第30話『花はどちらに咲く』
静かな森の奥、空気は淀んでいた。
織守の任務で単独調査に入っていた紅子は、足を止める。立ち込める甘い花の匂い——それは、彼女自身の毒布とは異なる、どこか古く重い匂いだった。
「やあ、可憐な花よ」
声と同時に、朽ちかけた木々の間から一体のカッパが姿を現す。
全身が苔と蔦に包まれた異形の男、第六柱・槐。一本の老樹のような彼の背には、黒ずんだ花が静かに咲いていた。
「夜河連の……柱」
紅子は即座に布を構える。毒の花を描いた絣布が、しゅるりと宙に広がる。
だが、槐は攻撃の気配を見せず、ただ穏やかに微笑んだ。
「心配しないで。今日は勧誘に来ただけ。君の力はね、人間なんかに縛られる器じゃないと思ってね」
紅子の目が細められる。槐の言葉は、まるで彼女の胸の奥底を見透かしていた。
「……あんたに、何がわかるのよ」
「わからないさ。だが君の絣からは、深い“孤独”の匂いがする。家族にも愛されず、力を疎まれ、それでも笑って生きてきた。……それが毒にならないはずがない」
紅子の体が、わずかに揺れた。過去の情景が脳裏に浮かぶ。
——「また紅子のせいで花が枯れた!」「あの子の触るものは全部、毒に染まる」
幼い頃から特異体質で布なしで毒が使えたせいで皆に嫌われ、実家では祖母にしか心を許せなかった。祖母が亡くなってからは、存在を否定される日々。そんな自分を拾い上げてくれたのが、織守だった。
「君の力は、人間を超えた“自然の毒”。それを人のために使うなんて、可哀想だよ」
槐の蔦が地面を這い、紅子の足元を優しく撫でる。
「僕たちと来なさい。その毒で、人間を咲かせ直そう。君の花は、そのためにある」
紅子は一歩後ずさった。だが心がぐらついている。
——本当に自分は、このままでいいのか?
ずっと笑ってるだけの、道化のままで。
「……」
その時、ふと脳裏に浮かんだのは、任務帰りにふざけ合っていた柚葉の笑顔だった。
——『あたし、紅子の花好きよ。ちょっと毒あるけど、優しい匂いがするもん』
紅子はゆっくりと顔を上げた。その瞳には、迷いを越えた“色”が宿っていた。
「残念ね。あたし、まだ……どこに咲くか決めてないの」
絣布が風に踊る。淡い花弁模様の布が、静かに毒を滲ませながら舞う。
槐は目を細め、笑う。
「そうか……なら、君が枯れるまで待つとしよう」
次の瞬間、蔦が地を裂き、紅子を包み込むように襲いかかる。
——“毒咲”の決意は、まだこれからだった。




