怪物
「ギン、悪いがこの臭いの元、わかるか?」
よっぽど此処の臭いが気に入らないらしいギンは鼻を摘んでいるが、生憎俺は彼女ほど鼻が利かないので、どうしても彼女に頼らざるを得ない。
「うえぇ、この臭いぃ―?うぅん、わかった―」
ギンは渋々鼻から手を放し、眉間に皺を寄せて可愛らしい鼻をすんすんと鳴らしている。
「んっとね―、きっつい香水がアレで―、ドブみたいな臭いがソレで―-」
ギンは臭いを嗅ぎ分けて、その原因を指差している。
視線を感じたのか、指を刺された娼婦は怪訝な顔を此方に向けたり、汚れきった風貌の男は我が物顔で道を歩き、周りの数人は顔をしかめて男を避けている。
――無自覚の凶器、歩くスメルテロだな……。
「頼んどいてなんだが、こらこらギンちゃん。人をアレとかコレとか言わない、指も刺さないの」
「うえぇ、はぁ―い」
時折悪意なき無邪気が見えるが、基本は素直でいい娘なギンちゃんなのである。
「ん―と、あとは血の臭いと――これは、お香……?」
「ん?」
細かな臭いを嗅ぎ分けたギンが一瞬表情を引き締め、またしても鼻を強く鳴らす。
「ん―?なんかまた別の臭いがするような気がするけど、すごく微かで……気のせいかな?」
「香……?俺は臭わないが……」
ギンは未だに不思議がっているが、俺には相変わらず噎せ返りそうな程の香水の臭いしか嗅ぎとれない。
「ん―……。やっぱり気のせいかも。でも、血の臭いはそう遠くなさそう、というか、あっちかも」
そう言って、ギンが指を指すのは建物の間にある、またしても路地だった。
クレア達と出会ったのも路地裏、此処も路地の奥にあるため、奇妙な縁があるものだ。
「また路地か……。まぁこんな人通りのある場所じゃさすがにないわな」
当然といえば当然だが、路地は人気が少なく薄暗くジメジメとしているので、好んで行きたい場所ではないのだ。
――でも、気になるんで行くんですけどね―。
「ね―ぇ、お兄さん、どこにいくのぉ―?」
――来たっ!?
「そんなとこよりぃ、お姉さんとイイコトしなぁい?」
耳に触れるのは女の媚びるような甘ったるい声。
どうやら客引きに声を掛けられたらしい。
――声を掛けられた以上、無視をするわけにもいかないよね、うん、仕方ない仕方ない。
振り向いた際、露出の多い服から相手の恥部が見えても仕方がないと誰に言うでもなく言い訳を考えて、声のかけられた方を足元から見上げる。
足は細く、お世辞にも肉付きは良いとは言えぬどころか、骨と皮しか見受けられず、腰などは抱きしめれば折れてしまいそうな脆弱さ。
胸は貧相の一言に尽きる。
こんな肉体でも客を取れるのか、と心配になるがそこはそれ、性的趣向は人それぞれだと言い聞かせる。
――ガッリガリじゃねぇか……。マニア受けか?あるいは顔だけは超絶可愛いと……か……
足元から舐めるように相手を見つめ、視線は顔へと至る。
――カマキリじゃねぇかっ!
見慣れた昆虫のような顔面がそこにあった。
「よかったらうちの店に来なぁい?天国に連れてってあげるわよぉ―」
カマキリが何かを言っているが、顔面や体のパーツが衝撃的過ぎて、何も頭に入ってこない。
なぜ容姿が優れたものが多いこの世界で、このようなゲテモノに声を掛けられ、抱かねばならぬのか。なぜ数多いる男の中でこのカマキリは俺を選んだのか。勘弁してつかぁさい。
――だけど、俺は知っている。この艱難辛苦を乗り越える、魔法の言葉を……!
「チェンジで」
こう唱えれば、眼前の化物は絶世の美女へと変わるとネットのお兄様方が言っていた。
――時としてはより酷い化物に変わることもあるらしいが――そこはまぁ、この世界を信じよう。
「え?なぁに?何か言ったぁ?」
――おかしい。変わらないぞ?
