序章
タイトル 『消えない水音』
四〇〇字詰め原稿用紙換算枚数……287枚〔40字×35行〕
拝啓 佐伯月乃 様
この手紙を貴女が目にしている頃、俺はもうこの世の者ではないのかもしれません。
明日にでも、俺は滋賀県の蒼湖風穴に発つ心算です。
目的は、風穴調査隊、天照プロジェクトに参加する為です。突然、思い立って貴女にこんな手紙を遺そうと思ったわけではありません。というのも、昔、母親に聞いた事があります。約五十五間年前から形成され始めた蒼湖風穴は謎に包まれていて、今だに構造の全貌が解き明かされていないと言われているのです。なんとも神秘的だとは思いませんか。
貴女と同じ大学のミステリーサークルに参加していた俺は、念願の想いを果たすべく、その調査隊に志願したのです。
ただ、どんな危険が待っているかは分かりません。
こんな話を貴女にしたら、どんな顔するのかな……
今まで黙っていてごめんなさい。何度も言おうとした。けど、言えなかった。だって、こんな話をしたら、貴女は俺を止めるに違いないから。
必ず帰ってくるから。待っていて下さい。
最後に――もし俺が帰ってこなかったら、その時は母親のそばに居てやって欲しい――
平成一五年 神谷瑠夏
敬具
序章
〔1〕
霊仙山沿いにある、ここ数年舗装された形跡のない細く狭い道路を抜けた先が、目指す取材地である。私は、車の震動に揺られ、右手に見える斧川の緩やかな流れとせせらぎに五感を傾ける。自然の美しさが、私を高揚とさせた。時折、道路に散らばった岩石が車体の裏側にぶつかり、小さな音を立てる。それにしても、本当に細い道だ。対向車が来たら、どのように除ければ良いのだろうか。私はハンドルを握りながら、高ぶる鼓動を抑えることに必死だった。
滋賀県犬神郡。霊仙山塊カルスト地帯に位置する鍾乳洞――蒼湖風穴は、今だその大きさや中の構造が不明確な未開の地である。
そのような情報を数少ない友人の一人から仕入れた私――小説家の御影吉秋は、蒼湖風穴がホラー小説の舞台にはならないだろうか? という好奇心と疑問を抱き、ここを現地取材することにしたのである。
友人達は変わり者だ。
小説家を商業とする私自身も客観視すれば、変わり者には違いないのだが、彼らに比べればまだマシな方だとは思う。高校時代に親しくなった友人の内の二人は視覚系バンドに所属しているし、小説家を目指している最中に世話になった占術師も、相当な変人である。それでも、私自身、彼らを慕っている事には違いないのだから、友人なのである。類は友を呼ぶと言った様に、私の周りにはまともな職業に就いている人間の方が少ないのだ。それでも生計を立ててはいけるのだから、私が小説家をしていようが両親も煩くは言わない。寧ろ、私を応援してくれていると言っても過言ではないだろう。私の両親は仲むづまじい夫婦で、余りに仲の良いものだから、息子の私自身も聊か気味悪がっている。そんな穏やかな家庭で育ったのだから、私は割と自由な性分をしていると思う。
細く長い一本道を抜けると、古ぼけた民家が何軒か見受けられる。木造家屋で傾斜のある屋根が印象的だった。それぞれの民家の周りには本当に何も無く、スーパーやコンビニの一件も無い。家を取り囲んでいるのは、高く聳えた木々達や、美しい川、それに田圃や畑だけだった。こんな所に人が住めるものなのか? と聊か疑問を抱きながらも、私は観光客専用の駐車場に車を停めた。取材用のノートや、財布、携帯電話などが入ったトートバッグを携え、私は車を降りる。ダウンジャケットにジーンズと変わりやすい山の気温に合わせた身なりをしてきたつもりだった。
車を降りるとすぐに私はその空気の透徹さに驚いた。鼻腔内に何の穢れもない空気が忍びこむ。自然の香りがした。砂利石が敷き詰められた駐車場の向こうには斧川があり、先ほどと何ら変わりない穏やかなせせらぎが、私の鼓膜に心地よく響いた。
川の周りを取り囲む霊仙山の新緑色の木々の葉が、朝の陽光と、柔らかな風を受け、笑っているように見えた。葉が擦れ、緑が揺れる。杉の木の立派な一本幹が逞しい。
