山への道
◇
台所から漂ってくるのは、いつもの夕食とは違う匂いだった。母がいつもより力を入れて作った、莉子の好きな肉じゃがの匂い。醤油と出汁と、少し焦げた玉ねぎの匂いが混じり合って、居間まで届いていた。
莉子はその匂いだけで、母が何を考えているかわかった気がした。ごちそうを作るのは、いつも何かの「区切り」のときだ。誕生日、運動会の前の日、そして——明日、一人で祖母の家に行く日の前夜。
「莉子、ご飯できたよ」
母の声は、いつもより少しだけ高い。莉子はその微妙な違いを聞き逃さなかった。心配しているときの母の声は、語尾がほんの少し上がる。それは莉子が物心ついたときから——というより、目が見えなくなってからずっと、頼りにしてきた「聞き分け方」だった。
「うん」
短く答えて、莉子は壁に手を触れながら台所へ向かった。廊下の板張りの床は、素足の裏で微妙に温度が違う。夏の夕方、西日が当たっていた場所はまだ少し暖かく、日陰だった場所はひんやりしている。この家の中の「地図」は、莉子の足の裏と指先にすっかり刻み込まれていた。
食卓につくと、父の箸が皿に当たる音が、いつもより慎重に聞こえた。
「本当に、一人で大丈夫なのか」
父の声だった。もう何度目かわからない問いだった。
「大丈夫。何度も練習したもん」
莉子は肉じゃがを口に運びながら答えた。じゃがいもはほろほろと崩れて、甘辛い味が舌の上に広がる。祖母の家で食べる肉じゃがとは、少し味が違う。祖母のはもっと甘くて、生姜の匂いが強い。莉子はふと、その違いを思い出して、少しだけ口元が緩んだ。
「駅員さんに聞けばいいって言っても、乗り換えは二回あるのよ。バスだって、本数が少ないんだから、一本逃したら——」
「お母さん」
莉子は箸を置いた。この一週間、何度も繰り返された会話だった。でも、今日は最後の夜だ。もう後には引けない。
「私、白杖の訓練で、駅の音の聞き分け方も、階段の探し方も、みんな習った。先生も『莉子さんならもう一人で行ける』って言ってくれた。それに——」
莉子は少し言葉を切った。指先が、テーブルの木目をなぞっていた。ざらついた部分と、つるつるした部分。何百回と触れてきたこのテーブルの手触りさえ、今夜はいつもより鮮明に感じられた。
「おばあちゃんに、会いたいの。一人で行きたいの。誰かに連れて行ってもらうんじゃなくて」
居間が静かになった。冷蔵庫のコンプレッサーが唸る低い音だけが、いつもより大きく聞こえた。
父が小さく息を吐く音がした。それは、諦めというより、何かを納得したときの音だった。
「……わかった」
「本当?」
「その代わり、駅に着いたら必ず電話しろ。バスに乗ったときも。全部だぞ」
母が何か言いかけたが、父が先に続けた。
「莉子はもう、六年生だ。おばあちゃんの家までの道だって、去年一緒に行ったとき、駅の階段の数まで覚えてただろう」
莉子は驚いた。父がそんなことに気づいていたとは思わなかった。たしかに、去年家族で祖母の家に行ったとき、莉子は駅の階段を上りながら、無意識に数を数えていた。十四段。踊り場があって、また九段。その記憶は今も、指先に残るテーブルの木目と同じくらい鮮明だった。
母はしばらく黙っていたが、やがて小さくため息をついた。それは負けを認める音ではなく、覚悟を決める音だった。
「……お弁当、多めに作るからね」
莉子は思わず笑った。母のその言葉が、許可の合図だとわかったから。
◇
夕食のあと、莉子は自分の部屋で荷物の最終確認をした。リュックサックの中身は、指先で一つ一つ確かめる。着替え、タオル、点字の本(祖母の家までの長い時間、退屈しないように)、そして白杖の予備の先端部品。
母が部屋に入ってくる気配がした。ドアが開く前の、わずかな空気の動き。母の匂い——柔軟剤とハンドクリームが混じった、いつもの匂い。
「明日の切符、ここに入れておいたから」
母がリュックの前のポケットに何かを入れる音がした。硬い紙の擦れる音。
「わかった。ありがとう」
「莉子」
母の声が、また少し高くなった。今度は心配というより、何か別の感情だった。
「おばあちゃん、莉子が来るの、すごく楽しみにしてるって。この前電話したとき言ってた」
