束の間の休憩
未だに蜂を咥え、ブンブンと振り回す白狼を見ていると、何ともいえぬ気持ちになる。
鎬を削りあった強敵が、目の前で第三者に討ち取られる。命の灯火が消される。己以外の身によって。
結局のところ――
「肩透かし、だよなぁ……」
自分の身から張り詰めた緊張が解かれていき、やがて力が抜けていく。立っているのすら億劫になり、地面へと座り込む。
蜂を討ち取り、現れた白狼は蜂の死骸を弄んでいるが、座り込む俺を見て、目で問いかけてくる。「遊んでくれるの?」と。
「遊びません」
シッシと力なく手を振るう。が、狼はその手を合図と思ったのか、走り寄ってくる。
「ま、マジかよおい……!」
先程までは見下ろしていたが、同じ目線になって迫りくる白狼は――正直、怖い。座り込んだまま後ずさるも、白狼はお構いなしに飛び掛ってくる。
「うわっ!」
「旦那!?」「だ、大丈夫か!?」
白狼の前足に両腕を押さえ込まれ、馬乗りに。狼なのに馬乗りとはこれいかに、などと下らぬことを考えていると、狼はハッハッと口を開け、息を荒げている。
「ちょ、ま!やっべぇ!これ結構怖いんですけどー!」
開いた口からは先程巨大な蜂を噛み砕いた鋭利な牙が垣間見え、両腕は強かな健脚に抑えこまれ、ぴくりとも動かない。
マウントをとられ、いつ自らの喉笛を噛み砕かれるか――そんな恐怖が芽生える。
「本当怖い!助けて!これ本当怖いからぁっ!」
自らの声とは思えぬ情けない声がこぼれる。今は体裁を気にしている場合ではなかった。自らが不死だということも忘れて。
「ま、待てっ、今助ける!」「こらっ、どけってっ!」
仲間達の焦る声が聞こえる。それでも狼はフンフンと鼻息を荒げたまま、その顔を徐々に近づける。
――喰われるっ!
そう覚悟して目を瞑る。
しかし、一向に痛みは訪れない。
「ちょ、だからっ、離れろってっ!」
アルフが狼を引き剥がそうとする声が聞こえるが、「待った」とそれを静止する穏やかな声。
――この声は、ローシ?
自らの頬に、生暖かい粘液が付着する。そして何かが這うような感触。
「大丈夫ですよ、旦那。目を開けてください」
そう言われ、恐る恐る目を開く。
「うおっ!」
眼前に広がるは、狼の大口。そこから桜色の舌が表れ、顔面が舐められる。
「な、なんだ……?」
「喰うんじゃなく、舐めてる……?」
怪訝そうな声をあげるアルフとリードは毒気を抜かれたかのように、狼を引き剥がそうとした手が止まっている。
「ちょ、うぷっ、おま、やめっ」
喋ろうとしても、狼の舌がしきりに顔面を行き来し、口が開けない。
「飼い犬が飼い主の口を舐めたりすることがありますが、その意味は母親に餌をねだる時、あとは上位者に対する親愛の情の表れと言われています」
ローシは穏やかな顔つきで、笑いながら言う。
「旦那。白い狼の逸話、話しましたよね?」
そういえば、そんな話を聞いた気がする。
何時だったかと思い返せば、前回『賢狼の森』を訪れたときの帰り道、ゴリの背中に揺られている時だったか。
「確か……白い狼は王の資質あるものの前に現われる、とかそんなんだったか?」
「その通りです。そして現に今、狼は目の前に居て、親愛の情を示している。随分懐かれているようですね、もしかしたら旦那には本当に王の資質があるのかもしれません」
そう言って朗らかに笑うローシ。その表情で冗談ではなく、本気で言っているのだと信じることができる。
「俺が王様、ねぇ……」
「タツミが王様だって?そりゃあ国が滅ぶな」
ローシの言葉を、アルフが笑いながら聞き流す。
――いや、確かに治世とか政治とかできる気はしないが……。
「まぁ、馬鹿のアルフよりかはマシだとは思うぜ?」
「確かに。アルフには到底できんだろうなぁ、王様なんて」
「んだとぉ!?」
アルフに対する報復に、リードが同調する。そして全員がそれに対して笑いあう。
とても穏やかな気持ちだった。
未だに狼は顔を舐めてくるが、口周りを舐める程度に落ち着き、こうして見ると随分と優しげな顔をした狼だ。恐怖心はすっかり消えうせた。
ふと狼を撫でたい衝動に駆られるが、手が動かない。狼の前足に抑え込まれたままだ。
「ん―、撫でたいんだが手だけでも解放してくれんかねぇ」
そう独りごちると、その言葉が聞こえたのか、狼は前足をどかし、右腕のみ解放された。
