第28話『喪われた手』
筑後川の支流――朝靄のかかる水辺に、ひとりの少女が立っていた。
久絣柚葉。
火布の織士。
そして、春翔の姉。
「もう、逃げない。決着をつけに来たよ」
手に巻いた赤布が、風に揺れる。
静かに立つその背に、迷いはなかった。
――現れたのは、またもや“あの少年”。
黒髪を少し跳ねさせた、柚葉の記憶そのままの“弟”。
「お姉ちゃん……来てくれたんだね」
その声に、一瞬だけ柚葉の心が揺らぐ。
「……違う。あんたは春翔じゃない。春翔は……もういない」
少年は首をかしげたまま、ふと掌を開いた。
そこには、柚葉しか知らない“焼き焦げた折り鶴”が乗っていた。
「これ……あの時、僕が泣いてた時、くれたんだよね?」
――6年前。火事で家が半壊した夜。泣いていた春翔に、柚葉が久留米絣で折った、焦げた鶴。
「ねえ、どうして? こんな細かいこと、なんで知ってるの……?」
柚葉の動きが止まる。
その隙を――少年が斬った。
布の鞭が翻り、柚葉の腹部を斜めに裂いた。
「が、はっ……!」
焼けるような痛み。赤い染みが、服と布に広がる。
「ごめんね……お姉ちゃん。でも、僕が生きてるって信じてもらえたら、嬉しかったんだ」
少年は涙を浮かべ、哀しそうに微笑んだ。
「だって、“君のために”生まれたんだよ。君の“記憶”と“血”から、雨露さんが創ってくれたんだ。僕は君を癒すための存在だった。最初はね」
柚葉は膝をつき、震える手で腹を押さえながらも、言葉を吐き出す。
「癒すため……? だったら、どうして……私を殺すの……?」
「わからない。でも……“僕の中の君”が、苦しんでるのがわかるんだ。だから、終わらせてあげたいの。全部」
布が再び動いた。だが、その刹那――柚葉の瞳に、わずかに炎が戻る。
「……春翔は……そんなこと、言わない」
柚葉は立ち上がる。傷からは血が滴る。だが目は、もう揺れていなかった。
「……あたしの弟は、そんなふうに“人を殺していい理由”にしない。どんなに辛くても、誰かを守るために笑ってくれた子だ……!」
擬体は黙ったまま、苦しげに顔をゆがめた。
「……お姉ちゃん……僕を、殺せる?」
その目には、確かに“涙”があった。
柚葉は、火布を構えた。
「……まだわからない。でも――私は、もう迷わない」
風が吹いた。赤い布が、空に炎のように舞い上がる。
水面に、焼け焦げた鶴が一枚、ふわりと落ちた。