「うん」
「体調のことは……先生も、心配しなくていいって言ってるから。ただ、年齢が年齢だから、みんな気をつけてるだけ」
莉子はリュックのファスナーを閉じる手を止めた。祖母の入院のことは、両親は「大したことない」と言い続けている。でも莉子は知っていた。電話の向こうの祖母の声が、去年より少しだけ、息継ぎの回数が増えていることに。
「うん、わかってる」
莉子はそれだけ答えた。母もそれ以上は何も言わなかった。ただ、莉子の頭を一度、そっと撫でた。その手のひらの温もりを、莉子はしばらく感じていた。
◇
その夜、莉子はなかなか眠れなかった。網戸の向こうから、遠くの蝉の声が途切れることなく聞こえてくる。昼間の激しい鳴き声とは違う、夜の静かな虫の声に混じった、名残惜しそうな一匹だけの蝉。
明日の朝、莉子は一人で電車に乗る。二回の乗り換え、そしてバス。祖母の家までの道のりを、莉子は頭の中で何度も辿り直した。駅の改札を出て、点字ブロックを右に。階段は十四段、踊り場があって九段。ホームの端まで歩いて、電車を待つ——。
その時、ふと、四歳のころのおぼろげな記憶が蘇った。目が見えていたころの記憶。はっきりとした像ではなく、光と色の断片のようなもの。青い空、というのがどんな色だったか、莉子はもう正確には思い出せない。ただ、「明るかった」という感覚だけが、心のどこかに残っている。
でも今の莉子には、その代わりに別のものがあった。風の匂いで季節を知り、音の反響で部屋の広さを知り、足の裏の感触で道を知る力。それは失ったものの代わりというより、莉子だけが持っている、もう一つの「見る」方法だった。
明日から、その力を使って、一人で山まで行く。
莉子は白杖を、ベッドのすぐ横、いつも手が届く場所に立てかけた。指先でもう一度その硬さと冷たさを確かめてから、莉子は目を閉じた。もっとも、莉子の世界に、目を閉じるという行為に大きな違いはなかったけれど。
窓の外で、蝉の声がふっと止んだ。
◇
目覚まし時計が鳴る前に、莉子は目を覚ました。カーテンの向こうから朝の光の気配が伝わってくる。まだ肌には感じられないほど弱い熱。でも空気の質が違う。夜の湿った重さが薄れて、朝特有の軽さに変わっていた。
台所からトーストの匂いがした。バターの焦げる匂いに混じって、卵を焼く音がじゅうじゅうと響いている。母はいつもより早く起きたらしい。
「おはよう」
声をかけると、母の手が肩に触れた。いつもの朝より少し強い力だった。何かを確かめるような触れ方。莉子はその意味を聞かずに受け止めた。
朝食は静かに進んだ。父も母もあまり話さない。箸の音とコップを置く音だけが、規則正しく続いた。緊張しているのは莉子だけではないらしい。
食後、莉子は玄関で靴を履いた。夏用の白い運動靴。紐の結び方は自分で確かめる。左右の強さを均等に。何度も練習した結び方だった。
「行ってきます」
「気をつけてね。着いたらすぐ電話」
母の声は震えていなかった。それが莉子には少し意外だった。
家を出ると、朝の空気が肌を包んだ。まだ本格的な暑さは来ていない。でも湿度は高い。じっとりとした空気が首筋にまとわりつく。遠くでカラスの声。近くで自転車のブレーキがきしむ音。近所の犬が一度だけ吠えて、すぐに静かになった。
白杖を左右に振りながら、莉子は歩き出した。杖先が舗装のひび割れを拾う。慣れた道だ。何百回も歩いた道。角のポストの位置も、電柱の間隔も、体が覚えている。
駅までは十五分。途中、コンビニの前を通ると冷房の冷たい空気が一瞬だけ流れ出てくる。その隣のパン屋からは焼きたてのクロワッサンの匂い。この道の匂いの順番は、莉子にとって季節を測る目盛りのようなものだった。
駅前に近づくと、音が変わった。人の話し声が増え、車の音が重なり合う。バスのエンジンが低く唸り、発車のベルが遠くで鳴った。莉子は立ち止まり、少しだけ呼吸を整えた。ここからは一人だ。
改札までの点字ブロックを、杖先で確かめながら進む。凹凸のパターンが「直進」から「注意」に変わる場所で、莉子は歩幅を小さくした。前から来る人の足音。すれ違いざまに香水の匂いが一瞬だけ強くなり、すぐに消えた。
