元婚約者が罵ってくるけど、眼中にありません
エリーの手のひらに聖女の花の痣が浮き出て、十日。
帝都に、「魔法人形」と呼ばれる存在が目覚めたと噂が立った。
魔法人形とは、世界が危機に瀕した時に必ず目覚め、世を救うとされる伝説の聖物だ。
聖女に選ばれた七人の乙女には、その魔法人形を護るという使命が与えられる。
「……本当に、私が」
エリーは不安に押しつぶされそうだったが、意を決した。
というより、意を決せざるを得ないのだ。
聖女の証が浮かび上がったことを知ったうえでの隠匿は、重罪とされている。
すでにエリーの両親は親戚に触れ回ったらしく、もはや後に退くことはできない。
「あなたらしい聖女におなりなさい」
母が優しい笑みを浮かべて言った。
聖女になったからと言って、無理をする必要はない。
人様に迷惑さえかけなければ、それ以外は思うように生きればいいのだと。
楽観的な母は、屈託のない笑みでエリーの背を押した。
(……そんなことできるのかな)
聖女のために建てられたとされるロクナンド神殿に向かう途上。
母の言葉を思い起こしながら、エリーは首を傾げた。
とはいえ、なぜか。
ロクナンド神殿へ足を進めるうち、エリーの不安は少しずつ軽くなっていった。
(聖女になったから……不安が消えていくのかな?)
首を傾げつつ、進んでいく道。
その道の光景は、最近になって呼び起こされた別の世界の記憶にもあった。
(……違う、そうじゃないわ)
別の世界の記憶を辿り、エリーは目を細める。
そう。違うのだ。
今この瞬間。
不安に思っている場合ではないと、記憶の中の何かがエリーの心を叩いている。
その叩く力は必死なもので、力強い意志を宿し、エリーの心に深く浸み込んでいった。
「……おや」
不意に、聞き覚えのある声が鳴った。
目を細めていたエリーは、ハッと顔をあげる。
「エリーじゃないか!」
声の主は、エリーの元婚約者だった。
あの日の呆れ顔は、そこにない。
むしろ親し気に近寄ってくる。
「聞いたよ! 聖女に選ばれたそうじゃないか!」
元婚約者が、聖女の痣のあるエリーの手を取った。
そして舐めるようにして、エリーの右手のひらを見る。
身の毛がよだった。
理不尽に婚約を破棄しておきながら、どうしてこんなことをするのかと。
「……あの」
「これはきっと、ボクが君に与えた試練の結果に違いない」
「……はい?」
「君に苦難の試練を与え、それを乗り越えたことで聖女の痣を受けたんだよ」
「……し、試練?」
「そうとも。ボクが本当に君から離れると思ったのかい? あれは君のための演技さ」
元婚約者が、サラリと嘘を吐きつづける。
よくもまあ、顔色ひとつ変えずにそんなことを言えるものだと、エリーは感心した。
しかしおかげで、胸の内にあった悔しさが跡形もなく消えていく。
父が言った通り、こんな男、こちらから願い下げだ。
「……それはどうもありがとうございます」
エリーは元婚約者を見据える。
自分でも驚くほどに、心に巣食っていた内気な性格が鳴りを潜めた。
「これからはもう、あなたに頼らずに済みそうです」
「……はあ。なにを言っているんだ君は」
「言った通りです」
「愚かな君は知らないのかもしれないが、ボクの侯爵家の力がなければ、君の家は無くなってしまうかもしれないんだよ?」
「そうはなりません」
エリーは首を横に振る。
決して見栄を張り、背伸びをしてのことではない。
もう、侯爵家の後ろ盾など必要ないのだ。
「ご存じないのかもしれませんが、聖女を生んだ家は、帝国から厚く遇されるのです」
「なに……?」
驚いた元婚約者がエリーを睨む。
次いで、エリーの周りにも視線を向けた。
ロクナンド神殿へつづく道には、多くの女性たちがいた。
どの女性も、自分こそが聖女だと宣わっている。
エリーの言う通り、聖女となれたなら、自分と自分の家族が帝国の庇護下に置かれるからだ。
そんなことも知らないのかと、エリーは元婚約者を睨み返してみせた。
「……もういいでしょうか。私は行くところがあるので」
「な……お、おい」
「ごきげんよう」
エリーは小さく礼をして、翻る。
彼女の背に、元婚約者の口汚い声が何度も届いた。
しかしエリーの耳に、彼の声は届かなかった。
そんなことよりも、見て、聞くべきものがエリーの前にある。
(……あの子だ)
エリーの視線の先に、ひとりの少女の姿があった。
漆黒の髪を持つ、みすぼらしい恰好をした乙女だ。
別の世界の記憶にある少女の姿とは少し違うが、間違いない。
やはりこの世界でも、ここで会う機会があったのだ。
みすぼらしい少女は、誰かと言い争った末に、倒れたようだった。
ざんばらの黒い髪が、石畳の道に垂れている。
エリーはすぐさま、別の世界の記憶とは違う行動を取った。
彼女の傍へ駆け寄り、手を差し伸べる。
「……あ、あの……大丈夫ですか……?」
声をかけると、みすぼらしい少女が顔をあげる。
その顔は、長い前髪で半分隠れていた。
しかし髪の隙間から覗く少女の目は、力強い意志を放っていた。
(……本当に、会えた……!)
少女の目を見た瞬間。
エリーは確信した。
呼び起こされた別の世界の記憶は、この少女の手をここで掴むためにあったのだと。
記憶の中の、長い旅の最後にすべてを失った別の世界のエリー。
彼女の底知れない後悔は、すべてをやり直すために、この世界のエリーへ記憶を託したに違いない。
「あ、その……」
心を震わせているエリーを、少女の声がつついた。
エリーはハッとして、土で少し汚れた少女の姿を見る。
「け、怪我は、ありませんか??」
「え、いえ、はい……」
「あ……あ! 手、その手! 血、血が出てます!?」
エリーは少女の右手を見て、狼狽えた。
土と血で汚れた、少女の痛ましい手。
きっと、この少女と言い争った誰かが、この尊い手を傷つけたのだ。
「あの人たちがしたの??」
プツンと、頭の中の何かが切れた気がした。
それは、これまで生きてきてあまり感じたことがない感情。
怒りだ。
とはいえ、怒りに任せて少女を傷つけた誰かを捜している場合ではない。
「とにかく! 早く手当しないと!」
エリーは少女の腕をぎゅっと掴む。
驚く少女の手を引いて、エリーは駆けだした。
運命を変えるための、最初の一歩を踏み出すために。




