第8話「蓮の仮面」
蓮が田主丸に現れてから、一週間が経った。
町の人々は彼の正体を知らないまま、旅人のように自然に受け入れていた。
商店街の八百屋のおばちゃんは「ほら、きゅうり持ってきんしゃい」と笑顔で渡し、子どもたちは「カッパ見にいこう!」と無邪気に誘った。
蓮はそのたびにぎこちなく微笑んだ。だが、その笑顔はどこか硬い。
——事故以来、人前で心から笑ったことなんてない。
颯太には、その影が痛いほど分かった。
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ある日、商工会の集まりで山下が声を上げた。
「そういや如月さん、あんたもカッパになって走ってみらんね? この前の駅伝も盛り上がったけん、次の小さな催しで一緒にどうや?」
突然の提案に場がざわめいた。
蓮は少し戸惑いながらも、すぐには否定しなかった。
「俺が……カッパに?」
「そげん。町の人は顔なんか気にしとらんし、特殊メイクやったらもっと気にならんやろ?」
山下はにかむように笑った。
視線が颯太に集まる。
彼は思わず息を呑んだ。蓮にメイクを施す——それは、逃げ続けてきた過去と真正面から向き合うことを意味していた。
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控室に二人きりになると、空気は重く張り詰めていた。
鏡の前に腰掛ける蓮。その横顔には今も淡い傷跡が残っている。
颯太は震える手で筆を握った。
「……本当に、俺でいいんですか?」
蓮は少し間を置き、静かに答えた。
「他の誰でもない。お前じゃなきゃ意味がない」
胸の奥に熱いものが走る。逃げ道は、もうなかった。
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颯太は呼吸を整え、筆を肌に置いた。
緑の下地を丁寧にのせ、鱗の模様を描いていく。
手が震えそうになるたび、蓮の視線を感じた。だが彼は黙ったまま、受け入れるように目を閉じている。
——あの日も、俺はこうして筆を走らせていた。
汗がにじみ、呼吸が荒くなる。過去の光景が頭をよぎる。だが、震える指先を押さえつけるようにして塗り進めた。
頬に水の揺らぎを思わせる模様を描き、皿を頭に装着する。
最後に仕上げを終えると、颯太は小さく息を吐いた。
「……できました」
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蓮はゆっくりと目を開け、鏡を覗き込む。
そこには、人間とも怪物ともつかぬ、不思議に凛々しいカッパが映っていた。
鱗は光を反射して揺らめき、瞳の周りの模様は柔らかさと力強さを併せ持っている。
蓮はしばらく言葉を失っていた。
やがて、指先で自分の頬をなぞり、かすかに笑った。
「……これなら、俺も人前に出られるかもしれない」
その微笑みは、長い年月の壁を破ったように見えた。
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イベント当日。
川沿いの広場には子どもたちが集まり、カッパ姿の参加者たちが笑い合っていた。
蓮はその中に混じり、静かに立っていた。最初はぎこちなかったが、子どもたちが「カッパ兄ちゃん!」と声をかけると、自然に笑みを返していた。
その姿を見て、颯太の胸が熱くなった。
——ようやく、彼が笑った。
それは自分が失わせてしまった笑顔であり、同時に再び蘇らせることのできた笑顔だった。
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夕暮れ、イベントを終えた後。
蓮は衣装を脱ぎながら、颯太にふと告げた。
「お前の手は……まだ人を救える」
その言葉に、颯太は答えられなかった。
ただ深く頷き、胸の奥で何かがほどけていくのを感じていた。