「切符拝見します」
駅員の声がした。莉子はリュックのポケットから切符を取り出す。硬い紙の感触。母が入れてくれたときのままの位置にあった。
「お一人ですか。お手伝いしましょうか」
「大丈夫です。ホームの場所はわかります」
莉子はそう答えて、自分の足で改札を抜けた。喉の奥が少し熱くなる。緊張なのか、達成感なのか、自分でもよくわからなかった。
ホームへの階段は十四段。踊り場があって、また九段。去年数えた通りだった。手すりの冷たさが、指先から伝わってくる。莉子は一段ずつ確実に足を運んだ。
ホームに出ると、音の広がり方が変わった。屋根のある部分と、吹き抜けの部分。反響の違いで、莉子はホームの形をおおまかに把握する。アナウンスの声が二方向から響き、少し遅れて重なった。それは音がホーム全体に届いていることを示していた。
電車を待つ間、莉子は白杖を両手で持ち、体の前で軽く支えた。風が線路の方から吹いてくる。金属とオイルの匂い。遠くでレールが軋む音がして、それが徐々に大きくなった。
電車が近づいてくる。空気が前方から押し出されるように動き、髪が揺れた。ブレーキの音、そしてドアの開く音。莉子は音の位置を頼りに一歩前に出て、ドアの縁を杖先で確かめてから車内に乗り込んだ。
車内は思ったより空いていた。エアコンの風が頬に当たる。座席のビニールの匂い。莉子は空いている席を探し、杖で座面の位置を確かめてから腰を下ろした。
リュックを膝の上に抱え、莉子は小さく息を吐いた。
電車が動き出す。窓の外に流れる景色は見えない。でも音と振動が、都会の街並みを次々と通り過ぎていることを教えてくれた。踏切の音、高架を渡る低い響き、駅ごとに変わるホームの反響。
莉子はポケットから携帯電話を取り出した。約束通り、母に電話をかける。
「電車、乗れたよ」
短くそれだけ伝えて、莉子は電話を切った。窓の外では見えないはずの朝の光が、車内の温度をじわりと上げていくのを、莉子は肌で感じていた。
◇
電車に揺られること一時間半。車内アナウンスの声で、莉子は乗り換え駅が近いことを知った。次で降りる。莉子は白杖を握り直し、リュックの肩紐を締め直した。
電車が減速する。ブレーキの音が長く伸びて、やがて止まった。ドアが開く。外からホームの喧騒がどっと流れ込んできた。人の声、キャリーケースの車輪の音、複数のアナウンスが重なり合う音。都会の駅よりも大きい駅らしい。莉子は音の密度でそれを判断した。
ホームに降りると、方向感覚が一瞬揺らいだ。普段の駅より天井が高く、反響が違う。莉子は立ち止まり、杖先で床の点字ブロックを探した。見つからない。
心臓が少し速くなる。莉子は深呼吸をして、周囲の音に集中した。左手側から人の流れが強く感じられる。おそらくそちらに改札か階段がある。莉子は慎重に杖を振りながら歩き出した。
「反対方向の乗り換えは階段を上がって二番線です」
アナウンスが流れた。莉子は耳を疑った。二番線。莉子が乗るはずのローカル線は、確か三番線だったはずだ。母と何度も確認した番号だった。
莉子は立ち止まった。記憶違いだろうか。それとも案内が変わったのだろうか。周囲の足音が右へ左へと交錯する中で、莉子だけが動けずにいた。
そのとき、近くで杖の音とは違う軽い足音が止まった。
「大丈夫? 迷ってる?」
年配の女性の声だった。落ち着いた低い声。香水ではなく、石鹸のような清潔な匂いがした。
「あの、三番線に行きたいんですけど。ローカル線の乗り換えで」
「ああ、今日は工事でホームが変わってるのよ。三番線は使えなくて、ローカル線もしばらく二番線から出てるの」
莉子は肩の力が抜けるのを感じた。記憶違いではなかった。
「案内してあげましょうか。ちょうど同じ方向だから」
「お願いします」
女性は莉子の隣を、少し先を歩くくらいの距離で進んだ。腕を取ったり誘導したりはせず、莉子のペースに合わせてくれているのがわかった。それが莉子には心地よかった。
「階段、上りよ。手すりは右側にあるから」
「ありがとうございます」