長閑である。このような平和な場所が、ホラー小説の舞台に出来るものなのか。私は悩んだ。
しかし、車で四時間もかけてはるばる奈良から滋賀まで来たのだから、もう引き返すことなど考えたくもなかった。若干、不安ではあったが、私は歩き始めた。
斧川の上に掛かる橋を渡ると、向こうに、受付用の窓が設えられた小さな木造家屋が映った。その小屋で受付をしないと風穴には入れないようだ。
小屋の隣には小さな神社がある。石の鳥居の間にはロープが施されていて、中には入れないようだった。鳥居の前で歩みを止め、しばし、私はその中の様子を伺った。
向こうに見える祠には何が祀られているのだろうか? 神社の中は随分と荒れていて、もう何年も手入れがされていないようだった。
鳥居の上に書かれた文字を見て、この場所の名称が八幡神社ということは分かったが、どうして、午前九時を回っても中に入れないのかは分からない。もう誰も管理していない、破棄された神社なのか、その不穏な空気がなんだか寂しかった。
――神秘の鍾乳洞。蒼湖風穴にようこそ――
小屋の外壁に設えられた看板にそのような文字が書かれていた。やはり、ここは単なる観光地なのだと、私は落胆に似た心境を覚える。私はここに観光しにきたのではなく、取材にしに来たのだ。
などと、心の中で愚痴を零していると、小屋の窓が開いた。
中には、灰色のワンピースに、黒のカーディガンを羽織った女が一人いた。長くて黒い髪。細い目から覗く艶やかな茶褐色の瞳が印象的だった。歳はまだ若い。恐らく私と同じくニ十代前半だろう。
「お一人ですか?」
受付の女は訝るような目付で私に訊ねた。
「ええ」 私は素気なく返事をした。
「――お一人様、五〇〇円です」
私は、どこか不審者を見るが如き形相の女に些か苛立ちを覚えたが、大人しく料金を支払い、女からチケットを手渡される。
チケットを受け取った私に、女は付け足すように言葉を放った。
「風穴に入れるのは、九時半からなので、もうしばらくそこのベンチに御掛けになってお待ちください」
私は、どうして今すぐに入れないのかと訊ねる。ふと腕時計に視線を落とせば九時二十分ではないか。十分前なのだから、別に入っても問題はないだろうという旨を説明すると、女は少し困ったような表情を浮かべ、こう説明するのだった。
「お父さんがまだ戻ってきていないので――」
「お父さん?」
私は意味も分からず眼を丸くした。
「あっ、えっと、お父さんって言うのは、私の父という意味で、父はこの風穴の責任者なんです。毎朝、お父さんが、風穴の様子を見に行って、落石の恐れがないかとか、観光客の人たちが中に入って安全かを見定めて、初めてお客さんを迎えることが出来るんですよ」
なるほど。そういうことか。
そういえば、この風穴の情報を聞いた時、観光雑誌にも目を通していた。ふいにその雑誌に書かれていた事をその時、思い出したのだ。蒼湖風穴は、雨天や、天候悪化の虞がある時、一般人の観光は許されない。天候悪化が原因で、風穴内での落石や、土砂崩れが起こった時を考慮しての計らいだろう。
「じゃあ、しばらくその辺をうろうろしているんで、そのお父さんが戻って来たら声掛けて下さい」
そう言って、私は小屋を離れる。砂利道を通り、しばらくの間、周りを散策することにした。もちろん女が言った通り、風穴へ連なる山道には入れないので、小屋の周りを探る他ないのだが。
石垣の階段を昇ると、不思議な物が見える。私は、その石碑と思わしき代物に意識を奪われゆっくりと歩み寄った。
『山の大神』という大きな文字で刻まれた慰霊碑を見据えて私は小首を傾げた。慰霊碑には小難しい文字で、長々と文が綴られている。慰霊碑のすぐ隣には地蔵様が祠に納まり祀られていた。
私は眉間に皺を寄せて、石碑に掘られた小難しい文字を追った。この石碑が建てられる事になった経由が説明されているらしい。それにしても豪く難解な文章だ。本に親しみ慣れた私でさえ、読み解くのが難しい。
「どうしてこんなものがあるのか気になります?」
唐突に後ろから飛んできた声に驚き見返った。そこには受付小屋に居た女がポツリと立っている。
