第九幕:朧月夜
街はずれのあばら家が火事に見舞われた、その数年後。
全焼し焼け落ちた古い小屋は、持ち主を失った土地ごと相良家が買い取り、ほとんど元通りに建て直されていた。周囲に建物がなく、傍の森にも火が燃え移らなかったのは奇跡のようなものだった。今では火事の事自体ををすっかり忘れた人がほとんどだろう。
小屋が建て直されたのは、相良家の次期当主たっての願いだった。火事の日以来、部屋に引きこもったまま滅多に外に出なくなったと噂の相良家次男は、小屋が建て直されたその数か月後に、ふらりと屋敷を出てそのまま帰らなかったという。しかし、相良家当主もその妻も、兄である次期当主も、誰も次男を探そうとはしなかった。
彼がどこへ行き、どうなったかは、公然の秘密であった。
薄い雲が空を覆い、星も見えなければ、月の光も微かしか届かない、陰気な夜。
ほとんど灯りのない暗くて狭い部屋の中で、ゆらりと影が揺れた。
虚ろな声が微かに聞こえてくる。
あちらこちらで手を叩く
手の鳴る方へと夜叉を呼ぶ
花いちもんめと売り声上げて
寄り付く獣はしたを舐めずり
無知を気取りし生意気な子ら
宵に呑まれて堕ちてゆく
通りゃんせ、通りゃんせ、
黄泉の国より
通りゃんせ、通りゃんせ、
浮世の果てに消えていけ。
南の門からお帰りなされ
「贄もなく夜叉を帰せるものか」
あはれな座敷に飾りし花は
野から手折りて活けたる骸
子供と言えぬ年増の娘
わからずに世を儚むふりを
通りゃんせ、通りゃんせ、
墓場の祭
通りゃんせ、通りゃんせ、
常世の際に帰りましょ。
ふ、と燭台に火が点された。
虚ろな目をした男の顔が闇の中に浮かび上がる。
深緑色の薄い着物を気崩して、頬に妙な模様を描いた男は、ふらりふらりと部屋の中を歩き回り、蝋燭に火を点しては歌い続ける。
人のふりした夜叉が微笑む
行きはよいよい帰りはこわい
渡してなるかと領主の財や
埋もれてなるかと這いずる才よ
地獄をねぐらに歩く大人は
子を売り払い姨を捨てゆき
通りゃんせ、通りゃんせ、
夜行はこちら
通りゃんせ、通りゃんせ、
奈落の底を練り歩け。
日照り、災禍、飢饉、骸
掟、身分、自愛、堕落
祭事、大事、対価、大過
期待、不遜、憎悪、呪い
通りゃんせ、通りゃんせ、
この世彼の世も
通りゃんせ、通りゃんせ、
変わらぬ地獄
通りゃんせ、通りゃんせ、
黄泉の国より
通りゃんせ、通りゃんせ、
浮世の果てに消えて行け。
とたとたと奥の部屋から足音が聞こえる。
男は歌うのをやめて、足音のする方へ目をやった。
やがて、薄汚れた藍色の着物を気崩し、男と同じ化粧を頬に施した、十かそこらの少年が、ひょこりと顔を出した。
「……朧? 何歌ってるの?」
「ああ、月夜……こっちへおいで」
「うん」
こくりとうなずき、月夜と呼ばれた少年は、手を差し伸べた男――朧の傍に近寄る。
目の前にやってきた月夜を抱きとめ、朧は囲炉裏端に座り込んだ。
「今夜は何を教えようか」
「何でも嬉しいよ。僕、何でも知りたい」
「勉強熱心で大変よろしい」
「さっきの歌はなんだったの? 僕、初めて聞いた」
「俺の師匠がよく歌っていたまじない唄だよ」
「ちょっと怖いね」
「まじない唄だからね」
「どういうまじないなの?」
「さあね。もう意味なんかどこにもないよ。師匠が教えてくれなかったからね。何も意識しなかったらちょっと不気味なだけの歌なんだって」
「へえ……」
ゆらゆらと揺れる蝋燭の火をその瞳に映し、月夜は朧の体に背を預ける。
朧は月夜をぎゅっと抱きしめて、話を変えた。
「それより、そうだな。今日は目くらましの術でも見せてあげようか」
「本当? やったあ」
無邪気にきゃらきゃらと笑う月夜。
「目くらましの術はね。本当はそこには存在しないものを、まるで存在するかのように錯覚させる術なんだ。召喚の術と大きく違うのは、そこに実体が存在しないこと。そして、使う力がすごく少なく済むことだ。だから、大きなものも出しやすい。……そういえば、昔師匠に向かって蛇を召喚しようとしたことがあったな。白木蓮の花に変えられてしまったけれど」
