第5話『泥に哭くもの』
筑後川支流──夜の耳納川。
濁った水面に、どこか生ぬるい気配が漂っていた。
「ここが今回の出現ポイントだ。D級でも戦えるレベル……だが油断するな」
火渡翔麻の声が、重く夜気に溶けた。
柚葉は緊張で掌に汗をかきながら、久留米絣の袖口を握った。
初任務。相手はC級の野良カッパ──人を一人、川に引きずり込んだという情報だ。
「心を研げ。布はお前の意志に応える。乱せば焼き尽くすぞ」
「……はい」
布は静かに、柚葉の腕に巻きついていた。火の色はまだ不安定で、ところどころ橙が赤に揺らめいていた。
「行け。俺が背後で見ている」
言われるがまま、柚葉は川岸に歩みを進める。膝まで茂った葦がざわりと揺れた。
ぬるり──
突然、川面が盛り上がり、泥が泡を吐くように蠢いた。
「人間、ひとくち……くれ……」
現れたのは人型の泥――カッパ。目が潰れているような顔に、人の手のような腕。
背には苔まみれの皿。粘つく声が、頭の奥にこびりつく。
(こいつが……弟を……!)
「うあああああああっ!!」
柚葉の火布が一気に燃え上がる。怒りの衝動が布を喰らい、炎が弧を描いた。
カッパは咆哮しながら泥の腕を伸ばす。瞬間、布がそれを焼き払い──
だが。
「がっ──!」
泥が地面から突き上げた。柚葉の足首をすくい、転倒させる。
「ぬける、ぬける……この子、あったかい……うまい……!」
這い寄るカッパ。布を構えるが、火が暴れて言うことを聞かない。
恐怖が体を縛り、口が乾いた。
(怖い……! 私、また──何もできずに、死ぬ──)
「心を研げ!!」
翔麻の声が飛ぶ。
それは怒号でも罵声でもなく、ただ心を打つ真っ直ぐな声だった。
「お前は、喰われた弟の代わりじゃない。生きて、戦う意志を布に乗せろ!」
(……意志?)
柚葉は震える体で、地面を蹴った。泥をかき分けて立ち上がる。
再び腕に巻き付いた火布が、今度は静かに、淡く灯るように燃えた。
「私は──私は、喰われない。私は、“誰か”の代わりじゃない! ここに立つ、私自身だ!」
火布が一気に燃え広がる。柚葉の両腕に炎が走り、巨大な火蛇のような形を取る。
「《咆火布陣》──!」
炎のうねりがカッパを包む。火の轟音と悲鳴。泥が弾け、腐臭が夜に散った。
──沈黙。
やがて、川辺にはただ川の音だけが残った。
「……やった、の?」
呆然と呟いた柚葉の肩に、翔麻の手がそっと置かれた。
「よくやった。お前の布が、お前を守った」
その言葉に、柚葉の目に一筋の涙が浮かんだ。
弟を守れなかった自分。
でも今、ようやく──“自分の足で立った”気がした。
「これが……織士の戦い……」
闘いは、命の重みを背負うこと。
そして、布とはただの武器ではない。意志を乗せる、心の化身なのだ。
この日、久絣柚葉は初めて“織士”になった。