階段は十八段だった。踊り場はない。莉子は一段ずつ数えながら上った。額に汗がにじむ。屋内なのに、人の熱気で空気が重かった。
二番線に着くと、女性は少し離れた場所で立ち止まった。
「列車、もうすぐ来るはずよ。私はここで電車を待つから」
「本当にありがとうございました」
「一人で偉いわね。気をつけて」
女性の足音が遠ざかっていった。莉子はホームの端で、一人になった自分を確かめるように、白杖を握り直した。
到着を告げるアナウンスが流れる。声の質が違う。都会の電子的な合成音ではなく、どこか人間味のある肉声のアナウンスだった。それだけで、莉子は自分が少しずつ違う場所に向かっていることを実感した。
ディーゼルカーが入ってくる。さっきの電車とは根本的に違う音だった。モーターの滑らかな唸りではなく、重い金属を震わせるようなエンジンの音。低く、少し不規則に響く。ホームに軽油の匂いが漂ってきた。ドアが開く音も油圧式ではなく、手動に近い軋みだった。
莉子は杖先でドアの縁を確かめてから乗り込んだ。車内は空いていて、独特の匂いがした。古い座席の布と、軽油とオイルの混じった匂い。都会の電車とは明らかに違う匂いだった。床からはエンジンの振動がかすかに伝わってくる。停車中でも完全には止まらない、小さな揺れ。
窓側の席を選び、莉子は腰を下ろした。リュックを抱え直しながら、莉子は先ほどの女性の声を思い出していた。「一人で偉いわね」。その言葉が、じんわりと胸の中に残っていた。
ディーゼルカーが動き出す。発車の瞬間、床の振動が一段階強くなり、エンジンが唸りを上げた。電車のような滑らかな加速ではない。一つ一つ力を込めて進むような揺れ方だった。線路の継ぎ目を拾う音の間隔が、さっきより短くなっている。ロングレールではなく、古い規格の短いレールが使われているらしい。ガタン、ガタンという音が、都会よりずっと頻繁に足元から響いてくる。莉子はその変化だけで、自分が都会を離れ始めていることを感じ取った。
◇
列車は淡々と揺れながら進んだ。莉子は窓に頭をもたせかけ、ガラスの冷たさを頬で感じていた。外の景色は見えない。でも莉子には、莉子だけの「車窓」があった。
最初の変化は音だった。都会を出てしばらくすると、踏切の音の間隔が広くなった。次に、建物の反響が減った。窓ガラスに反射して返ってくる列車の走行音が、以前より弱くなっている。建物が減り、開けた場所が増えている証拠だった。
匂いも少しずつ変わっていった。排気ガスと熱したアスファルトの匂いが薄れ、代わりに湿った土の匂いが混じり始める。まだかすかだったが、確かにあった。莉子は鼻を窓の隙間に近づけた。
「次は……」
車内アナウンスが駅名を告げる。莉子の知らない駅だった。ドアが開き、蝉の声がどっと車内に流れ込んできた。都会よりも音が大きい。一匹一匹の声がはっきりと聞き分けられるほどだった。
乗客が数人降りていく足音。新しく乗ってくる人はいない。ドアが閉まり、また列車が動き出す。車内の静けさが増した。
莉子は膝の上のリュックを撫でながら、ふと四歳のころの記憶を辿った。目が見えていたころ。祖母の家に行く途中で、車窓から見た景色があったはずだ。でもその記憶は、色も形もほとんど残っていない。ただ「緑がたくさんあった」という漠然とした印象だけが、心の奥に沈んでいる。
その代わりに今、莉子の中にあるのは別の地図だった。音の反響で建物の密度を知り、匂いで土地の質を知り、風の強さで開けた場所かどうかを知る。それは目で見る景色とは違う。でも確かに、莉子だけの景色だった。
窓の外から吹き込む風が、少しずつ変わってきた。都会の風には熱とほこりの匂いがあったが、今は違う。草の匂い。それも一種類ではなく、いくつもの植物の匂いが混じり合っている。莉子はその中に、微かに水の匂いも感じ取った。川か用水路が近いのかもしれない。
祖母の家のことを考えると、莉子の胸の奥が少しだけ重くなった。母は「大丈夫」と繰り返していたが、莉子は電話越しの祖母の声を思い出していた。去年よりも、息継ぎの回数が増えていた。言葉と言葉の間に、小さな間ができていた。
でも今日、莉子は自分の足で祖母のもとへ向かっている。それだけは確かなことだった。