「お、さんきゅ。言葉がわかんのか?賢いねぇ、よしよしっ」
手をどけてくれたお礼に頭を撫でてやると形容しがたい、犬とはまた違った鳴き声をあげる。しいていうなら「わふっ」と言ったところか。撤回。やっぱ犬っぽい。
嫌がってるのかと思えば、再び尻尾をちぎれんばかりに振るっている。どうやら感情表現は犬とそう違いはないらしい。
――よし、こいつは狼じゃない、犬として扱おう。ポチだ、ポチ。
そんな失礼な考えが読まれたのか、狼はすぐさま不機嫌そうに唸り、手をガブガブと噛まれる。甘噛みなのであまり痛くはない。
「ハハッ、悪い悪い。お前は立派な狼だよ」
どうやらこの狼には言葉や人の感情の機微が読めるらしい。
俺の言葉が通じたように、またしても嬉しげに「わふっ」と鳴いている。犬っぽ以下略。
「な、なんだこの気持ち……」
「だ、旦那。俺も撫でていいですかね?いいっすかね?」
ゴリとアルフ、我がパーティの大男二人が狼を見てうずうずしていた。子供か。
「さぁ?こればかりは当人、いや当狼さん次第だろうな」
そう言いながら頭を撫で続けるが、当の狼は気持ち良さそうに目を細めている。
聞こえているのか、聞こえていないのか。
「う、うしっ」「で、では……」
大の男二人が犬一匹の頭を撫でようと恐る恐る手を伸ばす。なかなかに滑稽だった。失敬、狼でした。
「「よ、よーしよー……」
……
…………
………………がぶり
「「ぎゃああああっ!」」
突如、深緑の森に悲鳴が木霊した。
ほぼ同時のタイミングで、同じ距離ほどにあった二人の手は、狼に綺麗に噛まれている。
二人は大げさに叫んでいるが、どうやら狼は本気で噛んだわけではないらしい。俺の時のように甘噛みでもないようだが。
少なくとも、手に食い込んだ牙からは僅かの血が滴っているのが見えた。
「どうやら狼さんはがさつな男は嫌いらしい」
「ふむ、どうやらこの狼は雌のようですね」
ローシがしげしげと狼を見ながら言う。何見てんだ。
「あ、危なかった……」
リードは自分の手を庇いながら、痛がり転がる二人を見下ろして言う。
どうやらリードも手を伸ばすつもりだったらしい。
命拾いをしたな!
「フッ、狼さんはどうやら俺以外のおさわりはお嫌らしい。モテる男はつらいぜ……」
ニヒルを気取りながら狼の毛並みを激しく撫でる。
粗雑な手つきだが、狼は嬉しそうに再び目を細めて嫌がる素振りを見せない。
どうやら俺は本格的に好かれているらしく、獣とはいえ好かれて悪い気はしない。
「なぁに気取ってやがる、ちくしょう。いってぇったら、ありゃしねぇ……。いつか鍋にして喰ってやるからな、犬っころめ」
アルフは立ち上がり、痛むであろう手をぶらぶらと振りながら狼への悪態をつく。
狼はその悪態に苛立ったのか、耳をピンと立たせて、アルフをじっと見つめている。
「な、なんだやんのか、犬っころ。人間様なめんなよ」
シャドーボクシングの構えを取るアルフ。かたやそれをジッと見つめる狼。
どちらの方が強者っぽく見えるだろう、などと考えるも答えは出さずに置こう。
――憐れ、筋肉隆々の大男、小物っぽい。
歯牙にも掛けられていないのが目に見えてわかるので、とても憐れだ……などと思っていると、狼に伝わったのか、狼は牙を剥き、低い唸り声を上げている。
「う、うおっ、なんだ、マジでやんのか?」
「……シッ、静かに!」
アルフがびびっているのを、珍しくもローシが大声を張り、静止する。
「……どうした?」
何かを警戒、あるいは威嚇するように突如唸り始めた狼。
そして、一同を黙らせ、辺りを窺い始めるラットとローシ。二人に声を潜めて尋ねるが、二人とも目を瞑り、耳を済ませたままで何も答えない。
「どうにもマズイ展開っぽいな……。全員、構えなおしたほうが良さそうだ」
狼の下から抜け出し、全員に目配せをする。するとすぐさま、全員が武器を構え、アルフの背後を見つめる。
狼が威嚇する対象、ラットとローシが気配を探る相手の正体はすぐにわかった。
それらはけたたましい羽音を幾重も響かせ、並列してやって来た。
夥しいまでの黒と黄色の配色の蟲……巨大蜂の大群だった。
「おいおいおい……!さすがにこれはやべぇんじゃねぇか!?」
思わず漏らした声に返事はないが、全員の強張った表情。そしてドッと噴出し始めた脂汗がかつてない緊張感を物語っている。
激戦が始まる。そんな予感が拭えなかった。




