第6話『蛇目の視線』
夜明け前の筑後川支流。川面にうっすらと立ち込める霧が、岸辺の世界を柔らかく包んでいた。久絣柚葉は泥にまみれた訓練服を川で絞りながら、ようやく整った呼吸で空を見上げた。
「──やれるじゃねえか、柚葉」
火渡翔麻が手ぬぐいを肩にかけて、にやりと笑った。訓練の仕上げに行った模擬戦闘で、柚葉は初めて火布を暴走させずに制御し、模擬カッパを仕留めることができたのだ。
「……でも、怖かったです。火布が言うことを聞いてくれなかったら、あたし……」
「そりゃ怖ぇよ。布に喰われるか、敵に喰われるかの世界だ。だけど、怖いままで立ち向かった。それが織士だ」
火渡の声には、焔のような温度があった。理屈じゃない、芯に火を灯す言葉。
柚葉は小さくうなずく。「……ありがとうございます、火渡さん」
翔麻は鼻をこすりながら、ぽつりと呟いた。
「けどな、柚葉。今のお前が倒したのは、せいぜいD級。織守が本気で対処する相手ってのは、あんなもんじゃねえ。上には“七柱”って呼ばれる化け物がいる。今はまだ、お前の敵じゃねえ……けど、いずれはぶつかるかもな」
「七柱……」
柚葉が繰り返すように呟いたとき、不意に背中に“刺さる”ような感覚が走った。
──視られている。
何者かの視線。鋭く、冷たく、獣じみた敵意すら孕んでいる。
「……っ」
慌てて振り返る。だがそこには、朝靄の向こうに揺れる川と、ざわつく水音しかなかった。
「どうした?」と火渡が眉をひそめたが、柚葉は首を振る。
「……いえ。ただ、なんか、誰かに……」
その頃。
筑後川を下った石垣山のふもと、苔むした洞穴に、ひとつの影が佇んでいた。
その姿は人に似て非なるもの。灰泥のような皮膚、濡れたように光る体躯。顔の中心にあるのは、鋭く細い、蛇のような双眸だった。
「……ほう。あれが“火布の新適合者”か」
視る力に長けたその異形は、静かに舌を鳴らす。
「女の火。粗いが、目を持っている。……使えるかもしれんな」
その名は――蛇目。夜河連《七柱》の第一柱。
視覚を操り、人の心を覗き、傷を穿つ異能の使い手。冷酷で、狡猾で、残虐。その足元には、既に一人の人間が転がっていた。
死体だった。織守の制服を着た若い男。階級章はC級――おそらく、哨戒任務中に殺されたのだろう。
「愚かだな……布を纏っても、心が揺らげば死ぬ」
蛇目は死体の頬を指先でなぞり、薄く笑った。
「時期は近い。かつての“封”もほつれ始めている。深淵は、じきに囁き出す……」
蛇の目が、再び遠くの川上を見やった。
「見せてもらおうか。“火の娘”……お前の“心”をな」
霧が濃くなる中、蛇目の姿はすうっと溶けるように消えた。
その頃、柚葉はまだ訓練場にいた。体に疲労がまとわりつくのを感じながらも、火布のぬくもりをじっと感じていた。
彼女はまだ知らない。
自らが関わることになる戦いが、単なる弟の仇討ちではなく、久留米という地に秘められた“深い因縁”へと繋がっていることを――。