列車が緩やかにカーブを曲がる。遠心力で体が少し傾く。莉子は座席の手すりを握って体を支えた。カーブの先で、線路の音の反響がまた変わった。今度は片側からだけ強く返ってくる。山が近いのかもしれない。
「暑いですね」
隣の座席から声がした。年配の男性の声だった。うちわを扇ぐ音が、規則正しく続いている。
「はい」
莉子は短く答えた。それ以上の会話は続かなかったが、うちわの音と蝉の声が、車内に心地よいリズムを作っていた。
列車はさらに速度を落とした。次の駅が近いらしい。莉子は肩の力を抜き、これから始まる乗り換えのことを頭の中で確認した。終点でバスに乗り換える。バスの本数は少ない。乗り遅れるわけにはいかない。
窓の外の風が、ひときわ強く草の匂いを運んできた。莉子は小さく息を吸い込んだ。都会からずいぶん離れた場所にいる。その実感が、指先からゆっくりと全身に広がっていった。
◇
列車は終点で止まった。ドアが開くと同時に、蝉の声と熱気が一気に押し寄せてきた。都会よりも明らかに気温が高い。太陽の熱がアスファルトから直接伝わってくるような、重い暑さだった。
莉子は白杖を握り直し、ホームに降りた。乗客はまばらだった。足音の数を数えると、十人もいないようだった。改札は小さく、駅員の声も一人分しか聞こえない。
「バス乗り場はどちらでしょうか」
「駅を出て左です。ロータリーの端に停まってますよ」
莉子は礼を言って改札を抜けた。駅舎を出た瞬間、都会とはまったく違う音の世界が広がった。車の走行音がほとんどない。代わりに、蝉の声が四方八方から重なり合って響いている。遠くで鳥の鳴き声。近くで風鈴の音。誰かの家の軒先から聞こえてくるのかもしれない。
杖先でロータリーの縁石を確かめながら、莉子は左へ進んだ。アイドリングの低い音が聞こえてくる。ディーゼルエンジンの音だった。バスに違いない。
「これは……」
莉子は近づきながら、掲示板らしきものを探した。時刻表は点字表示がない。莉子は少し焦った。
「お嬢ちゃん、どこ行くの」
しゃがれた声がした。バスの運転手らしい。ドアの開く音がして、声がすぐ近くから聞こえた。
「山あいの集落まで行きたいんです。祖母の家がある方向で」
「ああ、それなら乗って大丈夫。次の発車で合ってるよ」
莉子はほっとして、ステップに手をかけた。手すりは熱を持っていた。太陽に炙られていたのだろう。段差は思ったより高い。莉子は杖先で確かめながら、一段ずつ慎重に上った。
「一人かい」
「はい」
「へえ、偉いなあ。この路線、そんなに人も乗らないから、静かでいいよ」
運転手の声には、からかいではなく素朴な感心がにじんでいた。莉子は料金箱の場所を尋ね、切符と小銭を確かめてから投入した。金属の落ちる音が箱の中で反響した。
車内は空いていた。座席のビニールが太陽で温まっていて、座ると背中にじんわりと熱が伝わった。窓は開いているらしく、外の空気がそのまま流れ込んでくる。草の匂いが濃くなっていた。
発車のブザーが鳴り、バスが動き出した。都会のバスとは加速の質が違う。もっとゆっくりと、力強く進む感じだった。エンジン音が坂道に向かって少しずつ変わっていくのが、莉子にはわかった。
しばらく走ると、道が上り始めた。エンジンの回転数が上がり、音が高くなる。体が座席の背もたれに押しつけられる感覚。カーブも増えてきた。左右に体が振られるたびに、莉子は手すりを握り直した。
窓の外から入ってくる空気が、明らかに涼しくなっていた。標高が上がっているのだろう。土と木々の匂いが強くなり、都会の匂いはもうほとんど感じられなくなっていた。
バスは何度か停留所に止まった。乗り降りする客はほとんどいない。ドアが開くたびに、外の蝉の声と、時折混じる鳥の声が車内に流れ込んだ。莉子はその一つ一つを数えるように聞いていた。
「次で降りるのかい」
運転手が声をかけてきた。停留所の名前を確認して、莉子はうなずいた。
「あと三つ先です」
「わかった、着いたら教えるよ」
莉子は小さく息を吐いた。窓の外の風が、今までで一番冷たく感じられた。山の匂いが、はっきりと車内を満たしていた。祖母の家まで、あと少しだった。
