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第一話:算盤(そろばん)と没落

 死ぬ間際、僕の視界に映ったのは、新一万円札の顔だった。


 日本資本主義の父、渋沢栄一翁。

 その肖像を眺めながら、僕、永一えいいちは二十八年の短い人生を終えた。


 メガバンクの敏腕アナリスト。

 数字の海に溺れ、過労で倒れるその瞬間まで、僕は自問自答していた。


(……数字を積み上げるだけで、僕は誰かを幸せにできたのかな)


 次に目が覚めたとき、僕は赤ん坊になっていた。

 異世界の貴族、アウスブルグ家の長男、エイイチとして。


 ――そこから、十五年。


 僕の「二度目の人生」は、絵に描いたような波乱万丈だった。


「エイイチ様! 腰が高い! それでは暴漢に足を払われますよ!」


 鋭い声とともに、木剣が僕の鼻先をかすめる。


「……わかってるよ、リン。でも、僕は経済で世界を救うのが目標なんだ。この筋肉痛、本当に必要かな?」


 僕の前で木剣を構えるのは、教育係のリンだ。

 彼女は僕より五歳上で、代々アウスブルグ家に仕える騎士の家系。

 ポニーテールを揺らし、凛とした瞳で僕を射抜く、頼れる姉貴分だ。


「もちろんです。交渉の場は常に戦場。自分の身も守れない男に、誰が金を預けますか?」


「一理あるけど……スパルタすぎるよ」


 僕は苦笑しながらも、リンから教わった「身のこなし」を体に叩き込んでいく。

 この世界は、物理的な強さが交渉のカードになることも多いからだ。

 彼女には、暗殺術に近い隠密行動や、相手の急所を見抜く目、そして「逃げ足」の重要性を徹底的に教え込まれた。


 稽古を終えて屋敷に戻れば、もう一人の理解者が待っている。


「エイイチ様、お疲れ様でした。冷たいハーブティーと、本日分の帳簿です」


 おっとりとした笑顔で迎えてくれるのは、お世話係のサキ。

 彼女は家事全般から、僕の突飛な「金融理論」のサポートまでこなす才女だ。


「ありがとう、サキ。……やっぱり、父様の投資は止まらなかったね」


「はい。残念ながら。旦那様が手を出された『魔石の先物取引』は、案の定バブルが弾けました。あと数ヶ月で、この屋敷も差し押さえです」


 サキが差し出した帳簿を、僕は自作の算盤で弾く。


 父は善良だが、投資の才能は絶望的だった。

 僕は幼少期から「神童」として振る舞い、リンには武術を、サキには実務のサポートを頼んだ。

 サキには前世の「複式簿記」や「原価計算」を教え込み、家の資産を正確に把握させる訓練をさせた。

 すべては、来るべき「没落の日」に備えて牙を研ぐためだ。


「エイイチ様。……本当に、私たち二人を連れて行ってくださるのですか?」


 サキが少し不安そうに尋ねる。


「当たり前だ。僕が目指す『合本主義(株式会社)』には、信頼できる仲間が必要なんだ。リンの武勇と、サキの管理能力。君たちがいないと、僕の理想はただの寝言で終わってしまう」


 十五歳の誕生日。

 ついに屋敷に執行官が訪れ、看板が下ろされた。


 僕の手元に残ったのは、一台の古びた馬車と、わずかな当座資金。

 そして――前世から持ち越した「金融知識」という名のチート能力だけ。


「さて、二人とも。アウスブルグの名前は捨てよう。今日から僕は、ただのエイイチだ。……世界を『正しく』買い叩く旅に出ようか」


 僕たちが最初に辿り着いたのは、聖勤労国家「ハタラキア」だった。

 入国してすぐに、リンが鋭く呟く。


「……エイイチ様、あの男たちの動き、不自然です」


 視線の先では、民衆が「ただの穴」を掘り、それを別の者が埋め戻している。


「あれはこの国の『祈り』だよ。汗を流して苦労すること自体が神聖視されているんだ。効率化は悪、楽をすることは罪。……結果、あんな不毛な労働が強制されている」


 僕は固有スキルをそっと発動した。


貸借対照表バランスシート鑑定】


 視界に、国家の「中身」が数値化されて浮かび上がる。


【対象:ハタラキア聖勤労教団】

【流動資産:極低(民衆の貯蓄ほぼゼロ)】

【固定資産:過大(無意味な巨大石造建築物)】

【実質状況:再建不能な債務超過。上層部による労働力の搾取】


 ひどいものだ。

 民衆は無償で働かされ、その成果はすべて教団幹部――富裕層の贅沢に消えている。


「エイイチ様、あの子……」


 サキが指差したのは、泥にまみれて倒れそうな少女、リナだった。

 十歳ほどの彼女は、重い木箱を抱えて、階段を何往復もさせられている。


「……はぁ、はぁ……。神様、見ててください……私、今日も、頑張って……」


 横では、豪華な服を着た司祭が鞭を鳴らしている。

「歩みを止めるな! その汗の一滴が、お前の罪を清めるのだ!」


 僕は冷やかにその光景を見つめた。


 道徳なき経済は罪だが、経済なき道徳はただの寝言だ。


「リン、サキ。……この国を、一気に切り崩すヒントが見えたよ」


 僕は馬車から、一冊の分厚いノートを取り出した。

 そこには、前世の歴史で労働環境を劇的に変えた、ある魔法の手法が記されている。


「リナ。君に、神様よりも確実に救われる方法を教えてあげよう」


 僕は少女の前に立ち、不敵に微笑んだ。


「僕はエイイチ。旅の鑑定士だ。君たちを奴隷にしているその鎖を、経済の力で断ち切ってあげよう。その代わり――僕の『合本主義』の最初の実験台になってもらうよ」


 これが、世界を揺るがす最初の組織――**【異世界労働組合ユニオン】**設立の、数分前の出来事だった。

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