「君、仕事中だろ?」
「暇ですから」
言って女は白い歯を浮かべた。ふと小屋の方に目をやると、本当にそこには観光客の一人もいない。彼女が暇という意味も強ち理解できた。ということは今、風穴内を観光しようとしているのは私一人だけということになる。
女は、胸元に付けられた名札を私に見せ、
「冬籐沙弥です」と言った。
彼女は風穴の管理人ではあるが、その大方の仕事はほとんど沙弥の父親が仕切っているらしく、沙弥が受け持っている仕事と言えば、チケットの販売だとか、風穴の歴史についての説明だとか、簡単な仕事だけである。
普段、風穴の管理を行っているのは沙弥、父親の輝光、母親の皐月の三人だけらしく、今日は沙弥が受付を担う日らしい。
明るく朗らかな性格と思わしき沙弥は私が訊ねもしないというのに、長々と身の上話をしてくれた。気がつけば沙弥は髪を後ろで束ねていた。
「じゃあ、早速、この石碑について説明してもらおうかな」
と、私が試すような物言いをすると、彼女は胸を突き出し、自信満々に頷く。近くから聴こえる斧川のせせらぎに合わせるように、彼女は滔々とその石碑についての歴史を教えてくれるのだった。
その昔、この慰霊碑が建てられた場所や、この辺り一帯には樹齢何百年という神木が生えていた。中でも樹齢千百年の木――丁度、慰霊碑が建っている位置に生えていた木には山の神が宿っているとされ、大切に祀られていたのだという。しかし、風穴が発見され、多くの人々がこの地を観光するに連れ、この木は邪魔者扱いされる。観光客の為に道路を開拓したくても、樹齢何百年の木々達が至る所にあったのでは、思うように工事が進まない。道路法線状、この神木達は伐採される必要があったのだそうだ。人々は苦脳した。神が宿る木を伐採しても良いのか? 何か天罰が下るのではないか? しかし、人々は決断することにした。神木を伐採しようと。怒り狂う神々を鎮める為に、この慰霊碑は建てられたのだそうだ。私はここに来る途中に通ってきた細長い一本道を思い出していた。
あの、車一台通るのがやっとな狭い道路――無理やり作られたような道路があった場所には、きっと多くの神木が生えていたに違いない。
「山の神か」
「そう、この石には神様が宿っているんです……多分だけど」
「多分?」
「だって、神様が居れば、あんなこと――」
沙弥が何か言おうとした時、風穴へ連なる山道から一人の男が下りてきた。薄茶色の作業着。浅黒い肌の男は眼鏡を掛けていた。五十代と見受けられる容貌のその男は、陰険な目付を漂わせ私を睨んでいる。冬籐輝光である。沙弥は輝光の元へ歩み寄り、私が観光客である事を説明したらしく、その話を聞いた輝光は表情を若干ながら綻ばせていた。
私は、遠くで話をする二人の様子を慰霊碑の前から眺めていた。しばらくすると、沙弥は私の元に駆け寄ってきて、風穴内に入れるという事を伝えた。
私は慰霊碑に軽く会釈をした後、風穴に連なる山道へ足を踏み入れた。沙弥は受付小屋がある方へ戻っていく。私は振り返り、沙弥の方へ視線を投げる。相変わらず沙弥は一人で風穴に行く私を不審に思っているようで、ずっと小屋の方から私の後姿を怪しげに見ているようだった。
確かにこのような洞窟内に一人で観光しに来る理由などほとんど無いと言ってもいい。きっと彼女は私を友達がいない寂しい男と憐れんでいたのだろう。
そう思っていると、山道の傾斜が激しくなり、足取りが重くなった。石垣の階段が妙に憎らしい。
左手には清らかな渓流が流れていて、苔の生えた岩が川の至る所に転がっていた。どこから流れているのだろう? 私はそう思い、川の源を探ろうと前へ、前へ進んでいく。
川を流れる水は、山の岩壁の隙間から滝のように吹き出していた。この水は地下源泉のようだ。普段体を動かさない私であったが、体力の消耗とは裏腹に川から漂うマイナスイオンが心地よかった。疲れているのか癒されているのか、よく分らない心境だった。
右手の斜面には岩石が剥き出しになっていて、その隙間から草が生い茂っている。残雪があらゆる場所に見受けられる。春だと言うのに。