◇
「次だよ、お嬢ちゃん」
運転手の声で、莉子はリュックを抱え直した。ブザーを鳴らし、バスが緩やかに減速する。ブレーキの音が、都会よりも柔らかく聞こえた。
ドアが開いた瞬間、莉子は息をのんだ。押し寄せてくる空気の密度が、これまでとまるで違っていた。
まず、蝉の声。何種類もの鳴き声が幾重にも重なり合い、まるで空気そのものが振動しているようだった。ミンミンゼミの甲高い声、その下に低く響くアブラゼミ、そして遠くで途切れ途切れに鳴くヒグラシ。莉子は思わず立ち止まり、その音の層に耳を澄ませた。
「ありがとうございました」
莉子はステップを一段ずつ降りた。足の裏に伝わったのは、アスファルトではなく、砂利の感触だった。ざらざらとした粒の一つ一つが、靴底を通してはっきりと感じられる。
バスのドアが閉まり、エンジン音が遠ざかっていく。その音が完全に消えると、莉子の周りには別の音の世界が残った。
風が吹くたびに、木々の葉が擦れ合う音がした。都会の街路樹とは違う、もっと重層的な音。何百枚もの葉が同時に揺れているような、さざ波に似た響きだった。その向こうから、川の流れる音がかすかに届いてくる。近いのか遠いのか、莉子にはまだ判断がつかなかった。
匂いも圧倒的だった。土の匂い、草いきれ、木の樹脂のような匂い。それらが混じり合い、都会では嗅いだことのない濃密な匂いの層を作っていた。莉子は深く息を吸い込んだ。喉の奥まで、緑の匂いで満たされるようだった。
白杖を前に出し、莉子は歩き始めた。地面の感触が刻々と変わる。砂利道から、少し硬く締まった土の道へ。轍のような窪みが左右にあり、真ん中は比較的平らだった。
どこかで犬が吠えた。都会の犬とは違う、太くて低い声。すぐに誰かが「うるさいぞ」とたしなめる声がして、犬は静かになった。
「あら、どちらのお嬢さん」
年配の女性の声だった。畑仕事をしていたのか、土と汗の匂いがした。
「祖母の家に行くところです。田村の家なんですけど」
「ああ、ふさ江さんの。お孫さんね。えらいわねえ、一人で」
莉子は照れくさくなって、小さく頭を下げた。声だけで表情まで見えるわけではないが、その声の温かさは十分に伝わってきた。
「この道をまっすぐ行って、二つ目の角を右よ。大きな柿の木があるから、それが目印」
「ありがとうございます」
莉子は礼を言って歩き出した。太陽の熱が、頭上から容赦なく降り注いでくる。でも都会の熱気とは質が違った。じっとりとまとわりつくのではなく、乾いた熱さが肌の表面だけを焼くような感覚だった。
道の両側から、稲の匂いが漂ってきた。まだ青い匂い。実る前の、青々とした植物の匂い。風が吹くたびに、さわさわと稲が揺れる音がした。
しばらく歩くと、頭上の日差しが遮られた。木陰に入ったのだとわかった。気温が数度下がったように感じられる。木々のざわめきが、すぐ頭上から聞こえてきた。
莉子は角を数えながら歩いた。一つ目。まだ祖母の家ではない。杖先が何かに触れた。地面から突き出た木の根らしい。莉子は慎重にまたいだ。
二つ目の角に近づくと、甘い香りが強くなった。柿の花ではないだろう。おそらく葉の匂いだ。莉子は右に曲がった。
その先に、聞き覚えのある音があった。風鈴の音。祖母の家の軒先に下がっている、あの音だった。
莉子の足取りが、自然と速くなった。
◇
風鈴の音を頼りに、莉子は敷地の入り口だと思われる場所で足を止めた。門柱らしきものに手を触れる。木の感触。祖母の家の門柱も木製だったはずだ。
「ただいま」
声をかけたが、返事はなかった。犬の鳴き声もしない。祖母の家には確か、小さな柴犬がいたはずだった。莉子は少し違和感を覚えながらも、敷地の中に足を踏み入れた。
砂利を踏む音。玄関らしき場所に近づくと、莉子は引き戸に手をかけた。冷たい金属の取っ手。これも見覚えのある感触だと思った。でも、何かが違う。
引き戸を引くと、家の中から漂ってきた匂いに、莉子は戸惑った。線香の匂い。祖母の家にも仏壇はあるが、この匂いの強さは違う気がした。それに、祖母がいつも焚いている香とは種類が違う。
「あの、すみません」
奥から足音がした。知らない女性の声が返ってきた。
