第10話『灰泥の底』
夕刻──久留米市郊外、廃ビル群の一角。
「ここが……任務の現場……?」
久絣柚葉は、火布を背に結びつけながら周囲を見渡した。
黒羽迅が率いるのは、たった三名。柚葉のほかに、階級C級の二人──隻腕の重装織士・斑戸、そして風速を操る女織士・沙音。
「夜河連の下級カッパが数体。このあたりに潜んでいるらしい。目標は“掃討”だが、何より目的は……お前に“実戦”を踏ませることだ、柚葉」
迅の口調は冷静だった。
斑戸と沙音は特に関心を示さない。ただ命令に従うだけ、という無表情さで準備を整えていた。
陽が落ちると、あたりは急に気温が下がった。
風のない街路。ビルの陰が、黒く深く、底知れぬものに思えた。
「……来る」
斑戸の低い声と同時に、空気が濁った。
泥と腐臭をまとった異形が、建物の影から現れた。カッパ──夜河連の尖兵。
「三体確認。柚葉、右を任せる。やれるか?」
「……はい!」
火布を解き、指先から炎が走る。内なる熱が、柚葉の腕を駆け上がる。
(怖い……でも──燃やす。この手で)
敵のひとつが、鋭い爪を振りかざして襲いかかってきた。
柚葉は火布を鋭く振るう。布の先端が焔をまとい、迫るカッパの腕を切り払う。
「──ッ!」
斬撃は浅かった。だが、火布の熱が敵の動きを鈍らせる。
「こっちは一体、撃破!」
沙音の声が響く。風の布が鞭のように唸り、敵の首を断ち切った。
「無駄口叩くな。まだ終わってねぇぞ」
斑戸は盾布を構え、敵の飛びかかりに真正面からぶつかる。そのまま地面に叩き伏せ、火布の柚葉へ合図を送った。
「柚葉、仕留めろ!」
「……はい!」
火布に全神経を集中させる。頭の中で、火渡翔麻の声がよぎる。
《布は心で制す》
敵の心臓を狙い、柚葉の布が紅く煌めいた──
刹那、敵の胸を深く貫く熱刃。
灼かれたカッパは、苦鳴とともに崩れ落ち、泥の残滓となって消えた。
……静寂。
すべてが終わったのは、数分の出来事だった。
「……やった、やった……!」
柚葉が膝をつき、息をつく。
「……燃やした、私が……ちゃんと戦えた……!」
初めての本物の“殺し合い”。
怖かった。だが、立ち向かった自分が確かにいた。
「上出来だ。最初にしてはな」
黒羽迅が、短く告げた。
その目には、冷たさではなく──わずかに、安堵が浮かんでいた。
そしてその頃。
筑後川中流、鬱蒼とした森の奥。
黒い濁りを湛える沼の水面に、一つの影が揺らめいていた。
「……また、人間が川を汚したか。血と火と毒で満たして、なお足りぬか……」
ぬらりと現れた灰泥の異形。
夜河連・第壱柱──蛇目。
「火布の娘。ついに“殺し”を覚えたか。ならば、その業火で……貴様自身を焼き尽くすがいい」
その目が、遥か久留米の空を睨み据えていた。
戦いは、すでに始まっている。
柚葉の火が灯ったことで、夜河連の“本当の牙”が、動き出す──。