斜面側の剥き出しになった山肌には落石注意の看板がたくさん立てられている。
――落石注意。万一事故が発生しても当方は一切責任を負いません――
看板を見て、私はいよいよ歓喜高ぶらせていった。正しくホラー小説にふさわしい舞台ではないか。この無責任でいい加減な看板が、私を恐怖の世界へと誘ったのである。
「あ――」
私は前方の光景に視線を捉われた。最後の階段を登り終えたと同時に、その不気味な穴が姿を現す。絶壁になった山肌の下に飄然と剥き出しになる小さな穴。大きは約一メールか一・五メートルと言ったところだろうか。兎に角、大人一人入るのがやっとなぐらい小さい入口だ。ここが蒼湖風穴か。私の額に一滴の汗が滴り落ちた。想像以上の不気味さを醸し出しているその風穴に私は、足を踏み入れた。入口付近に剥き出しになった岩壁を手すりに、私は穴に潜る。日差しが穴の壁に遮られ、視界が昏くなっていく。沙弥から聞いた話では、この洞窟は第一層と第二層に別れていて、観光客が入れるのは、その二つの層だけらしい。その先にも洞窟が続いているが、どこまで続いている空洞かも分らぬ未開の地なので、それ以上、奥に入るのは危険だという事で、第二層から向こうは立入が禁止されているのである。
◆◆
第一層。
適当に作られたような足場の悪い岩の下り坂を下りていくと、目の前に乱雑に散りばめられた石灰岩の残骸が視界に映った。暗黒に包まれる洞窟内を岩壁に設置された照明が照らしている。琥珀色の灯りを受け、それぞれの岩達が陰影を明瞭にしているせいか、不気味な雰囲気が漂っていた。私は思わず唾液を呑み込む。観光客用の細い通路の脇に作られた、黄色いビニールテープが巻き付けられている手すりをしっかりと握りしめながら茫然と立ち止まった。下を見る。細く人一人が歩くのがやっとな通路。良く見ると、その表面から、ただのコンクリートでは無いことが分かった。その周りに散らばった石灰岩の残骸。――あぁ、なるほど。
私は、理解した。この地面一体は元々、一つの石灰岩だったのだ。そして、風穴が観光地になった際に、ここ一帯は工事された。通路用の道以外の石灰岩――その表面はドリルか何かで粉砕されて、この狭い石灰岩製の通路だけが残った。乱雑に散らばった不自然なほど大きさの異なった岩を見て、私は合点がいった。
続いて私は上を見る。それにしても大きな空間だ。
どのくらいの大きさなのかも曖昧だった。天井高はおそよ数十メートルと見受けられた。
ピタピタ――延々と水の滴る音が妙に耳につく。私は鞄の中から取材用のノートを取り出した。何か印象に残った事や、風景の描写になるような記録を書かなくてはと思ったのだ。私はノートを広げて、ペンを握った。私は今、この瞬間抱いた印象を書き綴っていた。
その時、唐突にどこかから降ってきた水滴が私のノートの紙面を濡らした。先ほど書いた文字が、水滴のせいで、滲んでしまい、何が書いてあるか分からなくなった。
私は軽く舌を鳴らし、紙面の上に乗った水滴を振りはらったが、もう遅かった。感想は外に出てから書き記すとしよう。思った私は、濡れたノートを仕舞い、徐に歩を進めた。
三百六十五度、どこを見回しても岩、岩、岩。聴こえてくるのは、果てしない静寂の中で鳴り続く水滴の音だけだ。照明以外の灯りは無い。私は、水滴がどこから落ちてきているのか気になり、凸凹とした石灰岩製の天井を見上げた。すると――私の全身に鳥肌が立った。
一見、ただの岩壁に過ぎない天井なのだが、人の手に掛からず、自然の力だけで出来上がった天井には深い凹凸がある。頼りない照明がそのゴツゴツとした天井の表面を照らすことによって、そこに異様な光景を創り出しているのだ。
私は狂しくなっていたのかもしれない。初めて訪れた鍾乳洞の、あまりの不気味さに壊れてしまっていたのだ。
私には、それらの絵が、人の貌に見えた。霊仙山に降った雨水が地下に浸透し、カルスト地帯であったこの地表を、長い年月を経て、溶かし、このような空洞は出来上がった。そして、その自然に作り上げた洞窟の中の壁――岩肌に出来上がった自然な凹凸が、人の、目、鼻、口を表現しているように見えたのだ。あぁ、恐ろしい。