カマキリの怪物は可愛らしげに首を傾げるが、一切可愛くない。
「ねぇ、おとさま、いかないの―?」
同じようにギンが首を傾げるが、此方は文句のつけようが無いほどに可愛らしい。
同じ生物、人間だというのにどうしてこうまで差が出てしまうのか、悲しいかな。可愛いは正義、正義は可愛い方なのだ。
「いや、何でもない。行こうか、ギン」
「ね―ぇ、無視?さっき目があったのに、お兄さん私を無視するのぉ?」
いい加減、しつこい。
「だああ!さっきからうっせぇぞ!虫はてめぇだろうがカマキリ女っ!」
「ああん、やっと喋ってくれたぁ!見た目可愛いのに、随分強気なのねぇ、嫌いじゃないわぁ」
「うっせぇ!てめぇに好かれても微塵も嬉しかねぇんだよ!巣に帰れ!」
「いやぁん、そんなこといわないでぇ、私と一緒にイイコトし・ま・しょ?天国に連れてってあげるわぁん」
カマキリ女はしなを作り、身をクネクネとよじらせている。なんだ、舞か、カマキリの舞いなのか。
「しねぇよ!何が悲しくて虫とヤんなきゃなんねぇんだよ!てめぇアレか!獣人じゃなくて虫人か!?知ってるぞ!カマキリはヤった後にメスがオスを食うらしいな!?俺は食われんぞ!そもそもヤらんっ!」
しなだれかかってくるカマキリを振り払いつつ、露地へと向かおうとするがなかなか振りほどけない。さすが捕食者である、捕らえた獲物は逃さない!
「ちょっとぉ、さっきからなぁにを店の前で騒いでるのぉ?」
またしても背後から声が掛かる。
今度は露地をはさんだ反対、もう一軒隣の店かららしい。しかし――
――すでに嫌な予感しかしねぇっ!
振り向けば怪物がいる。そんな気がする。
なんせさっきもそうだ。一度あることは二度あり、三度に至る。
凶事とは重なるものなのだ。
しかしと淡い期待を抱き、反射的に振り向いてしまう。
今度は期待せずに、相手の顔だけを確かめる。
期待をしていない、といえば傷も浅く済む気がするのだ。
もちろん、一切の期待がない、といえば嘘だが。
美女に声を掛けられれば嬉しい。店によるのもやぶさかではない。
でもギンもいるし、お金もない。店によることはできないのだが――それとこれとは別である。
「今度こそ美女でありますよ―に……って今度は豚じゃねぇか!?」
振り返れば、正真正銘の怪物がそこにいた。
顔はパンパンに肉が詰まり、豚とアンコウを足して割ったようなブサイク。
「ちょっとぉ、ブタってなによぉ」
「うるせぇ、ブタじゃなけりゃアンコウだろうが!とんだ詐欺じゃねぇかっ!深海に帰れ、魚人!」
「シンカイってなんのことよぉ」
「ちょっとぉ!このお兄さんは私が先に声をかけたのよぉ!」
「うるさいわよぉ、さっきから聞いてたけど、ぜんぜんそっちにいく素振りないじゃないのよぉ、可愛い坊やはウチの店にくるのよぉ」
カマキリ対アンコウ、夢の対決が始まった。
――え、ここって陸地だよね?深海じゃないよね?森でもないよね?
