじゃなく、はっきり言ってくれ」
「……意地悪」
シトリィは顔を反らし、不満そうに声を漏らす。
「……笑わない?」
「笑えるような理由なのか?」
「……ばか。――なのよ」
またしてもシトリィは拗ねた口調で、消え入りそうな声で呟くが、はっきりとは聞き取れなかった。
「うん? なんだって?」
「――っ、だからっ! 一目惚れだって! 言ったのよ……」
一瞬声を張り上げ、顔を真っ赤にしながらも此方を見上げ、徐々に声は萎びていく。だが今度はその言葉は一言一句、しかと俺の耳に届いた――聞きなれない言葉として。
「――は?」
「私だってわかんないのよ……なんだか気になって仕方がなくて、その……」
顔を赤く染め、視線を泳がせ、行き場に困った手は、指は忙しなく髪をすいたり頬を掻いたりと挙動不審になっていた。
彼女は渾身の勇気を込めて、告白したのだ。
「一目惚れって……まじか、俺に? ……馬鹿なっ」
「なんで貴方が私以上に驚いてるのよ……。柄じゃないのはわかってるわよ……」
そう言ってまたしてもそっぽを向き、指で髪を弄る。
その仕草が意地らしく、可愛らしい。
目の前の女性は、シトリィは紛れもない、正真正銘の『女』なのだ。
「――ハハッ」
「――なによ、もう……。やっぱり笑うんじゃない……。言わなければよかったわ……」
「いやいや、悪い。傷付けたなら謝る、すまん。シトリィ――あんたはちゃんと、一人の女だったよ。もっとちゃんと褒めれたらいいんだが、あんたは綺麗で、可愛らしい女性だよ」
彼女が恥じらいながらもきちんと俺を見て言ってくれたように、彼女の顔をしっかり見ながら言う。
ひねくれた性格ゆえ、素直な賛辞は苦手だが、しっかりと噛まずに言えた。
彼女がまっすぐに想いを伝えてくれたように、俺も正直な想いをしかと届けよう。
「――ありがと。……ねぇ、私と一緒に来る気はない?」
「お前と――?」
「そう。なんならそこのお嬢さん――確かギンちゃんと言ったかしら、彼女と一緒に。
大丈夫、二人は私の客人として丁重にもてなすし、貴方が望むのなら酒の味も、女も――いいえ、この街の全てを貴方に教えてあげる。だから、私と共に来て。私の……隣にいて欲しいの」
彼女は手をさしのべる。
俺を望んで、白くしなやかな手を。
その手は拒絶を恐れるように、指先は僅かに震えていた。
渾身の勇気を込めた告白は、まだ続いていた。
俺に好意をぶつけ、欲してくれる。
思えば、この世界にきてから俺はよく望まれるようになった気がする。
クレアや女将さん、ゴリ達にアッシュ、皆が俺に何かを期待し、好意的に接してくれる。
嬉しい限りだ。
こんな若輩な身に期待してくれるなんて。
なら、俺はできるだけそれに答えたい。
だが、まだだ。
まだ問題は――解決していないのだから。
「気持ちは素直に嬉しいんだが――悪い」
俺の言葉を聞いたシトリィはしばらく、固まっていた。
それほどまでに意外だったのか、事態を呑み込めず、しばらくの間は動くことなく俺だけを見つめていたが、やがて「――そう」とだけ呟き、瞠目し。
「ふぅ。振られちゃったのね……意外とショックなものね」
振られて傷付く。
そうなるほどまでにこの短期間で彼女に想われたことが素直に嬉しかった。
「本当に悪い。俺はお前と共に行くわけにはいかないんだ――今はまだ」
「――まだ?」
「ああ。俺には恩人がいる。その恩をまだ返しきれてない、どうすればいいかもわからない。だけど、一人だけ――ただ一人だけどうにかせねばならない奴がいる」
奴が諸悪の根源であることに違いはない。
一人だったクレアにゴリ達を仕向け、歪んだ愛情でクレアを我が物にしようとした独りよがりな男。
奴は未だにクレアに執着し、また凶行へ走る――そんな確信めいた予感だけはずっとあった。
奴をどうにかせねば、クレアの身に危険が及ぶだろう。
「――だから、力を貸してくれ。シトリィ」
「――ずるいわね。さっき振ったばかりの女に手を貸せだなんて」
「ずるいのは重々承知してる。だが、俺はお前を振ったつもりはないんだがな。あくまでこれはお願いだ。俺の件が済めば、俺はお前に尽くすのも悪くないと思ってる」
「俺の件が済めば、ね。それは済むまでは力を貸さない、そう言っているのに気づいてるのかしら――本当にずるい男」
彼女は力だけでもなく、そこそこ頭も切れるようだ――少なくとも俺の言葉の含みに気づく程度には。
