参拝
昔、この社を訪ねし者あり。
名を記せば祟りありとて、記録に残らず。
されど彼は、神の声を聞き、異界に渡る術を得たり。
藁にて形代を拵え、
その身を象る髪と共に神前に捧げる。
お札ひとつ、選び取り、願いを呟くこと三度。
されば境界は開き、神は其の願いを聴き届けん。
ただし、願いし者、何か一つを失うべし。
それが魂か、記憶か、命かは、神のみぞ知る。
まれに、祈りのあとに笑う死者あり。
縊れし者なれど、その顔に苦しみなし。
——彼の者ら、神に愛されし証か。
それとも、神に喰われし者か。
地元に帰るのは、何年ぶりだろう。
山を越えて、電車で二駅。乗り換えのバスは相変わらず少なくて、空は鈍く曇っていた。
車窓から見える景色は、ほとんど変わっていなかった。
けれど、私の中にある記憶とは、少しずつズレている気がした。
降り立ったバス停の名前すら、こんな字だったかと思う。
とても当たり前のように日常だった場所が、どこか薄く、遠い。
今日は、墓参りに来た。
高校に進学する直前、私の親友が死んだ。
同じ高校を目指していた。合格発表も一緒に見に行こうと言っていた。
けれど、その約束は果たされなかった。
死因は不明。
事故とも、病気とも言えず、ただ神社で倒れていたとだけ、伝えられた。
——神社。
この土地では有名な神社で、山の麓にぽつんとある。
地元ではあの世と繋がっていると噂される神社だった。
私たちはそこでよく遊んでいた。しめ縄をくぐった先には、何があるのか。
肝試しの定番で、でも私は一度も奥まで入ったことがなかった。
けれど、あの日。
彼は、ひとりでその神社へ行ったらしい。
それが、最後だった。
神社は山の斜面に張り付くようにして建っている。
階段は苔むし、杉の木が風で揺れるたび、葉の擦れる音が絶え間なく耳にまとわりついた。
——ここに来るのは、何年ぶりだろう。
狛犬の顔がやけに鋭く見える。
鳥居の下に差しかかると、かすかに風の向きが変わった気がした。
「……ご無沙汰しています」
誰に言うともなく、そう呟いて、私はしめ縄の下をくぐった。
奥へと進むと、拝殿の前でひとりの男が箒を持っていた。
白髪まじりの髪、袴に身を包んだ姿は昔と変わらない。
私が小さかった頃からこの神社にいて、たしか名前は……。
「……榊さん、ですよね?」
男がゆっくりと顔を上げた。
見覚えのある皺の深い顔に、穏やかな笑みが浮かぶ。
「やあ、おかえり。久しぶりだね、2、3年ぶりかな?」
「はい。覚えていてくれてたんですね」
榊さんはほほえみながら頷いた。
「すっかり大きくなったな。今日は墓参りかい?」
「……はい、あの……。その前に、少しだけ、ここに来たくなって……」
そう言うと、榊さんはしばらく私を見つめて、ぽつりと呟いた。
「……あの子が亡くなった時も、ちょうどこんな空模様だった」
胸が詰まる。
彼の死について、詳しいことは誰も語りたがらなかった。
けれど、榊さんなら、何か知っているかもしれない。そう思った。
「……榊さん。この神社のこと、教えてもらえますか。昔からの、言い伝えみたいなやつ……。あの子の死と、関係あるって聞いたんです」
榊さんは、静かに息を吐いて、空を見上げた。
鳥の鳴き声が遠くに消え、風の音だけが境内に残る。
「……この神社はな、あの世と繋がっていると、昔から言われているんだ」
「……あの世?」
「ああ。逆さの世界とも呼ばれる。神様に祈るということは、本来なら生の証。でも……ときどき、この神社は死の証を受け取ってしまうことがある」
榊さんは拝殿の方に目をやった。
「昔な、ある男がいた。村の若者で、悩みごとがあってな。ある日、ここに詣でたまま、姿を消した。けれど数日後に戻ってきてこう言ったんだ。『神様は確かにいた。藁人形とお札を差し出せば、願いを聞いてくれる』と」
「……その人は、助かったんですか?」
「体はな。けど、心の奥はどこか別のものになっていた。あれは、帰ってきたんじゃない。置いてきたんだ。何かを」
そう言って、榊さんは少し笑った。その笑みには寂しさと、どこか怖さが混じっていた。