「はい、どちらさま」
莉子の心臓が、どくんと跳ねた。違う家だ。
「すみません、間違えました。田村の家を探していて」
「ああ、田村さんなら、この道をもう少し先よ。うちは西村だから」
女性の声には笑いが混じっていたが、莉子は顔が熱くなるのを感じた。柿の木の匂いと勘違いしたのか、それとも角を一つ数え間違えたのか。とにかく、確認が足りなかった。
「教えていただいて、ありがとうございます」
莉子は頭を下げて、敷地を出た。太陽はさらに高く昇り、蝉の声も一段と激しくなっている。莉子は少し焦りを感じながら、白杖を握り直した。
道を戻りながら、莉子は自分の失敗を振り返った。急ぎすぎた。風鈴の音だけを頼りにして、他の手がかりを確かめなかった。田舎では、風鈴の音がする家など、いくらでもあるかもしれないのに。
莉子は歩調を落とし、杖先の感触に集中し直した。道の窪みの位置。左右の傾斜。先ほど数えた角の記憶を、もう一度たどり直す。
しばらく歩くと、また分かれ道に出た。莉子は立ち止まり、周囲の音に耳を澄ませた。左手の方から、かすかに水を撒く音が聞こえる。ホースから出る水が地面に当たる、規則的な音だった。
「もしかして、迷ってる子かい」
しゃがれた男性の声だった。年配の男性らしい。麦わら帽子をかぶっているのか、声のこもり方でそう感じられた。
「田村の家を探しています。祖母の家なんですけど」
「田村さんとこの孫か。ああ、それなら聞いてるよ。この先の角をもう一つ先、それから左だ。今度こそ迷わないように、案内してやろう」
男性は莉子の少し前を、ゆっくりとした足取りで歩き出した。杖の音とサンダルの音が、リズムよく続いた。
「ふさ江さんとこは、この辺じゃ有名でな。孫娘が一人で電車とバスを乗り継いで来るって、ずいぶん前から話題になってたよ」
莉子は驚いた。自分のことが、こんな山の中まで知られているとは思わなかった。
「恥ずかしいです」
「なんの、大したもんだ。おれが子供の頃なんて、隣町に行くのも一苦労だったのに」
男性の笑い声が、乾いた風に混じって響いた。角を曲がると、また風鈴の音が聞こえてきた。今度は、確かに聞き覚えのある高さと間隔だった。
「ここだよ。ほら、犬の声もするだろう」
耳を澄ますと、確かに小さな鳴き声が聞こえた。祖母の家の柴犬、コロの声だった。莉子の胸に、安堵と喜びが同時に広がった。
◇
「ありがとうございました」
莉子は男性に頭を下げ、門の前で一人になった。コロの鳴き声が、しっぽを振る音とともに近づいてくる。莉子はしゃがみこみ、コロの頭を撫でた。温かい体温と、少し埃っぽい毛の匂い。一年ぶりの再会だった。
「コロ、ただいま」
引き戸の音がした。家の中から、聞き覚えのある足音がゆっくりと近づいてくる。畳の上を歩く独特の摩擦音。歳月を重ねた歩き方だった。
「莉子かい」
祖母の声だった。以前より少し掠れているが、確かに祖母の声だった。莉子は胸がいっぱいになり、言葉が出なかった。
「おばあちゃん」
やっとそれだけ言えた。祖母の手が、莉子の両肩に触れた。骨ばった、でも温かい手だった。
「よく来たね。一人で、本当によく来たね」
祖母の声が震えていた。莉子は祖母の手を握り返した。以前より少し細くなっている気がした。でもその温もりは、記憶の中の祖母と何も変わらなかった。
「疲れただろう。さあ、中にお入り」
玄関に入ると、莉子の知っている匂いが一気に押し寄せてきた。畳の匂い、線香の匂い、味噌の匂い。それらが混じり合って、「祖母の家」という一つの記憶を作り上げていた。都会の家とはまったく違う、時間をかけて染み込んだような匂いだった。
「おじいちゃんは?」
「畑に出てるよ。もうすぐ戻ってくる」
莉子は靴を脱ぎ、上がり框に手をついて家に上がった。床板の感触も、記憶の通りだった。少し軋む場所、滑らかな場所。何年も前から変わらない、この家の「地図」だった。
居間に通されると、扇風機の回る音が聞こえた。祖母が座布団を勧めてくれる。莉子は腰を下ろし、ようやく肩の力を抜いた。
「電車もバスも、ちゃんと一人で乗れたのかい」
