サシャとニーロウの出会い
城の図書室は静かだった。
高い天井まで届く本棚。
古い本の匂い。
窓から差し込む柔らかな光。
ページをめくる音さえ聞こえないほど、
静かな場所だった。
サシャは本棚の前に立っていた。
両手を胸の前でぎゅっと握りしめている。
指先が冷たい。
怖い。
胸の奥で、ずっと同じ言葉が繰り返されていた。
城に呼ばれてから、ずっとだ。
姫たちの招集。
騎士の選定。
何かが始まる。
そんな予感だけがあった。
サシャは十五歳だった。
他の姫より少し若い。
そして誰よりも臆病だった。
「……お兄さまなら」
ぽつりと呟く。
兄は騎士だった。
優しくて、強くて、いつも笑っていた。
けれど三年前。
戦で死んだ。
遺体は帰ってこなかった。
それからサシャは、剣も、戦も、騎士も。
全部怖くなった。
サシャは棚から一冊の本を取り出す。
古い騎士物語の本だった。
兄が昔、読んでくれたことがある。
サシャはその表紙を見つめた。
その時だった。
「姫様」
背後から声がした。
サシャはびくっと肩を震わせる。
振り返った。
そこに立っていたのは、一人の男だった。
赤い髪。
長く後ろで束ねたポニーテール。
細い目。
どこか狐のような顔立ち。
だが、その口元には柔らかな笑みが浮かんでいた。
「驚かせてしまいましたか」
男は軽く頭を下げる。
「申し訳ありません」
声は落ち着いていた。
まるで人を安心させるような声だった。
「……い、いえ」
サシャは慌てて首を振る。
「あなたは……?」
「ニーロウと申します」
男は丁寧に礼をした。
「姫様の騎士候補の一人です」
サシャは小さく息をつく。
騎士候補。
そうだった。
他の姫たちは、もう騎士を決めている。
残っているのは――サシャだけ。
唯一騎士のいないサシャは、
今日中に騎士を決めなければならなかった。
「……あの」
サシャは恐る恐る聞いた。
「騎士の方、ですか」
「ええ」
ニーロウは穏やかに答える。
「もっとも、立派な騎士ではありませんが」
彼は図書室をゆっくり見回した。
並ぶ本棚。
差し込む光。
そしてサシャの手の中の本を見た。
「騎士の物語ですか」
サシャは少し驚く。
「……はい」
「兄が、昔読んでくれて」
言いかけて、口を閉じた。
ニーロウは静かに言った。
「私の父も騎士でした」
「三年前の戦で死にました」
サシャは息を呑んだ。
「……私の兄も」
思わず言葉がこぼれる。
ニーロウはサシャを見る。
その目は、驚くほど優しかった。
「そうでしたか」
それだけ言った。
それ以上聞かなかった。
その優しさに、サシャは少しだけ安心した。
沈黙が落ちる。
図書室の静けさが戻る。
やがてニーロウが言った。
「姫様」
「はい」
「怖いですか」
サシャは固まった。
どうしてわかったのだろう。
ニーロウは微笑んでいる。
「顔に出ております」
サシャは俯いた。
「……すみません」
ニーロウは首を振る。
「謝る必要はありません」
「怖いものは怖い」
「それは、とても自然なことです」
その声は穏やかだった。
「……でも」
サシャは言う。
「姫は、強くないといけません」
ニーロウは少し考えた。
そして言った。
「いいえ」
サシャは顔を上げる。
「強くなくてもよろしい」
「え……?」
ニーロウは静かに続けた。
「怖いなら、怖いままで」
「泣きたいなら、泣いてもいい」
少し間を置く。
「姫様は」
小さく笑った。
「元気に笑ってくださっていれば、それでいい」
サシャの胸が少し軽くなる。
そんな言葉を言われたのは初めてだった。
姫は強くなければならない。
姫は泣いてはいけない。
姫は弱くてはいけない。
ずっとそう言われてきた。
でもこの人は違う。
サシャは小さく笑った。
「……変な騎士さん」
「よく言われます」
ニーロウはあっさり答えた。
「騎士は勇敢であるべきだ、と」
そして少し肩をすくめる。
「ですが私は」
「死ぬのが怖い人間です」
サシャは驚いた。
ニーロウは静かに笑った。
「だからこそ、無理はしません」
「姫様も、無理をなさらなくていい」
それから、深く頭を下げた。
「もしお選びいただけるなら」
「私は」
少しだけ間を置く。
「ずっとお側にいます」
その言葉は静かで、誠実に聞こえた。
「姫様が怖い時も」
「迷う時も」
「私は、隣に立っています」
サシャはしばらくニーロウを見ていた。
それから、小さく頷いた。
「……あなたにします」
ニーロウの目が細くなる。
「騎士に?」
「はい」
サシャは頷く。
「あなたなら」
少し恥ずかしそうに言った。
「怖い時、隣にいてくれそうだから」
ニーロウは深く頭を下げた。
「光栄です」
「サシャ様」
その声は、とても誠実に聞こえた。
サシャは安心したように微笑んだ。
その笑顔を見ながら。
ニーロウは、ほんの一瞬だけ。
図書室の入口へ視線を向けた。