「しめ縄をくぐった先には、時々、笑っている死体が現れる。みんな、首を吊っている。不思議とな。……みんな、笑ってるんだ」
その言葉に、私は思わず息を呑んだ。
「——願いを叶えた代わりに、何かを神に差し出す。
それがこの神社の、裏の参拝さ」
拝殿の前で手を合わせる。
榊さんはもう何も言わず、ただ静かに掃き掃除に戻っていた。
私は、深く一礼した。
──会いたい。
どうして、あの時。どうして私じゃなくて、君だったの。
なぜ、何も知らないまま、みんな黙っていたの。
「……お願いです」
胸の奥が焼けるように熱くなって、言葉が勝手にこぼれ落ちる。
「ほんの少しでいいから、あの日の答えを知りたい。私だけでも、ちゃんと知りたいんです」
カチッ——
瞬間、頭の中で何かが割れるような音がした。
耳の奥がビリビリと痺れ、視界が一瞬、ぐにゃりと歪んだ。
世界が、グレイフィルターをかけられたように、色を失っていく。
境内に風が吹いた。……はずなのに、風の音がしない。
おかしい。音が、ない。鳥の声も、木の揺れる音も、榊さんの箒の音も。
気づけば、榊さんの姿は消えていた。
さっきまで掃除していた場所には誰もおらず、社の灯籠が奇妙なほど赤く、点滅している。
ひとりだ。
「……え?」
足元の石畳を見下ろした瞬間、背筋が凍った。
自分の足跡が、さっき来たものとは違う位置にある。
……いや、そもそも地面の模様が違う。
目を上げると、境内の構造は似ているのに、どこか違う。
鳥居はねじれたように傾き、しめ縄は黒く焦げて、垂れている。
現実が、歪んでいる。
「これが……あの世……?」
誰に問うでもなく呟いた瞬間、カラカラと乾いた音がした。
視線を上げる。
——そこに、首を吊った誰かがいた。
杉の枝にロープがかかり、ぶら下がっているのは、
制服姿の高校生。……そしてその顔は。
「……うそ」
見覚えのある横顔。
少し眠たげな目元。
私の親友——あの日に死んだ、彼が。
笑っていた。
首に食い込んだ縄でぐるりと吊られているのに、口元は緩やかに笑っていた。
死体なのに、こちらを見て、笑っていた。
「やめて、やめて……っ!」
叫びたかった。でも声が出ない。
喉の奥が張りついて、空気だけが擦れていく。
私は思わず後ずさり、石段につまずきながら倒れそうになり、そのまま駆け出した。
音のない神社の境内を、転がるように走る。
逃げなきゃ。あれはおかしい。
こんなの夢だ。幻だ。そうに決まってる。
脳がそう叫んでも、足元の感触はやけに確かだった。
ぬかるんだ土、ぐしゃりと沈む苔、そして遠くで、木の葉の触れ合う音。
……音?
音が戻ってきている。
息を切らしながら、森の奥に続く小径へ踏み込む。
その奥に、小さな祠のような建物が見えた。
半壊した鳥居の奥、斜めに傾いた木の階段をのぼると、朽ちた社がひっそりと立っていた。
引き寄せられるように扉を開ける。
中は、想像よりもずっと暗く、そして——
「……誰か、いる……?」
祠の奥、壁際の床に、人が倒れていた。
白い腕。細い指。その手に、何かをしっかりと握っている。
恐る恐る近づいて、私は目を見開いた。
その手が握っていたのは、藁人形だった。
人型の藁束。
よく見ると、胸のあたりに黒く湿った髪の毛が刺し込まれている。
いや、それだけじゃない。
その手は、生きていない手だった。
肌は土のように乾き、指は不自然に曲がっている。
死後、長い時間が経っているような、それでいて、ついさっきまで握っていたような——
「……うそ……なんで、こんな……」
その時、背後で風鈴のような音が響いた。
だが音の主は見えない。
ただ、胸の奥に誰かの声が響いた。
『藁人形ト札……差出セ。……戻レ。』
私は震える手で、その死者の手から、藁人形をそっと外した。
指がぐしゃりと砕けて崩れ、藁人形が私の手の中に落ちた。
生温かい感触。
ふわりと漂う、甘ったるく腐った匂い。
でも、進むしかなかった。
朽ちた祠を抜けた先、薄闇の中にぽつんと建っているのが見えた。
……あれが、本殿?