「うん。ちょっと迷ったこともあったけど、大丈夫だった」
莉子はさっきの失敗を思い出し、少し照れくさくなった。でも隠さずに話した。風鈴の音を勘違いして違う家に入ってしまったこと。親切な男性に案内してもらったこと。祖母は静かに聞いていたが、時折小さく笑う声がした。
「莉子は強くなったね」
祖母の言葉に、莉子は少し驚いた。
「そんなことないよ。ただ、練習しただけ」
「練習だけじゃ、こうはならないよ。莉子が自分で決めて、自分で歩いてきたから、強くなったんだよ」
その言葉が、莉子の胸の奥にゆっくりと染み込んでいった。
そのとき、玄関の方から足音がした。少し重く、ゆっくりとした足取り。杖をついているような音も混じっている。
「莉子、来たか」
祖父の声だった。以前より少し息が浅い気がしたが、声自体は元気だった。
「おじいちゃん、ただいま」
「よく来たな。一人で来るなんて、大したもんだ」
祖父が居間に入ってくる気配がした。畳が軋む音、そして莉子の隣に腰を下ろす気配。
「疲れたろう。今、麦茶淹れるからな」
祖母が台所へ向かう足音が聞こえた。氷がグラスに入る音、麦茶の注がれる音。それらの一つ一つが、莉子にとって夏休みの始まりを告げる合図だった。
窓の外から、蝉の声がひときわ大きく響いてきた。莉子はその音に包まれながら、ようやく本当に「着いた」のだと実感した。
◇
滞在は二週間続いた。莉子は毎朝、祖母と一緒に縁側で朝食をとった。味噌汁の湯気が顔にかかる感触。庭から漂う朝露の匂い。都会では感じたことのない、静かな一日の始まり方だった。
祖父は毎日畑に出た。莉子も何度か一緒についていった。土を踏む感触は、村に来た日に感じたものと同じだったが、繰り返すうちに、畝の形や畑の広さまで、足の裏で覚えられるようになっていた。
「莉子は筋がいいな。もう俺より、この畑のこと知ってるんじゃないか」
祖父は笑いながらそう言った。莉子はその言葉が嬉しくて、何度も心の中で繰り返した。
夜になると、祖母の隣で莉子は縁側に座り、虫の声を聞いた。都会では聞こえない、幾種類もの虫の声が層になって響いていた。祖母はそのひとつひとつの名前を教えてくれた。コオロギ、スズムシ、クツワムシ。莉子は目を閉じて、その音を一つずつ記憶に刻んでいった。
祖母の体調について、莉子は直接尋ねなかった。でも一緒に過ごすうちに、祖母の息継ぎのリズムや、立ち上がるときの動作の速さを、莉子は自然と観察するようになっていた。去年より、確かにゆっくりになっている。でも今は、それを不安としてではなく、大切に見守るべきものとして受け止められるようになっていた。
出発の前日、祖母は莉子を呼んで、小さな包みを手渡した。
「これ、持って帰りなさい」
触れてみると、小さな鈴のようなものだった。
「おばあちゃんが子供の頃から持ってた、お守り。音のするものなら、莉子にもわかるだろうと思って」
莉子は鈴を握りしめた。小さく澄んだ音がした。
「大事にする」
「また来年も、おいで」
祖母の声には、確信のようなものが滲んでいた。莉子はその言葉を信じることにした。
◇
帰りの日、莉子は同じ道を逆にたどった。バス、そして列車、そして電車。行きに感じた不安や緊張は、もうほとんど残っていなかった。代わりにあったのは、確かな手応えだった。
杖先で道を確かめるたび、莉子は自分がこの旅で得たものの大きさを感じていた。音を聞き分ける力、匂いから季節や場所を読み取る力、そして何より、一人で決めて一人で歩くという経験そのもの。
電車が都会に近づくにつれ、音の密度が再び増していった。踏切の音、建物の反響、雑踏のざわめき。莉子はその変化を、行きとは違う耳で聞いていた。
家に着くと、母が玄関で待っていた。
「お帰り」
母の声は、出発の朝よりずっと落ち着いていた。莉子はリュックを下ろしながら、ポケットの中の鈴に指先で触れた。小さな音が鳴った。
「ただいま」
窓の外では、まだ夏の蝉が鳴き続けていた。でもその声は、莉子にはもう、行きに聞いたものとは違う響きに聞こえていた。
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