「へえ……でも、召喚と目くらましは違うんだよね」
「そう、だから、こんな風に……」
言いながら、朧はそっと腕を伸ばした。何もない空間に向かって、呪文を唱える。
「天影真耶現、魂魄幻姿顕。幽明錯覚、現影成真」
ぐにゃりと腕の先の空間が歪んだ。
月夜がぱちりと瞬きをした次の瞬間、先ほど歪んだまさにその場所に、色あせた赤い着物を気崩した女性が姿を現していた。ぼさぼさの髪、少し彫の深い顔、色素の薄い目、朧と月夜と同じ頬の化粧。
「わあ……!」
「ね、人一人をまるでそこにいるかのように現すのも簡単ってわけ。召喚するんじゃもっと大掛かりな道具や儀式が必要になるけど、目くらましなら呪文ひとつで簡単さ」
「このひとは、もしかして朧のお師匠さん?」
「よくわかったね、そうだよ。……真耶。こっちに来て」
朧が呼ぶと、真耶の姿をした幻影は、操り人形のような硬い歩みで朧と月夜の傍に寄る。
「座って」
朧が命じると、真耶の姿をした幻影は、朧と月夜の前に向かい合うように座る。
「ねえ、あの日のことを教えて。真耶は、いつからサキが兄上の死相の原因である妖だってわかっていたの?」
「朧?」
「…………」
真耶の姿をした幻影は、何も答えない。
朧はそのまま続ける。
「ああなることがわかっていて、あのままじゃサキが兄上を連れて行ってしまうことがわかっていて、祓おうとすれば自分ごと道連れにされることをわかっていて、それであんな風に言ったの?」
「ねえ朧、これ目くらましなんだよね?」
「…………」
真耶の姿をした幻影は、やはり何も言わない。
「朧?」
不安げな目を朧に向ける月夜を、朧はもう一度ぎゅっと抱きしめた。
答える気がなさそうな朧を見上げて、月夜はまた真耶の姿をした幻影へ視線を戻した。
「……朧のお師匠さん、真耶さんって言うんだね」
「さん付けで呼んじゃ駄目だよ。面倒だって怒られるから」
「朧と一緒だ。じゃあ真耶。真耶、美人さんなんだねえ」
「……うん。僕も、そう思うよ。……ねえ、真耶。僕の名前を呼んで。朧って、呼んで」
「……朧」
ようやく、真耶の姿をした幻影が声を上げた。懐かしい、しかしやはりどこか硬い声がその場に響いた。月夜が目を丸くする。
「喋った!」
「こっちから指定すれば喋るよ。でも、僕にもわからないことは聞いたって答えは返ってこない。わかってても、聞いちゃうんだ。あの日のことを」
「ねえ、朧、何か喋らせてみせてよ」
わくわくとした顔でねだる月夜。朧は少し考えて、また指示を出した。
「……真耶、この子、月夜っていうんだ。呼んで」
「……月夜」
「本当にいい子なんだよ。褒めてやって」
「いい子だね、月夜。朧の言うことをよく聞いて、幸せに暮らすんだよ」
「……お母さんみたい」
そっとため息まじりの声を上げる月夜。お母さんみたい、と言ってはみるものの、実際のところ、「お母さん」というものがどういうものなのか月夜は覚えていない。
朧は月夜の手を握って真耶の姿をした幻影を指した。
「ほら、月夜、何か話しかけてごらん」
月夜は先ほどの朧のように少し考えるそぶりを見せて、それから真耶の姿をした幻影に話しかける。
「真耶、朧のこと、好き?」
「…………」
真耶の姿をした幻影も、それを操る朧も、石のように固まってしまった。
月夜は目をぱちくりさせて、朧の顔を見上げた。
「聞いちゃ駄目だった?」
「いや……」
曖昧に微笑む朧。
「……好きだったよ」
出し抜けに、真耶の姿をした幻影が声を上げた。
先ほどまでの硬い声とは明らかに違った、驚くほど柔らかい声だった。
朧は弾かれたように顔を上げる。
「真耶?」
「この世で、一番、大切な、私の……」
それ以上言葉が続く前に、朧は遮るように手を二度叩いた。
どろり、と幻影が虚空に溶けて行った。
辺りには沈黙だけが残る。
「どうして帰らせちゃったの?」
「…………」
「朧?」
無邪気な月夜の声に応えることなく、朧はぽつりと呟いた。
「……うん。俺も、好きだったよ、真耶」
「だから、好きだったって言わせたの?」