この二人を見ていると、自分がどこにいるのか不安になる。
しかし、これはいいチャンスだ。
ブサイクの中のブサイク、醜女同士の醜い争い。犬も食わねぇいざこざの合い間に逃げ出すに限る。
「なによぉ、そんなこといってこないだもウチの店の客取ったじゃないのぉ!」
「うっさいわねぇ!ちんたらしてるあんたが悪いんでしょぉ!」
「あんたにのろいとか言われたくないわよぉ、このブタぁ!」
「なによぉ!」
「……ギン、今のうちに行くぞ」
見るに耐えない醜い争いを、呆然と立ち尽くして見守っているギンの手を引き、当初の目的である建物と建物の間、路地裏へと入る。
「……うん」
何故か名残惜しそうに後ろを見続けるギンの手を掴み、足を進める。
「むきぃ―!」
「なによぉ!」
「おばさん達――べぇ―っだ!」
「きいぃ―!」
「あんの小娘ぇっ!」
ギンが振り返り、何かをしたようだが、俺は気付かないフリをする。
醜いクリ―チャ―共のより醜くなった姿なぞ見たくないし、そもそも子連れの俺に声をかける辺り彼女らも必死だったのだろう。見た目共々、色々と。
「ふんふんふ―ん♪」
先程の行いで気が済んだのか、今度はご機嫌に鼻歌を奏でている。本当によくわからない娘だ……。
「……おとさま」
「……あぁ、見えてる」
「あれぇ―。こんな場所に何か用ッスかぁ?しかも可愛い女の子まで連れこんでイケナイことしようって、おに―さん、可愛い顔してスケベッスねぇ、ぐふふ」
目の前の女は手を口の前に当て、芝居じみたふざけた笑い声を上げる。
さっきのカマキリの『きいぃ―』といい眼前の女といい、今時聞かない言葉を平然と言っている辺り、ここではそういった言葉が流行っているのだろうか。
「……そういうわけじゃないんだけどな。それに、あんたらの方こそ何してんだ?」
路地の奥に居たのは、二人の女と一人の男。
一人の女は――今度こそ獣人だろう。燃えるような紅い髪に同色の丸い垂れた犬のような耳がついており、全身を野暮ったいくすんだローブで覆い、隙間からは赤毛の尻尾が楽しそうにユラユラと揺れている。
先程の時代錯誤の口調も彼女のものだ。
もう一人の女は見るからに意識がなく、地面に横たわっている。
その風貌は夜哭街にふさわしくない、田舎娘のような芋っぽい衣装ではあるがパッと見は可愛らしく、先程のクリ―チャ―ズよりか遥かに可愛い。
――息はあるようだが、問題は……
少女の胸は微かに上下し、鼓動を確かめる。目に見える外傷はないが、できるだけ早く確かめたほうが良さそうだ。
「あぁん!?犬っころ、何をくちゃべって――んだぁ、てめぇらぁ!?どっからきやがった!?」
――この男は……違う。
捜し求めていたクレアのスト―カ―とは別人だった。
少女の傍らに座り込んでいた男は偶然現れた俺たちに驚きながらも立ち上がり、挑発的に物を尋ねる。
「どっからも何もそっちは行き止まり、こっちからしかないだろ……」
この男は馬鹿なのだろうか、多分馬鹿だろう。
「んなこたぁ聞いてんじゃねぇっ!くそっ、犬っころ、てめぇも何してやがる!見張りもろくにできねぇのか、グズがっ!」
「だから言ったじゃないッスか―。こうも臭い場所だとウチも鼻が利かないッスよ―。それに忠告を無視してココを選んだのはそっちッスよ?ウチに当たって欲しくないッス」
「うるせぇっ!んなこと知ったこっちゃねぇんだよっ!」
男は血走った目で獣人の女を怒鳴り散らし、女はヤレヤレと首を竦めている。どうやら話が通じる相手ではないらしい。
「はぁ―、だから子守りはいやだっつったんスけどねぇ。どうせ子守りするならこんなむさい男より……そっちのおに―さんの方が好みッス。どうッスか、おに―さん。こっち来てイイコトしないッスか?」
女は首を竦めたまま流し目で此方を見やり、艶やかな唇を赤い舌先で濡らす。
「――嬉しいお誘いだが、男はいらねぇな。そこのお嬢さんも含めて三人で俺にイイコトしてくれるっつうなら考えるが?」
「あはっ。おに―さん、結構スケベッスね。気に入ったッス。でも……ウチは結構独占欲が強いんで――おに―さん以外は要らないッスかねぇ」
