第29話『偽りの灯』
痛みが、風に溶けていく。
久絣柚葉は、裂かれた腹を押さえながら、それでも立っていた。
「弱かったのは……あたしだ」
弟・春翔を失ったあの日。
逃げることしかできなかった。
誰も、何も、守れなかった。
「怖かった。カッパが、死が、戦うことが……全部、怖かった」
だが今、自分の目の前にいるのは、“もういないはずの弟”。
作られた擬体――でも、その瞳は、春翔と同じように涙を流していた。
「それでも……これは、終わらせなきゃいけない」
柚葉の火布が、音もなく揺れる。
水辺の奥。
薄笑いを浮かべながら、それを眺めていた男がいた。
雨露ウロ。
白い和服をまとい、顔は無垢な少年そのもの。だが、瞳の奥には底なしの狂気が灯っていた。
「やっと気づいたんだね。君は優しすぎた。だから、守れなかった。壊れてしまった。そう……殺意が生まれたんだ」
柚葉は、うつむいたまま静かに呼吸を整える。
血に濡れた布が、腕に巻き直されていく。
「……弟は、もういない。でも……でもあたしは、今ここにいる人たちを……二度と、喰わせない!」
その瞬間、布が閃光のように燃え上がった。
空気が一気に灼熱に染まり、柚葉の背から、紅蓮の布が翼のように広がる。
《火焔織核・第一解放》——発動。
炎を帯びた布が、命をもったようにうねる。柚葉の髪が炎の風に舞い、眼光が鋭く光った。
擬体の少年が、悲しげに問いかける。
「お姉ちゃん……本当に、僕を……?」
柚葉は、わずかに微笑む。
「春翔……もう一度だけ、あんたの名前を呼ぶね。春翔」
——ドンッ。
布が火柱と化し、一直線に少年の胸を貫いた。
「……ごめんね。さよなら」
少年の体が崩れ落ちる。
表情は、どこか安らかだった。
炎がすべてを包み、記憶も、温度も、悲しみも焼き尽くす。
水面に舞い落ちた灰は、静かに溶けて消えた。
そして——
水辺の向こうから、拍手の音が響いた。
「いやぁ、最高。ほんとに最高だよ、久絣柚葉」
そこにいたのは、雨露ウロ。
異様に艶やかな笑みで、嬉しそうに身をくねらせる。
「自分の手で、大切な“弟”を焼き殺した気分はどう? 胸の奥、ぎゅうっと締め付けられて、たまらないでしょう?」
柚葉は布を収め、ウロを睨んだ。
「……黙れ。あたしの弟は、もうあんたの玩具にはさせない」
だが、ウロは踵を返して笑いながら立ち去る。
「いいよ、いいよ。そのまま怒って、傷ついて、燃えてくれればいい。君、ほんとに綺麗だね。……もっと、もっと苦しんで?」
最後に、ウロの笑い声が夜に溶けていった。
柚葉はその背に何も言わず、ただひとり川面を見つめた。
水面に映る自分の瞳に、弟の影はもう映っていなかった。




