7 初恋の人
エクスデーロ家の離れは、端的に言って、とても素敵だった。
母屋から西に少し離れた場所、よく管理された美しい庭園の中央に、その建物は位置する。
御影石を基材とした石造りの建物は、三階建てで十分な広さがあった。
外観ばかりでなく、もちろん内部も美しい。
邸の中に入ると、洗練されたデザインの明るい吹き抜けがあり、邸の使用人たちが明るい笑顔で出迎えてくれた。
それぞれの部屋には、美しくシンプルで、それでいてセンスのよい調度品が並び、リズの目を楽しませてくれる。
リズが案内されたのは、女主人の部屋だった。
当主の部屋と、寝室が続き部屋になっている。
さすがにまずいのでは、と辞退したが、セーラに強引に押し切られた。
「リズ様、カリスト様のお子様を妊娠されて離れに招待された、ということは、もうこの邸の女主人と同義なのです。そのような方を客室などにお泊めするわけにはいきません」
「でも、まだここに住むかわからないし……」
「カリスト様はそんな無責任なことをなさる方ではありません!」
主人を立てる控えめなメイドだと思っていたのに、なんだか圧がすごい。
セーラの圧に負けたリズは、女主人の部屋に滞在することにした。
女主人の部屋は、絨毯や壁紙、カーテンなどは女性が好む明るい色調で整えられており、その他の調度品も、女性らしい花や蔦の意匠のものが多い。
書き物机の上に準備された淡い薄紅の便箋とインク壺を見て、リズは、自分の執務室の机を思い浮かべる。
おそらく、今頃大量の決裁書類で埋もれているはずだ。
(ビダル、ごめん)
必然的に領主の代行業務に追われることになる有能な執事を思い浮かべる。
ビダルには、昨日のうちに、二週間エクスデーロ家の離れにとどまるという手紙を送ってある。
彼のことだから、不在の執務もどうにかしてくれるだろう。
ちなみに、連絡の中継は、アルベニス家と懇意にしている仕立て屋夫婦に頼んである。
今のリズは、仕立て屋夫婦のところに、隣の領から遊びに来た姪っ子という設定だ。
(カリストが帰ってくるまでは、二週間ある)
それまでに、リズは答えを出すつもりだ。
けれど、少しでもそのことを考え出すと気がめいってしまう。
リズは、気分転換に、部屋の窓を開けて、大きなバルコニーに出た。
外を見下ろすと、丁寧に手をかけられた中庭が見える。
「ねえ、セーラ。私、中庭を散策したいのだけれど、一人で行ってもいいかしら?」
「もちろんです。ですが、中庭の奥にある林には池があるので、ご注意ください」
「池……」
「ええ、浅い池ですし、特に危険はないのですが、念のためお伝えしました」
「わかった。気を付けるわ」
リズは中庭の奥へと視線を向けると、どくどくいう心臓を気づかれないよう、そっと胸元を抑えるのだった。
中庭に降り立つと、花の匂いがあたり一面に広がっていた。
リズは、風の魔法で、自分の周りに香りがこないようにした。
「はやく、花の匂いが平気になるといいのに」
リズは土や作物に関する研究をしているため、花や植物は常に身近にある。
妊娠中の一時的なものだとわかっているが、花の匂いで気分が悪くなってしまう現状は、普段の生活がしづらいことこの上ない。
色鮮やかな花が咲き誇る庭を若干遠巻きに眺めていると、庭師と思しき老人が、頭を下げて笑いかけてくれた。
「花は、お好きですか?」
「ええ。ただ、今は、花の香りがつらくなってしまって」
「それでは、こちらへどうぞ。林道の散歩コースがあります。香りの強い花はありませんから」
案内してくれる庭師の後について、リズは中庭を抜け出した。
「この奥には、湧き水が溢れる池がありましてね。小さいころからの、カリスト坊ちゃんのお気に入りの場所なんですよ」
「そうなのね」
「カリスト坊ちゃんは小さいころから人懐こくて親切でねえ。今の厳しそうな顔つきの騎士様の姿からは想像もつかないぐらいお優しいお子様だったんですよ」
(……知ってる)
