第1話「カッパの町へ」
松岡颯太は、小さなスーツケースひとつを引きずりながら、田主丸駅に降り立った。夏の終わりを告げる蝉の声と、ぶどう畑の甘い匂いが混じる。東京の喧騒とは正反対の、のどかな空気。彼はその景色を見ながら、ふっと息を吐いた。
「……しばらく、ここで静かに暮らせればいい」
かつて颯太は、特殊メイクの世界で名を知られる若手アーティストだった。映画や舞台の依頼が次々に舞い込み、雑誌に取り上げられることもあった。しかし、一つの事故が彼を変えてしまった。撮影現場での特殊メイクが原因で役者が大怪我を負い、その後のキャリアに大きな影を落としたのだ。自分の才能は、人を笑顔にするどころか、深く傷つけてしまう——。そう思い、颯太は表舞台を去った。
田主丸町を選んだのは偶然だった。旅の途中で耳にした「カッパ伝説」の話が、なぜか心に引っかかったのだ。川辺に住み、悪戯好きだがどこか人間臭いカッパたち。その存在は、颯太にとってどこか救いのようにも思えた。
荷物を置く宿を決めると、颯太は町を歩いた。川沿いにはカッパの石像が点々と立ち、商店街の看板にもカッパのイラストが描かれている。町全体が、ひとつのテーマで統一されているようだった。
「ほんとにカッパの町なんだな……」
半ば呆れ、半ば感心しながら歩いていると、背後から声をかけられた。
「お兄さん、見ない顔やね。観光の人?」
振り向くと、ハッピを着た中年の男性が笑顔で立っていた。地元商工会のメンバーだという。彼は颯太の自己紹介を聞くと、目を輝かせて身を乗り出した。
「特殊メイク!?それはすごい!実はね、町おこしでカッパ祭りをもっと盛り上げたいと思っとるんよ」
話を聞くうちに、商工会が悩んでいることが分かった。年々、祭りの参加者が減り、観光客も少なくなっている。子どもたちですら「カッパなんて古くさい」と言い、盛り上がりに欠けているという。
「そげん時に、都会から特殊メイクの人が来るなんて、これも縁やろ!」
男性は勢いよく颯太の肩を叩いた。
「お兄さんの腕で、本物そっくりのカッパを作ってくれんか?人がびっくりするようなヤツを!」
颯太は思わず黙り込んだ。もう二度と、人を驚かせたり、傷つけたりするようなメイクはしたくなかった。だが、彼の胸の奥に小さな火が灯ったのも確かだった。かつて憧れた「人を笑顔にする特殊メイク」の夢。その記憶が、田主丸の川の流れと重なった。
「……俺にできるかは分かりません。でも、少し考えさせてください」
そう答えると、商工会の男性は満足そうに頷いた。
「よか!考えてくれるだけでも嬉しか。きっと町の人も喜ぶけん」
その夜、颯太は宿の窓から星空を見上げた。川面に映る月明かりが、まるでカッパの皿のように丸く光っている。
「……笑顔、か」
都会で失ったものを、この小さな町で取り戻せるのだろうか。胸に広がる不安と、かすかな希望。その答えを見つけるのは、そう遠くない未来のことだった。