「聞かせて。それは彼――アッシュのように『女帝』を主と慕ってのことなの?」
「違う。女将さんも恩人であり、無関係ではないが、あくまでこれは俺個人の意思だ」
「そう――それならよかった」
俺の言葉にシトリィはほっと安堵の息を漏らす。
「女将さん絡みだとなんかまずかったのか?」
「そうではないけれど、私はどこぞの狂信者のように彼女に全幅の信頼を寄せれるわけではないのよ――派閥の問題も当然あるのだけれど。
私には――私だからわかる。彼女、『女帝』の瞳の奥には、黒く淀んだものがあるわ。何に変えても討ち取りたい誰かがいる――強烈で過激な復讐心というものが。だから、私は心配なのよ。彼女に心酔した者が、彼女に仇なす者を討つ刃となっても、彼女はきっとそれを守る盾にはならない。容赦なく切り捨てる。そうしてでも、何に変えても殺したい誰かがいる――そんな気がするの」
心当たりは――僅かだがある。
普段は穏やかとは言わないが、あまり感情を見せない女将さんが、少なくない感情を見せた場面。
きっと、それが関係しているのだろう。
「――とにかく、そんな感じで人を容易く切り捨てる上司や同僚とは肩を並べたくないっていう私の気持ちはわかってもらえるかしら?」
「――ああ」
これはあくまで彼女個人の見解に過ぎないだろうが、不思議と侮れず、人をよく見る彼女の意見だ。一致するのも少なくはないだろう。
「だが、彼女は俺の件とはあまり関係はない。無関係とは言わないが、むしろ俺の件には彼女の娘――シンクレア・スカーレット絡みだ」
「シンクレア・スカーレット――聞いたことあるわね。容姿に関しては彼女と瓜二つでも、性格や気質は似ても似つかず、確か――ああ、なるほど」
途端、シトリィは俺を見てうんうんと独りでに頷く。
「おい、今のは何の納得だ」
「気にしないで。とても胸のふくよかな娘だと聞いたことを思い出しただけだから」
「それで何で俺を見た」
「だって、あなたも好きでしょう?おっぱい」
「婦女子がおっぱい言うな。まぁ、嫌いではないな」
――嘘です。大好きです。
「素直じゃないわね。ちらちら見てるくせに」
「み、見てね―し!」
「なんなら――見る?」
そう言って彼女は自らのローブの襟元に指をかけ、ずらす。
シミひとつない白い肌が露になり、自然と視線が鎖骨から豊かな双丘へ、そして吸い込まれるように谷間へと落ち着いた。
思わず、生唾を飲み込む。
「――なんてね」
「――はっ!騙したな!?」
「失礼ね、騙してはないわよ。それにしても、ふふっ、本当におもしろい子。見たいって言ったら見せてあげるわよ?」
「見たいですっ!」
「即答じゃないの。本当は大好きなんじゃないの? おっぱい」
「だからおっぱい言うな。す、好きじゃね―し」
「素直に言わないと見せてあげないわよ―?」
「はいっ!大好きですっ!」
「はやっ!え―、じゃあ私と一緒に来てくれる―?」
――なん……だと……!?
まずい、この流れは非常にまずい。
完全に流れを持っていかれた。
「冗談よ。何も本気で悩まなくても。――そんなにいいものかしら」
そういって彼女は自らの胸に手をかけ、揉みほぐす。
彼女の手の内でおっぱいは自在に形を変え、ふにふにという擬音が聞こえる気がするほどまでに、柔らかそうだった。
「――ご馳走さまでした」
「何を満足げな顔をしているのかしら。本当におもしろい子。ついつい無駄話ばかりしちゃうわね。でも、さすがに楽しかった一時もお仕舞い。貴方と共に――というお誘いでいいのかしら」
「――ああ。俺と共に来い、シトリィ・フラン」
彼女にされたように、ずいと彼女へと手をさしのべる。
「私は……」
その手を掴もうと、シトリィは手をあげる。またしても、彼女の手は震えていた。
「お前が望むなら、望む限り俺はお前の隣に居よう。力を貸そう。だから、今はお前の力を貸してくれ。――お前のすべてを、俺にくれ」
この短時間で、俺は彼女をいたく気に入った。このまま別れ、『夜哭街」へと帰したくないと思うほどに。
だから、彼女の全身全霊の勇気を受けたように、そのまま俺の勇気、全てを振り絞り、彼女を口説き落とそう。
「だから、俺の手をとれ、シトリィ。共に来い」
何がそこまで、彼女を悩ませるのか。
彼女は俺の手を掴もうと手を上げた。
しかし、彼女の震えた手は一向に触れることがない。
そして、やがて……