「そうそう、坊ちゃんの十二歳のお誕生日会の時でしたな。坊ちゃんがその池で溺れかけたお嬢さんを助けたことがありましてな。真冬だったので、坊ちゃんは、ひどい風邪をひいて寝込んでしまってねえ。それでも、そのお嬢さんのことばかり心配していていたんですよ」
不意に聞かされたカリストの思い出話に、リズは呼吸を止めた。
こんなふうに、この話を聞くことになるとは思わなかった。
「カリストは……本当に……優しいのね」
「まあ、坊ちゃんがお嬢さんを心配していた理由は、優しさからだけではありませんでしたが」
「どういう意味?」
「そのお嬢さんが、坊ちゃんの初恋だったのです」
今度は、心臓が止まるかと思った。
「あー、いえ! いえいえ‼ もう十五年以上昔のことです。奥様がお気になさることではありません」
リズはよほど驚いた顔をしていたのだろう。
庭師の老人は、慌ててその後も言い訳めいたことを言い始めたが、リズの耳には、ほとんど入らなかった。
ただ、リズの歩みだけがどんどん早くなる。
(どうしよう)
すぐに林道が終わり、開けた場所に出る。
(どうしようどうしよう)
そこには、水と緑の美しい光景が広がっていた。
岩の隙間から溢れ出る、湧き水を湛えた澄んだ水面が、新緑の葉を映して揺らめいていた。
その光景を目にするなり、強烈な既視感が襲ってくる。
──だって、ここはリズが幼い恋をこじらせてしまった場所だから。
リズの初恋が生まれて。
そして、失ってしまった場所だと、ずっと思っていた。
それなのに。
(こんなんじゃ、あきらめきれないじゃない)
ぼろぼろと涙がこぼれてくる。
あとからあとからこぼれる涙は止まらない。
あきらめきれずに、ずっと追いかけていた、初恋の人。
(その人の初恋が自分だったなんて、そんなのもう、がんばるしかないじゃない)
リズは、まだ、何もしていない。
ただもんもんと悩んで、何の努力もせずに逃げだそうとしていただけだ。
(せめて、自分に誇れるぐらいは、がんばってみる)
リズは、カリストのそばにとどまり、好きになってもらえるよう努力することを、心に決めたのだった。
庭師の老人には、悪いことをしてしまった。
涙を流し続けるリズを前に、おろおろしていた老人は、リズを探しに来たセーラにだいぶにらまれていた。
「妊娠されると、女性は不安定になられるものです。ですから、使用人が言葉に気を使うのは当然のことです」
「セーラ。そうじゃないの。私がちょっといろいろ思い出して不安定になってしまっただけなの」
「はい、妊娠されるといろいろ不安定になるものです。これからは、お心安らかに過ごしていただけるよう、より一層気を配りますので、どうぞご安心してお過ごしください」
彼のせいではないと伝えたかったのだが、伝わったのか微妙だ。
たくさん泣いて心を決めたリズは、日が経つにつれ、少しずつ力が湧いて、食欲も出てきた。
おいしい食事を食べて、心を整えてカリストを待つことにした。
リズがカリストの初恋を聞いて、ショックを受けて泣いてしまったという噂が、邸中に広まってしまったに違いない。
初恋の少女とカリストの話をもっと聞きたかったが、残念ながら、以降は誰も話してくれなくなってしまった。
無理に聞き出すわけにはいかないので、あきらめて、代わりにカリストの昔の様子をたくさん聞く。
カリストのエピソードは、やんちゃだったり、優しかったり、かっこよかったり。
そして、時折挟まれる失敗のエピソードは親しみがわく。
聞けば聞くだけ、どんどんカリストが好きになる。
(ほら、やっぱり私はあきらめきれない)
リズは、カリストに向かう自分の気持ちを抑えるのをやめた。
戻ってきたカリストに何を言おうか、どうやって自分を知ってもらおうか、そんな想像を巡らせながら、カリストが邸に戻る日を心待ちにしていた。
けれど、その温かい日々は、一週間後、突如として終わりを告げる。
「私は、ビビアナ=ベラスケス。カリストの幼なじみなの」
──カリストが想いを寄せていたという幼なじみが、リズの元に訪れた。