近づくと、建物の手前に奇妙な壁があった。
朽ちた木の板が何枚も重なっている。だがそのすべてに、お札が貼りつけられていた。
無数の白い紙。墨のようなもので文字が書かれ、いくつかはすでに破れている。
文字は、読めない。
でも、たしかに「何かを封じるため」のものだと、直感で分かった。
足がすくむ。けれど進まなきゃ。
『藁人形ト札……差出セ。……戻レ。』
声が、また骨の奥で鳴る。
「……選べって、こと……?」
お札の中の一枚だけが、他よりわずかに浮かんでいた。
吸い寄せられるように、その一枚に指をかける。
ぐ、と引くと、紙は意外なほどすんなり剥がれた。
その瞬間、壁全体が──呼吸した。
ギィ、と板が軋み、奥に空間ができた。
その先にあるのは、深い暗闇。
でも、私はその奥へと足を踏み入れた。
本殿は、思ったよりも小さかった。
だが天井は高く、柱には無数の手形のような模様がこびりついていた。
中央に、祭壇がある。
何かが祀られている。だがそれは、神というより、モノだった。
歪んだ木の塊のような、でも人型のような何か。
顔のない御神体が、こちらを向いて立っていた。
私は手の中の藁人形とお札を見下ろす。
それを、そっと祭壇の上に置いた。
──捧げる。
口に出さなくても、そう思った瞬間。
「……ッ!」
耳が割れそうなほどの耳鳴り。
世界が、崩れるような轟音。
でも、私は目を閉じなかった。
一瞬、御神体がこちらに近づいたような気がした。
背後で何かが囁く気配があった。
それでも、私は目を閉じなかった。
そして——
視界が、ぱっと、白くなる。
気がつくと、私は拝殿の前に立っていた。
薄暮の境内。蝉の声が遠くで鳴いている。
空は少し色褪せていて、いつの間にか夕方になっていた。
何も変わっていないはずの風景。
でも、どこか……うすぼんやりと、色味が違って見えた。
「……戻ってきた、の……かな……」
目の前にあったはずの御神体も、お札の壁も、痕跡ひとつない。
けれど、手のひらには微かな違和感が残っていた。何かを掴んでいた感触。まだ、消えていない。
「おかえり」
振り返ると、榊さんがいた。
まるで最初からそこにいたみたいに。
「少し境内で倒れてたけど、大丈夫? 熱中症かと思って……」
「……うん、大丈夫。たぶん」
私は曖昧に笑う。でも、榊さんは、何も深くは聞いてこなかった。
「……お友達とは、会えた?」
その一言だけを、ぽつりと。
私は反射的にうなずいた。
でもすぐに、「なんでそれを」と思った。
榊さんは、にっこりと微笑んで言う。
「そう……じゃあ、願いは、叶うかもね」
「……え?」
「ううん、なんでもないよ」
榊さんは肩をすくめて、ひらひらと手を振った。
でもその目は、私の背後を見ていた。
まるで——もう一人の“誰か”を見ていたみたいに。
私はその場を離れ、参道を歩き出す。
帰り道、空気は元に戻っているようで、でも風の音が少しだけ重く聞こえた。
──願いは、叶うかもね。
榊さんの言葉が、胸の奥でずっと響いている。
夕陽が落ちかけた帰り道。
ふと、スマホの画面が反応して、スリープが解除された。
ロック画面に、写真が映る。
──拝殿の前に立つ自分。
……撮った覚えなんて、ない。
けれどそこには確かに、私が写っていた。
その隣には、笑って手を振る友達の姿も。
ありえない。もういないはずの人。
でも画面の中では、確かに二人、並んでいた。