三途の川はもう古い
周は、冥界の隅々まで知り尽くした狩人の一人だった。彼は、人間界との接点を持つ数少ない存在として、長い間その役割を全うしてきた。だが、彼が心の底から望んでいたのは、力を誇示することでも、特権を享受することでもなく、ひたすら任務を遂行することだった。
潜入調査のための準備が整い、周は人間界に渡航する許可を得た。1週間の濃密な講義と、仲間との人物像確認、衣装合わせが終わると、ようやく彼はこの世界へ足を踏み入れる時が来たのだ。冥界から現世へ渡るには、古くから伝わる三途の川を越える必要がある。かつては舟を出して川を渡るのが一般的だったが、今ではその方法は姿を消し、代わりに歪みを活用したポータルが広く利用されている。
このポータルは、ただの狩人が持ち歩けるものではなかった。特に技術と霊力が融合したその装置は、パートナーを組んだ先輩や上司に託されるものであり、一部の実力者や信頼のおける狩人には個人用ポータルが貸し出されていた。彼らは休日には自由に人間界を行き来することができる特権を持っていた。
周自身も、その高度な能力と新人教育の功績から、個人ポータルの申請基準を満たしていた。しかし、彼はその特権にはまったく興味を示さなかった。任務の際はいつも仲間と共用のポータルを利用し、淡々と任務に臨むだけだった。彼にとって、特権や地位は何の意味も持たなかった。ただ、自分が果たすべき役割を尽くすことが、何よりも大切だった。
そうして、運命の瞬間が訪れる。周は人間界の門を開くという特異な任務を託され、ポータルを通じて未踏の地へと足を踏み入れようとしていた。彼の目の前に広がるのは、冥界とは異なる喧騒と色彩に満ちた現実の世界。新たな冒険が待ち受けている。その瞬間、彼の心の奥には少しの期待と決意が満ちていた。勇気を振り絞り、周はそのポータルを通り抜け、無限の可能性が広がる人間界へと向かった。
ポータルはさまざまな形態を持ち、周が特に愛用していたのは、変哲のないシルバーの缶ケースだった。そのケースは普段、チョークやタバコの収納にぴったりのサイズで、周はいつもチョークを入れて使っていた。一穂はその缶ケースを不思議そうに見つめた。
周は、ポータルについて説明を始めた。「これ、一見ただの缶ケースに見えるだろう。でも、見ていて。」
周は缶ケースの蓋を開け、霊力を込めた。その瞬間、ケースが柔らかな光を放ち始めた。周囲を優しい光が包み込み、周自身もその中に溶け込んでいく。「さあ、一緒にやってみよう。」彼は一穂の手を引き、ケースに触れさせた。一瞬のうちに、二人は光に包まれた。
目が眩むほどの明るさの後、彼らが見たものは、懐かしい人間界の雑踏だった。高層ビルが立ち並び、人々が忙しそうに行き交う様子は、まさに憧れの舞台だった。「さて、行くぞ。」周は微笑み、潜伏先のマンションへと向かう道を歩き出した。
道中、周は久々の人間界を一穂が楽しめるように、食べ歩きや必要品の買い物、ウィンドウショッピングを提案した。色とりどりの看板や、様々な匂いが渦巻く街並みは、一穂にとって新鮮で刺激的な体験だった。彼は周と共に、魅力的な世界に心を躍らせていた。
マンションに到着し、一穂は自室のベッドに倒れ込んだ。周は冷蔵庫から冷えた缶ビールを取り出し、心地よい音を立てながら飲み干した。疲れた体を癒すために、彼は肉うどんを作り、二人はそれを囲んで食事を楽しんだ。濃厚なダシと柔らかい麺が絡み合うその味は、周が自信をもって振る舞う一品だった。
しかし、その夜は特別な日だった。明日から南高校への潜入が待っている。その緊張感に、一穂はなかなか眠りにつけなかった。彼の心は未来への期待と不安でいっぱいだったが、周の存在がその不安を少し和らげてくれた。
一穂は静かな夜が訪れる中で、次第に目を閉じ、深い眠りへと落ちていった。彼の心にある冒険の予感は、これから始まる物語の序章に過ぎなかった。




