第三章 ハッピーエンド
ある夜、あかりは珍しくこう言った。
「ちょっと出かけてくるね。おとなしくしてて」
そう言って、部屋の鍵を外し、足の鎖までも外した。
チャンスだ。
あかりがドアを閉めた音がしてから、しばらくじっと息を殺して待つ。
静寂が続く。彼女の足音は、もう聞こえない。
僕はゆっくりと立ち上がり、ドアへと向かう。心臓がうるさいほどに脈打っていた。
取っ手を回す。開いた。
階段を上る。一段、また一段と、慎重に、音を立てずに。
玄関が見えた。
ドアに手をかける。開いている。ーなんでだ?
それでも構わない。今は逃げることが優先だ。
ドアを引く。風が頬を撫でる。外の空気だ。ようやく......!
「どこ行くの?」
背後から聞こえた、あかりの声。
次の瞬間、首に激痛が走った。何かが突き刺さったような感覚。
視界がぐにゃりと歪む。
倒れる僕のそばで、あかりは笑っていた。
最後に見たのは、あかりの泣き笑いのような顔だった。
ーーー
目を覚ますと、また、あの部屋の天井があった。
動こうとするが、体が言うことをきかない。首元に包帯が巻かれている。何を刺されたのかはわからないが、明らかにおかしい。
ドアが開く。あかりが、入ってくる。
「起きた?......逃げたら、ダメじゃん」
その顔は怒っているというより、悲しそうだった。
彼女は近づいてきて、僕の髪を掴んで無理やり顔を上げさせる。
「私のこと、好きじゃないの?」
違う。と首を横に振る。
「じゃあ、なんで逃げたの?」
その手が、壁に掛かっていたノコギリに伸びる。
「歩ける足があるから、逃げるんだよね......」
ぞわりと、背筋が凍った。
「嫌だ!やめて......!」
必死に懇願する僕に、彼女はふと笑顔を見せる。
「そっか、一生歩けないのは嫌だよね。でも、ちょっとならいいでしょ?」
そう言って、ペンチを手に取った。足を掴まれる。暴れようとしたが、力が入らない。
「暴れないで、すぐ終わるから」
バキィッ
ペンチが爪を挟み、容赦なく引き剥がす。
血が飛ぶ。激痛で声も出ない。
「大丈夫、また生えてきたら取ってあげる。...でも、次逃げたら、切るからね」
微笑んだ彼女の目には、何の感情もなかった。
僕はこの子から、もう絶対に逃げられないんだ......
ーーー
それからの日々、僕は完全に、あかりに服従することにした。
逃げようと思うのはもうやめた。
足の爪を剥がされたときの、あの痛みと恐怖が、今も鮮明に体に焼きついている。
何をされるかわからない。
きっと、あかりはまた「愛情」と称して、僕を壊していくんだ。
だったら、従うしかない。
彼女がしたいことは、何だってする。
笑ってと言われたら、笑った。
食べろと言われたら、食べた。
「好きって言って」と言われたら、目を見て言った。
彼女以外、もう何も要らない。
そう思おうと、努めてた。
でも、
「なんで...こんなこと、思ってるんだろう」
怖い。怖いのに、笑っている。
狂ってる。だけど、これが、普通に思えてくる。
心の中にあった何かが、じわじわと溶けていくようだった。
僕が好きだった絵も、もう描かなくなった。描きたいとも思わない。
必要なのは彼女だけ。
彼女だけいれば、それでいいんだ。心から、そう思えた。
きっと、これが僕らのハッピーエンド