第二十七話『おかえり、姉ちゃん』
織守本部――訓練棟の裏、誰もいないベンチで、久絣柚葉はひとり俯いていた。
指先は震え、心は冷たい霧の中に迷い込んでいた。
「……あれは、春翔だった。いや、違う……でも……」
昨日、筑後川の支流で出会った“あの少年”の姿が、頭から離れない。
表情、声、動き。
懐かしい記憶の断片が、現実と重なって胸を締めつける。
「……お姉ちゃん、また一緒に帰ろ?」
あの言葉が、何度も胸を叩いた。
「……こんなんじゃ、戦えない……」
自分の中の“火”が、揺らいでいた。迷いは火布に伝わり、布は熱を帯びず、ただ沈黙していた。
「なんだ。あんたでも、泣くのね」
ふいに、背後から声がした。
そこに立っていたのは――織部紅子。
いつものようにふんわりと微笑みながら、柚葉の隣に腰を下ろす。
「……ごめん、紅子。私……」
「言わなくていいよ。弟くんに似てたんでしょ? そりゃ、しんどいわ」
柚葉が驚いたように顔を上げると、紅子は少しだけ視線を外したまま、優しく語りかけた。
「私にもいるの。過去にね。目の前で失った人が。それに似た誰かが現れたら……揺れるのは当然じゃない?」
「……あれは、春翔じゃないって、わかってる。でも……心が、勝手に……」
「うん。心ってそういうもんよ。でもね――」
紅子は、静かに柚葉の手を取った。
「“本物じゃない”ってことは、きっとあんたの心が一番知ってる。あの子が春翔くんなら、きっとあんたの“火”は迷わない。熱く、真っすぐに燃えるはずだから」
柚葉の瞳に、かすかな炎が灯った。
「紅子……ありがとう」
「ううん。私は毒布だけどさ、仲間を元気にするぐらいはできるのよ」
紅子が微笑む。柚葉も、少しだけ口元を緩めた。
そのとき、柚葉の火布がほんのり赤く輝いた。
迷いの中でも、まだ灯る“火”があることに、彼女は気づいた。
―――
その頃、夜河連のとある拠点。
闇に包まれたアジトの一室で、雨露ウロは微笑んでいた。
その隣には、例の“春翔擬体”が座っていた。
「姉ちゃん、泣いてたね」
少年の声は、優しく、そしてどこか機械的だった。
「うん。とてもいい表情だったよ。あとは、君の“感情”が育てば、もっと完璧になる」
「姉ちゃんは……殺さなきゃいけないんだよね?」
雨露は、ほんの少しだけ目を細めて、頷いた。
「うん。でも、それは“君”が決めることだよ。だって君は、彼女の“記憶と血”から生まれた最高の擬体なんだから」
春翔擬体はしばらく黙り、そしてぽつりと呟いた。
「――姉ちゃん、笑ってほしかったな」
その目には、わずかな光と……曇りが宿っていた。