1 あなたの子どもが欲しい
その日、リズは、覚悟を決めていた。
「ねえ、あなたの子どもが欲しいの」
「随分と大胆だな」
「あなたがそうさせるのよ。……いけない?」
「いや、大歓迎だ」
男はそう言うと、リズをベッドに押し倒した。
場末の宿屋で交わされるのは、その場にふさわしい、色事にこなれた男女の駆け引きだ。
(そう、見えるわよね?)
リズは、破裂するのではないかという勢いでばくばくいっている心臓の音を聞きながら、自分を押し倒した男の顔を見上げた。
癖の強い金髪の下からのぞくのは、目鼻立ちのはっきりした精悍な顔に、切れ長の鮮やかな青琥珀の瞳だ。
その瞳は、抑えきれない熱を孕んでいる。
それが自分に向けられたものだと思うと、それだけで体が熱くなる。
「美しいな」
熱に浮かされた男は、リズの頬にそっと手を這わせた。
赤毛に翠玉の瞳の魅力的な体つきのリズは、きっと一晩遊ぶにはぴったりの女だと、そう思われているに違いない。
こんな場所で初めての経験をするだなんて、貴族の令嬢としてはあるまじきことだ。
でも、リズは、どうしても、この男の子どもが欲しかった。
欲しくて欲しくて、どうしようもなくて。
この男が、騎士団の遠征でこの街に来て、お忍びで出歩くことまで調べ上げて、偶然を装って近づいた。
たとえ、彼がこの赤毛の先に、違う誰かを見ていたとしても、それでもいいと思って。
(ラルナ騎士団の双翼。カリスト=エクスデーロ)
公爵家の次男という高い地位を持ちながら、騎士団でも副団長を務めている男だ。
容姿も剣の腕前も折り紙付きだ。
でも、リズにとって大事な事は、それだけではない。
それだけではなくて──。
頭の中を、ある思い出がよぎる。
「よそ見をするな。俺だけを見ていろ」
カリストの低い声が、思い出に浸りかけたリズの意識を引き戻す。
次の瞬間には、噛みつくようなキスが降ってきた。
遊び慣れた女を装うために必死に応えたけれど、うまくできたかどうかわからない。
そこからはもう、何も考えられなくなってしまったから。
翌朝、リズはカーテンの隙間から差し込む朝日で目が覚めた。
カリストの腕から這い出て重い体を起こす。
ベッドから下りようとすると、布団の下から伸びてきた手が、リズの手首を捕まえた。
「行くな。まだ寝ていろ。昨日はだいぶ無理をさせたからな」
乱れた金髪の隙間から見える青琥珀は、こんな時だというのに、その鮮やかな輝きを失わない。
カリストは、つかんだリズの手首に口づける。
そんな色気のある仕草を見ると、昨夜のあれこれを思い出してしまい、リズの頬が熱くなった。
(もう、こんなふうにこの人と過ごすことは、きっとない)
そう思うと、少し、大胆な気分になってくる。
(このぐらい、いいよね?)
リズは、カリストにつかまれた腕に引き寄せられるように近づいた。
カリストの頭の脇に両手をついて、カリストの上におおいかぶさる。
肩からこぼれる赤毛が、リズの表情を覆い隠す。
──その陰に隠れて、男の唇にキスをする。
リズの後頭部に伸びかけたカリストの手が、ピタリと動きを止めた。
「何故、泣いている?」
頬に落ちた涙に呆然とするカリストに、顔を上げたリズは、涙で頬を濡らしながらにっこりとほほ笑んだ。
「さよなら」
「おいっ!」
声を荒げて起き上がろうとするカリストの額を、リズは、指先でトン、と突いた。
目を見開くカリストは、一瞬抵抗しようと眉をしかめたが、すぐに、そのままベッドに崩れるように沈み込んだ。
リズは、寝息を立てる彼のくせ毛を愛おしげに指先でなでるとそのまま立ち上がった。
衣服を手早く身に付け、マントのフードで頭を隠すと、宿を出る。
振り返って小さく「ありがとう」と告げると、足早に宿を後にした。
朝日が昇ったばかりの人けのない通りには、簡素な造りの馬車が止まっていた。
リズが馬車の前に立つと、御者が扉を開けて彼女を迎え入れる。
馬車の中は、外見の簡素な造りとは対照的だった。
紫のベルベッドで布張りされた、ふかふかの座面に、金糸の房飾りの美しい厚手のカーテンが陽の光を遮る。
乗り心地のよい豪華なシートに、リズは身を沈める。
目をつぶり、そっとお腹に手を当てる。
確かに宿るその命を感じ取り、心の底から沸き上がる愛情と慈しみに身を任せた。
「私は、これからこの子のために生きるの」
涙があふれそうになるのは、きっとうれしさのせいに違いない。
顔を押えると、指先が唇に触れた。
リズは、唇に指を当てた。
あれが、最後のキスかもしれない。
「それでいいの。だって、目的は果たしたもの」
リズはそう言うと全身を覆う魔法を解いた。
リズの体に、変化が起きる。
赤い巻き毛は、墨を流したかのような黒髪へ。
翠玉の瞳は、血を流したかのような赤瞳へ。
血の通う艶めかしい魅力的な大人の女性から、影のある美貌と優雅な佇まいを備えた気高く美しい貴婦人へと──。
ほどなく馬車が止まり、外から扉が開けられる。
扉の向こうには、奥行きのある庭園と、趣ある石造りの邸宅が現れた。
茶色の髪を束ねて片側に垂らした、片眼鏡の若い執事が恭しく出迎える。
「おかえりなさいませ。伯爵様」
魔法伯爵イリス=アルベニス。
魔女の血を受け継ぐ、女系の魔法伯爵家の、唯一にして正統なる後継者。
建国以来の古き血を守り、貴族の畏敬を一身に受ける、神秘に満ちた存在。
それが、本来のリズ──イリスの姿だ。
彼の瞳に、最後に映った自分は、どんな姿だっただろう。
彼に覚えておいてほしいだなんて、もちろん思っていない。
ただ、あの一夜が、彼にしこりとなって残ってしまうのだけはいやだった。
(一夜遊んだだけのいい女がいた──そんな風に、さらりと記憶の片隅に残っていてくれればいい)
きっともう、あの姿で彼に会うことは、二度と、ないのだから──。