照明が岩肌に陰影を表現しているせいか、余計に人の貌に見える。天井だけではない。ふと横や後ろを見てもそうだ。岩肌に浮かび上がる人面。
私は、ずっと見られている。
その何百、何千とも数えきれない夥しい数の無機質な人の顔にずっと見つめられていたのだ。
全身に悪寒が走った。私は再び歩を刻み始める。滴る水滴が洞窟内に雨のように降っている。雨合羽などを持ち合わせていなかった為に時が経つ度、着てきた服が濡れてしまった。
昏く、深い洞穴――一体どこまで続いているのだろうか。
そんな好奇心を拭えずに、私は、一歩、一歩、濡れた通路を進んでいく。
鍾乳洞に入って十分ほど経ったとき、通路が途切れた。正面に視線を投げると、行き止まりだった。だが、行き止まりと思わしき岩壁には無数の穴が開いていて、まだ洞窟が続いているような気がしてならなかった。しかし、とても小さな穴で、中に人が入るのは不可能である。
左――工事現場で使われそうな錆びついているハシゴがある。その先に視線を投げると、二メートルほどの穴が開いていた。第二層への入口である。
私は、ハシゴに足を掛ける。鉄パイプのような頼りない足場に少々怖気づいてしまった。
本当に観光客の気持ちなど全く考えていないような、いい加減な設備だ。私は一歩、一歩、足元を確認しながら、階段を上っていく。
◆◆
第二層。
同じ洞窟の中にいるというのに、こうまでして大きさに差があるというのか? 第一層と違い、第二層目は、恐ろしく狭く、圧迫された雰囲気が漂っていた。天井高はおよそ二メートルほどで、通路と思わしき道もない。地面に転がる岩が、私の足取りをふらつかせた。まるで酒を飲み過ぎた会社員のような千鳥足になり、幾度となく転びかけたのである。
それにしても本当に狭い――
微かな照明の灯り。
暗闇の中で、歩く私。
この感覚には覚えがある――
忘れたいと思っていた、過去の記憶――
その時だった。私の忘れかけていた厭な想い出が蘇ったのは。
〔2〕
十五年以上も前の事である。
当時、私は小学生だった。
夏休みを迎えたある日、私は近所に住んでいる友人達と遊びに出掛けたのだ。自宅から徒歩五分ほどの位置にある公園には、私と友人の他、誰もいなかった。
最初に異変に気づいたのは、あろうことか私だった。公園の小さな公衆トイレの外に、マンホールがある。その円形の蓋が開いていたのだ。僅かに横にずれた蓋の隙間。私達は好奇心に買被られ、その隙間を覗き込んだ。
――すげぇ。俺、蓋の開いたマンホールなんて見たことないよ。
――俺もだ。中、どうなってんだよ?
――お前、見て来いよ。
――嫌だよ。暗いし、なんか臭くないか?
私の友人達は各々、そんな事を口にしていた。
私は本当に厭だったのだ。
――いいから。見て来いよ。今、入っとかないと、一生、入れないかもよ。
本当に厭だった。しかし、友人達は、私にマンホールの中に入るよう強く勧めてきた。私は仕方なくその言葉に従い、中に入ることにした。
地下へと続く頼りないハシゴを下る。暗がりが私の視界を奪っていく。丸い穴から差し込む光だけが頼りだった。友人達が、その光の中から、こちらを覗きこんでいる。
地下水が流れる音が鼓膜に雪崩れこむと同時に、厭な匂いが、鼻腔内に纏わりついた。暗闇と異臭が、私を恐怖に陥れようとしたその時、忽然として彼らは私を裏切ったのだ。
――突然、光が消えた。
異常事態に気づいた私は、ハシゴの上に視線を投げた。
蓋が閉まっている。友人が、私を閉じ込めたのだ。私は闇の世界に閉じ込められた。私は急いでハシゴを上った。どういうつもりなのだ。私は、閉じた蓋を懸命に叩く。叩く。
「おい! 何考えてるんだよ? 開けろよ! おいってば!」
私は上にいる友人達に向って、必死に声を投げた。投げ続けた。だが、声は届かない。マンホールの蓋は想像より遙かに重く、子供の力ではビクともしなかった。私は、あまりの恐怖に嗚咽した。
どうして?
