第十六話「静かな水面、蠢く闇」
“火の娘”によって弐号が焼かれてから、まだ一日も経っていなかった。
筑後川の上流域、普段は誰も寄りつかぬ古びた堰の奥。揺れない水面の下、音も光も届かぬ世界。
そこに、蛇目はいた。
「柚葉、か……面白い」
目を閉じ、微笑みを浮かべながら、手を水底へと伸ばす。泥が、彼の腕を絡めるように這い上がる。だがその指先は、ある一点を探っていた。
「火は、闇に届いた。ならば、次は──」
泥の中に沈められた、巨大な“何か”がぬるりと脈動する。複数の目玉が、うっすらとその表皮に浮かび上がった。
「弐号を超える“失敗作”。その怒り、解き放ってやるさ。……壊れる前に、な」
蛇目は唇を舐め、そっと呟いた。
「行け。“喰い破る者”──実験体・参号」
* * *
一方その頃、久絣柚葉は療養所の一室にいた。
ベッドに座り、消毒された腕に目を落とす。
「……思ったより、深くなかった」
実際は軽い火傷と打撲だった。けれど、心の疲れは重い。
(あのとき、迷わなかった。それは……間違ってなかったと思う)
「“守るために燃やす”か。お前らしいよ」
唐突に聞こえた声。振り返ると、そこには黒羽迅が立っていた。
「迅先輩……」
「報告、読んだ。上も動き始めてる。お前の手柄は無視できない……だが」
「……“だが”?」
「蛇目は、まだ本気じゃない」
その言葉に、柚葉の背筋が凍った。
「弐号は、言わば“観察用”。お前がどれだけの“火”か測るための撒き餌だ」
「……じゃあ、これからが本番ってこと?」
「そういうことだ。俺たちは、今から“本気の闇”に触れる」
迅の声に、普段の冷たさはなかった。その瞳には、焦りすら浮かんでいた。
* * *
その夜。筑後川南端、排水路の奥。
C級織士の三人班が、再び消息を絶った。
現場に残されたのは──破られた布の断片。そして、血と泥が混じった不快な粘液。
それを見つめる男がいた。
「蛇目が動いたか」
雷の気配とともに現れたのは、伝説のS級──雷蔵だった。
夜空にひときわ強い雷光が走る。
「奴が仕掛けてきた以上、こちらも“抑え”が必要だな……。」
空が、遠雷とともに、じわじわと色を変えていく。
“戦いの夜”は、次なる局面へ──深く、重く、進んでいく。