女は楽しげに笑みを浮かべる。
「……おとさま」
今までずっと押し黙り、何かを警戒しているようだったギンが俺の服の袖を引っ張る。
「……違う。俺の探し人はこいつらじゃない」
「……そう」
ギンは短く頷くが、まだ何かを警戒し――脅えているようだった。
「でも……この人達、ううん、あの女。すごく……臭い。凄く……血の嫌な臭いがする……」
ギンは赤毛の女を指差し、そう告げる。
何となく、俺自身があの女に抱いていた得体の知れない感情を理解した。
無意識のうちにあの女を警戒し、ギンに言われて理解した。
俺はあの女が怖いのだ。なぜか、無性に……怖ろしい。
「あはっ。臭いとは酷いッスね。おに―さんの彼女さん、よく鼻が利くんスね。もしかしてウチのお仲間ッスか?でもウチは好きッスよ、血の臭い……無性に嗅ぎたくなるッス、あはっ!」
獣人の女は無邪気にそして妖艶な笑みを浮かべる。その笑顔を前に全身が粟立つ。額から汗がとめどなく溢れる。震えそうな手足を、意地で押さえつける。
――怖い。
逃げ出したくなる恐怖を強引に押さえ込む。
「……なぁ、別にあんたらをどうこうしようってつもりはねぇんだが、ただそこの女の子を返してくれるわけには、いかねぇか?」
喉から声を絞り出し、獣人の女に尋ねる。
「あぁ!?何言ってんだ、てめぇ!馬鹿じゃねぇのかっ!?にしても――そこのガキ、獣人だよな!?しかも結構……可愛いじゃねぇか」
男は血走った目でギンを足下から嘗め回すように見つめていた。
どうやらギンの容姿を大層気に入ったらしい。
「へ、へへっ。そうだな、その小娘を置いてったら、てめぇを助けてやっても、いいぜぇ?」
男は脂ぎった顔から舌を突き出す。突き出した舌からは涎が零れ落ちるが、男はそれを拭おうともしない。
その様子からは品性も知性も――情けも見えない。
――嘘だな。
男は自らが優位に立っているとわかっているらしい。
おそらく――この場で一番強いのはあの獣人の女だ。そして彼女の仲間である自分の優位を信じて疑っていない。
だから戯れに尋ね、飽きたらきっと俺は殺されるのだろう。
「おとさま……」
ギンは袖を掴んだまま、縋るように見上げる。
目に見えて、脅えていた。
自由気ままに無邪気で、俺を父と呼び慕う彼女が――脅えている。
――こんな顔、させちゃなんねぇよなぁ……。
「断る、って言ったらどうする?」
男はニィっと口端を歪め、答える。
「死ね」、と。
相変わらず、話が通じない奴だ。
「……なぁ、あんた。そこのお仲間さんになんか言ってやってくんねぇか?」
「ヤッスよぉ。ウチも別に仲間ってワケじゃないんで。でも、大人しくしてくれたらウチがおに―さんを助けてあげてもいいッスよ?」
「……その場合、この娘とそこの娘はどうなる?」
「さぁ?男共の慰み者になるか、ココの住人になるか、じゃないッスかね?
後者ならまだイイッスよ、こう見えてココはそう悪い場所じゃないッスから。
――力があれば、ッスけど」
どうやら此処は弱肉強食の世界らしい。
力なき弱者は強者に食われるしかない。ならば掴み取るしかないのだ。力で。
「――交渉決裂、だな」
「あはっ、女の子を守るため戦う、ッスか?いいッスねぇ!おに―さん!ウチ、キュンっときちゃったッスよぉ!」
女は愉快そうに笑い、胸を抑えて身をクネクネとよじらせる。
恋に落ちた少女を演じているらしい。
「その胸の高鳴りに免じて、全員見逃す――」
「わけないじゃないッスか。尚更おに―さんが欲しくなったッス。だから、それ以外は全員……いらないッス」
女は、途端に底冷えするような目で俺を見据え、ローブの下から高速で何かを放り、空中でクルクルと回るソレを掴みあげ、逆手で構える。
身を低く屈め、両の手には一対のナイフ――二刀流。
奇をてらったものなら一笑に伏すが、女の構えはえらく堂に入っており、そのようなものじゃないことがよくわかる。
「さぁ、力尽くで奪うッスよ、命も――全ても」
女はそう告げ、笑った。
これが戦闘開始の合図だと言わんばかりに――。