どうして、彼らはこんな悪戯をするのだ?
友人達は、私を苛めて楽しんでいたのだ。マンホールに閉じ込められ、泣きじゃくっている光景を蓋の上で想像して笑っているに違いない。
私は、彼らが憎くなった。
憎悪と哀しみが私の心を侵食していく。泣き疲れた私は、再びハシゴの下に戻り、地下水道の脇にある細い道を歩いた。延々と流れる汚水のせせらぎを聴きながら、私は穴の中を彷徨い歩いた。
この道はどこまで続いているのだろうか? 疑問を抱きながら、出口を探した。どれぐらい歩いたのかも分らない。色や光が全くない空間――私は、歩きながら、何度も鼻水を啜った。
仲の良い友達だと思っていたのに――
信頼は、一瞬にして消えるもの。あの時、私はそう悟ったのだ。
マンホールの中で過ごしていると、時の経過を忘れる。それこそ、一時間が一日のようにも感じるし、一日が一年のようにも感じられる。
光があるから人は時を意識することが出来る。
光の無い世界など、あって無いようなものだ。
私が助け出されたのは、穴の中に入って一五時間後の事だった。偶々、マンホールの工事現場まで辿りつく事が出来た私はそこに居合わした一人の作業員の男に助けられた。男は少年であった私を発見するや否や訝るような目付を浮かべていた。私はその時の男の眼を生涯、忘れられないのかもしれない。
あの時、もし、男と出会っていなければ、私は死ぬまで、マンホールの中を彷徨っていただろう。臭気と暗黒だけの空間から永久に出れなかったに違いない。
後から知った話だが、あの時、私を閉じ込めた友人達は、急に自分達の行った事に恐怖し、私を穴の中に閉じ込めたまま、公園を去ったらしい。無論、蓋をしたまま。
救出された次の日、私は平然を装い、小学校に通った。彼らは私の姿を見るなり驚愕していた。まるで地獄から舞い戻った不死鳥を見るが如き形相で、私を見続けていた。授業中も、昼休みの間も。
彼らは、裏切り者だ。
私が人を信じれなくなったのは、それが原因だったのかもしれない。私は、それからというもの、上辺だけの付き合いを好むようになった。如何なる人も、私は決して信じない。
信じれば裏切られる。これこそ、世の理なのだ。
私は一人でいることを好むようになった。小学生の頃の私は、友人と関わる事を恐れ、昼休みになると図書館に籠るようになった。その事がきっかけか、私は本を愛するようになった。
次第に私は、本を読むというより、書く側に憧れを抱くようになる。それは運命だったのかもしれない。だが、私は未だに彼らを赦すことはできないでいる。恐らくこれかもずっと――
だから、私の周りには冒頭で述べた様な、変わり者の友人達が集う様になったのかもしれない。
私は幼い頃の記憶を再び頭の奥底に仕舞った。水の滴る音が、私を現実に引き戻す。ここはマンホールの中ではない。
第二層目の、洞窟は非常に短い距離で、約、数メートルほど進んだ先は、行き止まりだった。というよりかは、その先に一般人が入れることはないようだ。第二層から向こうは黒鉄製のゲートで仕切られていて関係者以外は入れない。
固く施錠された網状の扉には何やら看板が備え付けられている。
――キケン。関係者以外立ち入り禁止――
ゲートの網の隙間から中を覗き込んだ。大人一人が潜れそうな穴が一つ開いている。その先に何があるのか、気になったが、ふと扉に手を当てても、それは全く動かない。この先の全貌は未だ明らかになってはいない。だから、安易に観光客を入れる訳にもいかないのだろう。
ここに来る前、私はそれなりに蒼湖風穴について調べた。この先には更に神秘の世界が広がっているらしい。地底河川。透けるような蒼い湖。関係者しか見ることが許されぬ空間――
未開の地と言われる所以である。
私は仕方なく踵を返し、来た道を戻った。
ぞっとするような水音と、暗闇、照明が映し出す人の顔。ホラー小説としての題材には申し分ないが、何か物足りない。あのゲートの先が気がかりであった。
なんとかして中に入れぬものか。しかし、いくら取材と言っても、私は所詮、一般人には変わりないのだから、無理なのだろう。
風穴の入口――小さな穴から這いずり出た私は、早々とノートを取り出し、乱雑に文字を書き綴った。