第十四話「蛇目、睥睨す」
その知らせが届くよりも早く、脅威は始まっていた。
火布の少女が“殺し”を知った──その報を、遠く筑後川の沼地で聞いた者がいる。
「火の……娘、か。だが、焦ることもあるまい」
濁りの底。水面に顔を出した異形は、白濁した瞳をすっと細めた。
夜河連・第壱柱──蛇目。その声は、さざ波のように静かだった。
「人の炎がどこまで届くのか──その前に、まずは周囲の雑草を払っておこう」
彼は右手を水底に沈めると、泥に覆われた“何か”を引き上げた。
泥の中から現れたのは、異様な瘤に包まれたカッパ。皮膚のような粘膜が全身を覆い、目は虚ろだった。
「行け。“見えざる泥”──汚れし実験体、壱号」
ぬるりと這い出た異形は、静かに地上へと向かっていく。
* * *
その夜、筑後の旧街道沿いで通信が途絶えた。巡回中だったはずの二名の織士が、応答しない。
「状況確認、行くわよ」
織部紅子はそう言って、同行の女性花京と共に廃路を駆けた。
紅子はつい先日、正式にC級に昇格したばかり。任務慣れしていないはずの彼女が、自ら進んで動いたのだ。
「紅子、前方……」
「……見えてるわよ。あれ、絣服ね」
路肩の林。草の中に倒れていたのは、泥に包まれた織士だった。いや──正確には、
布ごと泥に繭のように閉じ込められていた。
「何、これ……布の反応が、遮断されてる……?」
紅子が幻惑布を伸ばすと、その布はぬるりと滑って絡まらなかった。
何者かが、布そのものに干渉できない“ぬめり”で覆っている。
次の瞬間、林の奥から影が這い出た。ぬらりと光る輪郭。水のように揺らめく身体。
それは、見えない泥のカッパ──蛇目の送り込んだ実験体だった。
「花京、援護して! “絣花霞”!」
紅子の布が、空中で無数の花を咲かせる。幻惑効果を持つその布は、敵の視界を攪乱しつつ、毒花の胞子を漂わせた。
実験体の動きがわずかに鈍る。
「今よ、“毒縫掌”!」
紅子が布の掌を敵の腹部へ叩きつけた。ぬめりが布を滑らせるが、毒は侵食する。
「花京っ!」
「任せろ!」
背後から伸びた花京の鉄布が、敵の首を横薙ぎに払う。
実験体はひときわ甲高い悲鳴をあげ、やがて泥の塊となって崩れた。
* * *
その様子を、どこかで見ていた者がいた。
影の中。風も水も届かぬような空間。
蛇目は、その目を細めて、笑っていた。
「……悪くはない。毒と幻……まあ、遊ぶには充分か」
だが、それはあくまで観察。
「火の娘。次は……その火で、誰を灼くか見せてもらおうか」
ぬるりとした指が、水面に触れる。
静かに封が解かれる。実験体・弐号──より強く、より深く、汚れた存在が動き出す。
“戦いの夜”は、終わらない。