朧はあまりにも無邪気な月夜の問いかけにはやはり答えず、代わりに別のことを言う。
「……月夜。俺は月夜のことも大好きだからね。ずっとそばにいてね」
「うん、いるよ。僕はずっとここに、朧のそばにいる」
「……ありがとう」
「ねえ、朧。今日の朧は元気がないね」
「そうかな」
「そうだよ」
「……そうかもね」
朧の返事を聞いて、月夜はぴょんと朧の膝の上から立ち上がると、朧の方へ振り向いてその顔を覗き込んだ。
「僕、何かできることはない? 身寄りも何もない僕を拾ってくれて、月夜って名前をくれて、まじないや色んなことを教えてくれて、僕、朧にはいつもすごく感謝してるんだ」
「月夜はまだ子供なんだから、そんなこと考えなくていいんだよ。それに、そばにいてくれるだけで救いになることもあるんだよ。独りは寂しいからね」
「そうだね。独りは寂しい。僕、知ってる」
難しい顔で頷く月夜。
「……俺も、救いになれてたらいいな」
「真耶の?」
「うん。真耶も、最初は独りだったんだ」
「僕らと一緒だね」
「うん。一緒だよ」
「いまは、二人だもんね」
「寂しくないね。二人だから」
にこっと笑って見せる月夜の頭を撫でると、朧は少し移動し、薬草をすり潰し始めた。
ごりごりと石と石が擦り合わさる音が低く響く。
月夜は朧の背後に寄り、座って朧の手元を覗き込んだ。
「今度は何を作ってるの?」
「新しい薬。まあ絶対できないってわかってるけど」
「? できないのに、作ってるの?」
「どうしても欲しいから」
「……何の薬なの?」
朧が手を止める。少しの間黙って、それからぽつりと答えた。
「……望む夢を見せる薬」
「……? それが、できないの?」
「だって、考えてごらん、月夜。飲む人が何を夢に見たいか察知して、しかもそれを実際に夢に見せるんだよ。とんでもないことだよ」
「……たしかに」
うなずいてはみるが、月夜はあまりよくわかっていないようだった。
朧はまた月夜の頭を優しく撫でると、また薬草をすり潰し始めた。
月夜はまた大人しく朧の手元を覗き込んで、また朧に話しかける。
「そんなに、見たい夢があるの?」
「……うん」
「真耶の夢?」
「……うん。夢でもいい。あの頃に戻りたい。真耶と過ごして、薬草を育てて、薬を作って、修行して、おしゃべりして、真耶の悪戯に怒って、それで、それで」
「朧……?」
「それで、あの頃はできなかったことを……あの頃は言えなかったことを……ああ、会いたい。会いたい。戻りたい。あの頃に。夢でもいい。夢でもいいから……」
「……朧」
月夜は、いつの間にかまた手を止めて、両手で顔を覆っていた朧の背中に抱きついた。
「朧は、真耶に会いたくて仕方がないんだね」
「……うん。会いたいなぁ。……会いたいよ、真耶」
「目くらましは、何の慰めにもならないね」
「月夜は、賢いね」
「朧。こっち」
月夜が朧の腕をぐいと引っ張った。
抵抗することなく朧がついていくと、月夜は朧を薬作りの道具たちから引き離し、囲炉裏端に座らせると、その膝の上にぽんと座った。
「ねえ、朧。さっきの歌、もう一回歌ってよ。なんだか子守唄みたいで僕好きだよ」
「怖いんじゃなかったの?」
「ちょっとだけ。でも、優しく歌えば、優しい歌になるよ」
「……そうかな。じゃあ、ちょっとやってみるか」
「えへへ」
月夜がご機嫌で朧の傍に寝転がり、朧の膝にちょこんと頭を乗せる。
朧は月夜の髪をゆっくりと撫でながら、静かに口ずさんだ。
あちらこちらで手を叩く
手の鳴る方へと夜叉を呼ぶ
花いちもんめと売り声上げて
寄り付く獣はしたを舐めずり
無知を気取りし生意気な子ら
宵に呑まれて堕ちてゆく
通りゃんせ、通りゃんせ、
黄泉の国より
通りゃんせ、通りゃんせ、
浮世の果てに消えていけ。
「ねえ、朧」
「うん?」
「僕、ずっとそばにいるからね」
「……うん。ありがとう。俺も、ずっと傍にいるからね。約束だよ」
「うん、約束」
朧月夜は、静かに更けていく。
二人を取り巻く蝋燭の火が、風もないのに、朧の歌声に合わせてゆらりゆらりと揺れていた。




